2001年マタイの福音書第24講

金持ちの青年と永遠のいのち

御言葉:マタイの福音書19:16?30

要 節:マタイの福音書19:21 イエスは、彼に言われた。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」

今日の御言葉でイエス様はひとりの金持ちの青年に永遠のいのちを得る道を教えてくださいます。神様は人を永遠のいのちを持つ存在として造られました。永遠のいのちはただ時間的に長く生きることではありません。ミッション・バラバの吉田さんは独房生活をする時、自分が狂気のどん底に落ちていくのを毎日毎日感じていたと言いました。独房の中で目覚めると、「ああ、きょうも生きていた」といつも思ったそうです。このように独房に入って永遠に生きることは誰も願わないでしょう。ですから、永遠のいのちは罪と死の勢力から解放されて真の自由と喜びがある幸せな生活を永遠にすることを意味します。それでは私たちはこのような永遠のいのちをどのようにすれば得ることができるでしょうか。この時間、イエス様が金持ちの青年に永遠のいのちを得る道を教えて下さったことを学び、私たちも永遠のいのちを得ることができるように祈ります。

?.金持ちの青年とイエス様(16-30)

16節を見ると、ひとりの人がイエス様のもとに来て言いました。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」22節を見ると、彼は青年であり、金持ちでした。また、ルカの福音書18:18を見ると、彼は役人でした。彼は若い時に社会的な地位や富を得ることができました。それだけではなく彼は熱心な求道者でもありました。マルコの福音書10:17に「走り寄って、御前にひざまずいて、尋ねた」と書いてありますが、この言葉は彼が真剣に求道する青年であったことを言ってくれます。彼はまじめで、社会的な地位もあり、財産もあり、真剣に求道する青年でした。このような彼の人間条件を考えて見ると、彼はきっと幸せな人でした。ところが、こんな彼が走り寄って、イエス様の御前にひざまずいて、尋ねました。これは、彼にとって深刻な問題があったことを言ってくれます。いったい彼にどんな深刻な問題があったでしょうか。それは永遠のいのちのことです。彼は永遠のいのちを求めて励んで来ましたが、永遠のいのちを得たという確信が持てませんでした。ですから、彼には真の自由も喜びもありませんでした。彼はこの世の多くのものを手に入れましたが、彼の魂は満たされてないものがあって虚しくて不安でした。永遠のいのちの問題は彼にとって必ず解決しなければならない深刻な人生問題でした。 

現代人は表面的にはお金や快楽や名誉だけを求めているように見えます。しかし、そうではありません。人は誰でもお金や快楽や名誉に満足せず、心の奥底からは永遠のいのちを求める心があります。それで伝道者の書3:11は、「神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。」と言っています。またパスカルは「人が永遠のいのちを渇望するのは失った永遠のいのちを捜そうとする人間の本能である」と言いました。それで永遠のいのちを得るために世の中には多くの宗教があります。しかし、永遠のいのちを所有できる道はイエス・キリスト以外に道がありません。永遠のいのちの問題は人が必ず解決しなければならない人生問題です。それを解決しなければ人は真に幸せになることができません。それでは金持ちの青年は、どのようにすれば永遠のいのちを得ることができる、と考えましたか。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」彼は永遠のいのちは何か良いことをすることによって得られると思っていました。

このような彼にイエス様はどのように言われましたか。17節をご覧ください。「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方は、ひとりだけです。もし、いのちにはいりたいと思うなら、戒めを守りなさい。」イエス様がこのように言われたのは彼が罪人としての自分を悟り、信仰の道に入ることを願われたからです。なぜなら、律法を行なうことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです(ローマ3:20)。彼は「どの戒めですか。」と言いました。そこで、イエス様は彼に「殺してはならない。姦淫してはならない。盗んではならない。偽証をしてはならない。父と母を敬え。あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」と言われました(18,19)。この戒めはモーセの十戒の中で後半の対人関係における義務です。この青年はイエス様のことばを聞くと、まるで答えを知っていた学生が先生に答えるように自信満々に言いました。「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」マルコの福音書には彼が小さい時から守っていると言いました。敬虔なユダヤ人たちは子どもたちが六歳になると律法を暗唱し、戒めを守るように教えました。彼は小さい時から遊びたい心を否認して時間があると律法を暗唱しました。彼は友達にうそもつきませんでした。また、「父と母を敬え」という戒めを守るために反抗期にも親の言うことによく従いました。若い時の情欲も克服しました。彼は「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」という戒めを守るために隣人によくあいさつをし、親切でした。彼は自分こそ誰よりも律法をよく守っていると思いました。それでイエス様に「そのようなことはみな、守っております。何がまだ欠けているのでしょうか。」と言ったのです。彼はこんなに戒めを熱心に守りましたが永遠のいのちへの確信と喜びがありませんでした。彼は幸せではありませんでした。イエス様はこのような彼が完全に戒めを守るためにはどのようにしなければならないと言われますか。21節をご覧ください。イエス様は、彼に言われました。「もし、あなたが完全になりたいなら、帰って、あなたの持ち物を売り払って貧しい人たちに与えなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」この御言葉は彼が財産を持ってはならないことを言われる言葉でしょうか。この御言葉が金持ちの青年に与える意味は何でしょうか。

第一に、戒めの根本精神です。「持ち物を売り払って」は、もう一つ欠けているのはこのことであるという指摘ではなく、持ち物にとらわれている彼の心の状態を言っているのです。律法を表面的に守って来た青年は、ここで、内面的な問題、すなわち戒めの根本精神の問題にぶつかります。ここでイエス様が言っておられるのは、永遠のいのちは持ち物を売り払って施す行為によって得られるものではないということです。戒めの根本精神は愛です。十戒の最初に出る四つの戒めの精神は「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」です(申命記6:5)。そして、後の六つの戒めの精神は「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」です(レビ19:18)。イエス様は彼が積極的に愛を実践するように命じられました。何一つ失うまいという態度でいる限り、福音から何も得ることはできません。その時福音は聞いたけれども、その福音は私達の喜びや力とはなりません。積極的に愛を実践するためには犠牲や献身が必要です。そして、神様と人のために自分を犠牲にし、献身する時に真の喜びがあります。信仰が成長し、永遠のいのちへの確信と喜びが与えられます。また、神様はそのような人を喜ばれ、祝福してくださいます。神様のみわざに貴く用いてくださいます。ところが、金持ちの青年は「隣人を愛する」戒めを守っていると思っていましたが、それは自己中心的な愛でした。イエス様はこのような彼に犠牲と献身を教えてくださることによって彼が永遠のいのちへの確信と喜びを持ち、幸せな生活を送ることを願われました。

第二に、本当の宝について教えてくださいました。イエス様は金持ちの青年に自分の持ち物を売り払って貧しい人たちに与えると、天に宝を積むことになると言われました。この御言葉は地上の宝だけではなく、天の宝があることを教えてくれます。宝とは何でしょうか。宝は一番価値があり、永遠に変わらないものです。金やダイアモンドを宝と思うのは、価値があって変わらないからです。しかし、金もダイアモンドもいつかはなくなります。盗人が盗みます。それは人にいのちを与えません。ですから、真の宝とは言えません。ところが、多くの人々はお金を宝のように思い、それのためにすべてを投資します。しかし、死ぬ時には一円も持って行くことができません。ある人は権力を宝と思い、それを得るためにすべての情熱と時間を投資します。しかし、世の名誉や権力も野の草や花のようにいつかはしおれます。女性は美しさを宝と思いますが、それも歳とともにしおれます。地上の宝は永遠ではありません。地上の宝は私たちにいのちを与えません。ですから地上の宝に望みをかけている人は必ず失望する時が来ます。ニコデモは名誉や権力や富を得ましたが、彼の心は夜のように暗いでした。ヤコブはまじめに働いて自分が求めていた妻や財産を手に入れましたが、兄に殺されるのではないかと非常に恐れていました。金持ちの青年は地上の宝を得ても満たされないものがあってイエス様の御前にひれ伏して叫びました。「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをしたらよいのでしょうか。」

天の宝はなくなりません。盗人が盗むこともできません。天の宝は私たちに真のいのちと平安を与えます。ですから、天の宝こそ本当の宝です。本当の宝は私たちの時間やお金や若さや情熱をすべて捧げても惜しむことのないものでなければなりません。私たちがこのような宝を見つけることは大切なことです。もし人生の最後の日に「もし私がもう一度人生をやり直すことができたら」と後悔したらそれは非常に悲しいことです。私たちの人生は一回きりなので試行錯誤をいつまでも繰り返してはなりません。若い時は二度と戻って来ません。このような若い時を本当の宝ではないもののためにすべて使ってしまうならどれほど後悔するようになるでしょうか。

それではこの天の宝とは具体的に何を意味するでしょうか。イエス様は青年に天の宝を約束してから「わたしについて来なさい」と言われました。これはイエス様ご自身が天の宝であることを示しています。イエス様の中には永遠のいのちがあります。ヨハネの福音書17:3は、「その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストを知ることです。」と言っています。イエス様の中には罪の赦しがあり、真の自由があります。生ける望みがあります。その中には死の力も打ち破る勝利があります。その中にはすべての宝が隠されています。ですから、世のなにものとも代えられない宝はイエス・キリストです。このイエス・キリストを得た人は本当の宝を得た人です。しかし、地上の宝をいくら多く得た人でもイエス様を得ることができなかったらその人はすべてを失った人になります。

本当の宝を見つけた人はそれを得るために地上の宝を売り払うことを惜しみません。むしろそれを喜びます。使徒パウロはイエス様に会ってから価値観が完全に変わりました。彼はイエス様を得るために自分が今まで持っていた地上の宝をちりあくたのように思いました。彼は宝であるイエス様を得るために全生涯を惜しまず投資しました。モーセはパロの娘の息子だったので多くの宝を得ることができました。しかし、彼は天の宝を見つけたのでパロの娘の子と呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。彼は、キリストのゆえに受けるそしりを、エジプトの宝にまさる大きな富と思いました。彼は報いとして与えられるものから目を離さなかったのです(ヘブル11:24-26)。

マタイの福音書13:44には天の御国に対するたとえ話が出ています。ある人が畑に隠された宝を見つけました。彼はそれを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買いました。私たちは宝であるイエス様を見つけた者です。それは私たちの生涯において本当に幸いなことです。私たちがイエス様を見つけた者として大喜びで主と福音のために投資する生活ができるように祈ります。それによって天に宝を積むことができるように祈ります。

イエス様は金持ちの青年に永遠のいのちを得る道を教えてくださいました。そして、彼を弟子として招いてくださいました。それでは彼の反応はどうでしたか。22節をご覧ください。ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行きました。この人は多くの財産を持っていたからです。彼は永遠のいのちより財産を選び取りました。彼は今まで自分が得た地上の宝を失うことを恐れました。彼の問題は永遠のいのちも地上の宝も同時に得たい心でした。しかし、聖書は次のように言っています。「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」(マタイ6:24)。

?.神にはどんなことでもできます(23-30)

23、24節をご覧ください。金持ちの青年が悲しんで去って行くと、イエス様は弟子たちに言われました。「まことに、あなたがたに告げます。金持ちが天の御国にはいるのはむずかしいことです。まことに、あなたがたにもう一度、告げます。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」らくだが針の穴を通ることは不可能なことです。同じく金持ちが天の御国にはいるのは不可能なことです。それでは天の御国にはいるためにはお金を儲けてはいけないのでしょうか。そうではありません。就職をしてお金を儲けなければ生活もできないし、貧しい人を助けることもできません。神様のために捧げることもできません。聖書には神様の祝福によって金持ちになった人々が出ています。ヤコブは熱心に働いて金持ちになりました。ダビデは多くの財産を神殿建築のために捧げました。ソロモンは神様の祝福によって栄華を極めた人です。イエス様は何を食べようか、何を飲もうか心配している弟子たちに「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」と約束してくださいました(マタイ6:33)。ですから、大切なのは、金持ちになるかどうかの問題ではなく、富に対する聖書的な価値観を持つことです。それは富に対する管理人の考え方です。富は自分が働いて儲けたとしても神様が与えてくださったものです。富の主人は神様であり、私たちは富の管理人です。富は、神を忘れさせ、財力によってすべてが解決されると思い込ませ、誤った自己満足に陥れる魔力を持っています。人は目に見えない神様より目に見える富に頼りやすいです。ですから、私たちが富に対してどのような価値観を持ってどのように使うかは大切なことです。富は人を罪に陥れるものにもなれるし、救いのみわざに貴く用いられるものにもなれます。ですから、私たちは神様から与えられた富を主と福音のために、また、貧しい隣人のために正しく使うことが大切なことです。ムラサキスポーツの会長さんはクリスチャンです。彼は若い時に放蕩しました。一晩中お酒を飲み、家では暴力をふるいました。しかし、クリスチャンいなってお酒の事業をやめて健全な事業が何かを考えるうちにムラサキスポーツという会社をはじめました。神様の祝福によってその事業は成功し、彼は金持ちになりました。そして、彼は神学校や教会を建てたりしながら神様から与えられた富を主と福音のために使っています。映画「親分はイエス様」の製作のためにも二千万円を出してくれたそうです。

それではイエス様が救われないと言われた金持ちの問題は何でしょうか。金持ちの問題は望みが富にあることです。神様よりお金を愛し、お金を主として仕えることです。そのような人が陥りやすい危険性について使徒パウロは?テモテ6:9、10で次のように警告しています。「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります。金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。」お金を愛する人は人を滅びと破滅に投げ入れるわなに陥ります。お金のために人を殺してしまう人もいるほどです。ですから、貧しい者も富む者も望みを神の御国に置かなければなりません。金持ちが神の御国に望みを置いてその富を持って主と福音のために使うとしたらそれは本当に価値ある富となるでしょう。しかし、金持ちがそのようにすることはやさしいことではありません。信仰が必要です。何よりもはっきりとした価値観が必要です。

弟子たちは、これを聞くと、たいへん驚いて言いました。「それでは、だれが救われることができるのでしょう。」当時ユダヤ人は、物質的繁栄を神の祝福のしるし、富の所有を徳と考えていました。ところがイエス様が、富める者が神の国に入ることのむずかしさを指摘されるので、弟子達は驚きました。彼らも富に対する願望を持ち、執着を持っていたでしょう。イエス様は彼らをじっと見て言われました。「それは人にはできないことです。しかし、神にはどんなことでもできます。」金持ちが神の御国に入ることは不可能なことですが、神様によって可能に変えられます。人は自分の救いのために全く何もすることができません。しかし、その絶望の中に神様の恵みのわざはなされます。神様にはすべてのことが可能です。富める者の救いすらもできます。私達は不信仰な者であり、罪を犯す者であり、神の前に不完全な者です。ですから、救いと永遠のいのちを得ることは神様の主権であり、神様の力にかかっています。神様は、イエス様の十字架によって私達の罪を赦し、価なしに永遠のいのちを与えて下さいました。ですから、私たちが救われて神の国に入るのは、神様からのプレゼントです。

そのとき、ペテロはイエス様に答えて言いました。「ご覧ください。私たちは、何もかも捨てて、あなたに従ってまいりました。私たちは何がいただけるでしょうか。」そこで、イエス様は彼らに言われました。28-30節をご覧ください。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍も受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。ただ、先の者があとになり、あとの者が先になることが多いのです。」弟子達には、またイエス様に従う者には、新しい天と新しい地が到来する時支配する報いが与えられます。イエス様ご自身のために、神の国のために、すべてを捨てた者には、その幾倍もの報いが与えられます。マルコの福音書には百倍も祝福を受けると書いてあります。イエス様に従うことの最高の祝福は、永遠のいのちを受け継ぐことです。これは他のいかなる祝福・報いにも比べられないものです。

 私たちが地上の宝を売り払って本当の宝であるイエス様に従うことによって永遠のいのちを得ることができるように、天に宝を積むことができるように祈ります。