2001年マタイの福音書第32講

裁きに関するたとえ

御言葉:マタイの福音書25:1?30

要 節:マタイの福音書25:21「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしも 

    べだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」

 先週はヤベツの祈りについて学びました。祝福の神様が私たち大いに祝福し、私たちの地境を広げてくださいますように。御手が私たちとともにあり、わざわいから遠ざけて私たちが苦しむことのないようにしてくださいますように祈ります。今日の御言葉はイエス様の再臨と裁きに関する天の御国のたとえ話です。イエス様は二つのたとえ話を通してイエス様の再臨を待っているクリスチャンの姿勢と生活がどうであるべきかを教えてくださいます。

?。十人の娘のたとえ(1ー13)

 1節をご覧ください。「そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。」イスラエルでは一年くらいの婚約の期間が終わると花婿が友達といっしょに花嫁の家に来て結婚式を挙げます。そして、祝宴が一週間続きます。花婿が来る時花嫁の家では花嫁のつきそいが町に出て、花婿を迎える用意をしていなければなりません。その時暗くなっているのであかりを持って外に出て行く必要があります。花婿を出迎える十人の娘達は二つのグループに分かれました。2ー4節をご覧ください。「そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。愚かな娘達は、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。賢い娘達は、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を持っていた。」愚かな娘達は花婿が遅れるのを用意しませんでした。入れ物に油を持って行くのを面倒だと思いました。彼女達は怠け者でした。しかし賢い娘達は万一のためにともしびといっしょに、入れ物に油を持っていました。彼女達は注意深く準備しました。彼女達は花婿を迎えるのがどれほど大切なことであるかを知っていました。

 このたとえで花婿は再臨するイエス様を、十人の娘は再臨を待っているクリスチャンを指しています。ともしびは、花嫁の友が花婿を出迎えるのに必要な条件あるいは資格です。私たちをキリスト者として世の人々から区別するしるしとしての、教会生活・信仰生活を指します。それに対して、ともしびをともす原動力になる油は、聖霊を示します。それゆえ、賢いキリスト者は、主の再臨を待ち望む日々の生活において、目に見える教会生活・信仰生活の基礎を、いつも聖霊に満たされることに置こうと心がけます。それでパウロは、「御霊を消してはなりません」(?テサ5:19)と忠告し、また「御霊に満たされなさい」(エペソ18)と言っています。油を用意しておかなかった五人の娘は形式的なクリスチャンを指します。彼らは福音の奥義を悟ってない人々です。神様の救いの愛と恵みも知りません。主の御言葉を慕い求めず、御言葉に従いません。十字架を負う信仰生活より楽な生活や利己的な生活をします。イエス様の再臨や天の御国のことより地上のことにもっと関心があります。しかし、油を持って行った五人の娘達は再び来られるイエス様を待ち望んでいる人々です。彼らは主と福音のために喜んで自分の十字架を負ってイエス様に従います。彼らは神様を心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして愛します。御言葉を慕い求め御言葉に中にとどまる生活をします。自分の罪を言い表わし、聖霊に満たされています。彼らにはいつも喜びと感謝する心があります。賢い娘達はいつ主が来られても迎えることができているクリスチャンを指しています。

 ところが、花婿が来るのが遅れました。花婿を待っていた10人の娘達はみな、うとうとして眠り始めました。ところが、夜中になって、「そら、花婿だ。迎えに出よ。」と叫ぶ声がしました。眠っていた娘達は、みな起きて、自分のともしびを整えました。ところが愚かな娘達は、賢い娘達に言いました。「油を少し私達に分けて下さい。私たちのともしびは消えそうです。」しかし、賢い娘達は答えて言いました。「いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。」そこで、買いに行くと、その間に花婿が来ました。用意のできていた娘達は、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられました。人から借りることができないものがあります。神様との関係は自分が持つべきもので、他人から借りられるものではありません。信仰は他人から借りることができません。イエス様の再臨の時に自分の奥さんに、「わたしにあなたの信仰を半分分けてくれ」と言っても分けてもらうことができません。イエス様の品性も借りることができません。イエス様の愛や謙遜な心などは自分が身につけるべきもので、他人から借りられるものではありません。神様の賜物は、金で買えないことはもちろん、教会員の間で貸し借りすることもできません。それは、神様の御言葉に従い、神様に祈り求めることによってだけ、恵みによって与えられます。

 10節をご覧ください。「そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。」花婿が到着したら戸が閉まり、遅れて来た者は結婚式に参加できませんでした。「戸がしめられた」ことは、賢い娘たちと愚かな娘たちを決定的に永遠に分ける、恐ろしく、きびしいことです。今は、教会生活と信仰生活に励む中で、自由に、ただで聖霊の油を買うことができる時です。しかし、終わりの日では、もう遅すぎます。最後になってからでは間に合いません。11,12節をご覧ください。賢い5人の娘と花婿が祝宴に入ったあとで、ほかの娘達も来ました。そして、「ご主人さま、ご主人さま。あけてください。」と言いました。しかし、彼は答えて、「確かなところ、私はあなたがたを知りません。」と言いました。学生は試験の日になって勉強してももう遅いです。神様に対しても同じことが言えます。いつまでも準備を怠けていると、いざというときに神様に出会うことができなくなります。花婿であるイエス様とともに天の御国の宴会に入ることは、受験とは違います。入試に失敗しても二度三度浪人したら合格するチャンスがあります。しかし、再び来られるイエス様を迎えて天の御国の祝宴に入ることは一度しかチャンスがありません。一度戸が閉まったら入ることができません。ですから、浪人することもできません。それでイエス様は言われました。13節をご覧ください。「だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。」婚礼の宴会はイエス様が再臨する時クリスチャンが花婿であるイエス様とともに入る天の御国の宴会です。この宴会に参加できるかどうかは私たちの救いと裁きに関するとても大切な問題です。だから、私達は花婿であるイエス様がいつ来られるか知らないので目をさましていなければなりません。花婿であるイエス様が再臨する時を待ち望みながら信仰のともしび、聖霊のともしびをいつも燃やしていなければなりません。日々御言葉と祈りの生活に励む生活をしなければなりません。私達が賢い五人の娘達のように主がいつ来られても喜びを持って迎え、天の御国の祝宴に参加することが出来るように祈ります。

?。タラントのたとえ(14ー30)

 14節をご覧ください。「天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。」ところが、主人は自分の財産をしもべたちにどのように預けましたか。15節をご覧ください。彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけました。神様は人々に異なった賜物を与えられます。ある人は五タラント、ある人は二タラント、またある人は一タラントを受けていますが、問題は、タラントをどれだけ持っているかではなくて、それをどのように使うかです。一タラントは六千デナリです。すなわち、当時の労働者の六千日分の賃金に相当します。一番少ないしもべでも、六千日分の賃金に相当する賜物が与えられています。自分には何の賜物もないと自己卑下するような人は愚かな者です。すべてのキリスト者は、主と福音の働きのために、最低六千日分の賃金に相当する賜物が与えられているからです。神様は人から与えられた賜物以上のものを要求されませんが、持っている賜物を十分に用いることを期待しておられます。私たちの持つタラントが多くても少なくても、それを神様に奉仕するために用いなければなりません。主から与えられたタラントが異なることも認めなければなりません。おのおのは、最適とみなされる割合で、分配を受けているのです。それゆえ、各自は他人をうらやんだり、ねたんだり、また自分を卑下したりすることなく、その預かり物を感謝しなければなりません。礼拝を捧げることだけを見てもわかります。ある人はメッセージを伝えます。ある人は賛美によって、ある人は祈りによって、ある人は司会者として奉仕します。すべての人が前に立ってメッセージを伝えようとしたら礼拝が成り立ちません。私たちは主から任されたタラントの管理者としてそのタラントをよく用いなければなりません。そのように用いる時に神様が自分に多くの賜物を与えてくださったことがわかります。

それでは五タラントを預かった者と二タラントを預かった者はそれで何をしましたか。16、17節をご覧ください。五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけました。同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけました。彼らは主人に対する忠誠心がありました。彼らは自分の能力を生かして熱心に商売をしました。その結果二倍の利益を残しました。しかし一タラントを預かった者は何をしましたか。18節をご覧ください。ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠しました。彼は商売をして一タラントもうける能力を持っていました。しかし、彼は商売をしませんでした。彼は主人が不公平だと思いました。主人が自分を認めてくれないと思って怠けました。結局彼は地を掘って、その主人の金を隠しました。それは自分の能力を地を掘って、隠したことです。

 19節をご覧ください。さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をしました。このたとえで主人は大能と輝かしい栄光を帯びて再臨するイエス様を指します。その時は清算の時です。清算をしてみれば、赤字か黒字かが明確に分かります。すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言いました。「ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。」彼は自分の能力を尽くして商売をし、二倍の利益を残したので喜びに満たされていました。それではその主人は彼に何と言いましたか。21節をご一緒に読んで見ましょう。「その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』」主人は彼にたくさんの物を任せました。良い働きをした者には、その報酬としてさらに大きな働きが与えられることがわかります。良い働きをしたこのしもべは、主人から、何もしないでゆっくり休めといわれず、主人のためにより大きな働きと責任が与えられました。神様の祝福は休むことではなくもっと多くの物が任されることです。また、彼は主人の喜びをともに喜ぶことができます。このように主と福音のために熱心に働き、利益を残す人には喜びがあります。この喜びは世の楽しみと比べられない心の奥底から湧き出る喜びです。これは霊的な喜びであり、天の御国の喜びです。主と福音のために働く人々だけが預かることのできる真の喜びです。

 22節をご覧ください。二タラントの者も来て言いました。「ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。」その主人は彼に言いました。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」主人は二タラントもうけた人を五タラントもうけた人と全く同じく誉めました。このしもべの忠実度・信用度は、彼が預けられた物を、どのように正しく管理・運営したかにかかっています。だから主人は、二タラントの者が二タラントのもうけを差し出した時にも、五タラントもうけたしもべに対してと全く同じ言葉で賞賛し、全く同じ報いを約束しています。しもべの忠実な態度は、そのもうけた金額によってではなく、任された物を忠実に管理・運営したことによって評価されています。忠実は任された仕事を自分の能力を尽くしてすることです。私達の持つタラントが多くても少なくても、それを神様のために十分に用いる時、神様は喜ばれ、その人を祝福してくださいます。ですから私達はわずかなものに忠実しなければなりません。わずかなものに忠実する人が大きなものにも忠実するからです。

 イエス様は私達の能力に応じてタラントを任しました。日本と世界のキャンパスの学生達に福音を伝え、彼らを弟子とする使命を与えてくださいました。1:1聖書先生の使命が任されました。ところがいくら多く与えられていてもそれを持って商売をしなければ利益を残すことができません。自分の持っているタラントを投資しなければなりません。ある人が自分のいのちや才能は何の役にも立たないと思っていたらどうでしょうか。その人は一タラントもらった人のように何もできないはずです。私達は一番価値あるところに自分のいのちや才能、若さ、力、お金などを投資しなければなりません。罪によって死んで行く人々のために福音を伝え、彼らをいのちの世界に導くところに投資することこそ一番価値あることではないでしょうか。私達がいのちを生かす福音の商売がよくできて利益を残すことができるように祈ります。私達は自分が受けたタラントとを他人と比較して高ぶったり劣等感に陥ったりする必要がありません。自分に少なくても一タラントは与えられていることを感謝し、それを十分に用いることが大切なことです。自分に任された仕事に忠実すると主から誉められ祝福されます。私達が任されたタラントを持って商売をし、主が再び来られる時に「よくやった。良い忠実なしもべだ。」と誉められるように祈ります。

 それでは一タラントを預かった者は一タラントを持って来て、主人に何と言いましたか。24、25節をご覧ください。「ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。』」彼は主人を恐れました。失敗を恐れました。このように恐れに捕われると何もすることができません。彼は恐れのために自分のものを少しも投資することができませんでした。彼は主人に対して間違ったイメージを持っていました。彼は主人がひどい方だと思っていました。彼は主人の人格と愛を知りませんでした。また、自分の怠慢を弁護して、それを主人のせいにしました。しかし、主人は彼のどんな点をとがめましたか。26、27節をご覧ください。「ところが、主人は彼に答えて言った。『悪いなまけな者のしもべだ。私が蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めることを知っていたというのか。だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。』悪いとは真実ではないという意味です。彼は怠け者でした。彼には一タラント儲ける能力がありました。しかし、自分の能力を使いませんでした。もし一タラントで何かをしようとして失ったとしても、何もしなかったよりはましでした。一タラントの者は、「わたしのタラントはわずかで、これで何もできず、何の役にもたたないから、これで何かをやってみても無駄だ」と思ったでしょう。主人は彼に、「だったら、おまえはその私の金を、銀行に預けておくべきだった。そうすれば私は帰って来たときに、利息がついて返してもらえたのだ。」と言いました。当時はローマ帝国の支配下で銀行が普及し、利息がかなり高かったそうです。主人が帰るまでの期間はかなり長かったので、銀行に預けておけば相当の利息がついたはずです。ですから彼には弁明の余地がありません。結局彼はどんな罰を受けるようになりましたか。28ー30節をご覧ください。「だから、そのタラントを彼から取り上げて、それを十タラント持っている者にやりなさい。だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。役に立たぬしもべは、外の暗闇に追い出しなさい。そこで泣いて歯ぎしりするのです。」一タラントを持っている人でも、それを使えば次第に多くのことができるようになりますが、使わなければやがてはなくなってしまいます。そのしもべは預けられた一タラントまで取り上げられ、役に立たないしもべとして外の暗闇すなわち、永遠の滅亡に突き落とされてしまいます。

 このたとえで神様が私達に望まれることが何であることが分かりますか。第一に、神様と正しい関係性を結ぶことに励まなければなりません。神様がどんな方であるかを知らなければなりません。第二に、わずかなものに忠実しなければなりません。神様のみわざは投資すると必ず利益を残すことができます。?コリント15:58で使徒パウロは言いました。「ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。」

 結論、イエス様は必ず大能と輝かしい栄光を帯びて再び来られます。私達が賢い五人の娘のように御言葉と祈りによって聖霊に満たされた生活をしながら花婿であるイエス様を迎えることができるように祈ります。主は私たちにタラントを任せてくださいました。主から任されたタラントを持って忠実に商売をして利益を残すことができるように祈ります。主は再び来られた時、私達に言われるでしょう。「よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」