2001年マタイの福音書第34講

イエス様のゲツセマネでの祈り

御言葉:マタイの福音書26:31?75

要 節:マタイの福音書26:39 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」

今日でマタイの福音書のメッセージが終わります。後の十字架と復活の御言葉は、復活祭とSBCの時に学びました。今までマタイの福音書を通して恵みを施してくださった主に感謝します。足りない私を主の御言葉を語る者として用いてくださった主に感謝いたします。本文にはイエス様がゲツセマネで祈られた後、逮捕され、議会で尋問を受ける事件が出ています。この時はイエス様の生涯の中で一番苦しい時でした。しかし、夜空が暗ければ暗いほど星は輝くように、この時はメシヤとして輝くイエス様の姿がよく現われています。イエス様は十字架を目前にしてゲツセマネで切に祈られました。イエス様はゲツセマネでの祈りによって神様のみこころに従うことができました。しかし、祈らなかった弟子達はみな、つまずいてしまいました。この時間、イエス様のゲツセマネでの祈りを学び、勝利の信仰生活を送ることができるように祈ります。

?.あなたのみこころのように(31-36)

 時はイエス様と弟子達が過越の食事をしてオリーブ山へ出かけて行く途中でした。その時、イエス様は弟子達に衝撃的なことを言われました。31,32節をご覧ください。「あなたがたはみな、今夜、わたしのゆえにつまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散り散りになる。』と書いてあるからです。しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。」イエス様は弟子達のつまずきを預言されます。その裏づけとしてゼカリヤの預言を引用されます(ゼカリヤ13:7)。イエス様はご自分が弟子達を一番必要とされるときに、弟子達が身の危険を感じて逃げ、イエス様を見捨てることを知っておられました。それほど愛した弟子達がみなイエス様を捨てて逃げることを考えるとどれほど失望するでしょうか。しかし、イエス様は弟子達を無視したり、判断したりせず、相変わらず愛してくださいました。そして、よみがえってから、弟子達より先に、ガリラヤへ行くことを預言し、彼らに希望を与えてくださいました。

 しかしペテロはどんなことを言いましたか。33節をご覧ください。すると、ペテロがイエス様に答えて言いました。「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」ペテロは自分がつまずくことはあり得ないと思いました。他の弟子達もみな自分では、イエス様を裏切るとは思いませんでした。ペテロは、イエス様の評価以上に自分を高く評価していました。イエス様はこのようなペテロをどれだけよく知っておられましたか。イエス様はペテロに言われました。「まことに、あなたに告げます。今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」イエス様はペテロが強そうに言いますが、心は弱いことを知っておられました。彼の言葉が信仰に基づいたものではなく、自己過信に基づいたものなので崩れやすいことを知っておられました。イエス様はペテロが自分について知っている以上に彼についてよく知っておられました。すると、ペテロは言いました。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」他の弟子達もみなそう言いました。ペテロはイエス様が自分を信じてくれないことが悔しかったでしょう。彼は自分がどれほど弱い者であるかを知りませんでした。また、背後に働いているサタンの力がどれほど強いかも知りませんでした。それで彼は自己過信に陥ってイエス様の警告を聞き流しました。彼は自分の力に頼っていたので祈りませんでした。

しかし、彼とは対照的にイエス様はご自分の弱さを認めて神様に祈ろうとされました。36節をご覧ください。イエス様は弟子達といっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われました。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」ゲツセマネは油しぼりの意味で、多くのオリーブの木が茂り、格好の祈り場となっていました。ここはイエス様がいつも祈っておられる場所でした(ルカ22:39)。イエス様はここで迫って来る重い十字架を目前にして神様に祈ろうとされました。この時はイエス様にとって非常に苦しい時でした。こんな苦しい時には神様に祈るより人間的な葛藤ばかりしやすいです。不信に陥り、世の快楽によって自分の悩みを解決しようとしやすいです。不信から出ることばや感情的なことばによって周りの人々を傷つけやすいです。しかし、イエス様は一番苦しい時、絶望的な時、悲しい時に神様の御前に出て行き、祈ろうとされました。イエス様は血肉に対する戦いではなく、祈りによってサタンに対する霊的な戦いをされました。

それから、イエス様はペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれましたが、イエス様は悲しみもだえ始められました。そのとき、イエス様は彼らに言われました。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」イエス様は人間の罪に対する神様のさばきがどれほど恐ろしいものであるかを知っておられました。イエス様は人類のすべての罪をひとりで背負って神様の呪いを受けることを考えるとき、悲しみのあまり死ぬほどでした。イエス様が受ける悲しみ、苦しみは誰も理解することができません。その時、イエス様は、弟子達がともに祈ることを求めておられます。悲しみ悩んで祈る主といっしょに、主の悲しみを共に悲しみ、その苦しみを共に苦しむ、祈りの友となることを求めておられます。私たちキリスト者は、主の同労者となるために、祈り続けなければなりません。

 イエス様はどんな姿勢で祈られましたか。39節をご覧ください。「それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。『わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。』」イエス様はひれ伏して祈られました。これはイエス様が切に祈られたことを現わしています。イエス様がどれほど切に祈られたかについてルカの福音書には「汗が血のしずくのように地に落ちた」と言っています。祈りには切なる祈りとそうでない祈りがあります。神様は私たちの切なる心をご覧になります。口先だけの祈りは聞かれませんが、心から切なる祈りを捧げる時に主はその祈りに答えてくださいます。私たちの信仰生活においても神様の御前にひれ伏して切に祈る時間はなくてはならないものです。

イエス様は最初に「わが父よ」と祈られました。イエス様は悲しみと苦しみの中でも父なる神様の愛を少しも疑いませんでした。イエス様は天の父に対して幼子のような信頼と親しみを持って、話しかけられました。それから「できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい。」と祈られました。ここで杯は、神様の憤りの杯を指します。神様に呪われ私達の罪を担うための苦難と死の杯です。罪を知らない方、生まれつきの義人であるイエス様が、私たちの代わりに罪とされ、神の怒りとしての死を経験することは、どんなに耐えがたいことだったでしょうか。誰も苦しみと羞恥と蔑視を受けることを願っていません。「できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせて下さい。」と祈られたのは、イエス様の率直な願いでした。イエス様は真実にご自分の願いを神様に祈り、神様のみこころを捜し求められました。

しかし、イエス様の祈りは、さらに一歩進まれました。「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」「しかし」これは偉大な転換です。イエス様は激しい苦しみの中でも神様のみこころに服従しようとされました。イエス様の祈りは十字架を避けるための祈りではなく、積極的に十字架を負うための祈りでした。

私たちは信仰生活をする中で神様のみこころと自分の心の間で葛藤する時があります。また、神様は何を願っておられるのか確信を持てず悩む時もあります。また、十字架を避けたいと思う時があります。十字架を負わなければなりませんが、それを負う力がない時もあります。苦しくて悲しい時もあります。そんな時に私たちにゲツセマネでの祈りが必要です。イエス様のように神様の御前にひれ伏して切に祈ってみてください。自分の願いを神様に祈り、神様のみこころを捜し求める祈りを捧げてみてください。すべての悩み、苦しみ、悲しみを主に打ち明けてみてください。神様はきっとご自分のみこころを示してくださいます。そして、私達に十字架を負うことができる力と信仰と勇気を与えてくださいます。主は私たちのすべての悩み、苦しみ、悲しみを平安と慰めに変えてくださいます。

 40節をご覧ください。イエス様は祈り終えてから弟子達のところに戻って来られました。ところが、弟子達は眠っていました。イエス様はペテロに言われました。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。」ゲツセマネでの祈りは、イエス様と弟子達がいっしょに祈る祈祷会でした。しかし、イエス様が彼らのところに戻って来られた時に、彼らは三回とも、眠っていました。彼らは襲って来る眠りに勝つことができませんでした。それでもなぜ弟子たちは目を覚まして祈らなければなりませんか。

第一に、サタンの誘惑があるからです。41節をご覧ください。「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。」私たちが祈り続けるのは、誘惑に陥らないためです。誘惑は試練と訳すこともでき、ここでは、今夜すべての弟子がつまずくと預言されたことを指しています。サタンの誘惑は私たちの知恵や力によって勝つことができません。サタンは、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています(?ペテロ5:8)。サタンはクリスチャンにいきなりに大きな罪を犯すようには誘惑しません。そのような誘惑には陥らないからです。サタンの作戦はまずクリスチャンの祈りを邪魔することから始めます。それは兵士から武器を奪い取ることと同じです。武器を奪い取られた兵士は敵と戦うことができません。ですから、サタンはどうしてもクリスチャンの祈る時間を奪い取ろうとします。そして、その人が段々祈らなくなるとそれからは一方的なサタンの勝利です。その人は誘惑に陥ってしまいます。ですから、クリスチャンは誘惑に陥らないように、目を覚まして祈り続けなければなりません。それが霊的な戦いで勝利できる秘訣です。

第二に、肉体が弱いからです。「心は燃えていても、肉体は弱いのです。」ペテロ達は祈ろうとしましたが、どうしても祈れず眠ってしまいました。彼らは本当に体が弱かったからでしょうか。風邪でもひいていたでしょうか。彼らは、かつてはガリラヤ湖で一晩中でも魚を取ることのできたからだの持ち主です。ですから、肉体は丈夫だったと思います。しかし、彼らは祈りの力を知りませんでした。今まで祈らなくてもイエス様について来ました。そのような人は祈ろうとしても肉体の衝動に負けてしまいます。不断あまり祈らない人はいきなりに祈ろうとしてもなかなか祈ることができず、眠ってしまうのです。祈りの力、祈りの大切さを知らない人は丈夫な体を持っていても霊的な戦いである祈りを捧げることができないのです。後にペテロはこの祈りの力と大切さを学び、聖徒たちに次のように言いました。「万物の終わりが近づきました。ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい」(?ペテロ4:7)。「あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。」(?ペテロ5:7)。私達が自分の弱さと祈りの力、祈りの大切さを知り、いつも祈り続ける者となりましょう。

イエス様は二度目に離れて行き、祈って言われました。42節をご覧ください。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」この祈りは最初の祈りと内容が少し違います。最初の祈りでイエス様はできるならその杯を過ぎ去らせてくださるように祈りました。しかし今度はその杯を飲むことが避けられないことであることを受け入れられました。それで「どうぞみこころのとおりをなさってください。」と祈られました。イエス様が二度目の祈りをして戻って来て、ご覧になると、弟子達はまたも眠っていました。目をあけていることが出来なかったのです。イエス様は、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じ事を繰り返して三度目の祈りをされました。イエス様の祈りは形だけの祈りではありませんでした。真剣勝負でした。切なる祈りでした。イエス様は孤独な戦いをなさいました。

三度目の祈りを終えた後、イエス様の姿はどのように変わりましたか。45、46節をご覧ください。それから、イエス様は弟子達のところに来て言われました。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」イエス様は、激しい祈りの格闘のすえ、神の怒りの杯をメシヤであるご自身が飲むことを通してしか神の救いの計画が実現しないことを確信し、十字架で身代わりの死を遂げることを覚悟されました。イエス様は祈りによってすでに勝利されました。祈りの勝利を得たイエス様は、受難に真正面からぶつかって行くことができました。イエス様は迫って来る十字架に向かって大胆に進まれました。イエス様は三度の祈りによって霊的な戦いで勝利されたので恐れることがありませんでした。イエス様は勝利に対する確信を持っておられました。私達の戦いは血肉に対する戦いではなくサタンに対する戦いです。信仰生活の勝敗も霊的な戦いにあります。祈りには力があります。ですから私達も真実に祈り、積極的に聖霊の助けを求めて霊的な戦いで勝利しなければなりません。祈る人は、十字架の前に確信を持って立つことができます。私達が祈りによって自分の十字架を負い、祈りによって神様のみこころに従うことができるように祈ります。イエス様は十字架を目前にして悲しみの余り死ぬほどでしたが、祈りによってサタンの試みに打ち勝たれました。私達も自分の弱さを認めて祈りに励み、勝利の信仰生活ができるように祈ります。

?.逮捕され、尋問されたイエス様(47-75)

イエス様がまだ話しておられるうちに、十二弟子のひとりであるユダが剣や棒を手にした大ぜいの群衆といっしょにやって来ました。ユダは、彼らと合図を決めて、イエス様に近づき、「先生。お元気で。」と言って、口づけしました。イエス様は彼に、「友よ。何のために来たのですか。」と言われ、自発的に敵の手に捕らえられました。

すると、イエス様といっしょにいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落としました。ヨハネの福音書によると、その人はシモン・ペテロで、切られた大祭司のしもべの名前はマルコスでした。彼は戦うべき敵が誰であるかを知らず血肉に対する戦いをしました。このような彼の行動は勇敢に見えますが、実は恐れから出た行動でした。

イエス様は彼に言われました。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」この御言葉は歴史が証明しています。剣を取ることによって問題がすぐ解決するように見えますが、むしろ多くの問題を作り出します。イエス様が剣を取らないのは力がなかったからではありません。イエス様は、十二軍団よりも多くの御使いを、今ご自分の配下に置いていただくことができると言われます。一軍団は六千人で編成されています。もしも助けが必要なら、イエス様は天の万軍を味方に呼ぶことができたのです。しかし、今イエス様がいっさいの抵抗を放棄されたのは、聖書が実現するためでした。神様の目的に生きるためでした。十字架の苦難の杯を飲み干されるためでした。イエス様は、父なる神様の救いのご計画が成就するために、ご自分が罪人のための贖い主となるために、十字架の道を歩み通されました。しかし、弟子達は彼らの信仰と熱心が祈りによる勝利に裏付けられていなかったので、イエス様を見捨てて、逃げてしまいました。

イエス様をつかまえた人たちは、イエス様を大祭司カヤパのところへ連れて行きました。ペテロも遠くからイエス様のあとをつけながら、大祭司の中庭まではいって行き、成り行きを見ようと役人たちといっしょにすわりました。すでにイエス様を死刑にすることを決議していたサンヘドリンは、この晩も会って、イエス様が連行されて来るのを待っていました。公正な裁判では偽証を罪に定めるべきであるのに、この議会は最初からイエス様を死刑にするために偽証を求めていました。しかし、その証拠はつかめませんでした。ユダヤ律法によると、すべての証拠は二人の証人によって別々に確認されなければなりませんでした。したがって、偽証者の間で一致する証言がなかなか得られなかったのです。しかし、最後にふたりの者が進み出て、言いました。「この人は、『わたしは神の神殿をこわして、それを三日のうちに建て直せる。』と言いました。」イエス様がそれを言われたのは、ご自分の十字架の死と復活を預言されたことですが、彼らは建物である神殿について言われたと誤解してそのように言ったのです。しかし、イエス様は黙っておられました。この沈黙は神様に対する服従のためでした。

それで、大祭司はイエス様に言いました。「私は、生ける神によって、あなたに命じます。あなたは神の子キリストなのか、どうか。その答えを言いなさい。」イエス様は彼に言われました。「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」「あなたの言うとおりです。」これは、決定的な質問に対する決定的な答えです。これは十字架の死刑執行状に署名したのと同じことです。イエス様は十字架につけられ、一見敗北したかに見えるかもしれませんが、それは復活の勝利となり、メシヤは昇天して神の右の座に着き、神の敵を足の下に従わせることになります。イエス様は尋問をする彼らに裁きの福音を証されました。すると、大祭司は、イエス様を神への冒涜の罪で死刑に定めました。そうして、彼らはイエス様の顔につばきをかけ、こぶしでなぐりつけ、また、他の者たちは、イエス様を平手で打って、からかいました。イエス様のこの受難はイザヤ53:7の成就でした。

さて、ペテロはどのようにしていましたか。69節をご覧ください。ペテロが外の中庭にすわっていると、女中のひとりが来て言いました。「あなたも、ガリラヤ人イエスといっしょにいましたね。」しかし、ペテロはみなの前でそれを打ち消して、「何を言っているのか、私にはわからない。」と言いました。そして、ペテロが入口まで出て行くと、ほかの女中が、彼を見て、そこにいる人々に言いました。「この人はナザレ人イエスといっしょでした。」それで、ペテロは、またもそれを打ち消し、誓って、「そんな人は知らない。」と言いました。しばらくすると、そのあたりに立っている人々がペテロに近寄って来て、「確かに、あなたもあの仲間だ。ことばのなまりではっきりわかる。」と言いました。すると彼は、「そんな人は知らない。」と言って、のろいをかけて誓い始めました。ペテロは三回否定しています。最初は、「何を言っているのか、私にはわからない」というごまかし、おとぼけです。次には、「そんな人は知らない」と誓い、第三回目には、「そんな人は知らない」と激しいことばでのろいをかけて誓い始めます。小さなごまかしで始まって、このようなイエス様否認に進みます。するとすぐに、鶏が鳴きました。そこでペテロは、「鶏が鳴く前に三度、あなたは、わたしを知らないと言います。」とイエス様の言われたあのことばを思い出しました。そうして、彼は出て行って、激しく泣きました。つい数時間前、そのようなことはない、いのちをかけてもイエス様に忠実に従う、と勇ましく言ったペテロはつまずいてしまいました。彼は自己過信に陥り、目を覚まして祈らなかったので失敗してしまいました。ルカは、鶏が鳴いた時「主が振り向いてペテロを見つめられた」と付け加えています(ルカ22:61)。イエス様の目は無言のうちにペテロを悔い改めに導いたと考えられます。

イエス様は神様の御子であられる方ですが、十字架を前にしてゲツセマネで汗が血のしずくのように落ちるほど切に祈られました。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」イエス様がご自分の御心を捨てて、神様の御心に服従なさったために人類の救いの道が開かれました。私たちが祈りによって自分の願うようにではなく、神様のみこころに服従する者となるように祈ります。