2001年ヨシュア記第5講

神様の民が持つべき姿勢

御言葉:ヨシュア記5:1?15

要 節:ヨシュア記5:2「そのとき、主はヨシュアに仰せられた。『火打石の小刀を作り、もう一度イスラエル人に割礼をせよ。』」

今日の御言葉はイスラエル人がヨルダン川を渡ってエリコの城を占領する前にギルガルであった出来事です。ヨルダン川を渡ってカナンの地に入ったヨシュアがまずしたことは、割礼と、過越のいけにえをささげることでした。すなわち、具体的な戦闘準備を始める前に、霊的な準備をしました。次いで、主は、御使いをヨシュアのところに遣わして、神様が共におられることを悟らせてくださいました。割礼と過越のいけにえを捧げることは、新約時代においては洗礼と聖餐式に当たることです。この時間、霊的な戦いをする私たちが持つべき姿勢について学ぶことができるように祈ります。

?.割礼をせよ(1-9)

1節をご覧ください。カナン人のすべての王たちは、主がイスラエル人の前でヨルダン川の水をからし、ついに彼らが渡って来たことを聞いて、イスラエル人のために彼らの心がしなえ、彼らのうちに、もはや勇気がなくなってしまいました。反面イスラエル人は渡るのが不可能に見えたヨルダン川を奇跡的に渡ったので非常に士気が上がっていたでしょう。戦争やスポーツ試合などで士気が上がることは大切なことです。実力があっても相手を恐れて士気が低下すると負けてしまいます。現在イスラエル人は士気が上がり、カナン人は士気が下がっているのでイスラエル人としては攻撃するのに良い機会でした。ヨルダン川を渡った勢いでエリコも占領しようとしているヨシュアに神様は何と仰せられましたか。「エリコを攻撃せよ。」と命じられましたか。いいえ。2節をご覧ください。主はヨシュアに「火打石の小刀を作り、もう一度イスラエル人に割礼をせよ。」と仰せられました。これは、ヨシュアが全く予想しなかったことでした。これは、戦争を目前にしているイスラエル人にはどうしても理解できない危険なことでした。なぜなら、彼らが割礼を受けるようになると少なくても一週間は楽に動けないからです。もしその間に敵が攻撃して来たら大変です。ですから、敵の目前で割礼を受けることは自殺行為のようなことでした。それでは主が「割礼をせよ。」と命じられたのにはどんな御旨があるでしょうか。

第一に、神様の民としてのアイデンティティを持たせるためです。割礼は男子の包皮の肉を切り捨てることで、神様との契約を身体の上にしるすことです。イスラエル人は、自分達は割礼を受けた民だというアイデンティティを持っていました。ダビデもゴリアテと戦う時、「この割礼なきペリシテびとも、生ける神の軍をいどんだ。」と言って怒りました(?サム17:36)。神様はイスラエル人がカナンの地に入ろうとする時、神様との関係性を新しくして神の民としてのアイデンティティを持つように割礼をするように命じられました。イスラエル人が割礼を受けた者である自負心を持っていたように洗礼を受けた者は「私はクリスチャンです。」「私は神様の子供です。」という自負心を持たなければなりません。それを持つ時、どこでも自分がクリスチャンであることをはっきりと言うことができるし、クリスチャンらしい生活をすることができます。私たちが創造主である神様の子供であることはどれほど栄光あることでしょうか。

第二に、割礼はこれから神様の御旨に従うという決断を意味します。割礼は、アブラハムの時に制定され、過越のいけにえを食べるすべての人に要求されていました(出12:43-51)。アブラハムはつらい時に神様の御言葉に従って信仰によって生活しました。彼にとってつらい時は深い信仰の世界に入る機会になりました。アブラハムは望みえないときに望みを抱いて信じました。神様はこのようなアブラハムの信仰を喜ばれました。彼は信仰によって神様に喜ばれる者でしたが、彼も弱い人間なので過ちがありました。彼は跡継ぎの問題で悩んでいた時にサラの話を聞き入れて女奴隷であるハガルによって息子イシュマエルを得ました。彼は跡継ぎの問題が解決された時、自己満足に陥り、信仰生活が自己中心的であり、小市民的になりました。その時、神様はアブラハムのところに来られ、彼を叱られ、彼の名前をアブラムからアブラハムに変えてくださいました。そして彼に割礼を受けるようにして小市民的な生活をしていた彼が神様の大いなる御旨に従うようにしました。神様は彼が一人の父ではなく多くの民の父として生きることを願われました。アブラハムは神様の御旨に従い、家のすべての人々と共に割礼を受けました。その後、アブラハムは自己中心的な人ではなく神様の御心に従う神様中心の人となりました。アブラハムが自分の考えを捨てて神様の御旨に従って割礼を受けた時から彼の信仰は大きく成長しました。それは創世記18章で彼がお客をもてなすことと滅びるソドムとゴモラのためにとりなしの祈りを捧げることによく現われています。

イスラエル人の関心は一日も早く乳と密の流れるカナンの地に入ることでした。しかし、神様の関心は違いました。神様が彼らに置かれた御旨は彼らが神様の聖なる民として世界の人々に仕える祭司の国となることでした。神様はご自分の民が小市民的な生活をするのではなく、多くの国民の父であり、多くの国民の母として生きることを願っておられます。

第三に、割礼は古い罪悪な習慣を脱ぎ捨てて神様の民として新しい人を着ることです。割礼は神の民としてのアイデンティティを持たせるだけではなく、神の民としてふさわしい生活をする意味も持っています。イスラエル人は身体にあるしるしを見るたびに「私は神様から選ばれた民だ。だから神の民らしく生きるべきだ。」と思ったでしょう。男性は一日中何回か生理的にそのしるしを確認しなければなりません。つまり、トイレに行くたびにそのしるしを確認するのです。特にこれは神の民が性的な罪から守ってくれる大切な役割をします。彼らは性的な罪を犯す誘惑を受けるたびに割礼を受けたそのしるしを通して自分が神の民であることを再確認し、罪の誘惑を退けることができます。特に神の民ではない異邦人の女と性的な関係を結ぶ誘惑から守ってくれます。人間の犯罪の中で多くはこの性的な犯罪から来るのを考えると神様が割礼を受けさせたことは驚くべき神様の知恵です。

割礼は性的な罪の誘惑だけではなく、古い罪悪な習慣を脱ぎ捨てるようにします。4-9節はヨシュアがギルガルで割礼を施した理由を説明しています。エジプトを出て後、途中荒野で生まれた民は、だれも割礼を受けていませんでした。割礼を受けてエジプトを出た男子は、心をかたくなにして主の御声を聞かなかったので、荒野で全部死に絶えてしまいました。彼らは主の御声に聞き従わなかったので、主が与えてくださった乳と蜜の流れる約束の地に入ることができませんでした。主は彼らに代わって、その息子たちを起こされました。ヨシュアは、彼らが無割礼の者で、途中で割礼を受けていなかったので、彼らに割礼を施しました。

民のすべてが割礼を完了したとき、彼らは傷が直るまで、宿営の自分たちのところにとどまりました(8)。人は苦しみがある時にその苦しみの意味が何かを真剣に考えます。その時、主はヨシュアに割礼を施す意味が何かを仰せられました。9節をご覧ください。「『きょう、わたしはエジプトのそしりを、あなたがたから取り除いた。』それで、その所の名は、ギルガルと呼ばれた。今日もそうである。」エジプトのそしりはエジプトで奴隷生活をした時のそしりです。奴隷生活の特徴は働く時に人の目を意識しながら適当にすることです。主人が見ている時には熱心に働くふりをしますが、見てない時には適当にしてしまいます。神様は人を造られた後にこの世を支配する管理人の使命を与えてくださいました。ですから、人は誰が見ようが見ないようが管理人として主の前で自立的に働くべきであり、任された使命のために忠実に働くべきです。しかし、奴隷の民は管理人としての使命がないので人の目を意識しながら適当に働きます。これは神様の御前で取り除くべきそしりです。また、奴隷は肉の欲望に従います。奴隷は人生の希望も使命もないのでただ食べて生きることだけを考えます。また、奴隷は忍耐心がないので少しつらいことがあったら神様と指導者につぶやきます。イスラエル人が割礼を受けた時、神様はエジプトのそしりを取り除いてくださいました。その時、彼らは聖なる神様の民となり約束の地に入るのにふさわしい人となりました。割礼には苦しみが伴いますが、彼らを神様に用いられる聖なる器とするためになさった神様の恵みでした。

ところが、イスラエル人が出エジプトして40年が経った今になって彼らからエジプトのそしりを取り除く理由は何でしょうか。それは彼らにまだ先祖から伝わったむなしい生き方が残っていたからです。エジプトのそしりは時間が経つと取り除かれるのではなく、必ず神様の御前で悔い改めて罪の赦しを受けなければなりません。また、それは自分の力や意志によって取り除くことができるのではなく、神様の御言葉によって取り除くことができるのです。?ペテロ1:23は言います。「あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。」私たちは親から伝わったむなしい生き方を憎み、そのような生き方をやめたいと思いますが、心ならず自分も同じ生き方をしていることに気づきます。しかし、神様の御言葉は先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出す力があります。私たちが聖書を学ぶ目的は聖書の知識を貯えるためにではなく、御言葉によって私のうちにあるエジプトのそしりを取り除き、新しい人として変えられるためです。コロサイ人への手紙2:11、12節は言います。「キリストにあって、あなたがたは人の手によらない割礼を受けました。肉のからだを脱ぎ捨て、キリストの割礼を受けたのです。あなたがたは、バプテスマによってキリストとともに葬られ、また、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じる信仰によって、キリストとともによみがえられたのです。」使徒パウロは、コロサイ人への手紙3:9、10でそれについてもっと詳しく説明しました。「互いに偽りを言ってはいけません。あなたがたは、古い人をその行ないといっしょに脱ぎ捨てて、新しい人を着たのです。新しい人は、造り主のかたちに似せられてますます新しくされ、真の知識に至るのです。」私たちは洗礼を受けることによってアダムのうちにある古い人を脱ぎ捨てて、キリストのうちにある新しい人を着るようになります。

第四に、割礼を受けることによって自分の無力さを悟り、神様に頼るようにされました。イスラエル人がギルガルで割礼を受けたことは神様に頼る信仰がなければ不可能なことでした。ギルガルからすぐ目前にはエリコの城があります。ところが、敵たちが見ているギルガルでイスラエルのすべての男子が割礼を受けるように言われたのです。それは、彼らが自分達の無力さを徹底に悟り、完全に神様だけに頼るようにするためでした。私たちは神様に頼ると言いますが、それが自己中心になる場合が多くあります。神様の力に頼るより自分の力に頼り、神様の知恵より自分の知恵や経験に頼る時が多くあります。自分に頼っている人は神様に切に祈りません。祈る必要を感じないからです。このような人は神様の助けを受けることができません。私たちがすべてのことについて自分の無力さを徹底に悟り、神様に頼る時に勝利の人生を送ることができます。イエス様も私たちが枝に過ぎないのでぶどうの木であるイエス様から離れては、何もすることができないと言われました(ヨハネ15:5)。

以上から私たちは割礼、すなわち、洗礼を受ける意味について学びました。第一に、神様の民としてのアイデンティティを持たせるためです。第二に、自分の心ではなく、神様の御旨に従うことを決断することです。第三に、古い人を脱ぎ捨てて、新しい人を着ることです。第四に、自分の無力さを徹底に悟り、神様にのみ頼ることです。

?.過越の祝いの意味(10-12)

割礼を受けた後、主はもう一つの歴史的な行事を守るように言われました。それは過越のいけにえを捧げることです。10節をご覧ください。「イスラエル人がギルガルに宿営しているとき、その月の十四日の夕方、エリコの草原で彼らは過越のいけにえをささげた。」過越の祝いは、過越の子羊の血により神の怒りを逃れ、奴隷の地エジプトから救い出されたことを記念する祝いです。そして、割礼を受けた者だけがそれを祝うことができます。彼らは、割礼を受け、過越の祝いを祝うことにより、四十年の試練の旅が終り、再び神との契約が再確認されます。イスラエル人は38年ぶりに過越の祝いを守ることができたのでどれほど感激したのでしょうか。一方的な恵みによってエジプトの奴隷から解放され、聖なる神の民としてくださった神様、荒野で見守り、約束の地に導いてくださった神様の恵みを考えながら感謝の涙を流したでしょう。割礼は一回限りですが、過越の祝いは、これからの戦いの日々の中にあっても、絶えず繰り返すことでした。

イエス様は死なれる前日の夜、過越の祭りが始まるその日の夜、弟子達と過越の食事をしながら聖餐式を制定されました。「また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。『取って食べなさい。これはわたしのからだです。』また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。『みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。』」(マタイ26:26-28)。使徒パウロもコリント人への手紙11:25,26で聖餐式について次のように言いました。「夕食の後、杯をも同じようにして言われました。『この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。』ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」私たちは聖餐式に参加する時に何を覚えなければなりませんか。それは主が私の代わりに肉が裂かれ、尊い血を流してくださることによって私を永遠の滅びから救い出し、永遠のいのちを与え、神の国を相続するようにしてくださったことです。すなわち、値なしに施してくださった救いの恵みを心に刻み、感謝することです。人は他人から受けた傷はなかなか忘れませんが、恵みはすぐ忘れてしまう傾向があります。しかし、私たちが忘れてはならないことは救いの恵みです。救いの恵みを忘れてしまうと心がかたくなになります。高慢になります。感謝しなくなります。すると、主から与えられた使命のために働く力もなくなります。

11節をご覧ください。過越のいけにえをささげた翌日、彼らはその地の産物、「種を入れないパン」と、炒り麦を食べました。彼らがその地の産物を食べた翌日から、マナの降ることはやみ、イスラエル人には、もうマナはありませんでした。マナはイスラエル人が荒野生活をする40年の間与えてくださった恵みの糧でした。神様は荒野で日々彼らを見守り、導いてくださいました。

?.あなたの足のはきものを脱げ(13-15)

イスラエル人は割礼を施し、過越の祝いを守ることによって霊的な戦いをするすべての準備が終りました。しかし、神様がご覧になると指導者であるヨシュアの準備が足りませんでした。神様は彼をどのように準備させましたか。ヨシュアがエリコの近くにいた時、彼が目を上げて見ると、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていました。ヨシュアはその人のところへ行って、「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」と言いました。ヨシュアは、ひとり陣営を抜け出て、どうしたらエリコを攻め落とすことができるかと思い巡らしていたに違いありません。その時、剣を手に持って、立っている人に会ったので彼は戦う構えをして「あなたは、味方か、敵か。」と聞いたのです。ヨシュアはまだカナンの地を占領することの性格をよく知りませんでした。カナンの地を占領するのは侵略戦争や略奪戦争ではなく、神様の御旨を成し遂げる霊的な戦争でした。これは光と闇の戦いであり、生きておられる神様と偶像との戦いでした。ヨシュアの質問に彼はどんな者として来たと言いましたか。14節をご覧ください。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」そこで、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言いました。「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」ヨシュアは、その人が神から遣わされた御使いであることを認め、神の啓示を聞こうとする姿勢をとってひれ伏しました。主の軍の将が来たのは、主がイスラエルのために戦われるというメッセージです。主が彼らのために戦われる時に勝利することができます。ですから、ヨシュアはこれからの戦いのために自分が何かをしようとするより総司令官である主に従えばいいのです。主の御前にひれ伏して祈り、主の御声を聞くことに励まなければなりません。

ヨシュアがひれ伏して神様の啓示を聞こうとした時、主の軍の将は何と命じましたか。15節をご覧ください。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」これは、モーセが燃える柴の中から神の声を聞いた時と全く同じことばです(出3:5)。戦いを目前にして、はきものを脱ぐことは非合理的なことです。戦うためにははきもののひもをしっかり結ばなければなりません。「足のはきもの」は、地上のすべての汚れと罪の象徴です。神様はヨシュアが戦う前にまずすべての罪を解決するようにされました。これは彼の戦いは聖なる戦いであり、彼が立っているところは主がおられる聖なるところだからです。私たちは霊的な戦いのために情欲、不信、貪欲、利己心、高慢などのすべての汚れと罪を脱がなければなりません。私たちが主の御前に服従し、自分の汚れた罪を脱ぐ時、主は私たちとともにおられ私たちの代わりに戦ってくださいます。すると、私達は勝利の人生を送ることができます。

以上から私たちは霊的な戦いをする私たちが持つべき姿勢について学びました。私たちは常に目前に敵がいることを知らなければなりません。そして、自分が戦いのさなかにいることを忘れてはなりません。ペテロは次のように勧めました。「身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。」(?ペテロ5:8,9)。私たちの戦いは血肉に対するものではなく、悪霊に対するものです。この戦いは私たちの力や知恵によっては決して勝つことができません。ですから、私達は霊的な準備をしなければなりません。心の割礼を受け、イエス・キリストの十字架の血によってきよめられなければなりません。主の御前にひれ伏して祈り、主に助けを求めなければなりません。私たちが日々主によってきよめられ、主に頼る時、勝利の人生を送ることができます。