2001年ヨシュア記第8講

敗北から勝利へ

御言葉:ヨシュア記8:1?35

要 節:ヨシュア記8:18「そのとき、主はヨシュアに仰せられた。『手に持っている投げ槍をアイのほうに差し伸ばせ。わたしがアイをあなたの手に渡すから。』そこで、ヨシュアは手に持っていた投げ槍を、その町のほうに差し伸ばした。」

私たちは先週ヨシュア記7章で、アカン一人の貪欲の罪によってイスラエル人がアイとの戦いで敗北したことについて学びました。今日の御言葉はイスラエル人がきよめられて後、敗北から勝利する場面です。私たちは自分の人生において「どうすれば成功できるか」を考えることも大切なことですが、「どうすれば失敗から立ち上がることができるか」を考えることはもっと大切なことです。本文の御言葉を通してイスラエルが敗北からどうやって勝利することができたのか、また、勝利した後、ヨシュアは何をしたのかについて学びたいと思います。

第一に、主の御言葉に導かれました。1,2節をご覧ください。主はヨシュアに仰せられました。「恐れてはならない。おののいてはならない。戦う民全部を連れてアイに攻め上れ。見よ。わたしはアイの王と、その民、その町、その地を、あなたの手に与えた。あなたがエリコとその王にしたとおりに、アイとその王にもせよ。ただし、その分捕り物と家畜だけは、あなたがたの戦利品としてよい。あなたは町のうしろに伏兵を置け。」アカンのさばきが済んで、民が聖められて後、神様は再びヨシュアに「アイに攻め上れ」と命じられました。まだ自信を失っているヨシュアに向かって、神様は「恐れてはならない。おののいてはならない。」と語りかけられます。この言葉から考えて見るとヨシュアは現在恐れ、おののいていたことがわかります。敗北した人は自分の咎と罪のために神様から捨てられるのではないかと恐れがちです。また、再び敗北するのではないかと恐れがちです。このように恐れが生じると何もできなくなります。恐れる心が生じると、イナゴのように小さく見えたアイが巨人のように大きく見えるようになります。神様はヨシュアに向かって「恐れてはならない。おののいてはならない。」と語り掛けてくださいました。この言葉はアブラハムとモーセに現れた神様が、アイの攻略においてもヨシュアと共におられることの確信を与える言葉です。また、アカンの問題が完全に処理されて、ヨルダン川を渡る時とエリコを占領する時に示された神様の御手がもう一度働くことの保証のことばでもあります。神様は選ばれた民を祝福することを願っておられますが、アカン的な問題がある時に祝福することができません。しかし、アカン的な問題を除き去ると神様はすべての咎と罪を赦し祝福してくださる恵み深い方です。神様は私たちが罪を犯した時に怒り、裁く方ですが、真実に罪を悔い改めると雪のように白くしてくださいます。

神様はヨシュアに勝利に対する確信を与えてくださいました。「恐れてはならない。おののいてはならない。戦う民全部を連れてアイに攻め上れ。見よ。わたしはアイの王と、その民、その町、その地を、あなたの手に与えた。」神様はヨシュアが敗北から立ち上がって勝利に対する確信を持つように助けてくださいました。敗北から立ち上がることは簡単なことではありません。ここには信仰による勇気が必要です。神様は謙遜に自分の敗北を認めて悔い改める人に恵みと哀れみを施してくださいます。そして、敗北を勝利に変えてくださいます。失敗を挽回させてくださいます。

2節をご覧ください。「あなたがエリコとその王にしたとおりに、アイとその王にもせよ。ただし、その分捕り物と家畜だけは、あなたがたの戦利品としてよい。あなたは町のうしろに伏兵を置け。」エリコ攻略の場合は、金、銀、銅、鉄以外のすべてが聖絶されなければなりませんでした。しかし、アイでは分捕り物と家畜を戦利品としてよいと言われました。それを見ると、神様が与えてくださる御言葉に聞き従えば、欲張らなくても必要なものを必要な時に与えてくださることを学ぶことができます。その後、神様は具体的な作戦を指示されました。この作戦は伏兵作戦としてエリコ作戦とは違う作戦でした。戦争で作戦は大切なことです。作戦が間違ったら負けてしまいます。

私たちが霊的な戦いで勝利するためには神様からの作戦指示を受けなければなりません。そのためには主が私たちに語る御言葉に耳を傾けなければなりません。昨日勝利したから今日も必ず勝利できるわけではありません。私たちは日々謙遜に主に頼り、主の御言葉に聞き従わなければいつ敗北するかわかりません。一日を出発する前に主に祈ることは神様からその日の作戦指示を受けることですから、大切なことです。朝早く起きて主の御前にひれ伏して祈る時に、主に導かれるようになります。クリスチャンの生活の特徴は自分勝手な生活をするのではなく、神様の御声に耳を傾け、その御言葉に聞き従う生活です。ローマ人への手紙8:14は次のように言っています。「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子供です。」私たちが毎日謙遜に主の御言葉に耳を傾け、神の御霊に導かれる人となるように祈ります。その人は、何をしても勝利の人生を送ることができます。

朴エズラ宣教師は東大博士過程に入る試験を前にして「今度の試験とともにしてください。」と祈りました。彼には試験を通して神様の栄光を現わしたい切なる願いがありました。神様はこのような彼に日ごとの糧の御言葉を通して確信を与えてくださいました。そして、彼は今度の試験に合格しました。外国人が東大で修士課程を通らないで直接に博士課程に入ることは珍しいことだそうです。すべてのことを主の御手にゆだね、主に導かれる人は必ず勝利します。

第二に、敗北から教訓を得てもっと大きなことにチャレンジしました(3-9)。神様の作戦指示を受けたヨシュアは戦う民全部と、アイに上って行く準備をしました。そして、ヨシュアは勇士たち三万人を選び、彼らを夜のうちに派遣しました。最初の戦いでは三千人だけを行かせ、ヨシュアは戦いに参加しませんでした。しかし、今は伏兵だけでも三万人を行かせました。そしてヨシュア自身も戦いに参加しました。ヨシュアはアイの民が勝利を自慢していることを利用しようとしました。すなわち、彼は過去の敗北から教訓を得たのです。

成功した多くの人々は多くの失敗を経験し、その失敗を通して教訓を得て成功しました。アメリカに22歳に事業を始めたが失敗した人がいました。彼は23歳には州議員選挙に出ましたが、見事に落選しました。24歳に再び事業を始めましたがその事業さえも失敗していまいました。27歳には神経衰弱と精神分裂症によって苦しみました。29歳に議会の議長にチャレンジしましたが、落選しました。31歳には大統領選挙委員にチャレンジしましたが、また落選しました。34歳には国会議員に落選し、37歳に始めて国会議員として当選しましたが、39歳に再び落選しました。46歳には上院議員に落選しました。そして、47歳には副大統領に落選しました。49歳に再び上院議員にチャレンジしましたが、再び落選しました。しかし、彼は51歳にアメリカの大統領に選ばれました。その人がアブラハム・リンカンです。ある日、人々はリンカン大統領に次のような質問をしました。「あなたの驚くべき成功と尊敬される人生を送る秘訣は何ですか。」リンカンは次のように答えました。「それは簡単です。私は失敗を多く経験したからです。」彼の言葉は彼が失敗を通して教訓を得たことを意味します。彼は単純に失敗を繰り返したのではなく、その失敗を通して教訓を得てもっと大きなことにチャレンジしました。リンカンが一番好きな聖書の御言葉はローマ人への手紙8:28でした。「神を愛する人々、すなわち、神の御計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私達は知っています。」失敗も敗北も挫折も絶望も働かせて益としてくださるというのがリンカンの信仰告白でした。彼は次のように言いました。「私が失敗した時、悪魔は『お前は終りだ』と言いました。しかし、私が失敗した時、神様は『失敗の経験に基づいてもっと大きなことにチャレンジしなさい』と言われました。私は悪魔の言葉より神様の御声に耳を傾けました。」

今日からCBF礼拝、すなわち、子供たちによる礼拝を捧げるようになりました。長い間の祈りを実現させてくださった主に感謝します。これは実現するようになったきっかけは、今年に入って敗北を通して教訓を得たからです。神様は私達に敗北から立ち上がってもっと大きなことにチャレンジするように助けてくださいました。主はこの礼拝を通してご自分の栄光を現わしてくださることを信じます。子供たち一人一人をモーセやヨシュアのような立派な主のしもべとして成長させてくださることを信じます。

私達は敗北した時、絶望して退きやすいです。しかし、私達はその敗北や失敗を通して教訓を得て信仰によってもっと大きなことにチャレンジしなければなりません。そうすれば、きっと神様の栄光を見ることができます。神様は敗北を勝利に変えてくださいます。私達が失敗や敗北を恐れず、さらに大きなことにチャレンジして勝利の人生を送ることができるように祈ります。

第三に、神様が与えてくださる方向に従いました(10-29)。ヨシュアは翌朝早く民を召集し、イスラエルの長老たちといっしょに、民の先頭に立って、アイに上って行きました(10)。それから約五千人を取り、ベテルとアイの間に伏兵として配置してから、アイの民をおびき出すためにヨシュアと全イスラエルは、彼らに打たれて、荒野への道を逃げました。第一回目の勝利に酔っていたアイの王は、何の用心もせずにすぐ町からイスラエル軍に向かって進んで来ました。イスラエルのあとを追って出なかった者は、アイとベテルにひとりもないまでになりました。彼らは町を明け放しのまま捨てておいて、イスラエルのあとを追いました。そのとき、主はヨシュアに仰せられました。「手に持っている投げ槍をアイのほうに差し伸ばせ。わたしがアイをあなたの手に渡すから。」そこで、ヨシュアは手に持っていた投げ槍を、その町のほうに差し伸ばしました(18)。すると、伏兵はすぐにその場所から立ち上がり、アイの町にはいり、それを攻め取り、急いで町に火をつけました(19)。そしてイスラエルは、アイのすべての人々を剣の刃で打ちました。イスラエルは高慢になっていた時には敗北しましたが、謙遜に神様の作戦指示に従った時には勝利しました。悔い改めて罪が赦されたイスラエル軍は、神様のあわれみによって、圧倒的に勝利しました。箴言18:12は次のように言っています。「人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ。」

アイとの戦いでイスラエル人が勝利できた大切な要因は指導者ヨシュアが神様から与えられた方向に従って最後まで投げ槍を差し伸べた手を引っ込めなかったことです。18節と26節をご覧ください。「その時、主はヨシュアに仰せられた。『手に持っている投げ槍をアイのほうに差し伸ばせ。わたしがアイをあなたの手に渡すから。』そこで、ヨシュアは手に持っていた投げ槍を、その町のほうに差し伸ばした。」「ヨシュアは、アイの住民をことごとく聖絶するまで、投げ槍を差し伸べた手を引っ込めなかった。」投げ槍をずっと差し伸ばしていることは難しいことです。それでは投げ槍を差し伸ばすことにはどんな霊的な意味があるでしょうか。それははっきりとした祈り題目を提示し、進むべき方向を示すことです。ヨシュアが指導者としてやったことは神様の指示に従って投げ槍を差し伸ばしていたことです。指導者ははっきりとした祈り題目を提示し、民は指導者が提示する方向に従わなければなりません。その時、主は勝利を与えてくださいます。

神様は私達をこの時代霊的な指導者として召されました。それでは私達が差し伸ばすべき投げ槍は何でしょうか。御言葉の投げ槍、祈りの投げ槍は私達がどんな状況の中でも手放してはならないものです。また、私達には神様が与えてくださった方向、すなわち、聖書勉強と弟子養成の投げ槍があります。さらに、日本宣教と世界宣教の投げ槍があります。私達はこの祈り題目が成し遂げられるまで手放してはなりません。最後までその投げ槍をしっかり握っている時、主は勝利を与えてくださいます。また、私達がしっかり握っていなければならない投げ槍は飼い葉桶の精神です。飼い葉桶の精神はイエス・キリストがこの世に来られてなさったように、謙って仕える精神であり、自分を犠牲にする精神です。自ら進んでキリストの苦難に参加することです。私達が飼い葉桶の精神をしっかり握っている時、主は命の救いの御業を大きく祝福してくださることを信じます。

第四に、勝利の日に感謝の祭壇を築き、聖書を学びました(30-35)。ヨシュアはアイを占領して後、二つのことを行ないました。一つは、エバル山に、イスラエルの神、主のために、一つの祭壇を築いたことです(30)。彼らは祭壇の上で、主に全焼のいけにえをささげ、和解のいけにえをささげました。全焼のいけにえをささげることは、犠牲と献身を意味します。また、和解のいけにえをささげることは神様の恵みに感謝し、神様と正しい関係性を学ぶことを意味します。それをみると、ヨシュアはすべての勝利が神様によるものであることを信仰告白し、謙遜に神様に献身することを心に決めたことがわかります。勝利の時に感謝の祭壇を築くことは大切なことです。勝利の日に感謝の祭壇を築く時、高慢にならず、神様に栄光を帰すことができます。二つは、ヨシュアが勝利の日に聖書を学んだことです。32節をご覧ください。その所で、ヨシュアは、モーセが書いた律法の写しをイスラエルの人々の前で、石の上に書きました。そして民に聖書を教えました。全イスラエルは、その長老たち、つかさたち、さばきつかさたちとともに、それに在留異国人もこの国に生まれた者も同様に、主の契約の箱をかつぐレビ人の祭司たちの前で、箱のこちら側と向こう側とに分かれ、その半分はゲリジム山の前に、あとの半分はエバル山の前に立ちました。ゲリジム山は木が多くて美しい山です。エバル山は険しい岩山です。そこで、ヨシュアは律法の書にしるされているとおりに、祝福とのろいについての律法のことばを、ことごとく読み上げました。神様の御言葉に聞き従えば、ゲリジム山のように神様の祝福を受けて美しい人生を送るようになりますが、聞き従わなければエバル山のように神様の裁きと呪いを受けて惨めな人生を送るようになります。ヨシュアは最善を尽くして敵と戦っただけではなく、勝利して後熱心に民に神様の御言葉を教えました。彼はなぜそれほど熱心に神様の御言葉を教えたのでしょうか。それは神様の御言葉によって霊的に武装することこそ霊的な戦いで勝利できる秘訣だからです。

聖書は多くの本の中に存在する一冊の本に過ぎないものではなく、この世に唯一に存在する神様の御言葉です。聖書には人間のすべての問題を解決できる秘訣が書かれています。人間が記録した本の中で人生のすべての問題を解決してくれる本は聖書以外にはありません。サタンとの霊的な戦いで勝利するためには聖霊の剣である神様の御言葉によって武装しなければなりません。聖書を学び、受け入れる時、私達を支配する悪霊は逃げてしまい、聖霊に支配されるようになります。人が苦しんでいるのは、悪霊に支配されているからです。その霊に支配されると、いくら良い環境の中で暮らしていても幸せではありません。心の中には平安がありません。何かに追われるような不安な人生を過ごします。しかし、聖書を学び、その御言葉に聞き従えば悪霊はそれ以上その人を支配することができなくなります。そして、神の霊が臨まれ、心には平安と喜びが満ち溢れるようになります。私達に聖霊が臨まれるとき、力を受けて地の果てにまでイエス・キリストの証人となることができます。

ヨシュアは聖書を教える時に恵みの御言葉や祝福の御言葉だけを教えたのではありません。彼は律法の書にしるされているとおりに、祝福とのろいについての律法のことばを、ことごとく教えました。私達の前にはいつも祝福の道とのろいの道、いのちの道と滅びの道、天国への道と地獄への道、この二つの道しかありません。私達が主の御言葉に耳を傾け、その御言葉に聞き従う時に神様の祝福が与えられます。その人は、水路のそばに植わった木のように、時が来ると実がなり、その葉は枯れません。その人は、何をしても栄えます。神様はその人を祝福の源としてくださいます。ですから、自分だけが祝福されるのではなく、自分の家族も祝福され、周りの多くの人々が祝福されます。

しかし、私達が主の御言葉に聞き従わなければ肉の欲に従うようになります。その人にはのろいが臨まれます。その人は、何をしても呪われます。その人は呪いの源となります。その人を通して彼の家族も子孫も呪われるようになります。モーセは祝福とのろいの御言葉を告げてから申命記30:19で民に決断を促しました。「私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。あなたもあなたの子孫も生き、あなたの神、主を愛し、御声に聞き従い、主にすがるためだ。」私達はいのちと死、祝福とのろい、どちらかを選ばなければなりません。私の選択は自分だけではなく、自分の家族や子孫にも大きな影響を及ぼすようになります。私達が祝福の道、いのちの道を選ぶことによって祝福の源となることができるように祈ります。

以上から私達は敗北を勝利に変える秘訣について学びました。敗北を勝利に変える秘訣は第一に、毎日新しく主の御言葉に導かれることです。第二に、敗北を通して教訓を得ることです。そして、その教訓に基づいてもっと大きなことにチャレンジすることです。第三に、神様がくださる祈り題目を持って最後まで祈ることです。第四に、勝利の日に感謝の祭壇を築き、聖書を学ぶことに励むことです。私達ひとりひとりが勝利の人生を送ることができるように祈ります。