2002年エペソ人への手紙第2講

その大きな愛のゆえに

御言葉:エペソ人への手紙2:1-10
鍵 句:エペソ人への手紙2:4,5 「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。・・」

 エペソ人への手紙1章を通して神様が私たちにキリストにあって天にあるすべての霊的な祝福を下さったことを学びました。2章ではイエス・キリストによる大きな救いについて証ししています。

1. その大きな愛のゆえに(2:1-5)
 1節をご覧下さい。「あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、」とあります。パウロは明らかに「死」ということばを通常とは異なった意味で使っています。ではエペソ人が死んでいたとはどういう意味でしょうか。生と死の聖書的な意味について考えてみましょう。もともと生命とはエデンの園におけるそれでした。神様はアダムを創造された後、アダムの住むべき園を造ってくださいました。そして、神様ご自身がアダムと共にそこに住まわれました。アダムには仕事が与えられ(2:15-17)、それを助けてくれる助け手として妻エバが創造されました。そして、エバの創造があってはじめて、すべてはまことに良かったのです。アダムは神様と正しい関係、エバとの正しい関係、彼の周りの被造物との正しい関係、そして自分自身との正しい関係を持っていました。園における神様との交わり、妻との完全な愛の関係、すべての被造物の間の平和、そして心の中の平安はアダムが創造された時点で彼が置かれた幸せな状態です。これが、人間が生きているという意味です。当然のことながら、アダムが罪を犯さなかったなら、病気や老いから来る痛みなどは経験することはなかったのです。風邪を引くこともなく、腰痛、肩こり、鼻炎などのために苦しむことはなかったのです。
しかし、アダムは罪を犯してしまいました。神様はアダムに「それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ」(創世記2:17)と警告して言われましたが、アダムは罪を犯したその日から肉体的に死に始めました。彼のからだは病に感染し、老いの痛みを感じ得るものとなりました。彼の仕事は元々祝福として与えられたものでしたが、この時から呪いとなりました。働くことは依然祝福ではありますが、痛みと困難の混ざった祝福となりました。女の出産も同様です。堕落以前には出産に何の痛みも危険も伴いませんでした。しかし、堕落後、最大の祝福として女に与えられたものが、苦しく危険を伴う祝福と変わったのです。さらにアダムは、罪によってエバとの関係が壊されました。神様がアダムに彼の罪について訊ねた時、彼は神様と妻に対する憎しみを露わにしました。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです」(3:12)と言っています。人間同士の関係が堕落によって破壊されてしまったのです。人類最初の息子カインは、弟アベルを殺し、殺人者となりました。神様は、人間を「神を愛し、互いに愛し合う者」として創造されましたが、罪によってその両方も破壊されてしまいました。
パウロは私たちのこのような悲惨な現実に対して「自分の罪過と罪との中に死んだ」と表現しています。そのころ、すなわちまだ救われていないその頃の生活はどうですか。2,3節をご覧下さい。「そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。」とあります。この御言葉は私たちが三つに従って生きていたことを教えてくれます。第一にこの世の流れて従っていました。原文は「このコスモスのアイオーン」ですが、「アイオーン」はアレキサンドリアなどでは神として祭られており、ここは人格化された「この世のアイオーン神」と解釈することができます(実用聖書注解)。すなわち、神様を汚す偶像崇拝をしていたことです。当時、異邦人の場合は、多神教の偶像礼拝によって悪魔的な神々に直接礼拝を捧げていました。その世の流れて従っていたのです。日本には、死んだ先祖たちの霊魂やその地方で怖れられている他の霊を慰める数多くの儀式があります。日本の祭りは、普通、悪い霊を追い払うことと関わりがあります。新年に神社を訪れたり、他の儀式的なことを行なうのも、霊による害から守られることを目的としています。大工は家を建てる前に霊を慰めるし、政治家は神社仏閣を訪れ、地域の神々にその地方の守護と幸福を祈ります。こういう世の流れに従っていることなのです。第二に空中の権威を持つ支配者に従っていました。つまりサタンに支配されていたのです。サタン世の初めからアダムをだまして死ぬようにした殺人者であり、偽りの者です。サタンは不従順の子らがますます神様に敵対し、悪を行うように働きかけています。今日、悪魔たちはマスコミと大衆娯楽を通して物質万能主義と快楽主義を植え付けています。第三に肉の欲に従っていました。ヨハネの手紙第一2章16節を見ると「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢など」があります。心と体によって犯す情欲の罪、高ぶりなどを罪とも思わず、それに従って生きていました。高ぶって人々を無視し、虚しい世の栄光を求めてはかない罪を楽しんでいたのです。
私たちは、これらの三つ、すなわち、世の流れ、サタンの働き、肉の欲に従うことによって生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。私たちは生まれながらやがて神様の恐ろしい火のさばきを受けることになっている哀れな存在だったのです。
私たちは聖書を知る前は、人と比べて自分はそんなに悪くないと思っていたかも知れません。人に迷惑をかけることなく、まじめに生きてきたつもりだと思っていたでしょう。しかし、ローマ人への手紙3:10節を見ると「「義人はいない。ひとりもいない。」と宣言しています。また、ガラテヤ5:19-21節は、かつて私たちがどんな存在だったのかをもっと具体的に教えてくれます。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。その上、私たちは外見上罪を犯さなかったということで自分が罪人であることさえ知らずに自己義を主張していたパリサイ人たちような偽善者たちでした。私たちはみなが生まれながら御怒りを受けるべき不従順の子であり、自分が犯した数々の罪のために御怒りを受けるべきだったのです。ところが、こんな私たちに神様の大きな愛と恵みが臨まれました。
4,5節の御言葉をごいっしょに読んでみましょう。「しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、・・あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。・・」神様は私たちを愛してくださいました。あわれみ豊かな神様は私たちに大きな愛を施してくださり、罪過と罪の中で死に、御怒りを受けるべきだった私たちを救い、イエス・キリストとともに生かしてくださいました。罪のために死に、葬られていた私たちがキリストとともに生かされたのです。これは本当に驚くべき恵みです。私たちは風邪を引いていた体が少しでも良くなると喜びます。しばらく病気のために横になっていた体が癒されて元気になると、それだけでも、その感激は大きいものです。ましては完全に死んだ者が生かされたということはなんと驚くべき知らせでしょうか。キリストとともに生かされたのです。自分いのちは全宇宙と取り替えることはできないものです。それほどいのちは大切であるからです。ところが、神様は私たちにこのいのちを与えてくださったのです。死んだ者が生かされたのです。
このひとつの事実だけでも私たちは一生の間、感謝し、新しいいのちを得た感激の中で生きることができます。使徒パウロはコリント第二の5章17節で新しいいのちを得た喜びに感激して叫びました。「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。」罪と咎につづられていた私たちの古いものは過ぎ去りました。代わりにキリストのうちに変えられて全く新しく造られた被造物になったのです。
 使徒パウロは罪のために死んだ私たちが再び生かされたのは憐れみ深い神様の大きな愛のゆえであると言っています。子どもに対する父親の愛を考えてみると、私たち人間に向けられた神様の愛を部分的でも知り、理解するようになります。子どもが風邪を引いただけでも親は眠れない夜を過ごします。ましては病気の死に掛かっている子どもの姿を見る親の痛みはどんなに大きいものでしょうか。自分のいのちを捨ててでも子どもを救おうとします。そうです。これよりもっと大きい愛がまさに私たちに向けられた神様の愛です。神様は子どもである私たちが罪過と罪のために苦しみ、死んでいく姿を見て言い尽くせない痛みを覚えられました。あわれみ豊かな神様は罪とサタンの奴隷になって苦しみ、最後は御怒りを受けるべき状態の惨めな私たちをそのままに放置しておくことができませんでした。その大きなあわれみと愛のゆえに、ご自分のひとり子イエス様をこの地に人として遣わしてくださいました。そして、イエス様は私たちを救うために贖いの代価として十字架に付けられて死なれました。イザや54:4,5節は言います。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」とあります。創造主神様が被造物である私たちを救うために私たちの鞭に打たれ、剣に刺し通されました。私たちに平安をもたらし、私たちの病を癒すために懲らしめられ、打ち傷を受け、死なれたのです。その大きな愛のゆえに私たちは救われました。その大きなあわれみ、愛と恵みを思うと、本当に驚くばかりです。私たちを死とさばきから救って復活の新しいいのちを与えられた神様の大きな愛と恵みを心から賛美します。

?.良い行ないのために造られた者(2:6-10)
6,7節をご覧ください。「キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。」とあります。
 神様はその大きな愛のゆえに、私たちをキリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわる栄光をくださいました。ヨハネの黙示録22:1,2節を見ると、私たちがキリストにおいてともにいる所は水晶のように光るいのちの水の川が都の大通りの中央を流れています。そこは美しさの窮みであるだけでなく、そこにいのちがあり、いやしがあり、光があります。絶えず新鮮な豊かな恵みが流れているところです。そこにはもはや苦しみも悲しみもありません。先々週、私たちは真鶴の別荘に行って来ましたが、久しぶりに自然に触れ、神の家族の愛に触れただけでも大喜びでした。神の国に行ったら、どんなに喜ぶことでしょうか。そこはあがなわれた世であるから、インマヌエル、すなわち神様と人とともに住まわれます。そこは悲しみ、苦しみ、死など罪の結果である呪いはもはやなく、喜びと満足を与えるいのちの水を自由に飲むことができる新しい地なのです。神様はどうして私たちにこんなに大きなプレゼントをくださいましたか。
まず、豊かな救いの恵みがイエス・キリストにおいて与えられていることを明らかにするためでした。イエス様は十字架につけられて死なれるまでに神様に従順でありました。ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされましたが、ひとりの人イエス様の従順によって多くの人が義人とされました(ローマ5:19)。私たちはただイエス様を信じればいいです。神様はイエス様を信じる私たちにイエス様にくださる同一の恵みと栄光をともに享受するようにしてくださるからです。それだけではなく、やがて生まれてくる私たちの子孫たちにも豊かな救いの恵みを与えてくださいます。私たちがこの時間、私たちだけでなく、全人類が悔い改めてイエス様において与えられるこの豊かな救いの恵みを受けるように祈りましょう。
8節をご覧ください。「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。」恵みとは私たちの労苦なしにただで救いの賜物を受けることを意味します。過去、罪過と罪の中で死に、不法と不正を行っていた私たちが救われるようになったのはイエス・キリストを信じる信仰によるものです(ローマ6:19)。私たちの救いは私たちが善を行ない、その代価として与えられたものではありません。ですから私たちは自分の救いを誇ることができません。では私たちの信仰の内容は何でしょうか。それはイエス様が私たちのメシヤであることを信じることです。
 この信仰によって私たちはどうなりましたか。10節をご一緒に読んで見ましょう。「私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。」ここで、「キリスト・イエスにあって造られたのです。」というのは私たちが新しい被造物として再創造されたという意味です。神様の救いは再創造のみわざです。変形ではなく、再創造です。最近、整形手術をした人が増えているそうですが、鼻が高くなり、顔がきれいになっても人柄は変わらないでしょう。外見上の姿は変わっても、本性と本質は同じく古い人なのです。しかし、キリストにあって造られた私たちは整形手術をした者ではなく、新しく造られた新しい被造物です。イエス・キリストを受け入れた人の体は、変わりません。以前の肉体のままです。しかし、私たちの古い人はキリストともに死にました。今、私が生きているのはキリストの復活とともに新しく創造された新しい人であるのです。私たちは神様が再創造された神様の作品です。神様が造られた傑作なのです。私たちはこの事実を自覚して生きるべきです。これをはっきりと認識し、認めることは大切です。ローマ6:11節を言います。「このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。」
キリストのうちに再創造して新しい被造物にされた目的は何ですか。キリストにあって良い行ないをするためです。良い行ないとは、 その動機、内容、目的が聖書に従うものである行ないです。言い換えれば、行ないが良いものとなるには、それが神と隣人を愛する愛によって動機づけられており、聖書の義について教えに一致し、神のご栄光が現され、御国が広められるためになされなければなりません。私たちは自分の生活をこの三点に基づいて省みなければなりません。何をしてもまず第一に神様を愛し、隣人を愛する動機から初め、聖書の御言葉に基づいて神様の栄光を現わすためにしなければならないのです。さらに御国が広められるためにキリストを証しする生活を通して福音をこの世に伝えることです。
私たちが職場で能力のある人になることも良いですが、良い行いをすることはもっと大切です。学生生活においても、家庭生活におえても私たちは良い行いのために造られた神様の作品です。では私たちは作品本来の目的を目指して歩み、作者である神様の意図に従って神様の栄光を現わしているでしょうか。

 結論的に私たちは創造の初めから神様とともに歩むように造られましたが、罪過のために神様から離れてひとり歩きを始めてしまいました。それは神様の御前で悪い行いであり、それ以来人間はみな悪い行いに歩んできました。しかし、神様はその大きな愛のゆえに罪過と罪のために死んでいた私たちを生かし、神様の子どもとしてくださいました。イエス・キリストにおいて私たちを再創造してくださいました。神様と共に歩み、良い行いができる美しい人生を生きるようにしてくださいました。私たちがこの神様の大いなる愛を覚えて感謝し、ますます良い行いのために励むことができるように祈ります。