2002年エペソ人への手紙第5講

御霊の一致を熱心に保ちなさい

御言葉:エペソ人への手紙4:1-32                  
鍵 句:エペソ人への手紙4:3

 私たちは1章から3章までの御言葉を通してキリストにある新しい共同体が受ける霊的祝福について学びました。パウロは神様を知るための知恵と啓示の御霊が私たちに与えられるように祈り、キリストにある霊的祝福がいかにすぐれているかを教えていました。4章からの後半では霊的祝福を受けた私たちがこの世において、どのように生きればよいかを具体的に教えています。すなわち、キリストによって救われ、召された聖徒たちのあるべき姿、実践すべきことが勧められているのです。
今日学ぶ、4章では新しい共同体の一致が確認され、キリストへと成長するためにどうするべきかが勧められています。

?。御霊にあって一つになる(1-16)
 1-3節をご覧ください。「さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。」とあります。
 「召されたあなたがたは」と言っていますが、これは、言い換えれば「救われたあなたがた」ということです。私たちは神様のご計画によって救いに選ばれていました。それをキリストにあって神様が実行してくださいました。この実行を「召し」と言います。この「召し」がいかに優れているかをパウロは1章から3章までにおいて説明しました。召されている者は私たちの願うところ、思うところを超えて施してくださる神様の祝福を受けています。ですから、「その召しにふさわしく歩みなさい」と勧めているのです。そして、その召しにふさわしく歩むことの第一歩が「御霊の一致」を保つことです。「一致」というと、私たちはしばしば、組織の一致や教義の一致を思い出します。しかし、パウロは、「御霊」の一致を保ちなさい、と言っています。また、ここに、「謙遜と柔和」「寛容」「愛」「平和」という言葉が並んでいます。これはみな、ガラテヤ書5章でパウロが列挙した、「聖霊の実」です。私たちひとりひとりが聖霊の実を結ばせることによって、一致を保つことができることを教えてくれます。ですから、組織的・教義的な一致よりも、態度における一致、心の一致が本質的な事柄であります。召しにふさわしい歩みは外面的なことより、内面的なことであって態度と心において御霊の一致を熱心に保つことなのです。そのためにはどうするべきでしょうか。
私たちが御霊の一致を保つための第一歩は、「謙遜」です。人々は自分と異なる考えの人がいれば、その人を批判し、見下すことによって、その人を排除したいという思いに駆られます。けれども、自分が何者であるかを思い起こす必要があります。「自分の行ないをよく調べなさい。そうすれば、誇れると思ったことも、ただ自分だけの誇りで、ほかの人に対して誇れることはできないでしょう。(ガラテヤ6:4)」とガラテヤ書には書いてあります。謙遜が第一歩です。そして、「柔和」を身に着けなければいけません。柔和とは、心の優しさです。キリストは「心優しく」あられました(マタ11:29)。そして、「寛容を尽くし、愛をもって互いに忍び合い」という言葉があります。〈寛容〉とは直訳すると「長い怒り」、すなわち「怒るのに遅い」ということです。〈忍〉ぶとは「棚上げにする」で,「がまんする」(マタ17:17という意味です。一言で言えば、「言いたいことを、がまんする」ということです。がまんすることは愛によって赦すところから始まります。愛さなければがまんすることはできません。母親は子どもの過ちに対してよくがまんしますが、それは愛によって心の中で赦しているからでしょう。幸せな夫婦と不幸な夫婦の違いは互いに対してがまんできるか、できないかにかかっています。愛によってよくがまんする夫婦は幸福な夫婦です。羊と牧者の関係においても愛によってよくがまんすると、美しい実を結ぶことができます。
謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合う結果として、「平和のきずな」が、私たちの間で結ばれます。
では、なぜ私たちは御霊の一致を熱心に保たなければならないのでしょうか。4-6節をご覧ください。「からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。」とあります。私たちが一つにならなければいけない根拠がまさにここにあります。ここで7回繰り返される「一つ」と訳されている言葉(ενοτηs)は、英語では unity, oneness であって、いわば「本来的一つ性」を表す単語です。つまり、“人間の力によって一致するように努力せよ”という意味ではありません。“騒ぐな!あなた方はすでに一つにされている、そのことを大切にせよ”という確信が表されている言葉なのです。
統一協会の伝道者たちは《分裂から統一へ!》と叫びます。しかし、聖書は《すでに与えられている統一を大切に!》と言っています。もし私たちクリスチャンが、互いにいがみ合っているのであれば、ノンクリスチャンはどう思うでしょうか。キリストは分割されている方なのか、というイメージを持つでしょう。神様がばらばらになっているという印象を持たせてしまうのです。しかし、三位一体の神様を神としてこの世に示すために、多様性を持ちながらも私たちクリスチャンがすでに一つになっているなら、御霊はひとつ、主はひとつ、信仰はひとつであることがわかるようになるでしょう。キリスト教はひとつであることがわかるのです。ですから、私たちが御霊の一致を保つことを大切にする必要があるのです。
ではどのようにすれば一致を保つことができるのでしょうか。組織的に一つにしようとしても、みな同じ色の制服を着ても、それは御霊の一致ではありません。一致の鍵は、キリストにあって成熟することです。本当に霊的に成熟している人たちは一致しています。パウロは、7節から16節において、一致をもたらすところのキリスト者の成熟と、キリストのからだの建て上げについて話しています。
7節をご覧ください。「しかし、私たちはひとりひとり、キリストの賜物の量りに従って恵みを与えられました。」とあります。私たちひとりひとりに賜物が与えられています。賜物というのは、私たちの能力ではありません。例えば、ギターを弾けるから、礼拝での賛美を導くことができるのではありません。あくまでも、私たちが信仰によって、神様の恵みによって生きているときに、知らず知らずのうちに自然に神様が備えてくださっている力であります。
8-10節をご覧ください。「 そこで、こう言われています。「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」・・この「上られた。」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです。・・」とあります。ここでパウロが話しているのは、イエス・キリストの昇天です。使徒信条にもありますね、「キリストは、陰府にくだり、三日目に死人の内よりよみがえり、天にのぼり」とありますが、このことを話しています。イエス様は飼い葉おけに生まれましたが、十字架につけられ、葬られてから、地の低い所、つまりハデスにまで下られました。それから、よみがえり、弟子たちに現われ、天にのぼられました。イエスさまが天にのぼられてから、賜物を分け与えてくださったのです。こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになりました(11)。ではこのような者たちをキリストがお立てになっている理由は何ですか。
12、13節をご一緒に読んで見ましょう。 「それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。」
使徒や預言者、伝道者、そして牧師・教師が与えられているのは、「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせる」ためです。教会で奉仕をするのは、牧師や教師ではなく、ひとりひとりの信者なのです。私たちはよく「献身者」と「平信徒」と分けて言いますが、そのような区別は非聖書的であります。すべての人が献身者なのです。ひとりひとりが、奉仕者として召されているのです。そして、牧師や教師の役目はどのようにキリストに自分自身をささげればよいのか、どのように奉仕すればいいのか、その道を示し、その道を歩むのを助けてあげ、聖徒たちを整えることです。そして、このように奉仕の働きをし、キリストのからだが建て上げられると、「ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達する」とパウロは言っています。信仰の一致は、むりやり自分たちの考えを合わせることによっては与えられません。私たちが奉仕者として整えられ、成熟して、キリストの似姿に変えられていく中で、もたらされるものなのです。
14、15節をご覧ください。「それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。」とあります。
神様の真理である御言葉を聞くことによって、私たちは、かしらなるキリストに達することができます。パウロは、成熟していない状態のことを、「子ども」のようであると言っています。「教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれてりしている」とも表現しています。
 この世にはさまざまな教えがあって、時代時代にはやりというものがあって人々を惑わします。信仰が幼い子どものようである時は、そういうものに吹き回されたり、もてあそばれたりします。キリスト教会にも、必ずと言ってよいほど、「教えの風」が吹いています。「流行り」と言っても良いでしょうか、人々を寄せ集めるために、何か新しい事を行なって集めようとします。新しいミニストリー、新しいムーブメント、新しい教会成長理論などなど、新しいものを導入することによって、人々の注目を集めて、それで「教会をやっていこう」とします。しかし、それは風のように、また波のように過ぎ去ってしまうのです。
 私たちに必要なのは、新しいことではありません。初めからあるものです。すなわち、みことばの学びと祈り、賛美です。互いへの愛と交わり、そしてパンを裂くことです。私たちが、このような地味な作業の中に宝を見出すのであれば、その人の霊的成長は、他の教えの風に吹きまわされることなく着実なものとなります。毎日日ごとの糧を食べ、?:?聖書勉強をすることは何か堅く感じるかも知れませんが、御言葉の中から宝を見出すのであれば、その人は着実に霊的に成長して行くのです。そうして私たちはかしらなるキリストに達することができます。私たちの成長目標はイエス・キリストです。ある人々は教会生活をしながら傷つけられて信仰生活をあきらめますが、それはキリストを見ないで人々を見ているからです。もちろん、人を通しても学ぶことができますが、目標はキリストでなければなりません。私たちがキリストに達するまで成長する目標をつかんで生きる時こそ、私の生活がキリストの似姿に変えられていきます。私たちがイエス様に見習うとき、私たちはLittle Jesusになります。そして、私のキャンパスの兄弟姉妹たちも、家族も、キリストに見習うようになります。
16節をご覧ください。「キリストによって、からだ全体は、一つ一つの部分がその力量にふさわしく働く力により、また、備えられたあらゆる結び目によって、しっかりと組み合わされ、結び合わされ、成長して、愛のうちに建てられるのです。」とあります。
パウロはここで、キリストのからだを、一つの建物としています。建物は鉄骨、セメント、木材などの各部分によって成り立っています。ばらばらになっている各部分を、組み合わせます。それぞれが結び合わされ、組み合わされることによって、初めて建物として機能するのです。パウロは、これが私たちキリスト者の姿だ、と言っています。
 私たちは、教会において、だれ一人、傍観者(ぼうかんしゃ)でいることはできないのです。自分自身もキリストのからだという神の建物の一部なのです。自分自身が神様から任されている部分を行なっていくことによって、初めて建て上げられていくのです。「愛のうちに建てられる」と言っていますから、すべてが愛の雰囲気に包まれて、互いに励まし、祈り、気にかけてあげるような雰囲気の中で、自分の果たすべき分をしっかりと果たすのです。

?.キリストにあって新しい生活(17-32)
 17-32節を私たちの具体的な生活について教えてくれます。
第一に、むなしい心で歩まないで新しい人を着なさい(17-24)
17節をご覧ください。「そこで私は、主にあって言明し、おごそかに勧めます。もはや、異邦人がむなしい心で歩んでいるように歩んではなりません。」あります。むなしい心で歩むと、その人生もむなしくなります。イエス様を信じる前、私たちは、その知性において暗くなり、私たちのうちにある無知と、かたくなな心とのゆえに、神様のいのちから遠く離れていました。道徳的に無感覚となっていました。しかし、今は知性において無知ではありません。今はキリストに聞き、キリストにあって教えられています。過去、私たちはキリストのことを学びませんでしたが今は知っているのです。さらに、キリストのことを教えられています。それは何ですか。22-24節をご覧ください。「その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。」とあります。それは一言で言えば、情欲の古い人を脱ぎ捨て、新しい人を身に着るべきことです。だれでもイエス様を信じると、心の霊において新しくされますが、それは真理に基づく聖なる生活のためです。新し人である私たちは新しい生活、聖なる生活をしなければならないのです。
第二に、憤ったままでいてはいけません(25-28)
26,27節をご覧ください。「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」とあります。この世で生きている私たちはムカついたり、苛立ったり、憤慨して怒っているということがしょっちゅうあるでしょう。怒りというのは表現できるかどうかに関わりなく、根深いものなのです。
 学生達の会話の中にはよく「ムカつく」とか「キレた」とかの表現が聞かれます。私は何でムカつくのか理解できない時がよくあります。しかし、考えてみると私達は老若(ろうにゃく)の別なく、何か事柄が起きたとき、まず感情的反応をしてしまうのではないでしょうか。そうとすれば「ムカつく」、「キレる」はその端的(たんてき)表現なのでしょう。ただし、パウロは「怒るな」とは言っていません。原文ではむしろ「怒れ、そして罪を犯すな」と書かれています。確かに神様御自身は怒ることもするお方でしたし、イエス様の宮潔めも彼の怒りの表現でした。
 しかし、「怒っても罪を犯すな。怒ったまま、日が暮れないように」と勧められています。ある方は結婚した時、約束の内のひとつに、怒りを翌日に持ち越さないことを決めたそうです。そのために「喧嘩をした時にどちらかが祈り始めたなら、他方も一緒に祈ること」にしたと言われました。それは本当に良いことを約束したと思います。その日の怒り、憤りは日が暮れないようにしなければならないのです。
 第三に、人の徳を養うのに役立つことばを話しなさい(29-32)
 29節をご覧ください。「悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。」私たちはだれもいない無人島で一人暮らしをしているのではありません。多くの人々と付き合いながら生きています。この付き合いの中で数多い言葉を口から出しています。ところが、ある人は相手に無視し、傷つける言葉を言います。それで、多くの人々が傷ついて言葉によって眠れない夜を過ごします。反面、ある人は言葉で励まし、徳を立て、力づけることばを言います。言葉は心の表現であると言われています。心のやさしい人の言葉はやさしく聞こえます。私たちクリスチャンはこの言葉遣いに注意しなければなりません。特に言葉によって人を助ける牧者や宣教師たちは一言で大きな傷を与えてしまう時もあります。同時に、たましい生かす場合もあります。こういう点にを考えてみるとメッセージを伝えている私にとっては負担になります。私は勇気を与え、励ますために言ったのに、反対に傷つけられてしまうときもあります。それは私がまだ成熟していないからです。成熟した人は言葉による失敗がありません。私たちが一言一言に注意して徳を立てることができるように祈ります。

結論的に、私たちは、「召されたあなたがたは、その召しにふわさしく歩みなさい。」と命じられています。それは第一に謙遜と柔和によって、一致を保つということもあります。さらに、それから一歩踏み出して、キリストにあって成長するということまで考えなければいけません。それは、御言葉を受け入れること、祈りと賛美を通してできます。自分自身が奉仕の働きを行なう中で可能となります。私たちは、しっかりと組み合わされて、結び合わされていくところの各部分なのです。キリストにあって、すべての人がいて初めて成り立つ教会であります。