2002年エペソ人への手紙 第7講
キリスト者の家庭倫理
御言葉:エペソ人への手紙5:22-6:9
鍵 句:エペソ人への手紙5:33それはそうとして、あなたがたも、おのおの自分の妻を自分と同様に愛しなさい。妻もまた自分の夫を敬いなさい。

 家庭の幸福はその重要性をいくら強調しても言い過ぎではないと思います。家庭は自分と自分の家族の幸福だけでなく、健全な社会を維持するためにも必ず守られなければなりません。家庭が壊れると、子どもも、大人も安息の場を失い、大きな傷を受けてしまいます。その傷のため人格も壊されて社会にも影響を及ぼすようになります。
今日、離婚が急速に増えていますが、その理由の一つは夫と妻が自分の義務をよく知らないからです。特にクリスチャン夫婦の中には離婚は大きな罪であることを知っているから、人と相談もできずに一人で葛藤し、悩んでいる場合もあります。このような葛藤を解決する方法は聖書の教えに従うことの他に道がありません。今日の御言葉を通して夫と妻の義務は何か、両親と子どもの関係はどうであるべきかを学びたいと思います。そうして夫婦の間、親子の間に美しい愛の関係を維持することによって神様に喜ばれる家庭教会を作り上げて行くことができるように祈ります。また、職場で上司と部下の関係においてどんな姿勢を持って働くべきかを学ぶことによって本当に幸せな社会建設に一躍することができるように祈ります。

?。夫婦関係(5:22?33)
本文は夫婦関係について語っています。皆さん、夫婦げんかをしない秘訣は何かを知っていらっしゃるでしょうか。それは結婚しないことだそうです。と言うのは結婚している限り夫婦げんかは避けられないことを教えてくれます。ところが、夫婦げんかは互いに義務を実践しないで権利だけを主張するところから生じています。夫婦が自分の権利、相手の義務だけを主張すると、その家から大声や物が割れる音がして隣人に邪魔します。しかし、夫婦が互いに自分の義務を果たすために励むなら、その家からは美しい歌声が流れ出ます。
パウロは、まず夫に対する妻の義務について語っています。22節をご覧ください。「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。」とあります。この御言葉はすべての女性が男性に従うことを言っているのではありません。男性には女性を支配する権限もなく、女性にも男性に服従する義務がありません。聖書は人格と救いの領域において男女が平等であることを宣言しています(?ペテロ3:7)。しかし、男と女ではなく、夫と妻の関係においては違います。ひとりの女性ではなく、一つの家庭の妻は夫に従わなければならない義務があります。夫にも妻に対して守らなければならない義務があります。特に聖書は夫と妻の関係において互いの権利を強調しないで、必ず守らなければならない義務だけを強調しています。
第一に妻の義務(22‐24、33b)。22節を妻たちから読んでもらいましょうか。「妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。」とあります。妻たちは主に従うように、自分の夫に従うべきです。キリストが教会のかしらであり、教会がキリストに従うように従います。キリストと教会の関係が、夫婦関係の基準になっています。イエス様が、どのようにして私たちを愛しておられるでしょうか。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛は持っていません。(ヨハネ15:13)」とイエス様は言われました。そしてイエス様はご自分のいのちをも惜しまずに与えられました。では教会は、キリストに対してどのように従っているでしょうか。パウロは、「私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。(ピリピ1:21)」と言いました。つまり、こちらもいのちをささげるような服従であります。キリストは、私たちを愛するためにすべての犠牲を払われました。そして私たち教会は、すべてのものにまさってキリストを第一として生きていくのです。
 ここには、このキリストと教会の間には他のものが入り込んでくる隙間はありません。しっかりと結びつけられた関係であって、その関係がすべてを包括しているのです。妻が夫に従うときも、この関係でなければいけないのです。夫と妻の間には何も入り込んでくる隙間があってはならないのです。有名な聖句に、「人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」とあります。妻と夫はしっかりと結び合わされるので、父と母でさえもその関係に関与することはできません。ですから、結婚した女の人は、姑でもなく自分の息子・娘でもなく、夫を中心にして物事を考えていかなければいけません。はたして自分の生活の中心は、夫に従うことになっているか、ということです。
このエペソ書において、夫と妻との関係が一番初めに出てきて、次に親子の関係、そして雇用関係という順番になっています。これにも意味があるでしょう。人間関係において夫と妻の関係が一番大切な関係であることを示唆しているのではないでしょうか。夫には仕事に熱心になりすぎて家庭をおろそかにする危険性がありますが。同じように、妻は子育てに熱心になりすぎて、夫婦関係をおろそかにする危険性があります。ところが、夫より子どもに熱心になりすぎると、それは子供に益をもたらさないばかりか、逆に子供をつぶしてしまうことになります。子供が主にあって成長する最も近道は、いかに夫婦関係を良くしていくかにかかっています。妻が夫に従っていることを通して子どもは神様に従うことを学びます。また夫が妻を愛していることを示すことによって子どもは人を愛することを学びます。
このような夫婦のあり方こそが、子供を育てている一番素晴らしい教育方法です。家庭では子供中心ではなく、夫婦中心でなければいけないのです。夫婦の関係があって初めて親子関係が確立します。ところが、素晴らしい夫婦の関係は夫に対する妻の服従から始まるのです。「服従」これは幸せな家庭作りの近道です。
韓国の詩人(韓龍雲)が書いた「服従」という詩があります。「人々は自由を愛すると言っている。しかし、私は服従を愛し、好んでいる。自由を知らないわけではありませんが、あなたには服従だけでいいのです。服従したくて服従することは美しい自由より甘いものです。それは私の幸せです。しかし、あなたが私に他の人に服従しなさいというなら、それだけは服従できません。他人に服従するためにはあなたに服従できないからです。」
第二に夫の義務(25?33)。25節をご覧ください。「夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。」とあります。夫は妻に自分自身をささげることによって、妻を愛していきます。私たち男がイエス様に従うときに、もし、イエス様がご自身をおささげにならずに、「わたしの言うことに聞き従いなさい。」と命令されたらどうでしょうか。命令だけだったら、献身と殉教によって立てられた2000年のキリスト教の歴史はなかったはずです。イエス様は専制君主、独裁者としてのイメージしか残らなかったでしょう。しかし、私たちはイエス様がご自身をおささげてくださったことを知っているからこそ、その愛の保障があって、イエス様にお従いすることができるのです。妻も同じです。夫から愛されているという安心感があって初めて、妻は夫について来てくることができるのです。ですから、夫はキリストが教会を愛してくださりご自分をおささげになったその犠牲的な愛によって妻を愛するべきです。妻に対する夫の義務はこのような犠牲的な愛によって愛することなのです。
では夫が妻をこのように愛さなければならない理由は何ですか。一つ目は夫の愛だけが妻を美しくし、輝かせることができるからです。26、27節をご覧ください。「キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。」とあります。ここでは、キリストと教会との関係を、花嫁が整えられて、花婿の前に現われる結婚式のことになぞらえられています。花嫁が、顔の化粧から、結婚衣裳まで、何一つ汚れや、しわになっているところや、しみになっているところがないように、すべて整えられます。花婿の前に立つときには、すべてが整えられた、栄光の姿として現われます。
 実は、霊的に、キリストがこのことを私たちのためにしてくださっているのです。キリストは、ご自分の血潮によって、私たちがきよめてくださいました。そして、私たちは、日々、御霊によってキリストの似姿へと変えられて、キリストが再び戻って来られるときには、花嫁として栄光の姿で現われます。キリストが教会を愛してくださることによって教会は罪からきよめられて栄光の姿として現われるのです。もし、キリストが教会を愛してくださらなかったら、私たちは罪のまま、汚れたまま、世俗的生活しかできなかったはずです。しかし、キリストの愛によってしみや、しわや、そのようなものの何一つないきよく傷のない者となったのです。このように夫が自分の妻を愛する、その愛によって妻は純潔で栄光の姿で生きられるようにすることなのです。本当に愛されている妻は自分をきよく保ちます。実際に愛されている妻は美しく、幸せに見えますが、愛されていない妻は不幸で醜く見られます。夫に愛されている妻は、たとえ、おばあさんであっても美しく見えますが、夫の愛を受けてない妻は若くてもブツになってしまうのです。
二つ目は妻を愛することは自分自身を愛することになるからです。28節をご覧ください。「そのように、夫も自分の妻を自分のからだのように愛さなければなりません。自分の妻を愛する者は自分を愛しているのです。」とあります。妻と夫は別々の人ではなく、一つのからだです。夫婦は一心同体となるのであって、二心二体ではないのです。多くの人々が妻と夫は別々だと考えるから簡単に別れます。しかし、夫婦は一心同体です。頭と離れている足に問題が生じると、一番大きく苦痛を感じるのは頭です。私はこの間、歯痛のために大変な経験しましたが、ただ一本の歯に問題が生じたのに体全体が痛くなって来ました。足も歯も、同じ体だからです。妻が病気にかかったり、弱くなったりすると、一番損するのは夫です。妻が問題に陥ってしまうと、一番先に被害を受ける人は夫です。ですから、夫たちは妻を自分のからだのように愛さなければなりません。妻を愛することは自分を愛することであり、自分を愛することは妻を愛することです。自分が休みたければ妻も休ませてあげなければなりません。自分がおいしい物を食べたければ、妻もそうであると思って一緒に食べなければなりません。このようにして夫は常に妻を愛すことはキリストが教会を養い育てることと同じです(29)。
夫と妻が一心同体となるこの奥義は偉大です。キリストがからだなる教会のかしらとして一つになる霊的な神秘を持っています。妻が夫に服従し、夫の地位を認めながら生きなければならないということは、教会がキリストに服従しなければならないという原則に根拠しています。また、夫が犠牲的な愛によって妻を愛さなければならないということも、キリストが教会を犠牲的な愛によって愛されたことに根拠しています。ですからこの奥義は偉大です(32)。私たちは各々自分の妻を自分と同様に愛し、妻もまた自分の夫を敬わなければなりません(33)。これこそ神様が造られた美しい夫婦関係であり、幸せな家庭の姿です。

?.親子関係(6:1‐4)
6章1節?3節をご覧ください。子どもが両親に従いなさい、という勧めです。これは、モーセの十戒に基づいた戒めです。「あなたの父と母を敬え。」とあります。これは十戒のうちの、第五番目の戒めで真ん中に来ています。第一から第四までは神様と人との縦の関係であり、第六から第十までは人と人との横の関係であります。この間に挟まれるようにして、この「父母を敬え」という戒めがあるのです。
 これが何を意味しているかと言いますと、両親は子供にとって、神様の代表者であるということです。子供は親をとおして、神様がどのような方であるかを知ります。子供は親に従うことによって、実際には神に従うのです。よく大人たちは、子供について「子供は元気に自由に遊ばせておいたら良い。」というようなことを話します。けれども、それは、子供を最も愛していない方法なのです。子供は、子供のレベルで、何を行なって良いのか、何を行なってはいけないのか、よく分かりません。ですから、子どもに正しい一貫性のあるルールを教えてあげなければなりません。そのルールのもとにいるときに、初めて安心することができ、愛されていると感じることができるのです。私たちが、法治国家の秩序の中で生き、それに従えば安全に暮らすことができるのを知っています。恐ろしいのは無秩序、無政府状態です。しつけをしないのは、小さなレベルで、子供に無秩序状態を提供していることに他ならないのです。ですから、子供にとって、もっとも幸せな生き方は、徹底して親が言うことに服従することなのです。服従することを学ぶときに、初めて大人になって、自己選択ができるような人間に育っていきます。では父たちは子どもたちをどのように育てなければなりませんか。
4節をご覧ください。「父たちよ。あなたがたも、子どもをおこらせてはいけません。かえって、主の教育と訓戒によって育てなさい。」とあります。最近、子どもの教育は母親に任せられているようですが、聖書は父親が主の教育と訓戒によって育てるように勧めています。親、とくに父親は、子どもに主にある教育と訓戒を与えることによって、主に従わなければいけません。
 子供に主の教育と訓戒を与える第一歩は、自分自身を主の教育と訓戒の下に置くことです。自分を愛して、甘やかしているならば、子供に対しても何も言えなくなってしまいます。子供に言えば、それがすぐに自分に跳ね返ってくることを知っているからです。信仰の親の下で信仰の子どもが育ちます。

?.雇用被雇用関係(6:5‐9)
この手紙が書かれた一世紀に奴隷は約六千万人がいたそうです。奴隷たちは労働力として用いられましたが、奴隷がいなければ社会が維持できないほどでした。奴隷は主人の所有財産として売られたり、買われたりしました。主人は自分勝手にむち打ちにすることも、死刑にすることさえもできました。こんな状況の中で、クリスチャンになった奴隷と主人の関係について教えています。
 5節をご覧ください。「奴隷たちよ。あなたがたは、キリストに従うように、恐れおののいて真心から地上の主人に従いなさい。」とあります。ここで「奴隷」というのは、現代では被雇用者のことです。ですから、私たちが会社の上司に対してどのように接していけば良いのかを考えればよいことになります。パウロの勧めは、「キリストに従うように、恐れおののきつつ、真心から命令を聞く。」と言うことです。職場には尊敬できる上司もいますが、尊敬できない、あの上司さえいなければいいのにと思われる上司もいることでしょう。乱暴な上司や自分本位の上司に従うことはなかなか難しいことです。それで、人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方で仕える場合が多くあります。心の中では「あいつを見たくもないけれども・・・。職場だからしようがない。」と思って従っている方も多くいるでしょう。しかし、パウロは「真心から地上の主人に従いなさい」と言っています。「キリストのしもべとして、心から神様のみこころを行ない、人にではなく、主に仕えるように、善意をもって仕えなさい。」と勧めているのです。
 私も職場生活をしていますが、上司のごきげんをとるという誘惑が雇われている人たちにはありますね。上司が見ているところでは、一生懸命働くのですが、見ていなければだらけてしまいます。裏表をつくってしまうのですが、クリスチャンはそうであってはならない、とパウロは言っています。キリストに従うように、従いなさい。真心から、善意をもって仕えなさい、と勧めています。
サラリーマンをしている人でも、教会で奉仕をしている人でも、それぞれの報いを主から受けるようになるからです。教会についての事柄に仕えることだけが、主から報いを受ける方法ではないのです。会社でキリストにあって働くことも、主から報いを受けるのです。
 奴隷が陥ってしまう過ちは、うわべだけの仕事であったのに対して、主人が陥ってしまう過ちは、奴隷をおどしてしまうことです。あるいは、酷使してしまうことです。しかし、奴隷が主人に従うように、同じように、主人は奴隷に丁重に接していかなければいけません。その理由は、主の前では、奴隷も主人も同じところに立っており、主は平等に扱われているところにあります。

 結論的に、私たちは無人島でひとり暮らしをしているのではありません。私たちは、夫婦関係、家族関係と雇用関係の中で生きています。私たちはこういう関係において互いに従うことについて学びました。私たちはもともと、自分が主人公になり、主人になりたいと思っています。しかし、主は私たちがくしもべの姿で生きること、仕えるしもべととして生きることを願っておられます。イエス様は言われました。「人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。」私たちがこのイエス様にみならう時、妻は夫に従い、夫は妻を愛することができます。また、感情的ではなく人格的に子どもの教育と訓戒をすることができます。また、職場生活においても真心から従うことによってキリストの香りを放つことができます。