2003年ルカの福音書第13講                        

イエス様の御心

御言葉:ルカ5:12-16

要 節:ルカ5:13「イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。すると、すぐに、そのらい病が消えた。」

先週、私たちはペテロを召されたイエス様を通して大漁の人生を学びました。ペテロは夜通し働いたにもかかわらず、一匹も魚がとれませんでした。ところが、イエス様が『深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。』と言われた時、御言葉に従って二つの船が沈みそうになる程大漁となる経験をしました。この時から、ペテロはイエス・キリストがどういうお方であるのかを深い意味において分かったでしょう。御言葉への従順を通して大漁の人生を経験したのです。

今日はイエス・キリストによって癒された、らい病人を通してイエス・キリストの御心、そして私達が持つべき信仰の姿を学びたいと思います。聖霊が私たちのイエス・キリストの愛の世界、信仰と祈りの世界に導いてくださるように祈ります。

?。全身らい病の人の心(12)

12節を読んでみましょう。「さて、イエスがある町におられたとき、全身らい病の人がいた。イエスを見ると、ひれ伏してお願いした。「主よ。お心一つで、私はきよくしていただけます。」」イエス様はある町におられました。ある町とはどこの町なのかは分かりません。ところが、ある町とはギリシャ語で「πολις(ポリス)」です。それは城壁に囲まれた都市を意味しています。ですから、ある町とは人々が密集している町なのでらい病の人がいてはならない所です。映画ベン・ハーを見たことがある方はよく知っていると思いますが、イエス様の時代、らい病の人は、町の中に入ることはできず、町から遠く離れたほら穴で住んでいました。レビ記13章45,46節によると、らい病の人は汚れているので、ひとりで住み、その住まいは宿営の外でなければなりませんでした。道をある時は、自分の衣服を引き裂き、その髪の毛を乱し、その口ひげをおおって、『汚れている。汚れている。』と叫ばなければなりませんでした。そして、彼が町の中に入ると、人々は彼に石を投げました。ところが、本文のらい病の人は人々の間を通り過ぎてイエス様の御前にひれ伏したのです。これは城壁のない町に入ってくることとは違います。この城壁に囲まれたポリスに入るためには城門を通過し、にぎやかな町の中を歩かなければなりません。そして多くの人々に発覚されたら、石に打たれるしかありません。ですから、いくらお願いが強くてもらい病の人としてはとても入ることが難しい町でした。特に人々に囲まれたイエス様の御前に行くことはますます難しいことでした。ところが、彼は命をかけて町の中に入ってきました。そして今はイエス様の御前にひれ伏してお願いしました。「主よ。お心一つで、私はきよくしていただけます。」どうしてもイエス様に会いたかった彼の粘り強さと素晴らしい勇気が感じられます。本当に素晴らしい信仰ですね。彼が難関を越えてイエス様にひれ伏した時、あのポリスは恐れる町ではなく、信仰の町になりました。ここで、私たちはらい病人の心を学ぶことができます。

第一に”主の主権を認める心”です。「神様が全てのすべて。大いなる方である。」という心でした。彼はらい病の人として、神様にいやな思いを持ち、つぶやくこともできました。何で私にこんな病がかかったのか、何で私の人生はこんなにうまくいかないものなのかと思うこともできたのです。しかし、彼はすべてのすべては神様の主権にあると認めて、神様に解決してもらうと思いました。そして、自分が町の中に入ったら、人々に見られて、汚れた者として辱められるかもしれない、もしくは石に打たれるかも知れないかも知れませんが、それも神様の主権にあると主の主権を認めました。ですから、彼はすべてのすべてを主に委ねてイエス様の御前に行くことができました。

私達はしばしば神様を小さくしてしまいます。神様が小さいのではなく、私たちが神様を小さくしすぎてしまうのです。「こんな小さな問題にまで関わっては下さらないだろう」と勝手に決めてしまいます。しかし、神様は私たちのその小さな問題にも関わって下さる方です。大きな問題でも神様に対処出来ない問題はありません。私たちは”神様の主権”というものをもっと覚え、受けとめていくべきです。私たち一人一人がもっと神様の主権を認め、全てのすべてを神様に委ねて生きることができるように祈ります。
 第二に、『主よ。お心一つで、私はきよくしていただけます』と言った謙遜な心です。この御言葉は新共同訳に「主よ、御心ならば、わたしをきよくすることがおできになります」と訳されてあります。らい病の人は自分がイエス様に対して何の資格もないことを知っていました。彼は自分がきよくしていただけることは全く主の哀れみにかかっているものだと思いました。それで、彼はすべての全てを主に委ね、ひれ伏して「御心ならば・・・」とお願いしました。私たちはしばしば、主にお願いしてもらうことをあまりにも当然なこととして思います。「主よ!ください。早く与えてください。」と言って、コブシで祈り室を叩きながら祈る人もいます。まるで何か預けておいたかのように堂々と要求します。しかし、負債を負っているのは私たちであって、主が私たちのものを預かっておられるのではありません。私たちは何も威張ることのない罪人であり、主は私たちの罪の代価を払うためにご自分の命までささげられた方です。ですから、私たちは主にお願いする時、まず主に感謝し、すべてを御心に委ねる謙遜な心を持たなければなりません。

また、らい病の人には、自分は清められる必要があるものだという謙遜さがありました。彼はただ癒してくださいと言いませんでした。私たちはよく「傷ついたこの心を癒してください。」と歌ったり、祈ったりします。ところが、この言葉をよくよく考えて見ると、自分の過ちや足りなさを認めるより、人々によって傷つけられた心を主が癒してくださいという感じがします。もちろん、私たちは人々から傷つけられ、いじめられることもあるはずですから、その心をイエス様に癒してもらう必要があります。しかし、「私は別に悪い事はしていない。」と思う、こういう態度、心の姿勢の中では神様の恵みを受ける事は難しいでしょう。神様が恵みを与えようとしていても、それは心に蓋をしている様なもので、神様の恵みを無にしてしまっている事なのです。ですから、私たちは、まずイエス・キリストにきよくしていただく謙虚な心の姿勢を持たなければならないと思います。私たちが謙遜にまずきよくしていただこうとすると、主は私たちを哀れんでくださり大きな恵みを施してくださいます。私たちをきよめられ、体も、心も癒してくださいます。では私たちに対するイエス様の御心はどうですか。

?。イエス様の御心(13?16)

13節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。すると、すぐに、そのらい病が消えた。」イエス様は「わたしの心だ。きよくなれ。」と答えておられます。この短いことば、「私の心だ」には、計り知れないイエス様のあわれみ、愛が表わされています。すべての疲れた魂、重荷を負っている魂に対する豊かな慰めと励ましに満ちていることばです。らい病人はどんなに疲れていたことでしょう。またどんなに大きな重荷を負っていたでしょうか。ハンセン病を患っていた詩人香山末子という詩人が書いた「夢の中の子ども」という詩があります。彼女は「病」の辛さより病のため自分の子どもまでも捨ててしまった心の重荷を歌っています。
 「国も 家も/ 大切な人も 子どもたちも/ みんな捨ててきた/ でも背中に追ってくる 子どもの声
 何か? 何かわからん/ たとえ 病気のせいにしろ/ 再び戻ることはない/ こころが
 崩れかかってはまた/ 背中に重い」と詩っています。

イエス様は病の辛さだけではなく、心の重荷にも深い理解を示され、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われたのです。そしてこの慈しみ深い愛の言葉は決して口先だけの言葉ではありませんでした。イエス様は手を伸ばし、彼にさわりながら、「わたしの心だ。きよくなら。」と言われたのです。旧約の教え(律法)では、らい病人に触れた者も、汚れたとされました。恐らくもう何年も健康な人が彼に手を伸ばし、彼に触れる事はなかったでしょう。ところがイエス・キリストは彼に手を伸ばして、ふれられました。律法的には、イエス様は汚れたのです。イエス様は彼の汚れを背負ってくださいました。そしてこの汚れのために自ら十字架に掛かられ、汚れをきよめるためにご自分が血を流すようになります。イエス様はそのためにこの地に来られました。

 そして、今もイエス様は私たちの心、私たち自身もこのらい病人に触れられたように、触れようとしておられます。イエス様は、本当にどんな時でも私たちに近づいてくださいます。それだけではなく、私たちに触れて、私たちと触れ合うことを願っておられます。何よりも私たちがきよくなることを切実に願っておられます。私たちが、私がきよくなる、それがイエス様のお心です。イエス様がらい病人に触れられ、ご自分の御心を宣言すると、すぐに、そのらい病は消えました。

人間の肉体を苦しめるありとあらゆる病の中でも、らい病は最も過酷なものと思われます。らい病をハンセン病と同じく考えられていますが、実はハンセン病よりもっとひどい病気です。ハンセン病の方たちは聖書に記されたらい病と違うのに、同じくみなされていることに不快感を持っているほどです。それで、新改訳聖書聖書刊行会は第三版の訳文訂正の中でらい病を旧約聖書の原語であるヘブル語にもとづいて「ツァラアト」に決定しました。この病は、体のあらゆる部位をたちまち冒してしまいます。それは皮膚をただれさせ、腐れさせ、血液を汚濁し、骨々をぼろぼろにします。それは生きながらの死であり、当時、いかなる薬でも抑えることも、くい止めることもできませんでした。しかし、神様の御子イエス様の御手がひと触れしただけで、癒されました。イエス様に触れられ、イエス様の御言葉を聞くと「すぐに、そのらい病が消えた」のです。

 この素晴らしい出来事の中には、穢れている私たち人間の魂をきよめ、癒してくださるイエス・キリストの御心がよく現れています。神様の御前で、私たち人間は、霊的ならい病人であることを認めざるを得ません。罪は私たち全員がかかっている命取りの病です。それは私たちの体質の中に食い込んでいます。それは私たちの精神機能のすべてを汚染しています。心も、良心も、理性も、意志も、すべてが罪のために、病んでいます。足の裏から頭の天辺に至るまで、私たちに健全なところはなく、傷と、打ち傷と、打たれた生傷しかありません。(イザ1:5?7)。私たちの肉体は健康で活発かも知れませんが、私たちの魂は生まれながらに罪過と罪の中で死んでいるのです。パウロは言いました。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。(ローマ7:24)」そうです。誰も霊的にらい病人になっている私たちを救い出すことはできません。しかし、神様に感謝すべきことに、イエス・キリストにはそれがおできになります。この方は天から来られた《医者》であり、古い物を過ぎ去らせ、すべてをきよく、新しくすることができます。この方にはいのちがあります。この方は、ご自分の血によって私たちをすべての罪の汚れから完全に洗いきよめてくださいます。この方は私たちにいのちを与え、ご自分の御霊によって私たちをよみがえらせてくださいます。この方は私たちの心をきよめ、私たちを健やかにしてくださいます。いかに私たちの心が腐り果てていようと、いかに私たちの過去の人生が邪悪なものであったとしてもそれは問題になりません。このイエス・キリストによって私たちはきよめられ、癒されました。

人々はらい病人を警戒するべき伝染病の人、汚れている人として見ましたが、イエス様は彼をあわれみと愛の対象としてご覧になりました。それで、イエス様は彼に触れられ、彼をきよくしてくださいました。その時、らい病の人は、人々が自分をいかにばかにしてもイエス様は自分を何よりも高価で尊い存在として受け入れてくださることを悟ったでしょう。

 イエス様は霊的ならい病のために病んでいる私たちのために十字架に貼り付けられて死なれました。イエス様は私たちのすべての罪と咎のために、全身らい病の人のように罪のために汚れている私たちの魂を抱き、仕えるために、この世のどの刑罰よりもっともっと過酷な十字架の刑罰を受けられました。鋭いとげに刺され、むちに打たれて御体がずたずたにされました。血だらけの十字架の苦痛を受けられました。私たちはあまりにも汚い自分の罪、何度も失敗してしまう自分の弱さのために絶望し、こんな者が赦されるかと思う時があります。頭の中では主がどんな罪でも赦してくださることを知っていてそれを教えていますが、実際自分は罪のために苦しみ、赦されることを疑っているときがあるのです。しかし、私たちがどんなに深刻な罪人であっても主の御前に出て行くなら、イエス様は私たちを皇太子のように迎え入れてくださいました。そして罪のために傷ついた私たちの魂に触れられます。たとい、私たちの罪が緋のように赤くても、雪のように白くしてくださいます。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようにしてくださいます(イザヤ1:18)。「わたしの心だ。きよくなれ。」と言ってくださいます。「あなたがきよくなること、あなたが赦されること、あなたが癒されること、それがわたしの心なんだ。あなたが元気になること、わたしの力によってあなたが強くなることこそ、私の心なんだ。」とおっしゃってくださいます。まさにこれが私たちに向けられたイエス様の愛の心です。このイエス・キリストの御心には、私たちのための希望があります。私たちがどんなに汚れていても、ありのまま受け入れ、きよくしてくださるイエス様の限りない慈しみとその愛を心から感謝し、賛美します。そして、私たち一人一人このイエス様の無限な哀れみと愛を受け入れてきよめられ、癒される恵みをいただけるように祈ります。それだけではなく、罪のために霊的ならい病を病んでいるキャンパスの学生たちにこのイエス様の御心を伝えることができるように祈ります。

14-15節をご覧ください。イエス様は、彼にこう命じられました。「だれにも話してはいけない。ただ祭司のところに行って、自分を見せなさい。そして人々へのあかしのため、モーセが命じたように、あなたのきよめの供え物をしなさい。」と。イエス様は彼をきよくして下さるだけではなく、彼が正常に社会生活を営むことができるように助けてくださいました。彼は祭司のところに行って自分を見せ、きよめの供え物をして神様との関係性を回復し、祭司と社会の人々の関係性も回復するようになりました。病気の時はだれにも近づくことができませんでしたが、今は誰とも触れ合うことができるようになりました。すると、イエス様のうわさは、ますます広まり、多くの人の群れが、話を聞きに、また、病気を直してもらいに集まって来ました。イエス様はますます忙しくなりました。その時、イエス様は何をなさいましたか。

16節をご覧ください。「しかし、イエスご自身は、よく荒野に退いて祈っておられた。」とあります。多くの人の群れが、話を聞きに、また、病気を直してもらいに集まって来た」にもかかわらずイエス様ご自身は、それでも、ひとり静まる祈りの時を設けておられたのです。

ここには私たちのための模範が示されています。これは現代人のクリスチャンに大いに見落とされている模範ではないかと思います。数多い人々が、御言葉を聞き、信仰書を読み、信仰的な話をします。人々を訪問して信仰の証をし、施しを行ないます。ところが、私たちはその忙しい生活のために、密室の祈りをおろそかに、怠けているのではないでしょうか。私自身は支部長になってからもっともっと祈るべきであることを知っていながらも、実際にはなかなかで思い通りにできませんでした。静まって祈りの時間を持つことが前よりもっと難しくなっていたのです。何だか頭の中にメッセージを準備しなければならない、本を読まなければならない、基礎勉強の問題を準備しなければならないというということに縛られてじっくりと祈ることがなかなかできなかったのです。しかし、イエス様は、多くの人の群れが、話を聞きに、また、病気を直しに来たにもかかわらずよく祈っておられました。私はこのイエス様を見習い、先々週から職場でも昼食の時間に静まった時間を持つために地下室に行って祈っていますが、それがよく守られるように祈ります。私たち一人一人が忙しければ忙しいほど神様との交わりを大切にし、イエス様のように祈る姿勢を身につけて行くことができるように祈ります。

 結論的に、神様は私たちの心、私自身にもこのらい病人に触れた様に、触れようとしておられます。私たちが謙虚な心を持ってありのままの姿で主の御前に出て行く時、イエス様は私たちに触れてくださいます。汚れた魂をきよくし、傷ついて心も、体も癒してくださいます。イエス様の御心は私たちがきよくなること、癒されることであるからです。ですから、私たちがただ、ありのままイエス様の御前にひれ伏してお願いするなら、私たちは神様の御力を体験し、天国の喜びを味わうことができるようになります。神様が私たちに謙遜な心、信仰を与えてくださいますように、日々神様の哀れみと癒しの恵みをいただけるように祈ります。