2003年ルカの福音書第19講

岩の上に家を建てる人

御言葉:ルカの福音書6:27?49
要 節:ルカの福音書6:48「その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。」

私は日本に来て一つ学んだことがあります。日本では家を建てる時に土台を作るのにけっこう時間がかかっていることでした。考えてみれば日本は地震が多い国なのでしっかりした土台が必要であることがわかりました。家を建てる時、しっかりした土台の上に家を建てることが大切なことです。地震が起きた時、しっかりとした土台の上に建てられた家はそのまま残りますが、土台が弱い家は崩れてしまいます。私たちの人生においても何を土台にするかは大切なことです。今日は私たちがどのような土台の上に自分の人生を築き上げるべきかについて学びたいと思います。主が御言葉を知るための知恵と御霊を与えてくださるように祈ります。

?.あなたの敵を愛しなさい(27-36)

27,28節をご覧ください。「しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。」イエス様は弟子達に向けて「あなたの敵を愛しなさい。」と言われました。敵を愛することは考えられないことです。敵は憎むべき対象だからです。テレビのドラマを見ても敵に復讐することは当たり前のことです。自分が復讐できなければ子供にも「おれの仇に必ず復讐してくれ」と遺言を残すほどです。このように敵を憎むことは当たり前のように思っています。それなのに、イエス様は「あなたの敵を愛しなさい。」と言われるのです。イエス様は積極的な愛を教えてくださいます。イエス様は敵を愛してくださいました。イエス様はご自分を憎み、妬み、十字架につけて殺す人々のために祈られました。「父よ。彼らをお赦しください。」イエス様は敵であった私たちをも愛してくださいました。そして、イエス様が私達を愛したように、そのように、私達も互いに愛し合うことを命じられました(ヨハネ13:34)。
キリスト者の行ないで大事なことは、悪いことをしないことではなく、積極的によいことをすることです。29,30節をご覧ください。「あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。すべて求める者には与えなさい。奪い取る者からは取り戻してはいけません。」イエス様は善を持って悪に勝つように教えています。31節をご覧ください。「自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさい。」最大のラビおひとりであったヒルレルは、ある男から、片足で立っている間に律法のすべてを教えよと要求されました。それで彼は「自分にとっていやだと思うことを他の人にもするな。それが律法のすべてであり、ほかはすべてその説明だ」と答えました。彼の答えは立派ですが、否定的な答えです。しかし、イエス様は自分にしてもらいたいと望むとおり、人にもそのようにしなさいと教えておられます。私たちは人々から認められることを願っています。ほめられたいと、愛されたいと願っています。イエス様はそれを望むなら、そのとおり、人にもしなさいと教えておられます。私のほうから積極的に人を愛することを教えておられます。このような人に神様からの慰めと愛が臨まれます。
 私たちがこのように積極的に人々を愛しなければならない理由は何ですか。
第一に、イエス様の弟子は普通の人と区別された者だからです。32-34節をご覧ください。「自分を愛する者を愛したからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、自分を愛する者を愛しています。自分に良いことをしてくれる者に良いことをしたからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。罪人たちでさえ、同じことをしています。返してもらうつもりで人に貸してやったからといって、あなたがたに何の良いところがあるでしょう。貸した分を取り返すつもりなら、罪人たちでさえ、罪人たちに貸しています。」「あなたは行ないにおいて、普通の人にどれだけまさっているか。」とイエス様は言っておられます。イエス様の弟子は自分をはかるものさしが普通の人々であってはなりません。自分をはかるものさしは、むしろ、神様でなければなりません。神様の愛は、正しい者にも正しくない者にも同じように包み込む愛です。このようなイエス様の愛を実行するとき、私たちは人々の間で良い影響を及ぼすことができます。
第二に、イエス様の弟子は神様の子どもだからです。35,36節をご一緒に読んでみましょう。「ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。」自分の敵を愛する人には神様からのすばらしい報いがあります。また、神様の子どもになれます。

?.さばいてはいけません(37-42)

37節をご覧ください。「さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。」一般的に人々は他人の長所やよくやったことを話すより他人の短所や悪口を言うのが好きです。私も職場で人々が話すのをよく聞いていると多くの場合、他人の悪口を言います。上司のいないところでは「あの人は何々が悪い」と言います。私もそのように悪口を言う人々と一緒になって「ほんとうだよ。そうですね。」と調子を合わせる時があります。悪口を言っているのに急にその人が入って来ると突然顔色を変えて今まで悪口を言ったその人を笑顔で迎えます。なぜ人々はこのように他人の悪口を言うのが好きでしょうか。それは他人を裁くことによって自分の正しさを主張したいからです。ある面ではストレス解消のためにそのようにするかも知れません。しかし、他人を裁くことは簡単なことですが、裁かれる人にとっては致命的な心の傷を受ける場合があります。ですから、さばいてはいけません。人を罪に定めてはいけません。他人をさばくと自分もさばかれます。さばくことは神様に任せるべきです。
それでは裁く代わりに何をしたらよいでしょうか。
第一に、人の長所は生かし、短所や弱さをになうべきです。使徒パウロはローマ人への手紙15:1,2節で次のように勧めています。「私たち力のある者は、力のない人たちの弱さをになうべきです。自分を喜ばせるべきではありません。私たちはひとりひとり、隣人を喜ばせ、その徳を高め、その人の益となるようにすべきです。」
第二に、積極的に赦すべきです。私たちが他人を赦す時、私たちも赦されます。イエス様は主の祈りの中でそれを教えてくださいました。「私たちが私たちに罪を犯す者を赦すごとく、私たちの罪をも赦してください。」
38節をご覧ください。「与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。」人々は与えるよりもらうことが好きです。先週私は二泊三日間教育者大会に参加して来ましたが、家にもどったらサラちゃんが「パパ。おみあげは」と聞きました。私はおみあげを買って来なかったので「パパがおみあげだ。」言って笑いましたが、サラちゃんはちょっと残念そうな顔でした。このように人々はプレゼントをもらうことを好みます。あいさつを受けることを好みます。また、認められることや愛されること、仕えられることを好みます。なぜ人々はこのようにもらうことを好むでしょうか。それはもらう人が幸いな人だと思うからです。しかし、実際はそうではありません。もらうことばかり考えている人には要求する心が生じます。もらうことを期待したのにもらえなかったらその人に対する不平不満が生じます。人々は祝福してあげることより祝福してもらうことを願います。金持ちはさらに金持ちになることを願うので、けちな人になりやすいです。
与える時に神様は祝福してくださいます。「人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。」神様は豊かな方です。また、祝福することを願っておられる方です。私たちが積極的に与える生活をするとき、神様は溢れるほど祝福してくださいます。?コリント9:8は次のように言っています。「神は、あなたがたを、常にすべてのことに満ちたりて、すべての良いわざにあふれる者とするために、あらゆる恵みをあふれるばかり与えることのできる方です。」与えることは幸せになる秘訣です。それでイエス様も「受けるよりも与えるほうが幸いである。」と言われました(使徒20:35)。また、箴言11:24,25節は与える人の幸せについて次のように言っています。「ばらまいても、なお富む人があり、正当な支払いを惜しんでも、かえって乏しくなる者がある。おおらかな人は肥え、人を潤す者は自分も潤される。」
与える生活ともらう生活はガリラヤ湖と死海にたとえることができます。ガリラヤ湖はヘルモン山から水を受け入れ、死海に流します。ですから、ガリラヤ湖はいつも水がきれいで魚も多く取れます。しかし、死海は水を受け入れるだけで流さないために生き物がない死の海になりました。与える生活をする時、ガリラヤ湖のように心がいつもきれいでいのちに溢れるようになりますが、もらうことばかり望むと死海のように心が腐敗するようになります。
ところが私たちは与える生活をするためには経済的な余裕がなければできないのではないかと思いやすいです。与えようとしても与えるものがないとどうやって与えることができるかと思います。しかし、与えることはお金の問題ではなく心の問題です。価値観の問題です。私たちが信仰によって与えようとすれば与えるものがあります。貧しさの中でも心の豊かな人は与えることができます。PNG修養会が22日から明日まで行なわれます。日本から鄭ダニエル宣教師と張パウロ宣教師が参加しています。二人とも英語が足りませんが、宣教報告と人生所感を準備して何とかしてPNGの学生達に与えようとしています。私たちも祈りによってPNGを支援することができるように祈ります。私達が神様から豊かな恵みと御言葉が与えられ、キャンパスの兄弟姉妹達に豊かに与える者となるように祈ります。
39-42節は人を正しく導くためにはまず主から十分な訓練を受けて自分を省みる生活をしなければならないことを教えています。盲人が盲人を手引きするとどうなりますか。ふたりとも穴に落ち込んでしまいます。41節をご覧ください。「あなたは、兄弟の目にあるちりが見えながら、どうして自分の目にある梁には気がつかないのですか。」人々は兄弟の目にあるちりは見えながら、自分の目にある梁には気がつかない場合があります。そして、兄弟の目にあるちりを取ろうとします。しかし、目は非常に繊細のところですから下手にちりを取ろうとしたら目を傷つけてしまいます。それではどうすれば兄弟の目にあるちりを取り除けることができるでしょうか。42節をご覧ください。「自分の目にある梁が見えずに、どうして兄弟に、『兄弟。あなたの目のちりを取らせてください。』と言えますか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうしてこそ、兄弟の目のちりがはっきり見えて、取りのけることができるのです。」まず自分の目から梁を取りのけることが必要です。すなわち、私たちは他人の弱さや過ちを正そうとする前に神様の御前で自分を省みて悔い改める生活に励まなければなりません。そうしてこそ、兄弟の目のちりがはっきり見えて、取り除けることができるのです。

?.木と実(43?45)

イエス様は43-45節でよい実を結ぶためにはどのようにしなければならないかを教えてくださいます。43,44節をご一緒に読んで見ましょう。「悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もありません。木はどれでも、その実によってわかるものです。いばらからいちじくは取れず、野ばらからぶどうを集めることはできません。」木だけではなく、人も良い実を結ばなければなりません。神様は人の結ぶ実によって裁かれます。良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます(ルカ3:9)。それでは私たちはどうすれば良い実を結ぶことができるでしょうか。良い実を結ぶためには良い木にならなければなりません。なぜなら悪い実を結ぶ良い木はないし、良い実を結ぶ悪い木もないからです。実を見れば木がわかります。木と実は密接な関係があります。
45節をご覧ください。「良い人は、その心の良い倉から良い物を出し、悪い人は、悪い倉から悪い物を出します。なぜなら人の口は、心に満ちているものを話すからです。」イエス様は人の言葉や行ないはその人の心に何が入っているのかによって決まることを教えてくださいます。心の倉に悪い物ばかり入っているのに良い物を出すことはできません。心に神様の恵みに対する感謝と喜びが満ちている人の口からはいつも感謝と喜びの言葉が出ます。しかし、心の倉に淫乱な考えや不平不満、悪い考えが満ちている人からは悪い物が出ます。人はその心の倉に何が満ちているかによってどんな形でもそれが外に現われるのです。ですから、言葉によって、その話す人の心の状態がよくわかります。その人の思いがどこに向かっており、その人の心がどこにあるかがわかります。私と同じ職場の人にゴルフが大好きな人がいます。彼の口から出て来る話はいつもゴルフの話です。彼の心に満ちているのはゴルフのことだからです。私たちは自分の心の倉に何が満ちているのかを考えてみる必要があります。皆さんの心の倉には何が満ちていますか。主の愛と恵み、主の御言葉が満ちていることを祈ります。

?.岩の上に建てた家(46-49)

46-49節をご一緒に読んで見ましょう。「なぜ、わたしを『主よ、主よ。』と呼びながら、わたしの言うことを行なわないのですか。わたしのもとに来て、わたしのことばを聞き、それを行なう人たちがどんな人に似ているか、あなたがたに示しましょう。その人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしませんでした。聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました。」イエス様はここで人生の基礎を正しくきずいておくことがいかに大切であるかを教えています。人生の真の土台はただひとつ、イエス様の教えに従うことです。このような人は、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を据えて、それから家を建てた人に似ています。そのようにするためには時間や努力が必要です。費用も多くかかります。人生の土台もそうです。イエス様の御言葉を自分の土台にして従うためには時間と努力と犠牲が伴います。しかし、このような土台の上に家を建てた人はどうなりますか。イエス様は洪水になり、川の水がその家に押し寄せたときも、しっかり建てられていたから、びくともしないと言われます。私達は生きる間洪水のような困難や誘惑に遭う時があります。そのような困難や誘惑の中でも土台をイエス様の御言葉にし、それを実行する人はびくともせず、それを乗り越えることができます。
しかし、御言葉を聞いても実行しない人は、どうですか。その人は土台なしで地面に家を建てた人に似ています。このような人は主の御言葉より自分の思想や考えや世の価値観の上に家を建てる人です。普段の生活の中では岩の上に家を建てたか、土台なしで地面に家を建てた人がよくわかりません。しかし、洪水のような人生の困難や誘惑が押し寄せると、その結果が明らかに現われます。私は1995年阪神大震災の直後、神戸を訪問したことがあります。その時、土台がしっかりした家は崩れていませんでしたが、そうでない家は家の形もなく崩れていることを見ました。
21世紀を生きている私たちは主の御言葉に聞き従うことが愚かなことのように見えるかも知れません。しかし、人生の洪水が押し寄せた時、主の御言葉を聞いてそれに従う生活をしたことが賢い人生だったことがわかるようになります。私たちが主の御言葉を聞くだけではなく、一言でも実行する生活をすることができるように祈ります。実行する時にはじめてその御言葉が真理であることがわかります。そして、その御言葉は自分のものになります。また、その御言葉は自分の人生の土台となります。その御言葉は洪水のような困難や誘惑が押し寄せてきた時にそれに打ち勝てる大きな力となります。
寺崎アブラハム牧者は夏修養会の一日目の夜、お父さんが危篤状態であるという連絡を受けました。アブラハム牧者はその連絡を受けて次の日の朝早くお父さんが入院している福岡のほうに行こうとしました。ところが、彼は修養会二日目の主題講義のメッセージを担当していました。彼はどうすればいいか分からず悩みました。しかし、今年の彼の要節であるマタイの福音書6:33「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。」という御言葉に基づいて祈りました。そして、いのちの主管者である神様にお父さんを委ねてメッセージを伝えて行くことを決断しました。神様はこのように主の御言葉に従うアブラハムを牧者の信仰を祝福してくださり、意識がなかったお父さんを回復させてくださいました。アブラハム牧者はこの出来事を通して今年の要節であるマタイの福音書6:33節を頭ではなく、体で体験し、自分の人生の土台にすることができました。
私達は聖書勉強を通して聖書を学んでいます。また、礼拝の時にはメッセージを聞いています。ひとりで聖書を読みます。そのように御言葉を聞くことも大切ですが、聞くだけではなく、聞いた御言葉を行なうことはもっと大切なことです。私達が主の御言葉を聞いて行なう賢い人になるように祈ります。そして、一言一言の御言葉が私達の人生の土台となり、どんな洪水が押し寄せてもびくともしないクリスチャンになることができるように祈ります。