2003年ルカの福音書第20講
りっぱな信仰
御言葉:ルカの福音書7:1-10
要 節:ルカの福音書7:7
先週、私は神様の恵みによってPNGの修養会に参加して来ました。皆さんの祈りと愛の支援を心から感謝します。私はそこで信仰ある人たちに出会って非常に感動し、感激しました。治安の悪いPNGでは毎日のように、人が殺され、強姦されるニュースがあるそうです。去年Gospel宣教師は銃を持って来た強盗たちにいのちが脅かされることもありました。実際、私たちが修養会に参加したその日にも何度も銃声が聞こえました。そういう恐ろしい状況の中でも、彼らはただ信仰によって宣教のみわざに励んでいます。Gospel宣教師は武装した強盗に襲われた時、とても怖くなりました。何よりも真昼に強盗に襲われて自分を助けてくれない人たちがいやになって国に帰りたくなりました。しかし、神様から御言葉が与えられたので、御言葉によって再び立ち上がるようになりました。ただ御言葉を信じるようになった時、恐れは消え去り、平安を持つようになりました。さらに、去年まで10チームをやっていた1:1を今年からは20チームにチャレンジし、担えるようになったそうです。日ごとの糧を通して与えられる御言葉に感動し、それに従う生活は本当に素晴らしい信仰です。
今日の御言葉は、百人隊長を通してイエス様が驚かれたりっぱな信仰について教えてくれます。ここで、私たちは百人隊長の愛、謙遜と信仰について学ぶことができます。この時間、百人隊長のりっぱな信仰を通して、私たちも持つべき信仰をいっしょに学び、イエス様から認められる信仰の人として成長することができるように祈ります。
1. 百人隊長の愛(1-5)
1,2節をご覧ください。イエス様は6章での山上の垂訓を話し終えられると、カペナウムにはいられました。ところが、ある百人隊長に重んじられているひとりのしもべが、病気で死にかけていました。当時ローマ帝国の百人隊長は100名の部下を率いる指揮官としてローマ軍隊の骨のような存在でした。1つの軍団には60人の百人隊長がいましたが、彼らによって軍団の規律と力量が左右されるほど大きな役割を担っていました。特にローマは広大な地域を軍隊の力によって支配していたので、駐留地での百人隊長の権限は莫大なものでした。一方、当時「しもべ(奴隷)」は、「物を言う道具」と思われていました。奴隷は使いものにならなければ殺すか捨てるかのどちらかだったのです。人々は奴隷を軽んじていたのです。しかし、本文の百人隊長は違いました。彼はどんな人でしたか。
第一に、ひとりの人を深く愛する愛の人でした。聖書に「ある百人隊長に重んじられているひとりのしもべ」とあります。人々はしもべを軽んじていましたが、彼はしもべを一人の人格者として重んじ、深く愛していました。ものを言う道具としてではなく、愛する兄弟として重んじていたのです。ところが、ある日、百人隊長が仕事から帰ってくると、しもべが倒れていました。一部の体が麻痺されて動けない状態になっていました。マタイの福音書8章6節によると、彼は中風やみで、家に寝ていて、ひどく苦しんでいました。彼を重んじていた百人隊長の心も苦しくなってきたでしょう。彼はしもべのことで心を痛め、心配していたに違いありません。そしてしもべのためにあらゆる手を尽くしたでしょう。しかし何をしても無駄、病は重くなるばかりで、ついには死にかけていました。それでも、百人隊長はあきらめませんでした。彼の愛はしもべが病気で死にかけていた時、もっとよく現われました。
3節をご覧ください。「百人隊長は、イエスのことを聞き、みもとにユダヤ人の長老たちを送って、しもべを助けに来てくださるようお願いした。」とあります。百人隊長はイエス様のことを聞くようになりました。イエス様は汚れているらい病の人も癒し、難病の中風の病も癒されたことを聞いたのです。すると、彼らの心からイエス様に対する信仰が生じました。「おあ。イエス様がおられたんだ。」彼の心はイエス様のことを聞いた時、憂いと悲しみが消え去り、喜びに変わりました。彼は早速ユダヤ人の長老たちの所に行きました。そして、イエス様のみもとに彼らを送って、しもべを助けに来てくださるようにお願いしました。彼は口先や言葉だけ愛するのではなく、愛するしもべのために働き始めたのです。彼は使えなくなった奴隷であっても、彼を重んじて彼を愛し、彼のために行動しました。ここで、素晴らしい神様の愛を感じ取ることができます。ギブアンドテークの人間的な愛ではなく、与えつづける神様の愛です。
神様は私たち人間を愛しておられます。ところが、その愛は私たちが愛らしく、まだ使える人、役に立つ人であるから愛される愛ではありません。もし、人間に愛する価値があるから愛するならそれは真実な愛ではありません。神様は私たちを愛しておられますが、私たちがまだ弱かった時に、罪人であった時、敵になっていたその時に、ご自分の驚くべき愛を現わされました。ローマ5:8節は言います。「しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。」この神様の無条件的な愛のゆえに私たちは永遠の破滅から救われるようになったのです。このような愛によって百人隊長は自分のしもべを重んじ、愛していました。
第二に、百人隊長は愛され、尊敬される人でした。当時、ユダヤ人の長老たちは律法的であり、批判的な人でした。また、異邦人を無視し、軍人を無視する高慢な人として知られています。そのような彼らが百人隊長のために動き出すことが考えられないことでした。しかも、自分たちを支配している軍人の卑しい奴隷のために、わざとイエス様のところに行ってお願いすることは想像もできないことでした。ところが、彼らは百人隊長のためにイエス様のみもとに行ってお願いしました。しかも熱心にお願いしました。
4,5節をご覧ください。「イエスのもとに来たその人たちは、熱心にお願いして言った。「この人は、あなたにそうしていただく資格のある人です。この人は、私たちの国民を愛し、私たちのために会堂を建ててくれた人です。」」とあります。長老たちの言葉から、彼らがいかに百人隊長を愛し、尊敬していたのかが分かります。百人隊長はユダヤ人から愛され、尊敬されていたのです。敵対関係に国の人と愛の関係を結ぶことはとても難しいことです。同じ国民であっても、感情的に悪くなると、互いに愛し合うことは難しいことでしょう。ところが、当時ローマ帝国は軍事力によってユダヤを治め、その最前線に立っている人が百人隊長でした。それにユダヤ人たちはローマ人を異邦人として無視し、憎んでいました。そんな雰囲気の中でローマ軍がユダヤ人から愛されることは不可能なことだったのです。しかし、この百人隊長はユダヤ人から認められ、愛されていました。それは、百人隊長がしもべを深く愛したようにユダヤ人を深く愛したからです。百人隊長は支配国の軍人として権威的に治めませんでした。彼はユダヤ人の立場まで低くなって、彼らを理解し、彼らに謙遜に仕えました。ユダヤ人にとって最も必要なものを把握し、彼らのために会堂を建ててくれました。それは統治手段ではなく、彼らを真に愛したからです。恐らく、最初の頃は、ユダヤ人も彼の愛を疑い、反発したことでしょう。しかし、百人隊長は彼らが反発すればするほど彼らをますます愛しました。常に愛していました。ついに愛が勝ちました。愛は彼らの不信と反発を飲み込みました。ユダヤ人は彼の深い謙遜と犠牲的な愛を見て深い感動を受けました。それゆえ、彼らは心から百人隊長を尊敬し、愛するようになりました。
ここでは、私たちは愛する時、愛され、尊敬されるようになることを学ぶことができます。人々は、愛されることを願います。尊敬されることを願います。一般的に、女性は愛されることを願い、男性は、認められることを願うそうです。その願いが強くて、人々は、周りの人たちが自分を愛してくれない、自分を認めてくれないと、つぶやきます。自分の仕事、自分の業績、自分の経歴を認めてくれないとつぶやくのです。認められるためにわざと目立つ行動をする場合もあります。教会の中でも自分の信仰経歴や奉仕が正しく評価されてないとつぶやく人がいます。しかし、「宣教師生活が何年か、牧者生活が何年か」が問題ではありません。本当に愛され、認められる秘訣は自分の方から深く愛することです。評価されなくてもつねに愛しつづけることです。百人隊長のように自分の方から人のために献身的に仕えることです。すると、自然に愛され、認められ、尊敬されるようになるのです。
百人隊長は敵対関係のユダヤ人の長老たちからも認められるほどの人格者であり、尊敬される人でした。それはひとりの人を重んじ、深く愛するその愛によって形成されたものです。その愛は民族と国境、身分と地位を超越したものでした。イエス様はこのような愛の所有者を尊ばれ、大きく用いられます。私たちが神様の人になるということは、結局、百人隊長のように愛の人になることです。私たちは規則を守ることや、生活の忙しさのために愛をおろそかにしてしまいがちです。自分は愛しているつもりなのに分かってくれない時、愛しつづけることは難しいです。人の心はつねに愛されたいですし、自分が愛した分だけ、愛されたい願いがあるからです。しかし、イエス様は私たちに敵をも愛するように命じておられます。私たちクリスチャンライフの三大要素である信仰と希望、愛の中で一番大切なのは愛です(?コリント13;13)。神様のご品性の中で一番重要なことも愛です。「愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。」(?ヨハネ4:7,8)とあります。愛はクリスチャンが積み上げていくべき最高の品性です(?ペテロ1:6,7)。私たちが身近にいる人を愛していないのに、見えない神様を愛すると言うなら、うそつきになります。?ヨハネ3:14節は言います。「私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。」私たちがどんな状況の中でも人を重んじ、愛し続ける生活ができるように祈ります。
?.百人隊長の謙遜と信仰(6-10)
6,7節をご覧ください。イエス様はユダヤ人の長老たちの願いを聞いて彼らと一緒に百人隊長の家に行きました。そして、イエス様が百人隊長の家からあまり遠くない所に来られたとき、百人隊長は使いを出して、イエス様に言いました。「主よ。わざわざおいでくださいませんように。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。」とあります。彼は死にかけているしもべを一刻も早く助けたくてユダヤ人の長老たちを送ってイエス様が来られるようにしました。しかし、その後、彼はイエス様がどんな方かを発見して驚きました。恐れおののくようになりました。おそらく、彼は自分のこととイエス様のことを深く黙想したでしょう。人間的に見ると、彼は支配国ローマの軍人として権威をもっていますが、イエス様は被支配国の一伝道者に過ぎませんでした。しかし、霊的には違いました。イエス様の御言葉は真理であり、いのちであることが分かりました。何よりも、イエス様が行なわれた働きを考えてみるとイエス様こそ、人間以上の霊的な権威を持っておられることが分かりました。彼が「主よ。」と呼んでいることを見ると、彼はイエス様がこの地に来られた神様として悟ったことが分かります。信仰生活において悟りのある生活は非常に重要なことです。彼はイエス様について悟った時、イエス様を自分の主(Lord)であり、総司令官として受け入れました。すると、イエス様の御前で、自分がどんなにみすぼらしく、卑しい存在であるかを悟るようになりました。彼は「あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ですから、私のほうから伺うことさえ失礼と存じました。」と言っています。
ここで私たちは自分とイエス様について正しく知るようになると、謙遜になることが分かります。謙遜になることは正しい自己認識から始まります。ですから、大切なのは、彼が自分をどのように認識していたかということです。彼は人々、それも町の有力者であった長老たちからさえ尊敬を受け、信頼されていました。彼には自分の手足となる部下も多数いました。それにもかかわらず主の前には、自分が異邦人、神様の選びと祝福から締め出された者にすぎないことを自覚しています。主の恵みにあずかる資格がないことをも認めているのです。この彼の謙遜さは、神様の前での自分を深く知ることから生まれてきたものです。人との関係においては、ひとかどの人物として愛され、尊敬されていた彼です。しかし、神様の前では自分は罪深く、汚れた者にすぎず、神様の恵みを受けることさえ相応しくないと自覚したのです。ここに彼の真実な謙遜さの源があります。真実な謙遜は、神様の前に立つときのみ、そこで自分の姿を正しく発見してそれを認めることによって持ちうるものなのです。自分の破れ、足りなさ、弱さ、罪深さ、それを神様の前で認めることに謙遜になるのです。そして、本当に謙虚な人は神様を信頼し、神様に委ねるようになります。神様の前で自分の弱さ、罪深さを認めることは、辱められたり、絶望の淵に陥ったりすることはありません。確かに人の前で自分の罪や失敗などを認めると、人々から無視され、バカにされることもあるでしょう。だから、人々は建前と本音が違う生活をしています。日本人は建前と本音が違うと言われますが、神様の御前で自己認識がなければ、韓国人でも、アメリカ人でも、PNG人でも同じです。そういう人はクリスチャンになっても霊的な深い世界に入ることができず、傷つけられたり、絶望したりしながら心の中に平安と喜び、感謝がない生活をします。謙遜な人の喜びと感謝を知らないのです。しかし、神様の前で「何の資格もない者、罪深い者である」という真実な自己認識がある人、つまり、謙遜に自分の罪深さを認めて悔い改める人は神様への信仰を生み出していくのです。真の信仰は、自我が全く打ち砕かれるところから始められます。百人隊長は自分にはイエス様を受け入れる資格がないと認めました。自分のほうから伺うことさえ失礼であるほど、みすぼらしい存在であると認めました。すると、彼は主に頼るしかありませんでした。彼は「ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。」と言っています。「ただ、お言葉をください。」とお願いしています。彼は自分への絶望から神様への信仰が始められています。彼は主の前で何の資格もない者であることが分かった時、神様を見上げ、神様に信頼し、神様の御言葉により頼むようになりました。
「ただ、おことばをいただかせてください。」と言っています。何と素晴らしい信仰でしょうか。百人隊長はイエス様の御言葉の力と権威を絶対的に信じました。そして、お言葉にすべてを委ねました。主がわざわざ家にやってきてくださらなくてもよい、「ただ、おことばをください。」と求めるだけです。彼はイエス様のおことばは、時間、空間を越えて働く力あること、病までも従わせることを信じました。イエス様のおことばは時間空間を越えてあらゆるものを従わせる権威と力があることを信じたのです。実に素晴らしい信仰です。彼がどうやってそのような信仰を持つようになったでしょうか。彼は8節でその理由を説明しています。
8節をご覧ください。「と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」」とあります。彼は軍隊生活を通して命令の本質を深く理解しました。すなわち、言葉の力と権威を悟っていたのです。軍隊ではいくら地位の低い人であっても自分の部下に命令すれば、彼らは従います。百人隊長は司令官とか、6000年率いる軍団長でもなく、ただ百人隊長にすぎませんでしたが、それでも部下に命令すれば彼らが従うことを熟知していました。それは彼の背後にローマ帝国という権威があったからです。もし、上官の命令に従わなければ、それはローマ帝国に対する反逆です。ですから軍隊では不服従が一番大きな罪です。戦争の時にはその場で銃殺されます。それほど上官の言葉には権威が大きいものです。百人隊長は軍隊生活を通して言葉の権威を学んだ時、イエス様の御言葉の権威を信じることが出来ました。彼はイエス様が御言葉だけくだされば、時間、空間を越えて病までも服従することを堅く信じました。彼はイエス様を全能の神である主として信じていたからです。ですからイエス様の御言葉さえいただければ、自分のしもべが遠く離れていても、たちどころに直ると信じたのです。その信仰にはイエス様も驚かれるほどでした。
9節をご覧ください。「これを聞いて、イエスは驚かれ、ついて来ていた群衆のほうに向いて言われた。「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。」」とあります。確かにイスラエルの中にはエス様を受け入れ、信じる人たちがいました。イエス様がイザヤの書からご自分のことを教えられた時、彼らはイエス様をほめ、その口から出て来る恵みの言葉に驚きました(4:22)。イエス様が悪霊を追い出された時も人々は御言葉の権威と力に驚きました。イエス様が中風の人やらい病の人を癒された時も、人々はそのしるしを見てイエス様に集まって来ました。彼らは奇跡を体験してイエス様を信じるようになったのです。今日も奇跡を行なわれる集会に参加してイエス様を信じるようになった人々が多くいます。自分の体の病気が癒された経験をとしてイエス様を信じるようになった人たちもいます。それはそれで素晴らしいことでしょう。しかし、イエス様が驚かれるりっぱな信仰は百人隊長のような信仰です。この小さな教会で聖書勉強をしても御言葉の力と権威を信じるその信仰がりっぱな信仰なのです。百人隊長はイエス様のことを聞いただけでイエス様の御言葉の力と権威を信じました。
ヨハネの福音書を見るとベタニヤ村のラザロが死んだ時、ラザロの姉妹マルタとマリヤは、共に「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに」(ヨハネ11:21,32)と言いました。彼女たちはイエス様の力を信じていましたが、その力も遠距離では発揮できないという条件を付けていました。しかし、百人隊長の信仰は、そうした条件付きのものではありませんでした。「ただ、お言葉をいただかせてください。」と言っています。イエス様からただ一言さえいただければ、そのことばには力と権威があるのだから、遠く離れていても自分のしもべが癒されると信じたのです。イエス様の御言葉は病までも支配していると信じたのです。このようなりっぱな信仰にイエス様は驚かれました。そしてその信仰のとおりにしもべは良くなっていました。
実に神様の御言葉には力があります。ただ一言でも、私たちの信仰の土台になります。詩篇33:9 には「まことに、主が仰せられると、そのようになり、主が命じられると、それは堅く立つ。」とあります。また、詩篇107:20には「主はみことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された。」とあります。主の御言葉が私たちを真実に立ち上がらせ、癒し、支え、励まし、強めていくのです。私たちも、この百人隊長のように主のお言葉に対する心からの信頼を持って「ただお言葉をいただかせてください。」と求めていきたいと思います。
結論的に、この時代は百人隊長のように人を重んじ、人格的に愛する愛の所有者が求められています。言葉や口先ではなく真実と行ないによって愛する愛の人が求められているのです。また、自分には何の資格もない者であることを認めてただ主の御言葉だけを求める謙遜な人、信仰の人が求められています。イエス様が生きておられた時代も、今日も多くの人々がしるしを求めますが、イエス様が喜ばれ、驚かれるりっぱな信仰は、やはり御言葉の権威と力を信じて御言葉に委ねる信仰です。私たちが聖書勉強を通して御言葉に対する信仰を強め、イエス様から認められるこの時代の百人隊長になれるように祈ります。