2003年ルカの福音書第21講
泣かなくてもよい
御言葉:ルカの福音書7:11-17
要 節:ルカの福音書7:13 主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい。」と
言われた」

  先週、私たちは百人隊長の愛と信仰を通して御言葉の力と権威を学びました。彼は本当に言葉だけで信じるという素晴らしい信仰を持っていました。私たちもこれにみならう者になりたいと思います。
 今日の御言葉には、お言葉によって人を慰め、人を生かされた出来事が記されてあります。イエス様は、ただ二つの言葉で二人を生き返らせました。母親には「もう泣かなくともよい」と語り、死んだ息子には「起きなさい」と語りかけたのです。この時間、この二つの御言葉を中心にイエス様の深い哀れみと御言葉の力を学ぶことができるように祈ります。何よりも「泣かなくてもよい。」と言われる主の御声を聞くことができるように祈ります。

?。泣かなくてもよい(11-13)

 11節をご覧ください。「それから間もなく、イエスはナインという町に行かれた。弟子たちと大ぜいの人の群れがいっしょに行った。」とあります。百人隊長のしもべを癒されたイエス様はナインという町に行かれました。この町はカペナウムから40km程離れた所にあります。十時間位歩かなければならない距離ですが、弟子たちだけではなく、大ぜいの人の群れがいっしょに行きました。弟子たちがイエス様と一緒にいることは当たり前ですが、ルカは大勢の群れがイエス様といっしょに行ったと記しています。おそらく、大勢の群れとはイエス様を通して神様のみわざを見た人たちでしょう。彼らはイエス様を通して牧者の愛を体験しました。病人を癒され、悪霊が追い出されることを目撃しました。自分自身もイエス様の愛と御力を体験しました。何よりもイエス様といっしょいることの素晴らしさを経験しました。イエス様のうちにある者が経験する神の国の喜びと平安、いのちが味わいました。おそらく、彼らは歩きながら「だれでもキリストのうちにあるならその人は新しくつくられたものふるきはすぎさりすべてがあたらしい・・・。(プレイズアンドワーシップ45)」と歌っていたでしょう。彼らはキリストのうちにあることを喜びのゆえにいのちの行列になってイエスについて行きました。ところが、イエス様たちの向こう側からは悲しみと絶望の行列が町からが出てきていました。町の外にある墓地に向けて進む葬列に出会うようになったのです。
12節をご覧ください。「イエスが町の門に近づかれると、やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されるところであった。町の人たちが大勢その母親につき添っていた。」とあります。この群れはイエス様と一緒に歩む行列とは違いました。彼らは悲しみと絶望の行列でした。喜びといのちの行列ではなく、悲しみと死の行列、葬列でした。その中にはひとり息子を亡くしたばかりのやもめがいました。「やもめ」とは、今も昔も特別に保護されるべき弱い人です。特に律法の厳しいユダヤ社会ではやもめが自由に働くことも出来ませんでした。やもめは、息子や孫、親戚に頼って生きていました。ですから、このやもめにとって一人息子が死んだことは自分が死んだことよりも悲しいことです。あまりにも悲しい出来事であったので町の人たちが大ぜいその母親につき添っていました。だれが見てもひとり息子を喪った母親がかわいそうに見えたのです。
事実、彼女は、すでに主人を亡くしています。そんな彼女にとって、息子は、唯一の生き甲斐でした。将来を期待されていた有能な若者だったに違いありません。少なくとも彼女にとってはそうだったでしょう。この息子は彼女に唯一の生きる希望であり、すべてのすべででした。しかもこの子は一人息子でした。そのひとり子を喪った時の悲しみはどうだったでしょうか。彼女にとって、それは心引き裂かれる出来事であったでしょう。できるものなら、息子と一緒に葬られたいと切実に願ったのではないでしょうか。そんな彼女にはどんな慰めの言葉も、ここでは何の意味も、力も持ちません。彼女自身、慰められることを拒みつつ、この深い悲しみを受け止めていたに違いありません。
 息子の死は彼女の人生も死んだ者と同様なものにしてしまいました。実は彼女自身も、心において死んでしまったということができます。息子が死んだ時、彼女の生き甲斐も、生きる希望も、寄る辺を無くなりました。夫もなく、息子もなく、家族もいない生活で、どうやって生きたら良いでしょうか。彼女は自分の心の励み、心の支えを亡くしてしまったのです。ですから、彼女は、ただ、無意味さをかみしめながら、墓に葬るために棺を運びだしていました。その母親に対するイエス様の御心はどうでしたか。
13節をご一緒に読んでみましょう。「主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい。」と言われた。」とあります。ここで「かわいそうに思い」という言葉の元々の意味は、「はらわたが揺り動かされる」という意味です。これがこの時にイエス様が感じられた思いです。イエス様は彼女の悲しみと絶望にはらわたが揺り動かされる痛みを感じられました。皆さん、人の悲しみにはらわたが動かされるほどに心を痛めたことがあるでしょうか。身内の者であっても、人の悲しみにはらわたが揺り動かされるほどに理解することはなかなか難しいことでしょう。しかし、イエス様は「はらわたが揺り動かす様にして私達を理解して下さるお方」なのです。だれよりも深く哀れみ、理解してくださるのです。私たちは自分の子どもを亡くしたほどの問題にぶつかったとき、どう思うでしょうか。問題が大きければ大きいほどに人は理解してくれないと思うでしょう。実際に一心同体の夫婦であっても理解できないことが数多くあります。私の同労者マリヤ宣教師はたまに頭が痛くて死ぬのかと思ったといいます。しかし、私はその状態がなかなか理解できません。それで、「もっともっと祈ればいいじゃない。病院に行って検査してもらいなさい」とよく言いました。すると、彼女は心も痛くなり、ますます苦しむ時があったそうで、ある晩、あの時は辛かったと言いました。それで、私は心から理解しようと思っていますが、正直になかなか難しいです。
しかし、イエス様はどうなさいますか。私たちが苦しんでいる時、悲しみ、絶望の淵に陥った時に、イエス様の御心はどうなるのでしょうか。「はらわたが揺り動かされる」思いになっておられるのです。その切なる思いで私たちを理解してくださるのです。イエス様はたった一人その母親の悲しみに、心をえぐられるような思いをもって悲しまれました。とても憐れに思われました。イエス様はそれほど私たちを哀れみ、深く理解してくださいます。ヘブル4章15?16節は言います。「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、全ての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」私たちは人を理解することが難しいですが、自分が同じ経験をするなら、もっと理解できるようになります。イエス様は罪を犯されませんでしたが、私たちの弱さを経験されました。全ての試み、全ての悲しみを通られました。「孤独」という事を考えてみましょうか。3年半も手塩に掛けて育てた弟子達が逃げさってしまいました。愛する者に裏切られる時の悲しみは、本当に耐えがたいものです。イエス様が命を掛けて救おうとしている人々は自分を馬鹿にして、唾を吐きかけました。イエス様はありとあらゆる悲しみを通って下さったのです。ですから神様は私達の悲しみ、苦しみ、寂しさを全てご存知です。だれよりもよく知っておられます。そして、イエス様は、はらわたを動かす様にして私達の思いをくみ取って下さいます。
もし、誰も自分の事を理解してくれないと思っている方がいるでしょうか。人に言うことさえ出来ない悲しみを持っているでしょうか。イエス様だけは私たちをそのすべてを理解して下さるという事を覚えましょう。
 イエス様はどんな悲しみの中、苦しみの中にあったとしても、私達が神様に心を開くならば、そこに来てくださいます。はらわたが揺り動かされる程に私達の悲しみを理解して下さいます。他の誰も分からなくても、イエス様だけは分かって下さるのです。それだけでは、ありません。実際に助けてくださいます。ではイエス様はひとり息子を亡くした母親の悲しみをどのように助けてくださいましたか。
もう一度13節をご覧ください。主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい。」と言われました。愛する者を亡くした遺族への言葉ほど難しいものはありません。何を語っても無意味に思われ、虚しく感じます。この間、私は職場の先輩が韓国で弟の亡くして来た時、どう言えばいいのか分かりませんでした。ただ「本当に大変なことがありましたね。」と言いました。すると、彼はすぐに「鄭先生。あなた、神様を信じているでしょう。本当に神様はおられるんですか。私は全く理解できません。」と言いました。私は何も言えなくなりました。自分の無力さを感じるだけでした。ところ、イエス様は、たった一人の息子を喪った母親に「泣かなくてもよい。」と言われました。一般的にお葬式に行って「泣かなくてもよい」ということはできません。ましてはひとり息子を亡くした母親に「泣かなくてもよい」と言えるでしょうか。だれも出来ません。泣かなくてもよいようにすることがが出来ないからです。
「泣かなくてよい」と言えるのはイエス様だけです。イエス様だけが彼女の悲しみを癒し、彼女の問題を解決して上げることができるからです。イエス様は私たちの悲しみを理解し、私たちの悲しみを担ってくださいました。
イザヤ53章3-5節は言います。「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった。まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。」イエス様は私たちの悲しみと心と体の病を知っておられます。私たちの弱さを知っておられます。何よりも私たちの弱さのために、私たちの罪のために十字架につけられて死なれ、葬られました。しかし、イエス様は三日目に死者の中からよみがえられました。使徒ペテロはよみがえられたイエス様に出会ってから言いました。「しかし神は、この方を死の苦しみから解き放って、よみがえらせました。この方が死につながれていることなど、ありえないからです。(使徒2:24)」イエス様はご自分の死を通して私たちの悲しみと罪を担われ、復活によってその悲しみと苦しみから解放させてくださったのです。そして、復活によって神の国に入る扉を開いてくださいました。ですから、イエス様だけが私たちの涙をぬぐいとってくださいます。泣かなくてもよいようにしてくださいます。だれも出来ない私たちの問題を解決してくださいます。では、イエス様はどのようにして彼女の悲しみの問題を解決してくださいましたか。

?。母親に息子を返されたイエス様(14-17)

14節をご一緒に読んでみましょう。「そして近寄って棺に手をかけられると、かついでいた人たちが立ち止まったので、「青年よ。あなたに言う、起きなさい。」と言われた。」とあります。イエス様は青年に向かい『青年よ、あなたに言う、起きなさい。』と言われました。すると、その死人が起き上がって、ものを言い始めました。彼は何と言ったでしょうか。おそらく「ほめたたえよ。イエスの御名を(Praise Jesus!)。イエス様!ありがとうございます。そして、お母さん!もう泣かなくても良いよ。これからもっとりっぱな人になるから。友達に聖書を教えるりっぱな聖書先生になるから。」と言ったでしょう。
イエス様の御言葉は死者を生き返らせました。イエス様から発せられる言葉にはいのちを生かす力がありました。ヨハネ5:25節は言います。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。」そうです。イエス様の御言葉を聞く者は生きるのです。イエス様の御言葉を聞くと葬られる直前の死人も生き返りました。青年が死んでしまうと、自分の家族だけではなく、自分の町にも、自分の国にも影響を及ぼします。体は生きていても、無気力、怠け、絶望、虚しさの淵に陥っているなら、悲しいことです。そういう青年がいる家庭、地域社会、国には希望がありません。この日本に数多い青年たちがいますが、それだけ生きているでしょうか。燃えるビジョンとチャレンジ精神を持って情熱的に生きている人たちはどれくらいいるでしょうか。生きているというより絶望の棺、心配の棺、快楽の棺に寝かされている若者が多いのではないでしょうか。だとすれば私たちはどうでしょうか。本当に生きている青年らしく生きているでしょうか。イエス様は私たちに言われます。「青年よ!起きなさい。」そして、この主の御言葉を聞く者は生きるのです。御言葉が人を生かします。御言葉を聞く者は葬られるために墓地に向かって進む葬列から向きを変えていのちの行列に加えられるようになります。喜びといのちの行列に仲間入りするのです。イエス様は御言葉によって死んだ青年を生かされました。そして、生かされたその青年を母親に返されました。イエス様は母親の最も悲しい問題、最も現実的な問題を解決してくださったのです。夫を亡くしていたやもめにとって、息子以上のものがあるでしょうか。イエス様は彼女に最も尊い存在、なくてならない息子を返してくださったのです。それによってその家庭は元通りに回復されました。ひとりの青年が生かされると、自分の家庭だけではなく、その地域社会も生かされるようになります。国も生かされるようになります。16、17節をご覧ください。人々は神様をあがめるようになりました。さらにイエス様についてこの話がユダヤ全土と回りの地方一帯に広まりましたしかも、それはイエス様の一方的な哀れみによるものでした。
ここで、私たちはイエス様の御言葉によって本当に素晴らしいいのちのみわざが起っていることが分かります。母親は自分の息子の死を止めることができませんでした。親の深い愛情と切実な願いさえ、死を引き止めることが出来ませんでした。その我が子の死を、断ち切って、その母親のもとに返したのは、主の言葉でした。主のみことばは息子の死を生命へと立ち上げられたのです。しかもそれはイエス様の一方的な哀れみによるものでした。彼女に百人隊長のような信仰があったことはどこにも記されてありません。ただ、イエス様の深い憐れみ、彼女の悲しみに対する理解が、この出来事を起こしました。ただ主の哀れみによって「息子をその母親にお返しになった」のです。主を動かしたのは、母親の熱意でも、祈りでも、信仰でもありませんでした。我が子のことで深い悲しみに沈んだ母親の痛みを憐れに思われた主の御心によるものだったのです。
 ですから私たちにも希望があります。私たちは自分のことで、家族のことで悲しみ、嘆く時があります。ところが、その私たちの痛みが、主の業を起こすのです。私たちの信仰の強さや深さではなく、祈りの熱心さに基づくものでもありません。ただ主の憐れみだけが、私たちの家族を私たちのもとに返してくださり、死から生命へと引き戻してくださるのです。もちろん私たちはもっと成熟した信仰、りっぱな信仰を目指していくべきです。しかし、主の哀れみの働きも知らなければなりません。主に哀れみによって私たちの家族が返され、死から生命へと変えられていくみわざが起るのです。神様はそのためにご自身の一人子を犠牲にされました。私たちに子供が返されるために、神様がご自分の一人子を棄ててくださったのです。私たちは、私たちの身代わりとして惜しまず与えてくださったことを忘れてはなりません。その神様の愛に今も私たちが包み込まれていることを覚えましょう。そして、神様の大きな哀れみに期待し、神様の恵みのうちに、主イエス様の生ける生命の言葉のうちに、力強く歩んでいくことができるように祈ります。

 結論的に、私たちはイエス様の一方的な哀れみと御言葉の力を学びました。イエス様はみことばによって私たちの最も大切な問題を解決してくださいます。私たちがこのイエス様の働きをもっともっと知ることができるように祈ります。ホセア6章3節はいいます。「私たちは知ろう。 主を知ることを切に追い求めよう。 主は暁の光のように、確かに現れ、大雨のように、私たちのところに来、後の雨のように、地を潤される。」
 私達が本当に主を切に追い求めるならば、暁は光の様に現れ、大雨の様に私達の所に来、後の雨の様に潤されるのです。この秋、神様の憐れみ、御言葉の力をもっと大胆に求め、それを知っていくことができるように祈ります。そして神様の祝福が豊かに注がれて、ますます成熟した主の子どもとなりますように祈ります。