2003年ルカの福音書第23講                        

イエス様をよけいに愛した女

御言葉;ルカ7:36-50
要 節;ルカ7:47,48「だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」そして女に、「あなたの罪は赦されています。」と言われた。」
  
先週、私たちはヨハネが牢屋に入れられた時にも、神様のみわざは活発に起こっていたことを学びました。神様は今もご計画のとおりに働いておられます。では、すべてのことが神様のご計画のとおりになるから私たちは何もしなくてもいいでしょうか。いいえ。神様は人を用いて神様のみわざを成し遂げて行かれます。ですから、神様が私たちに人間に願っておられることがあります。神様は私たちに何を願っておられるでしょうか。聖書には神様が私たちに願っておられる数多い戒めがあります。有名な「十戒」、申命記、レビ記などには様々な教えがたくさん出てきます。その中で何が一番大事なのでしょうか。それは、イエス様が教えてくださいました。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、私たちの神である主を愛する』ことです。これがたいせつな第一の戒めです(マタイ22章37?38節)。聖書の中で一番大切な事は「神様を愛する」と言う事なのです。
 今日の御言葉にはこのたいせつな第一の戒めを良く守ってイエス様をよけいに愛したひとりの罪深い女のことが記されています。本当に感動的な愛です。この時間、御言葉を考えながら、私たちももっと熱く、もっと情熱的に、イエス様を愛する人となりますように祈ります。

?。信仰によってイエス様のみもとに出て行った罪深い女(36-39)

36節をご覧ください。「さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。」。あるパリサイ人がイエス様を食事に招きました。パリサイ人がイエス様を招いたことは聖書の中で、ここしかありませんが、人を招いてもてなすことは素晴らしいことです。でもこのパリサイ人は、39節や44節の御言葉から考えてみると、喜んでイエス様を招いたのではありませんでした。おそらく、ある政治家たちのように評判の良いイエス様を自分に家に招くことによって自分の評判を高めようとしたようです。そんな人の家に招かれていくことは喜ばしくありません。むしろいやになっちゃうでしょう。しかし、イエス様は高慢なパリサイ人であっても招きに応じられました。イエス様は彼も愛しておられたからです。「ただ、自分の敵を愛しなさい。」と教えられたイエス様は、そのとおりに敵を愛しておられたことが分かります。イエス様がこのパリサイ人の家にはいって食卓に付かれた時でした。ひとりの女性がイエス様のところに来ました。
37,38節を女性の方たちがご一緒に読んでみます。「すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。」一口に「罪深い女」と呼ばれている人がイエス様の所に来ました。彼女がどのような点で罪深い女だったのかは分かりません。明らかなことは、ユダヤで罪深い女と呼ばれる人は、神様の律法に違反し、神様に逆らう生活を送っていたことです。人に迷惑を掛けることも、人の邪魔になることも気にしないで自分勝手な生活をしていたのです。そのような人は、まともな扱いを受けることができません。日本でも罪深い人に対しては「村八分」といって、火事の時とお葬式以外には仲間に入れてくれませんでした。イスラエルでも同じでした。日本よりもっと厳しかったようです。罪深い女と呼ばれている人は会堂にはいることも、いっしょに食事をすることもできませんでした。話し合うことさえできませんでした。
ところが、ある日、彼女はイエス様がパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、イエス様のみもとに来ました。何でだろうと思われる場面です。罪深い女と呼ばれている人が人の家に訪ねること、しかもパリサイ人の家を訪問することはほとんどなかったからです。それなのに彼女がパリサイ人の家におられるイエス様の身元に来たことは大変な決断があったと思われます。彼女は、これまでの自分の生き方を心から後悔し、何とかして方向転換しようとして決断したのではないでしょうか。できることならやり直したい、初めから元に戻して、素直に生きたい、こんな罪の生活から足を洗いたいと考え始めていたのです。彼女がイエス様を、これ以前に知っていたかどうかは分かりませんが、彼女が一大決心をして、ここにやって来たことだけは確かであると思われるのです。彼女にとってパリサイ人の家に入ることはやさしいことではありません。家に入ればどういうことになるかは、彼女が一番良く知っていたはずです。「ここはお前なんかの来る所ではない」と口汚く罵られる、やっと入ればそこには鋭く差すような目が待っています。「汚らわしい」「お前などいなくなればいい」「早速出て行け。」と言われるのです。それでも彼女は罪深い生活から足を洗いたいという強い願いを持ってイエス様のところにはいってきたわけです。すると、やはり、多くの人々の冷たい眼差しのただ中で、一つだけそんな彼女を理解し、受け入れ、受け止める眼差しに出会いました。これまでの頑なな彼女の心、いや頑なになってしまったその心を理解し、ありのままを受け止める眼差しでした。この暖かい眼差しに出会ったとき、その暖かい愛に包まれた時、彼女の心は溶かされ、砕かれ、熱くされて行きました。これまでの彼女のすべてを受け入れてくださる眼差しに出会った時、彼女の心は感動し、熱くなってきたのです。いつの間にか彼女の目から、大粒の涙が込み上げ、溢れ出てきました。それはこれまで誰からも理解されず、誰からも必要とされず、認めてもらえず、無視されながら生きてきた辛さからこみあげてきた涙でした。また、人々の冷たい眼差しのせいで、自分がこんなに惨めになってしまったと思っていた罪深い生活を悔いる悔い改めの涙でした。何よりも、罪深い自分を暖かい眼差しで迎え入れ、赦してくださった主の愛に包まれていることの喜びであり、感謝の涙でした。これまでの自分のすべてがすっかり赦されたことの感謝から溢れ出た涙だったのです。彼女はこの涙でイエス様の御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐいました。
女性にとって髪の毛をとても大切なものです。きれいに管理するために多くの時間とお金を投資します。UBFの姉妹たちは髪の毛のためにあまりお金を使いませんがキリストの香りのために美しく見えます。しかし、世の女性たちは何とかして美しくするためにいくら高くても、遠くても自分を美しくしてくれる美容室に行こうとします。当時の女性たちも髪の毛はとても大切にしていました。髪の毛は女の栄光でした(?コリント11:15)。ところが、彼女はこの大切な髪の毛をイエス様の足をぬぐう道具として使いました。それだけではありません。普通なら泥に汚れた足を汚いと思うでしょうが、彼女はその足に何度も何度も口づけをしました。「イエス様に会えて本当に嬉しい」そんな思いを伝えたかったでしょう。
これはイエス様に対する最高の尊敬と最高の愛、最高の礼拝の表現でした。特に彼女が携えてきてイエス様の御足に塗った香油は、彼女にとって宝でした。それは、ユダヤの娘が自分の結婚のためにと少しずつ溜めていくものでした。ですからこの香油には、幸せな結婚と、新しい人生に対する真心と夢が溜められていました。彼女にとって最も大切な宝であり、かけがえのないものだったのです。彼女はそれをイエス様の御足に塗ったのです。
ここで、私たちは主を愛する時、最も大切なものを捧げることを学ぶことが出来ます。本当の愛とは単純なロマンスではありません。本当の愛には自分にとって最も大切なもの、自分のすべてを惜しまない犠牲と献身があります。人が困っているとき、傷ついている時に暖かい愛の言葉は大きな励ましになります。しかし、Lip serviceだけなら、真の愛ではありません。神様は私たちを愛して聖書の御言葉を与えてくださいましたが、その愛の具体的な表現としてひとり子イエス様をこの地に送ってくださいました。そして、イエス様も十字架の上でご自分のいのちを捧げることによって私たちに対するその愛を明らかにしてくださいました。
私たちがこのイエス様の愛を覚えて、本文の女性のように主を愛することができるように祈ります。同労者たち、兄弟姉妹たちを愛する時も口だけではなく、具体的に行なう献身と犠牲によって愛することができるように祈ります。ヨハネの手紙第一の3:18節を言います。「子どもたちよ。私たちは、ことばや口先だけで愛することをせず、行ないと真実をもって愛そうではありませんか。」
彼女が香油をイエス様の御足に注ぎますと、家全体が香りに満たされました。この香りはイエス様と人々の心までも吸い込まれていきました。ところがパリサイ人は、この麗しい光景を素直に受け入れませんでした。何でもよく非難することになれているパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるかを知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」と心ひそかに思っていました(39)。彼は「預言者ならば直ぐにこの女がどんな者であるかわかるはず。それをしないのはやはりこの人は本物ではないのではないか」思って心ひそかに、女の人に対しても、イエス様に対してもさばいていました。彼はやはりパリサイ人でした。しかし、イエス様はこの女性の行動をどのように受け取ってくださいましたか。
第一に、イエス様は彼女をありのまま迎え入れてくださいました。イエス様はこの女性がどんな女であるかを知っておられましたが、少しも遠ざけることなく迎えてくださいました。イエス様は彼女が信仰によって出てきた時、過去を取り立てるようなことはなさいませんでした。ただ、現在、彼女の信仰、美しい内面を見て聖なる神様の娘として迎え入れてくださいました。イエス様はどんなに罪深い人でも信仰によって出て来るなら喜んで迎え入れてくださいます。 汚れていると言われていた全身らい病の人が信仰によって出て来た時も、イエス様はありのまま迎え入れてくださいました。愛の手を伸ばして触ってくださいました。中風の人が寝かされたまま出て来た時も「子よ(My son)」と呼びかけてご自分の息子として受け入れてくださいました(マルコ2:5)。
イエス様は私たちがどんなに大きな罪を犯したとしても信仰によって出て行くなら、私たちをありのまま受け入れてくださいます。私たちのすべてをありのまま受け入れてくださるイエス様の愛と恵みを心から感謝します。
第二に、イエス様は彼女の真心を受け取られ、彼女の救い主となってくださいました。彼女は全身全霊でイエス様を愛し、イエス様に感謝しました。ところが、その表現はよけいなことのようでした。今でも、涙で人の足をぬらし、髪の毛でぬぐい、足に口づけして香油を注ぐなら、それはよけいなことだと思うでしょう。人の前でそんなことまでする必要があるのかと思われる行動です。むしろ、人の立場は考えないで迷惑を掛けているような行動でした。イエス様ご自身も負担を感じたでしょう。しかし、彼女の真心を一つも無視しないで全部受け取ってくださいました。よけいに愛する彼女の麗しい愛情をこころよく受け取ってくださいました。
事実、イエス様は彼女の真心と情熱を込めた愛を受け取るにふさわしい、真の礼拝の対象、メシヤです。イエス様は私たちの真心を受けるのにふさわしい救い主なのです。彼女の愛の特徴は人の評判とか形ではなく真心です。
一般的な女性たちの特徴の一つも真心です。何をしても真心を込めて行ないます。女性には男性よりも純粋に人を愛する真心があるのです。そして真心を込めてイエス様を愛し、人を愛する女性の姿はとても美しく麗しいものです。しかし、その真心を注ぎ出す対象が誤ってしまうと、罪に陥って苦しむようになります。多くの姉妹たちが自分の真心を注ぎ出す男を求めますが、男は姉妹たちが満足できるほどに偉くありません。世の中には男に期待して失望している女性たちがどんなに多くいることでしょうか。数え切れないでしょう。ただ、イエス様だけが姉妹たちの真心と純潔、愛を受けるのにふさわしいお方です。そしてイエス様にその真心と愛を注ぐときに満足と幸福を得ることができます。
兄弟たちの特徴の一つは情熱です。情熱がありすぎて問題になる時が多くあります。会社生活が忙しいと言いながらも浮気をしたり、博打をしたりしながら罪に陥ってしまいます。情熱そのものは素晴らしいですが、それを受け取るにふさわしい方に注がなければ、結局罪を犯し、大きな問題になってしまうのです。しかし、イエス様は私たちの情熱を受け取るにふさわしいお方です。イエス様に情熱を注ぎ尽くして裏切られることはありません。イエス様は私たちがささげる真心と情熱のすべてを受け取ってくださいます。よけい愛することを喜ばれ、大きく祝福してくださいます。私たちも本分の女性のように私の真心と情熱、そして私の持っている最も大切なものを捧げて主を礼拝することができるように祈ります。

?。シモンを叱られたイエス様(40?50)

40節をご覧ください。ひそかに人を判断し、さばいているシモンの思いを見抜かれたイエス様は一つのたとえを話してくださいました。 
41-43節を兄弟たちがご一緒に読んでみましょう。「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。ではふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います。」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています。」と言われた。」
このたとえは分かり易く言いますと片方は500万円の借金を抱え、もう片方は50万円の借金がありました。ところが、二人とも返すことのできない借金でした。多かれ、少なかれ、返すことができないという点においては同じです。貸主は二人とも返すことができなかったので「それでは払わなくても良いよ」と赦してあげました。その時、どちらの方が金貸しを愛するようになるでしょうかとイエス様は質問されたわけです。シモンは当然500万の借金を赦してもらったほうだと答えました。多く赦されたのですから、その思いも深かったであろうと思います。実はこの女とシモンの事を語ろうとしていました。それで、イエス様は女のほうを向いてシモンに言われました。
44-46節をご一緒に読んでみましょう。「そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしがはいって来たときから足に口づけしてやめませんでした。あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。」
当時人を食事に招くと、手を洗い、足も洗う水を備えて置く習慣がありました。そして人が家に入ってくるとくちづけして、油を塗るのが礼儀でした。ところがシモンはそれをしなかったのです。この辺に彼の本音を見る様な気がします。彼はパリサイ人の中では珍しくイエス様を自分の家に招くほどイエス様を愛していましたが、その愛はぬるいものでした。形式的な面では素晴らしいことをしていましたが、その心はなまぬるくなっていたのです。黙示録3:15、16節で、イエス様は言われました。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」 
本当の愛は熱く、情熱的なものです。それで、人々は愛し合っている若い人たちに「燃えているね」と言います。あれこれ考えてある程度すること、なまぬるくすることは愛ではないのです。本当の愛は熱いものです。本文の女性は実に熱くイエス様を愛しました。情熱的に愛しました。献身的に、犠牲的に愛しました。心を尽くし、体を尽くし、力を尽くして情熱的に愛したのです。長い間蓄えて来た香油、髪の毛、口づけ、涙まで流してイエス様を愛しました。彼女はよけいにしたと言われるほどイエス様を愛したのです。イエス様はこういう愛を喜ばれます。イエス様は私たちの信仰もこの女性のように熱くなることを願っておられます。私たちもイエス様を情熱的に愛することができるように祈ります。周りからイエス様をよけい愛していると言われるほど熱く愛することができるように祈ります。
私たちがなぜ、これほどにイエス様を熱く愛さなければならないでしょうか。それはは、イエス様がご自分の尊いいのちを捨てるまで私を愛してくださったからです。イエス様は私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれました。無知な兵士たちの剣に刺されました。イエス様は私の身代わりになって十字架につけられて死なれました。十字架の上であの尊いいのちをささげることによって私を救って神様の子どもにしてくださいました。こんな罪深い者を救うためにご自分の命を燃やしてくださったのです。これほどに私たちを愛してくださったイエス様を私たちも自分の最も大切なものをささげて情熱的に愛することができるように祈ります。
47、48節をご一緒に読んでみましょう。「だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけいに愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」そして女に、「あなたの罪は赦されています。」と言われた。」
イエス様はこの女性の『罪は赦されています。』と言いました。過去において既に赦されていると語っているのです。私たちは「愛したから赦された」と読んでしまいがちですが、赦しが先です。赦された結果として、愛の行動が彼女から出て来たのです。しかし少ししか愛さない者は少しの行動しか取る事が出来ません。そして50節を見ると、イエス様は彼女に『あなたの信仰があなたを救ったのです』と語りました。「イエス様が自分の事を愛し、受け入れて下さっている。」その事を受け取った信仰の心が彼女を救ったのです。そして、「あなたは救われているのだから、「安心して行きなさい」と言われたのです。
私達がこの様な愛の人に変えられていく秘訣、それは『あなたの罪は赦されています』ここにポイントがあります。罪深い自分が赦されていることを悟ること、それが大切です。喜びに満ちる生き方。愛に溢れる生き方。与えざるをえない、施さざるをえない。と思って幸せに生きることは、イエス様が私を受け入れ、愛して下さっている」、その事を心の底が受け取ることに秘訣があるのです。「神様を愛する」事が出来るかどうかは、自分が受けた恵みと慈しみの理解にかかっています。すなわち私達の心の目が開かれ、どれくらいすばらしさが分かっているかにかかっています。
 一般的に人々は自分の弱さをなるべく見ない様にして生きています。なぜならばそれを見ていたら元気に力強く前に進む事など出来なくなってしまうからです。しかし、キリストにあって生きる生活はそうではありません。かえって、その惨めな自分の姿をじっと見て、認めることから始まります。惨めな私が赦され、愛され、受け入れられている。この事実にしっかりと目を向ける時に私達の心に愛が芽生え始めます。この女が非難される事が分かっていてもイエス様の所に走った様に、私達もイエスの為に喜んで犠牲を払う事が出来る者に変えられていくのです。
「自分の罪がいま一つ分からない」と持っている方がいるでしょうか。あるいは「自分はそんなにひどいとは思わない」と思ってはいないでしょうか。神様が心の目を開いて下さるように祈ります。自分を正しく発見できるように、そしてそこに留まらずにその自分が「赦されている」という事をも認めて信じることができるように祈ります。私達がこの確信に立たせて頂く時に、私達の心に主に従う心、主を愛する心が湧き出てきます。私たちが神様を愛し、隣人を愛することは強いられてやることではありません。私のように罪深い者を赦してくださった主の愛のゆえによけいに愛したくなるのです。それで、クリスチャンはその愛のゆえに神様に仕えます。そのように仕えるとき、神様はそれを喜んで下さるのです。 
 結論的に、私たちは御言葉を通して罪が赦された恵みが大きいほど主を熱く愛することを学びました。私たちが日々、御言葉を通して罪深い者としての自我を発見し、罪が赦される恵みに感激する生活ができるように祈ります。また、その感激によって日々神様を熱く愛し、兄弟姉妹たちを愛することができるように祈ります。私たちの愛がもっともっと熱く、深く、広くなるように祈ります。