2003年ルカの福音書第26講
救われた人の生き方
御言葉:ルカの福音書8:26-39
要 節:ルカの福音書8:39「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを、話して聞かせなさい。」そこで彼は出て行って、イエスが自分にどんなに大きなことをしてくださったかを、町中に言い広めた。

 先週、私たちはコンパクトな弟子修養会を通して祝福された望みを学びました。神様は私たちを罪と永遠の破滅から救ってくださることだけではなく、養育し、成長させてくださることを感謝します。特にキリストの栄光ある現われを待ち望む祝福された望みをつかんで良いわざに熱心な神の民として生きるように教えさとしてくださり感謝します。
今日はイエス様が墓場に住み着いていたひとりの男から悪霊を追い出してくださった出来事を学びます。ここで、私たちは霊的な世界を支配しておられるイエス様の御力とひとりの霊魂に対するイエス様の深い愛を学ぶことができます。この時間、私たちひとりひとりの上に神様の大きな救いの愛と御力が臨まれるように祈ります。

1. 悪霊につかれている男(26-29)

26節をご覧ください。イエス様の一行はガリラヤの向こう側のゲラサ人の地方に着きました。ゲラサは、デカポリス(「10の町」という意味)の一つで、ガリラヤ湖と死海のおよそ中間に位置していてローマの属領シリアの地でした。典型的なローマ人の町として整備され,アルテミスやゼウスの神殿,劇場や城壁が建設されました。異教の神々が祭られている偶像崇拝の地であり、ローマの第14軍団が駐屯している軍事都市でもありました。
イエス様の一行がこの町に入られると、ひとりの男に出会いました。彼はこの町の者で悪霊につかれていました。彼の姿はどうでしたか。27b節をご覧ください。「彼は、長い間着物もつけず、家には住まないで、墓場に住んでいた。」とあります。なぜ、彼は着物を着けなかったでしょうか。体から熱い熱が出すぎて耐えられなかったかも知れません。実際に悪霊につかれている人の体は熱くなっているそうです。あるいは人間文化に対する反抗心からそうしたかも知れません。自分が勤めている学校で見ると反抗的な学生であればあるほど、着物に変化があります。着物は人間文化の象徴として人間を人間らしくします。一方では人間の行動を規制し、身分と貧富の違いを表すものが着物です。人が制服を着ると、自分も知らずにその征服にふさわしい行動をしようとしますし、一般的に金持ちは値段の高い服を、貧乏の人は安い服を買って着ます。本文の青年はそのような人間の生活に対して激しく反発したかもしれません。彼は既存の文化に反発し、伝統や世の慣わしに反発しました。迷惑をかけないように、人に邪魔しないように何度も何度も言われることがいやになっていました。そこで、彼はこのような世のシステムから逃れて自由に生きることを願いました。自由を求めて自分を拘束するような着物を脱ぎ捨ててしまったのです。
 また、彼は家には住まないで墓場に住んでいました。日本の墓地は都心にもあってきれいに管理されている所が多くありますが、イスラエルでは違いました。当時、ユダヤ人は埋葬していましたが墓に行くと、死体が腐っている匂いがしました。人はだれも住んでいないし、そこを通り過ぎることさえ嫌がっていました。ところが、本文の男は自分の家と社会を離れて墓場に住み着いていました。彼はすべての人との関係性を断ち切って、自分だけの世界をつくっていました。人々は彼が墓場に行くことを防ごうとしましたが、それができなかった時、あきらめてしまいました。結局、彼は人々からのけ者にされて、心も墓場のように暗く、寂しくなりました。彼の心は明るさより暗闇を愛し、生活も聖なる生活より汚れたままで生きるようになってしまいました。彼は自分の理性や正しい価値観によって生きるより汚れた悪霊に支配されていたのです。
どうして、彼は悪霊に支配されていたのでしょうか。私たちは本文の御言葉からその理由を見つけることができません。その理由が記されていないからです。しかし、ヤコブの手紙3章14節から16節は言います。「しかし、もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません。真理に逆らって偽ることになります。そのような知恵は上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れや、あらゆる邪悪な行ないがあるからです。」とあります。この御言葉から、心の中にある苦いねたみと敵対心は悪霊に属していることが分かります。
本文の男は、当時の先進国ローマの厳しい競争社会の中で、失敗し続けて苦いねたみにさいなまれていたかも知れません。あるいは、自分を認めてくれないどころか、無視している人たちに対する敵対心があったかも知れません。あるいは自分の親を裏切った人や、騙し取った人に対する敵対心に満ちていたかもしれません。そのような心に悩まされていると、悪霊につかれてしまい、もはや正常な判断や行動ができなくなってしまうでしょう。
では私たちはどうでしょうか。私たちはケラサ人のことを他人事と思いがちです。しかし、私たちも悪霊の影響を受けることが結構あるのではないでしょうか。もし、私たちの心の中に人を羨んだり、憎んだり、嫉んだり、嫉妬したりする心があるなら、悪霊が自由に働ける場を提供していることになります。悪霊の影響を受ける危険性があるのです。そうなりますと、私たちは自分で自分をコントロールすることができなくなります。そしてその心を放っておくと、私たちの心の中には悪しき思いがドンドン沸いてきてしまいます。異常な行動や異常な態度をとってしまうことがあります。ひどくなると、ケラサ人のようになるでしょう。ですから、もし、自分が苦い嫉みや敵対心、恨み、嫉妬などの気持ちに支配されているなら、悪霊の影響を受けるギリギリの所まで来ていることを自覚しなければなりません。苦い嫉み、敵対心、羨ましいといった心が出てきたなら、いつも注意をして退けていく必要があります。ヘブル12章15b、16は言います。「また、苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように、また、不品行な者や、一杯の食物と引き替えに自分のものであった長子の権利を売ったエサウのような俗悪な者がないようにしなさい。」
私たちは地上に生きている限り、地に属し、肉に属し、悪霊に属している苦い嫉みや敵対心を全く持たずに生きることは難しいかも知れません。しかし、あきらめてはいけません。苦い根が芽を出して悩ましたり、これによって多くの人が汚されたりすることのないように気をつけなければなりません。罪は放っておきますと、段々大きくなって、ケラサ人のようになることもあるのです。ですから、小さいうちに処理するのが大切です。神様の御前でそういう気持ちと思いを告白して悔い改めることです。ヤコブ4章8節には「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪ある人たち。手を洗い清めなさい。二心の人たち。心を清くしなさい。」とあります。
 28節をご覧ください。彼はイエス様を見ると、叫び声をあげ、御前にひれ伏して大声で言いました。「いと高き神の子、イエス様。いったい私に何をしようというのです。お願いです。どうか私を苦しめないでください。」とあります。彼の行動と言葉は一致していません。彼はイエス様に助けを求めながらも同時にイエス様を遠ざけています。彼の心は分裂現象が起っていました。それはイエス様が汚れた霊に、この人から出て行け、と命じられたからです(29a)。イエス様の御言葉が彼のうちに働き始めると、彼は悩み始めました。
 私たちもそうです。御言葉を勉強すると、始めのころは素晴らしい御言葉に感動します。しかし、続けて御言葉を学んでいくと、隠れている罪が現われるようになります。慰めと励ましの御言葉はよく聞こえますが、罪を悔い改める御言葉は厳しく聞こえてきます。その時、私たちは悩むようになります。恥ずかしくても、自分が砕かれても御言葉に従って生きたい心もありますが、自尊心を捨てたくない心もあるからです。こういう悩み、苦い根が芽を出すと、御言葉の勉強も重苦しくなります。それで、御言葉を教えてくれる人に「お願いです。どうか私を苦しめないでください。」というようになります。家に訪ねることも嫌がります。それは御言葉が彼のうちに働いている時、悪霊たちが分裂を起こしているからです。悪霊の特徴はイエス様がどんな方であるかを知っていますが、拝まず、服従しないことです。心の高慢のために神様に敵対し、反抗して真理に逆らいます。そうしながらもイエス様によって滅亡するのではないかと言う恐れに苦しみます。では人々は彼の問題をどのように助けていましたか。
 29b節をご覧ください。「汚れた霊が何回となくこの人を捕らえたので、彼は鎖や足かせでつながれて看視されていたが、それでもそれらを断ち切っては悪霊によって荒野に追いやられていたのです。」とあります。人々は鎖や足かせにつなげて彼を助けようとしましたができませんでした。むしろ、もっともっと悪くなってしまいました。
 今日も、人々は精神病者も悪霊につかれている人も薬物や電気ショックなどによって治療しようとしています。しかし、人を苦しめるだけであって全く問題の解決になりません。正しい治療は正しい診断から始まります。人々は悪霊の存在を認めないから根本的に悪霊につかれている人を助けることができません。また、悪霊の存在を認めても人間の力と知恵によっては解決できません。なぜなら、悪霊は人間より強いからです。悪霊を追い出すためには悪霊を縛り付けて追い出せる強い勢力が必要です。イエス様は悪霊を追い出すことができます。イエス様は悪霊によって体も魂も破滅の罠に陥っている彼を救うことがおできになります。ではイエス様は彼をどのように助けて下さいましたか。

?.悪霊を追い出して新しい人生を許されたイエス様(30-39)
 
30節をご覧ください。「イエスが『何という名か。』とお尋ねになると、『レギオンです。』と答えた。悪霊が大勢彼にはいっていたからである。」とあります。イエス様は彼が反発してもあきらめませんでした。むしろ彼の名前を尋ねることによってもっと積極的に挑戦されました。イエス様が彼の名前を尋ねられたことには二つの意味があります。一つ目は、悪霊の正体を現わすためでした。悪霊は狡猾なもので自分の偽装することには天才的な才能を持っています。悪霊は人々が悪霊につかれていることに気づかないように自分を偽装します。そして人を自分のお思い通りにコントロールして破滅に導きます。イエス様はこんな悪霊の正体を現わそうとされました。二つ目は、彼自身の存在意味を悟らせるためでした。名前とはその人の全存在を現わします。彼は悪霊につかれていて自分がどんな存在であるかを知らずに自我を失っていました。自分の考えや判断によって動いているのではなく、悪霊の勢力によって動いていたのです。イエス様はそんな彼に名前を尋ねることによって存在意味を悟らせて、神様の形に似せて作られた本来の姿を発見するように助けられたのです。そうして神様との関係、イエス様ご自身との関係が回復されることを願われたのです。神様との関係が回復されてしっかりと結ばれると人間関係もよくなります。
 ですから、「何という名か」とお尋ねになったイエス様の質問にはひとりのたましいに対するイエス様の深い関心と愛が込められていました。彼の問題は人々との関係性が断ち切られていることでした。彼は悪霊のためにだれとも正しい関係性を保つことができませんでした。はなはだしくは自分自身との関係性でさえ正しく結ぶことができませんでした。彼の関係性問題は根本的に神様との関係性断絶から生じたものです。神様との関係が断絶されると、すべての人との関係性が断絶されました。イエス様はそんな彼に名前を聞かれることによって彼と正しい関係を結ぼうとされたのです。
 聖書的に見ると、人間はアダムの犯罪によって神様との関係が断絶されました。それによって人間はサタンの支配を受け、悪霊に苦しめられるようになりました。
 イエス様はこんな人間をサタンの支配から救い出すためにこの地に来られました。そして、十字架の上で私たちの罪のために死なれて葬られましたが、神様の御力によって死者の中からよみがえられました。それによってサタンと死の勢力を打ち破られました。そしてサタンの奴隷になっている人間を解放してくださいました。それは永遠の破滅に向かって走っている人間を哀れんでくださったからです。
 私は先週、四人のLife Testimonyを通して大きな恵みを受けました。昨日、発表したイアンケア牧者のMission Reportを通しても大きな感銘を受けました。彼らは生まれながらの悲しい運命や、心の高慢と情欲、嫉みと敵対心の奴隷になっていました。悪霊の影響を受けていたのです。彼らは墓場に住み着いている人のように暗くて虚しい生活をしていましたが、だれも彼らの心を癒し、救うことはできませんでした。しかし、イエス様に出会って自分の存在が分かると、罪を悔い改めて新しく生まれるようになりました。イエス様は彼を罪から救い出して本当の自由と喜びを与えてくださいました。イエス様との関係性が回復されると、キリストにあって素晴らしい牧者であり、宣教師になったのです。
 イエス様がケラサ人に名前を尋ねられると、彼は「レギオンです」と答えました。レギオンとは6,000名に構成されるローマ軍団の段位です。これを見ると、彼の中に六千匹の悪霊が働いていたことが分かります。嫉みと敵対心の悪霊、高慢と情欲の悪霊、運命主義の悪霊、うつ病の悪霊など様々な悪霊が彼を支配していました。しかし、イエス様の御言葉を聞くと、もう彼の中にとどまることはできなくなりました。そこで、悪霊どもはイエス様に、底知れぬ所に行かせないで、豚にはいることを許してくださるようにお願いしました。イエス様はそれを許されました。すると、豚の群れはいきなりがけを駆け下って湖に入りました。聖書辞典によると、ここの斜面は,一度下り始めたら途中で止ることができず,下の湖に飛び込んでしまうほど急であるそうです。とりあえず、湖に飛び込んでしまった豚たちは溺れて死にました。豚を飼っていた者たちは、この出来事を見て逃げ出し、町や村々でこの事を告げ知らせました。人々がこの出来事を見に来て、イエス様のそばに来たところ、どんなことが起っていましたか。イエス様の足もとに、悪霊の去った男が着物を着て、正気に返って、すわっていました。素晴らしいことが起っていたのです。ひとりの人が縛られていた悪霊の世界から解放されて正常になっていました。ところが、そこには一つの大きな犠牲がありました。おびただしい豚の群れが死んでしまいました。イエス様はなぜ、こんなに多くの豚を犠牲にされたのでしょうか。マルコの福音書を見ると、2000匹の豚を犠牲にしました。それは当時の人々にとって莫大な財産です。それにも関わらず、イエス様は豚を犠牲にしました。それは、人間の尊厳性を教えるためではなかったでしょうか。イエス様は人間の尊厳性を失い、物質万能主義になっている人々にひとりの人間がどんな価値ある存在なのかを悟らせようとされたのです。マルコ8:36でイエス様は「人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。」と言われました。全世界よりも大切なのが人間です。イエス様は私たちを罪とサタンの支配から好くためにご自分の尊いいのちまでも犠牲にされました。しかし、町の人々は正気に返って人にも、彼から悪霊を追い出されたイエス様には何の関心も示しませんでした。むしろ、イエス様に自分たちのところから離れていただきたいと願いました。そこで、イエス様は舟に乗って帰られました。
この時、悪霊を追い出された人が、お供をしたいとしきりに願いました。彼はイエス様から癒していただき、救いの恵みに感激しました。彼はイエス様の素晴らしい愛に感激の涙を流したことでしょう。彼はイエス様が行かれる所ならどこまでついて行きたいと思いました。しかし、イエス様はそれを許さず、彼に使命を与えられました。39節をご一緒に読んでみましょう。「「家に帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったかを話して聞かせなさい。」そこで彼は出て行って、イエスが自分にどんなに大きなことをして下さったかを、町中に良い広めました。」イエス様は彼が家に帰って自分が受けた恵みを証しする使命の人生を生きるようにされました。ここで、私たちは二つのことを学ぶことができます。一つ目は、イエス様は私たちの過去を問わず、素晴らしい福音のみわざに用いてくださるということです。町の人々はだれひとりとして正気に返った彼を認めてくれませんでした。人々は彼が墓場に住み着いていた過去のことだけを考えたことでしょう。人々は過去の学歴、経歴、過去の業績などによって人を判断します。しかし、イエス様は生まれ変わった彼をご自分の弟子として認めてくださいました。過去、悪霊に着かれていて墓場に住み着いていた人であっても、ケラサ地域の宣教師部長として立てて下さいました。イエス様は彼一人を通して悪霊につかれて苦しんでいる数多い人々を救おうとされました。二つ目は、救われた人々には、イエス様が自分にどんなに大きなことをしてくださったかを言い広める使命が与えられているということです。彼はイエス様から自分の町の人々にLife Testimonyを発表する使命を受けました。しかし、この偉大な使命を担うことはやさしくありません。町の人々が自分の過去をよく知っているからです。人々は彼を無視するでしょう。昨日、イアンケア牧者は韓国人が導く教会で自分を献身したくなかったといいましたが、先進国の民としてそういうアイデンティティがあるでしょう。当時、ローマの人々もユダヤ人のイエス様が導くキリスト教の教えを受け入れたかったでしょう。しかし、彼はイエス様が与えてくださった方向に従ってイエス様が自分にどんなに大きなことをしてくださったかを町中に言い広めました。彼は自分を暗闇からご自分の驚くべき光の世界に招いてくださった素晴らしい神様のみわざを熱心に証ししたことでしょう。

以上で、私たちは悪霊につかれていたひとりの男から悪霊を追い出して、本当の自由を与えてくださったイエス様を学びました。悪霊を追い出された人は、自分の悪霊の支配から救ってくださった主の恵みを無駄にせず、イエス様の御言葉に従ってイエス様が自分にどんなに大きなことをしてくださったかを町中にいい広めました。神様は私たち一人一人も罪と悪霊の支配から救い出してくださいました。聖なる神様と関係性を回復してイエス様とお供をする生活が許されました。悪霊によって動かされるのではなく、神様に導かれて良いわざに励むことが許されました。私たちがもう一度神様が自分にどんなに大きなことをしてくださったことを思い出して心から感謝し、イエス様が自分に与えてくださった使命に忠実に生きることができるように祈ります。