2003年ルカの福音書第6講
御救いは万民に
御言葉:ルカの福音書2:21?40
要 節:ルカの福音書2:30-32「私の目があなたの御救いを見たからです。御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」

 今日は、イエス様が生まれてから八日目に割礼を受けられたこと、四十日目にイエス様の両親がエルサレムで行なわれた出来事について学ばせていただきます。ここで、私たちはイエス様による救いは神様がすでに備えられたものであり、この救いはイスラエルだけではなく、万民の救いであることを学ぶことができます。そして救いを待ち望んでいたシメオンとアンナの福音的な信仰、聖なる生活を学ぶことができます。

 ?.御救いは万民に(21-35)
21節をご覧ください。「八日が満ちて幼子に割礼を施す日となり、幼子はイエスという名で呼ばれることになった。胎内に宿る前に御使いがつけた名である。」とあります。創世記17章を見ると、割礼は神様と契約を結んだ民のしるしです。アブラハムがそばめを通して得たイシュマエルと楽しく、小市民的な生活をしている時、神様は彼に現われ、こう仰せられました。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」それは、あなたはただ平凡な人として生きてはならない、神様に選ばれて神様と契約を結んだ者らしく生きなければならないことを意味しました。神様は彼がただ自分の子どもと楽しむ高尚な父として生きるより、国々の父として生きることを願われたのです。そして神様はアブラハム神様と契約を結んだ民のしるしとして割礼を受け、自分の子孫も割礼を受けなければならないと命じられました。そこで彼はイサクが生まれた時、神様が彼に命じられたとおり、八日目に、割礼を施しました(創世記21:4)。その後、イスラエルの民は男の子が生まれると、生後八日目に、割礼を施しました。それによって自分の子どもが神様に選ばれ、神様と契約を結んだ選民であることのしるしをつけたのです。しかし、新約聖書では心の割礼が大切であると教えています。ローマ2:29a節を見ると「かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。」とあります。今日、私たちは心の割礼を受けなければなりません。はかない罪を楽しむ生活ではなく、神の民として、聖なる国民として生きる決断をすることです。何よりも平凡なアブラムとして生きるのではなく、国々の父アブラハムとして生きる心の決断をしなければなりません。そういう決断があってこそ割礼を受けた神の民として祝福された人生を生きることができるのです。
もう一度21節をご覧ください。「幼子はイエスという名で呼ばれることになった。胎内に宿る前に御使いがつけた名である」。とあります。当時のしきたりによると、父ヨセフの名にちなんで「リトルヨセフ」と名づけることもできたはずですが、そうしませんでした。御使いがつけたとおりにイエスという名で呼ばれるようになりました。言葉の意味は、よく知っているとおり、「救い主」ということです。解放者であり、贖い主であるということです。
イエス様の両親は、幼子に割礼を施し、イエスという名をつけてから33日後、幼子イエス様を主にささげるためにエルサレムへ連れて行きました。
レビ記12:2-4節によると、女が身重になり、男の子を産んだときは、その女は七日の間汚れますが、さらに33日間、血のきよめのために、こもらなければなりませんでした。 ですから、両親はベツレヘムで40日間過ごしてから幼子イエス様を主にささげるためにエルサレムへ連れて行きました。それは、主の律法に「母の胎を開く男子の初子は、すべて、主に聖別された者、と呼ばれなければならないと書いてあるとおりでした。すなわち、律法を守るために、ナザレに帰る前、エルサレムに上って行ったのです。
ここで、私達はイエス様が生まれながら律法を守られたことを学ぶことができます。イエス・キリストはこの地上に、律法を超える方、律法を定める方として来て下さったはずです。ですから本来イエス・キリストがこの様な律法を守る必要はなかったはずです。ところがイエス・キリストはこの様な律法を全部守られたのです。マタイ5章17-19節を見ると、こう語られました。「わたしが来たのは律法や預言者を廃棄するためだと思ってはなりません。廃棄するためにではなく、成就するために来たのです。まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。全部が成就されます。だから、戒めのうち最も小さいもの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。しかし、それを守り、また守るように教える者は、天の御国で、偉大な者と呼ばれます。」
『戒めのうち最も小さいもの一つでも、これを破ったり、また破るように人に教えたりする者は、天の御国で、最も小さい者と呼ばれます。』とあります。 
 この中に語られている”真理”が、今日の箇所の中に、記されている様に思われます。すなわちイエス・キリストは、律法を定める人、与える人です。イエス・キリストが律法を守っても、あるいは破っても、関係ない訳であります。しかし、だからと言ってイエス・キリストは”律法”を捨てなかったんです。かえってその律法を全部守り通した歩みをなさいました。ではどうやって私たちは律法を守り通した歩みをすることができるでしょうか。私たちは律法を守ろうと思っても実際には出来ない時が多くあります。「赦すべきだ。赦そう」と思った瞬間から、憎しみが湧き上がって来ます。「良いことをしよう」とするそばから、それを裏切る自分がいやになってしまう時もよくあります。心の中では律法を守り、きよく正しく敬虔に生きようとするのにできない自分のために絶望してしまう時もあります。それは自分で頑張ろうと思っているからです。実際に自分の力では律法を守り通すことができません。しかし、聖霊が私たちの上にとどまるとき、私たちは力を受けます。律法を守り、敬虔に生きることができます。
25節をご覧ください。「その時、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。」とあります。この御言葉は、シメオンは正しい、敬虔な人であったから、聖霊が彼の上にとどまっておられたというふうに思われます。もちろん、きよく正しい生活をする時、敏感に聖霊の働きを感じることができるし、聖霊とともに歩む事もできます。しかし、シメオンだって自分の力だけでは正しく、敬虔に生きることができなかったはずです。聖霊が彼の上にとどまっておられるからこそ、正しく、敬虔に生きることができました。ですから、私たちはもっと聖霊を求め、聖霊に頼らなければなりません。
イエス・キリストの十字架を見つめて、私に御霊を与えてくださった神様に祈り、聖霊の助けを求めるのです。そうすると出来ないはずの事が出来るようになります。自分の力ではいくら頑張ってもできなかったことができるようになります。ですから、自分の弱さを認めてその為にイエス・キリストが死んで下さったことを感謝して、そして「私のうちに御霊を満たし、私がそれを出来るようにして下さい。愛せる様にして下さい」と祈って、聖霊に頼るのです。神様はその私達の内に、十字架と復活によって私たちの死ぬべき体を生かしてくださる方、そして私たちのうちに、住んでおられる御霊によって、私たちを生かしてくださいます。力と知恵を注いでくださいます。私たちはその聖霊の働きによって律法を守り、シメオンのように正しく、敬虔に生きることができます。イエス様は十字架と復活によって私たちの罪の問題を解決してくださり、信仰によって聖霊とともに歩むことができるようにしてくださったからです。
 聖霊がシメオンの上にとどまっておられるとき、彼は主のキリストを見るまでは、決して死なないという聖霊のお告げを受けることもできました。また、彼の生活は聖霊に感じて動く生活しました。27節をご覧ください。「彼が御霊に感じて宮にはいると、幼子イエスを連れた両親が、その子のために律法の慣習を守るために、はいって来た。」とあります。肉に従う者は肉的なことをもっぱら考えます。どうすれば、もっと休み、もっと楽しむことができるか、もっと食べる事ができるかと考え、肉の欲と情欲に従って行ないます。患難と苦悩とは彼らの上に下ります。しかし、御霊に従う者は御霊に属することをひたすら考えます。どうすれば、神様を喜ばせることができるか、どうすればもっと福音のみわざに励むことができるか、どうすればもっと神様の御言葉を知り、蜂蜜よりも甘い味を味わうことができるか、どうすればこの国神様の慰めを受けられるかを考えます。その人の心はいつも真理の御言葉と羊たちの事で満ちています。彼らには御霊によるいのちと平安があります。神様はこのような人々を喜ばれ、彼らを導いてくださいます。シメオンは御霊に感じて宮にはいることができました。すると、幼子尾イエス様を連れた両親が、その子のために律法の習慣を守るために、はいって来ました。何と、シメオンは直接に救い主イエス様に出会うことができました。彼は生きているうちに、救い主イエス様を自分の目で見、自分の腕に抱くことができる祝福をいただきました。彼は幼子イエス様を抱き、感激に満ちて神様をほめたたえました。
29-32節の御言葉をシメオンの感激を持ってご一緒に読んでみましょう。「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。」とあります。
ここでシメオンは、イエス様のことを、「あなたが万民の前に備えられた御救い」、と語りました。イエス様は突然現われた方ではありません。ずっとずっと前から神様が万民の前に備えられた御救いです。私たちはある人の紹介によって偶然に救われたのではありません。神様は私の救いをずっと前から備えられ、ご計画の中で救ってくださいました。また、彼はイエス様を指して異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄」、と語っています。
 キリストはまさしく、「異邦人を照らす啓示の光」でした。当時、人々は深い暗黒と迷信に沈み込んでいました。彼らはいのちの道を知りませんでした。彼らが拝んでいたのは、自分の手で作った偶像でした。彼らの哲学者のうち最もすぐれた人たちでさえ、霊的な事柄においては完全に無知でした「彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者とな」っていました(ロマ1:22)。彼らは暗い夜を過ごしていました。しかし、キリストは世界を夜から昼へと変化させる光として来られました。暗やみと死の陰に座っている万民を救う救いの光です。同時に、キリストはまさしく「イスラエルの光栄」でした。イスラエルの人々は自分たちがアブラハムの子孫であること、–契約、—約束、–モーセの律法、–神の定めによる神殿礼拝などが赦されていることを光栄に思っていました。事実、これらはみな大変な特権でした。しかしこれらすべても、イスラエルから世界の救い主がお生まれになったという偉大な事実にくらべれば無に等しいものでした。ユダヤ民族の最も高い栄誉、栄光は、キリストの母がユダヤ人女性であったことです。何よりも「肉によればダビデの子孫として生まれた」キリストの血潮が、万民の罪の贖いをすることになった、ということです。(ロマ1:3)。
イエス様はまさに世の光としてこの地に来られました。ヨハネ8:12でイエス様は言われました。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」イスラエル人は異邦人に支配されて神様に対する不信と疑い、不平不満に満ちていました。イエス様はそんな彼らに光として望まれ、神様に対する信仰と希望、感謝を教えられました。そして栄光の光が望まれると、彼らの心にあってすべての暗闇は消え去りました。すべての不信と疑いが消え去り、愛と喜び、恵みに満たされるようになりました。
 34、35節をご覧ください。シメオンは両親を祝福し、母マリヤに言いました。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです。」この御言葉はイエス様がどんな方として定められているかを教えてくれます。イエス様は人々の栄えと滅びの原因となられます。すなわち、イエス様が救いと滅亡の基準となられることです。私たちはイエス様のおかげで救われることもできるし、滅びる事もできます。勝利の人生になるか、滅びの人生になるかは全くイエス様にかかっています。私たちイエス様を救い主として受けいれイ、信仰によって生きると、イエス様によって勝利の人生を過ごし、完全な救いを得るようになります。しかし、イエス様を迫害し、自分勝手に生きている人の最期は滅亡です。

?。祈るアンナ(36?40)
36、37節をご覧ください。「また、アセル族のパヌエルの娘で女預言者のアンナという人がいた。この人は非常に年をとっていた。処女の時代のあと七年間、夫とともに住み、その後やもめになり、八十四歳になっていた。そして宮を離れず、夜も昼も、断食と祈りをもって神に仕えていた。」とあります。この御言葉からアンナという女預言者がどのように生きていたのかを学ぶことができます。アンナは信仰の女性でした。彼女はたった七年間の結婚生活の後で、孤独な寡婦として生活を始めて八十四歳になっていました。2000年前のユダヤは、今日のように女性が自立できるような社会ではありませんでした。まだ若い時、寡婦になって経験する人生の辛さ、寂しさ、また誘惑は、おそらく非常に大きかったでしょう。しかしアンナは、信仰によってこれらすべてに打ち勝ちました。そして神の家を愛する生活をしました。彼女は「宮を離れ」ることがありませんでした。彼女は神殿を、神が特別にお住まいになる場所、また外地にいるあらゆる敬虔なユダヤ人が、ダニエルのように自分の祈りを喜んで献げる方角であるとみなしていました。「もっと神様に近く、もっともっと神様に近く」、こそ彼女の心の願いであり、彼女の希望でした。ダビデは「私のたましいは、主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです」(詩84:2)と言っていますが、彼女はこのダビデの言葉に完全に共感できたでしょう。
 また、アンナは、自分を捨てて、自分の十字架を負って主に従う女性でした。彼女は、「夜も昼も、断食……をもって神に仕えていた」。とあります。彼女は絶えず肉を十字架につけ続け、それを自発的な禁欲生活に従わせ続けていました。こうして神様に仕えていました。神様に仕える何の労苦も惜しませんでした。
 何よりもアンナは大いに祈る女性でした。彼女は、「夜も昼も、……祈りをもって神に仕えていた」。彼女はいつも祈り、決して祈りを止めるような罪を犯しませんでした。自分の知り合いのため、イスラエルが慰められるように。何よりも、メシヤに関する神の預言の成就のため、神様にとりなしの祈りを続けました。そしてアンナは、神様に祈り、神様に仕えたすべてに対して、豊かな報いを受け取りました。38節をご覧ください。「ちょうどこのとき、彼女もそこにいて、神に感謝をささげ、そして、エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語った。」あります。彼女は、長い間約束されていたお方、また彼女が待ち望み、祈ってきた救い主を見ることができたのです。最後の最後で、彼女の信仰は目に見えるものとされました。彼女の希望は幼子イエス様を通して確実なこととされたのです。この喜びは、まさに「ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた」ものであったに違いありません。(Iペテ1:8)。
 アンナはこの喜びの知らせをエルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に語りました。ここで見ると、「エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々にこの幼子のことを語った。」とあります。エルサレムにはシメオンとアンナ以外にもエルサレムの贖いを待ち望んでいる人々がいたのです。
 ここで、大きな励ましを受けることができます。神様は決してご自分の証し人を根絶させることはなさいません。信仰に立つ神の教会は時として数少なくなるかも知れませんが、決してなくなることはありません。真の教会は荒野に散らされ、散り散りになった小さな群れになるかもしれませんが、決して死に絶えることはないのです。ソドムにはロトがおり、アハブの王宮にはオバデヤがいました。バビロンにはダニエルがおり、ゼデキヤの宮廷にはエレミヤがいました。そしてユダヤ人教会が最末期に至り、その不義が極みまで達そうとしていたとき、そこにはシメオンのように敬虔な人々が、エルサレムに住んでいたのです。
 日本のキリスト教は400年の歴史を持っています。多くの迫害を受けてきました。今なお、キリスト者として生きることはやさしくない時代です。しかし、神様はいかなる時代にあっても、真のキリスト者たちを残してくださいました。私たちはこの事実をしばしば忘れてすぐに意気消沈してしまいがちです。エリヤは言いました。「私だけが残りましたが、彼らは私のいのちを取ろうとねらっています」。しかし、神様は彼に言われました。「わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく」(I列19:14、18)。私たちは、もっと希望を胸に抱くようにしましょう。恵みはどれほど悪条件下にあっても命を保ち、力強く働くのです。世界には、私たちの思っているよりも多くのシメオンたちがいるのです
 39、40節をご覧ください。彼らは主の律法による定めをすべて果たしたので、ガリラヤの自分たちの町ナザレに帰りました。幼子は成長し、強くなり、知恵に満ちて行きました。神様の恵みがその上にあった。
 結論的に、シメオンとアンナが生きていた時代はとても暗く、人々には希望がありませんでした。人々はただ、自分の生活だけでも精一杯になっていました。こんなに時代に信仰によって生きることはほんとうに愚かに見えます。しかし、シメオンとアンナは世の流れと調子を合わせず、信仰によって生きました。それができたのはメシヤに対する希望があったからです。メシヤに対する希望はすべての現実に打ち勝つようにしてくれました。そして、彼らが御救いを待ち望みながら生きている時、聖霊が彼らの上にとどまっておられました。私たちもこの時代、シメオンとアンナのようにメシヤに対する希望の中で生きることができるように祈ります。私たちは主が備えられたとおりに救われましたが、今なお救いのみわざは主が備えられたとおりに成し遂げられています。神様は万民が救われることを願っておられます。私たちがこの神様の希望を持ってますます、福音のみわざに励むことができるように祈ります。