2004年ルカの福音書40講
喜んで御国をお与えになる神様
御言葉:ルカの福音書12:13-34
要 節:ルカの福音書12:32「小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。」
先週、私たちは人より神様を恐れること、人よりも神様の御前で真実に生きなければならないことを学びました。そして神様の御前に生きる私たちが気をつけるべき心の一つが「偽善」であることを学びました。どうか、私たち一人一人がパリサイ人のような偽善者にならず、ありのままで真実に生きる聖なる国民でありますように祈ります。
今日は私たちの生活の中で気をつけるべき貪欲と心配について学びたいと思います。さらに、貪欲や心配の代わりに何を求めるべきかを学びます。神様はまず第一に、神の国を求める者に御国をお与えになります。「神の国」を所有することはこの地上で神様の当地を受けることであり、私たちの生ける望みであります。この神の国は神様からいただく永遠なる報いです。どうか、この御言葉を通して、私たちが貪欲と心配を捨てて神の国を所有する祝福をいただけるように祈ります。
?.貪欲に気をつけよ(13-21)
13節を読んでみましょう。「群衆の中のひとりが、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください。」と言った。」ある人が、イエス様の所に、遺産相続の問題を持ちかけてきました。
遺産相続は、いつの時代でも、深刻な問題でです。時には醜い家族争いにもなります。今まで仲良かった兄弟が、遺産を巡って突然憎み合うようになることもあります。ある人がこの遺産の問題を持ってイエス様の所にやって来ました。こういう時、どのように答えたらいいでしょうか。皆さんなら、どう答えるでしょうか。イエス様は、彼の要求をすげなく拒否しています。イエス様は三角関係を入って行きませんでした。イエス様は彼らの調停者になることを断ったのです。やはりイエス様は知恵に優れた方ですね。私は、初めて担任教師になった時、生徒たちの三角関係に入って困った時がよくありました。自分なりに正しく判断したつもりなのに、二人の中で一人はものすごく反発し、私を憎むようになりました。三角関係になると、ますます難しい問題になってしますね。
イエス様は三角関係に入りませんでした。イエス様は彼が遺産の問題よりも、もっと重要なこと、本質的なことに目を向けるように助けられました。しかも、それは彼一人に限らず、すべての人々にもとても重要なことでした。それで、イエス様は遺産の問題を持ってきた人だけではなく、人々に向けて言われました。
15節をご覧ください。「そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」」とあります。ここで、イエス様が話されている「いのち」は、原語でゾーエですが、霊的ないのちのことです。このいのちは財産にあるのではないとイエス様は言われます。イエス様はマルコの福音書8章36節において、「人は、たとい全世界を得ても、いのちを損じたら、何の得がありましょう。」といっておられます。
多くの人は財産があれば、幸せになれると思っています。もちろん、幸せな生活のためにはある程度の財産が必要であると思います。この財産に対してドイツの哲学者ショーペンハウアーは三つの種類に分けて言いました。まず、一つ目は必ず必要な財産です。生きるためになくてはならない財産です。それは日ごとの糧です。二つ目は余裕の財産です。この財産は人に施すことができる財産です。サマリヤ人の譬で教えられたサマリヤ人のように困っている人に出会った時に助けることができる財産です。あるいはもてなししたり、プレゼントしたりする時に使うような財産です。私たちクリスチャンにとってこの財産は重要です。クリスチャンになってから五年、十年経っても人をもてなすことも、施すこともできないなら、霊的な成長に問題があることでしょう。それでパウロはエペソ教会の聖徒たちに「・・・困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。(4:28)」と勧めています。自分だけが食べて生きるために働くのではなく、人に施しをするために働いて儲けた財産、それが余裕の財産なのです。私たちクリスチャンはこの財産のために自分の手をもって正しい仕事をし、骨折って働く必要があるのです。三番目の財産は不必要な財産です。これが問題です。不必要な財産、この財産のために多くの人がよけいな心配をしています。この財産のせいで健康を失い、家庭も、自分の名誉も失ってしまう場合が多くあります。多くの資産家たち、政治家たちがそうでした。
ここで、取り上げられている遺産相続の問題も不必要な財産のために起きった問題です。遺産がなければ兄弟同士が醜い争いをする必要もなかったはずです。自分の財産を使わなかったために子どもたちが争うようになったのです。
イエス様はこの三番目の不必要な財産を持つようになった人のことをたとえで話されました。
16-21節をご覧ください。ある金持ちの畑が豊作でした。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えました。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言いました。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。』彼は余裕のある財産を人に施すために使おうとしませんでした。この金持ちは自分のたましいに「たましいよ」と呼びかけています。神様より与えられているたましいまで、自分の力で何とかできると思い上がっているのです。彼は、豊かな実りが神様の恵みによることを忘れています。彼の頭を占めているのは、その作物をしまっておく場所のことだけです。何よりも彼は自分のいのちが神様から与えられていることを忘れ、そのいのちまで自分の力で何とかできるように思い上がっていました。彼は『こう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』と思いました。しかし、そんな彼にどんなことが起りましたか。神様から遣わされた使者は言いました。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。』『今夜ですよ。今夜。』そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』ということです。
たましいは神様のものです。人間のいのちは、私たちの計画どおりにはなりません。ヤコブの手紙4:13-15節に次のようにあります。「聞きなさい。「きょうか、あす、これこれの町に行き、そこに一年いて、商売をして、もうけよう。」と言う人たち。あなたがたには、あすのことはわからないのです。あなたがたのいのちは、いったいどのようなものですか。あなたがたは、しばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。むしろ、あなたがたはこう言うべきです。「主のみこころなら、私たちは生きていて、このことを、または、あのことをしよう。」
人間は神様の被造物の一つであります。そのいのちはしばらくの間現われて、それから消えてしまう霧にすぎません。いのちは一時的なものです。そして、死ぬときには財産を持っていくことができません。よく言われるように、裸で生まれたのだから、裸で帰るのです。ですから、遺産相続の問題で兄弟同士が争うようなことは貪欲です。私たちはこの「貪欲」に注意しなければなりません。貪欲が広がると、兄弟同士だけではなく、町と町が争い、国と国が争うようになります。地上にある様々な争いの種は貪欲です。貪欲のために財産を施すことなく、納屋や倉にしまっておけば、いつまでも安心して、食べて、飲んで、楽しめると思っている人に神様の声がありました。『愚か者。お前のたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたらおまえが用意いた物は、いったいだれのものになるのか。』ということです。
ここで、私たちはこの地上での歩みをどの様にするべきかを真剣に考える必要があると思います。イエス様は『神の前に富まない者はこの通りです。』と言われました。この地上でどんなに蓄えてもそれは誰の物になるのかと言えば、最終的には自分の物になりません。ですから、私たちは神様の前に富む者にならなければなりません。神様の前に富むということは神様のために使うことを意味します。私たちは貪欲に注意して神様から与えられた財産を神様の御心に従って使わなければなりません。私たちが一生懸命に働いて自分の財産を増やすことも、蓄えることも大切です。一生懸命に働いてお金を儲けると、それも楽しみです。しかし、最も大切なのはどのように使うかということです。使わなければ意味がありません。
冗談のようですが、本音を言いますと、正直に言って食べたものだけが自分のものとになると思います。皆さんたくさん食べてください。食べたものは間違いなく自分のものでしょう。食卓の上にあるものでも自分のものではありません。なぜなら、お腹がいっぱいになって食べずに捨てるものもあるからです。というのは使ったものだけが自分のものであるということです。お金をたくさん持っていても、持っているだけでは意味がありません。使ったものだけが自分のものです。そして、この世では人のために使ったもの、人に施したものだけが残ります。
去年、シカゴのグレイス李宣教師が日本に来られた時、こういう話をしてくださいました。火事があってすべてのものを失ってしまいました。着る服さえなくて同労者たちからもらっていたということです。ところが、火事の後の誕生日の時、ダニエル吉羽牧者から送られた葉書を通して大きな事を悟りました。人をもてなしをし、人に施したことだけが残っているということです。吉羽牧者は留学生だった時、グレイス宣教師の家で生活したわけですが、その家でグレイス宣教師に仕えられたことを感謝していたからです。突然の火事のために家も家にあったものも全部失いましたが、その家で人をもてなし、羊のために使った財産、その愛だけが残ったのです。
この世に二種類の金持ちがいると思います。天に蓄えている金持ち、神様の前に富んでいる人と、財産を納屋や倉にしまっておいてそれの奴隷になっている金持ちです。不必要な財産のために心配し、強盗や泥棒を恐れている愚かな金持ちです。私たち一人一人が愚かな金持ちにならず、神様の前に富んでいる賢い金持ち、この地上だけではなく、来世にも神様の祝福を享受する永遠の金持ちとして生きることができるように祈ります。
?。神の国を求めなさい(22-34)
イエス様は、すべての人々のために貪欲に気をつけるべきことを教えてから、弟子たちの問題に目を向けられました。弟子は貪欲に注意することだけで十分ではありませんでした。彼らにありふれている心配の問題を克服しなければならなかったのです。実際に、よく考えてみると、財産があれば「貪欲」になり、無ければ「心配」が出てくるのではないでしょうか。弟子たちは何もかも捨ててイエス様に従ってきた偉い人たちです。でも、彼らも貧しい生活が続くと、食べ物、着物、寿命などの心配が生じるでしょう。心配とは心を配ることですが、大人になればなるほど、心を配らなければならないところも多くなり、心配が多くなってくるでしょう。子どもが多ければ、心配も多くなります。それで「親」漢字は「木の上に立って見渡す」ことを意味しているそうです。親と言う者はいつも子どものことを心配して木の上に立って見渡しているのです。それで、初信者の時に持っていた単純な信仰も歳月が流れて行くと心を配るところも多くなるから心配になることも多くなってくるのです。しかし、キリストの弟子は食べ物や、着物などで心配する必要がありません。もし、心配が生じると、それは自分が不信仰になる時の状態であることを知らなければなりません。神様が守って下さる事をどこか忘れているからです。私たちはそのような不信仰の状態から脱出しなければなりません。では、どうしたら、不信仰から脱出ができるでしょうか。
22、23節をご一緒に読んでみましょう。「それから弟子たちに言われた。「だから、わたしはあなたがたに言います。いのちのことで何を食べようかと心配したり、からだのことで何を着ようかと心配したりするのはやめなさい。いのち(プシュケ)は食べ物よりたいせつであり、からだは着物よりたいせつだからです。」とあります。大体、男の人は何を食べようかと心配し、女の人は何を着ようかと心配しているように見えます。でも男も、女もすべての人が少しは両方とも心配していることでしょう。しかし、イエス様は心配することをやめなさいと言われました。なぜなら、いのちは食べ物より大切であり、からだは着物より大切だからです。イエス様はカラスとゆりの花のことを譬にして弟子たちが不信仰から脱出して信仰を持つように助けられました。
24節をご覧ください。「烏のことを考えてみなさい。蒔きもせず、刈り入れもせず、納屋も倉もありません。けれども、神が彼らを養っていてくださいます。あなたがたは、鳥よりも、はるかにすぐれたものです。」とあります。カラスは今の東京でも良いイメージではないと思いますが、当時のユダヤでも、鳥の中でも醜い動物として数えられていました。それが、神様によって見事に養われているのです。ですから、ましてや、烏よりもずっと尊いあなたがたが、養われないはずがありませんということです。
25、26節をご覧ください。「あなたがたのうちのだれが、心配したからといって、自分のいのちを少しでも延ばすことができますか。こんな小さなことさえできないで、なぜほかのことまで心配するのですか。」とあります。ここで「いのちを延ばすこと」は、「身長を伸ばすこと」と訳すことができます。自分の背が低いからと心配して身長を伸ばすことができるなら、一生懸命に心配する人が多いでしょう。しかし、いくら心配して身長を伸ばすことはできません。むしろ、心配すればするほど縮まってしまうことです。こんな小さな自分の体のことさえできないのに、なぜほかのことまで心配する必要があるでしょうか。だから、心配することは時間の無駄なのです。
27、28節をご覧ください。「ゆりの花のことを考えてみなさい。どうして育つのか。紡ぎもせず、織りもしないのです。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。しかし、きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神はこのように装ってくださるのです。ましてあなたがたには、どんなによくしてくださることでしょう。ああ、信仰の薄い人たち。」とあります。
きょうは野にあって、あすは炉に投げ込まれる草をさえ、神様は栄華を窮めたソロモンに比べられないほどに装ってくださるのです。まして弟子たちのことは言うまでもありません。神様が何よりも大切にして下さらないはずがありません。
ただ、弟子たちの問題は信仰が薄いことです。実際の生活の中で心配が生じることは避けられないかも知れませんが、神様に対する信仰が薄くなってはいけなかったのです。私たちは何を食べたらよいか、何を飲んだらよいか、と捜し求めることをやめ、気をもむことをやめるべきです。これらはみな、この世の異邦人たちが切に求めているものです。しかし、私たちの父なる神様は、私たちに食べ物も、着物も必要であることを知っておられます。ですから、色々な心配があっても神様を信じて神様に委ね、神様に祈り求めるべきです。
31節をご覧ください。「何はともあれ、あなたがたは、神の国を求めなさい。そうすれば、これらの物は、それに加えて与えられます。」とあります。まず神様の前に祈って、神様が喜んでくださる事は何か、それをまず第1に求める事が大切なのです。ジョージ・ミラーは「心配の始まりは信仰の終りである。そして真の信仰が始まる時には、心配が終わるのだ」と言いました。「神様が守り、助け、導いて下さる」と信じたなら心配は消えていくのです。さらに神の国を求める時、私たちは神の国の素晴らしさを体験し、ますます信仰が生じます。しかし、神の国を求めない、自分の信仰さえ守ればいいと思っているなら、そこから心配が始まり、神様への信頼も失われていきます。私たちは、今どちらの道を歩んでいるでしょうか。 この思い煩う心配こそ、私達が神様にあってスクスクと成長していくことを妨げるのです。
私たちは、生活の中で、神様がよくしてくださることを信じ切って生きるべきです。私たちは悪いことが起らないように守ってくださることに対しては信じています。事故に遭わないようにしてくださること、風邪を引かないこと、怪我しないように守ってくださることなどのためにはよく祈るのです。ところが、自分の考えを超えて良くしてくださるのを信じていない傾向があります。しかし、神様は私たちを大いに祝福してくださいます。歴代誌第一の4章10節を見ると「ヤベツはイスラエルの神に呼ばわって言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあり、わざわいから遠ざけて私が苦しむことのないようにしてくださいますように。」そこで神は彼の願ったことをかなえられた。」とあります。彼はまず大いに祝福してくださる神様に期待して祈っています。彼の願いはかなえられました。神様はずっと私たちによくしてあげることを喜んでおられます。
32節をご一緒に読んでみましょう。「小さな群れよ。恐れることはありません。あなたがたの父である神は、喜んであなたがたに御国をお与えになるからです。」大多数の人々がお金中心に生きている世の中で信仰によって生きている人々は小さな群れです。それで、金持ちや権力者たちの前で恐れがちです。この日本において99%の人々がお金を第一に求めている世の中で1%に過ぎない小さな群れがまず第一に神の国を求める生活に励むことはなかなか難しいことでしょう。それで、恐れが生じます。しかし、恐れることはありません。私たちの父なる神様は、喜んで私たちに御国をお与えになるからです。朽ちることも、汚れることも、消えていくこともない神の国を与えて下さるのです。この地上で神様が私たちを守り、大いに祝福してくださることだけではなく、永遠の天国も与えてくださるのです。ですから、私たちは持ち物を売って、施しをする生活に励むことができます。自分のために、古くならない財布を作り、朽ちることのない宝を天に積み上げることができます。そこには、盗人も近寄らず、しみもいためることがありません。ですから、宝を天に積み上げる人こそ賢い人であり、神様に喜ばれる人生を生きる人です。
李ヨシュア・リベカ宣教師は、宣教師にならないで韓国にいたなら、この地上の生活は皆がうらやましがる生活ができました。信仰ある仲良し夫婦であり、夫は公務員として安定的な職場を持っているし、奥さんは教師でしたから、かなりの財産を増やすことができたでしょう。実際に清洲センターの建築のためにも大きな役割を果たしました。ですから、教会でも尊敬される牧者として名誉もありました。しかし、日本宣教のために、日本に来て地上の財産より、さらに優れた宝を天に積み上げる生活のために励んでいます。今、現実的には、狭い家で住みながら二人ともアルバイトする生活も決断して日本宣教のために励んでいます。現実的には貧しい生活になりましたが、霊的には金持ちであり、天での報いは大きいものでしょう。この地上でも必ず神様が大いに祝福して下さることを信じます。
どうか、私たち一人一人が朽ちることのない宝を天に積み上げるためにますます励むことができるように祈ります。私たちの宝のあるところに、私たちの心もあります。私たちが兄弟姉妹たちのために施し、天に宝を積み上げて行くときに、私たちの心も、神の国にあるから、神様はそれを非常に喜んでくださいます。
結論的に私たちが貪ることも、心配することもなく、神の国を求め、神の国に宝を積み上げていくことができるように祈ります。神の国における報いは、地上のものと異なって、朽ちることも、損なわれることもなく、いつまでも保ちます。だから、地上のことよりも、天のことや神の国のことを考え、そのために励みましょう。