2003年ルカの福音書第31講

御姿が変わられたイエス様

御言葉:ルカの福音書9:28?36
要 節:ルカの福音書9:29「祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた。」

今日は教会暦によると、アドベント主日、つまり待降節の始まりとされています。クリスマスシーズンに入っていくわけです。アドベントというラテン語は「表れ、来臨」を意味していますが、また再臨への備えをも意味しているそうです。私たちがアドベントの期間、クリスマスを備えることとともにやがて再び来られるイエス様のご再臨も備えて行きたいと思います。
今日の御言葉は祈るために山に登られたイエス様の御姿が変わられた出来事です。イエス様は栄光の輝きに満ちたお姿で、現われたのです。この変貌の光景は、世の終わりに王の王としての権威を持って再臨される時の栄光の雛形です。イエス様は、弟子たちが栄光の輝きに満ちた主の御姿を見て希望を持ち、イエス様の言うことをよく聞いて十字架の道に歩むことを願われました。
私たちは十字架の道を考えると、何だか肩が重くなり、心も重くなるかも知れません。確かに自分を捨て、日々自分の十字架を負って行くことはやさしくありません。しかし、この時間、霊的な目が開かれて栄光に輝いた主の御姿を見ることができるように祈ります。それによって十字架の道は栄光に至る道であることに対する確信と喜びを持って歩んでいくことができるように祈ります。

?。光り輝いたイエス様の御姿(28‐32)

私たちは先週、収穫感謝祭の礼拝をささげたので、今日の御言葉の背景は先々週の御言葉になります。イエス様は弟子達に『あなたがたは、わたしをだれだと言いますか?』と質問されました。そこで、ペテロは『神のキリストです。』と答えましたが、この答えにイエス様は満足しました。そして、その時を機会として「十字架の道」を語り始めました。イエス様はご自分がキリストとして王の王、主の主であることは間違いありませんが、これからご自分が、酷い目にあうことを教えられました。それだけではなく、弟子たちにも『自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。』と言われました。その後、イエス様は約一週間程して弟子達を連れて山に登って行かれました。
 28節をご覧ください。「これらの教えがあってから八日ほどして、イエスは、ペテロとヨハネとヤコブとを連れて、祈るために、山に登られた。」とあります。イエス様は、ペテロとヨハネとヤコブとを連れて、祈るために、山に登られました。この山はパレスチナの北方、アンティ・レバノン山脈の南端にあるヘルモン山であると言われています。イエス様はなぜ山に登られたでしょうか。一般的に人々は複雑でうるさい世俗生活から離れて澄んでさわやかな空気を吸い込み、頭を冷やすために山に登ります。私は時間さえあれば、子どもたちを連れて山に登ることを楽しんでいますが、それは山が好きだし、子どもの教育のためにも良いと思っているからです。しかし、イエス様は祈るために山に登られました。おそらく、イエス様は信仰告白した弟子たちが十字架の道を歩んでいくことができるように祈ろうとされたことでしょう。特に、ご自分の十字架を通して成し遂げようとしておられる神様のご計画がそのまま全うされるように祈るために山に登られたでしょう。人を霊的に助けることも、神様から与えられた使命を担うことも祈りがなければなりません。祈りは人を一番よく助けることができる手段であり、自分が霊的に成長し、使命を担うのに必要な力の源です。ではイエス様が祈っておられると、どんなことが起りましたか。
 29節をご一緒に読んでみましょう。「祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝いた。」イエス様が祈っておられると、御顔の様子が変わり、御衣は白く光り輝きました。マタイの福音書によると「御顔は太陽のように輝き、その服は光のように白くなりました」(現代語訳)。普段の埃と汗だらけのお顔からは想像することもできないほど、栄光の輝きに満ちたお姿に変わられました。山の下におられた時の姿とは全く違う姿に変わられたのです。
 この御姿は今までの姿とは全く違いました。対照的になっています。今まで弟子と寝食を共にされる主の姿は貧しい姿でした。暑さの中で汗をかき、旅に疲れ、埃にまみれた姿でした。イエス様は羊飼いのいない羊のような人々に仕えるために身体も、心も疲れている姿をしておられました。イザヤ預言者が記したように、イエス様は若枝のように芽生え、砂漠の地から出る根のように育ちました。彼には、私たちが見とれるような姿もなく、輝きもなく、私たちが慕うような見ばえもありませんでした(イザヤ53:2)。
 しかし、イエス様の本来の姿は違いました。イエス様は天地を創造された全能の神様です。栄光と誉れと力に満ちたお方です。私たちはこの栄光の姿を知らなければなりません。使徒ヨハネはローマ帝国の迫害のために島流しにされてパトモスという島にいきました。人間的に見ると、それはとても苦しく、辛いことでありました。一般的に考えると、ローマ帝国に対する憤りと恨みに燃えるような状況でした。しかし、彼の心には栄光に輝くイエス様の姿が刻まれました。彼は幻の中でこのイエス様の輝かしい姿を考える時に、もっと具体的に栄光の姿が見えて来ました。黙示録1:13-16節を開いてみましょう。「それらの燭台の真中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。」とあります。ここで、足までたれた衣は大祭司や王の礼服として尊厳と威厳を表わします。胸の帯は権威と正義を表わします。白い羊毛のように、また雪のように白くなっている頭と髪の毛はキリストのきよさと永遠性を表わします。燃える炎のような目は人の心を貫くキリストの洞察力を意味します。右手に持つ七つの星は宇宙的な教会を象徴し、口から出ている鋭い両刃の剣はお言葉の権威と力を表わしています。御顔は強く照り輝く太陽のようでした。イエス様は頭から足までお体全体が栄光と力と誉れに満ちていたのです。使徒ヨハネはこのイエス様の御姿を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになりました。
 ルカはイエス様が祈られると、このような栄光の姿に変わられたことを記しました。イエス様は祈られると栄光の姿に変わられたのです。これは私たちに示唆してくれることがあると思います。私たちは祈ると変わるのです。祈ると、今までの姿とは違う別の姿に変わります。栄光から栄光へと変えられて行きます。祈ると、人は神様との交わりを通して変えられて行くのです。
ルカはこの福音書を尊敬するテオピロ殿へ書き送りました。当時、テオピロはローマの迫害の中でも信仰を守り、神様を愛する生活のために大変苦労していたのではないでしょうか。彼は疲れ、弱くなっていたかも知れません。華やかなローマ皇帝に比べてみると、自分の姿はみすぼらしく見えたことでしょう。しかし、しかし、ルカは私たちクリスチャンには栄光の世界がある、清らかな、輝かしい世界、輝かしい姿に変わる世界があることを示されました。そして、祈るとその栄光の世界に入ることができると証しました。祈りによってはいられる世界は栄光の世界なのです。
私たちにも今の自分の姿とは違う姿があります。栄光の姿があるのです。現在、自分の姿は自分も満足できない姿であるかも知れません。弱くてみすぼらしい姿、汚れている姿であるかも知れません。しかし、私たちには全く違う姿があります。白い姿、清らかな姿、汚染されてない姿、輝く姿があります。祈る時に私たちの姿は変わります。ある方は祈る姿が人間にとって一番美しいと言っています。そうでしょう。しかし、もっと大切なのは心であり、人格的な美しさです。祈ると私たちは本質的に変わり、人格、品格が美しくなります。キリストの香りを放つようになります。栄光から栄光へと変えられて行きます。輝かしい栄光の姿に変えられて行くのです。
祈りはこの栄光の姿に変えられて行く通路です。祈りを通して栄光の姿に変わることができるのです。ではイエス様はなぜ、弟子たちにご自分が変わられた栄光の姿を見せられたのでしょうか。それは彼らが輝かしいイエス様の御姿を心に深く刻むことを願われたからです。この栄光の姿に対する希望を持って十字架の道に歩むことを願われたからです。
神様は私たちが栄光の姿を望みながら、聖なる神の民として生きることを願っておられます。ところが、クリスチャンの中には主と福音のために忠実に働きながらも、何だか悲しい、暗い姿を見せている人たちが多くいます。捨てなければならない悪い習慣や罪のためである場合もありますが、心構えの問題もあります。自分が負わなければならない十字架をあまりにも重く思っていて暗い生活をしている人もいるのです。人間はだれだって悲しい問題も、苦しい問題も、あるし、自分の十字架があると考えています。もちろんそうですが、人生はそれだけではありません。そう思っているのは、キリストを信じていても、心の中に十字架につけられたイエス様の姿だけが刻まれているからです。しかし、イエス様は死に打ち勝ち、よみがえられました。復活によって復活の主、勝利の主、栄光の主となられました。私たちの心にこのイエス様の輝かしい栄光の姿を刻まなければなりません。このキリストのゆえに、自分も栄光から栄光へと変えられていくという希望をつかんで生きる時、私たちは明るく、力強く希望に満ちて人生を生きることができます。
30,31節をご覧ください。「しかも、ふたりの人がイエスと話し合っているではないか。それはモーセとエリヤであって、栄光のうちに現われて、イエスがエルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのである。」とあります。ふたりの人がイエス様と話し合っていました。モ?セとエリヤが現われていたのです。モ?セは神様から律法を授けられてイスラエルに制定した人物として「律法」を代表しています。エリヤはただ一人でバアルの預言者たちと戦った神の人として「預言者」を代表しました。それで、現代語訳の聖書によると「それは旧約の律法を代表するモーセと、預言者を代表するエリヤであって」と訳されています。律法と預言者を代表するふたりが主イエス様と共にいたのです。これは、「律法と預言者」つまり聖書自身がイエス様をキリストとして権威づけていることを意味しています。この二人は再び現われることが預言されてもいました。モ?セは、神様と顔と顔を合わせて語りあったほど、親しい神様との関係に生き、神様の言葉を代弁しました。そのような預言者が再び立てられ送られると約束されていたのです。そしてその預言者に聞くことが求められていました(申命記18章15?19節)。またエリヤも再び遣わされるとマラキは預言していました(3章22?24節)。神様からこの二人が遣わされて、イエス様と話し合っていました。エルサレムで遂げようとしておられるご最期についていっしょに話していたのです。ここで、「ご最期」とは聖書の欄外注に「輝き」と訳すことができると書いてあります。これはイエス様の最期が十字架で終わるのではなく、輝きに移される、今見ている栄光の世界にはいられることを示唆してくれます。ヘブライ語、ギリシャ語に詳しい李パウロ牧者によると、原語の意味では「出エジプト」を意味しているそうです。これはモーセがイスラエルをエジプトから脱出させたことと同じく、イエス様はご自分の死によって私たち人間を罪とサタンの支配から脱出させてくださるということです。イエス様の最期、すなわち、イエス様の十字架の死は、私たちを滅亡の世界から出エジプトさせて輝きの世界、永遠のいのちの世界、神の国へと導きいれられるのです。私たちはイエス様の死を通してのみ、本当の意味での出エジプトができるようになります。ですから、イエス様は律法と預言のとおりに、十字架の死を通して神様のご計画を遂げなければなりません。
 イエス様はこの十字架の死について二人と話し合っていたのです。ですから、イエス様は十字架の死を目の前にしてとても大切なことを話し合っていました。ところが、この時、弟子たちは何をしていましたか。
32節をご覧ください。「ペテロと仲間たちは、眠くてたまらなかったが、はっきり目がさめると、イエスの栄光と、イエスといっしょに立っているふたりの人を見た。」恐らく、イエス様が祈り始められたその時から、弟子たちは眠くなっていたでしょう。イエス様の祈りが長くなって行く内に、弟子達はますます眠くなってきました。何か不思議な事が起きている様だが、ぼーっとしていました。光輝くのを見ましたが、なかなか目が覚めない状態でした。やっと目が開けられた時、そこには栄光に輝くイエス様の御姿が見えました。それだけではありません。他に二人の人物がいるのを見たのです。本当に素晴らしい光景でした。そこで、神様は彼らに何を言われましたか。

?。彼の言うことを聞きなさい(33‐36)

33,34節を読んでみましょう。「それから、ふたりがイエスと別れようとしたとき、ペテロがイエスに言った。「先生。ここにいることは、すばらしいことです。私たちが三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」ペテロは何を言うべきかを知らなかったのである。彼がこう言っているうちに、雲がわき起こってその人々をおおった。彼らが雲に包まれると、弟子たちは恐ろしくなった。」
モーセ、エリヤがイエス様と別れる事が弟子達にもわかったのでしょう。ペテロは何とかして今の状態、即ち神の栄光の輝きを見続けられるようにしたいと思ったのでしょうか。「幕屋を造ってここにいられるようにします」といっている訳です。しかしこれは何の意味もない事です。栄光の身体にある彼らにとって、幕屋などは必要がありません。私たちクリスチャンは死んだら「神の家」が供えられています。イエス様は言われました。「わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです(ヨハネ14:2)。この「住まい」というのは、「マンション」「邸宅」を意味しています。私達にはその場所が備えられているのです。ですから、ペテロが手で造った幕屋は必要ない訳です。彼はただ引き止め様として、無意味な事をいったのです。 
しばしば私達も霊的な備えが出来ていなかったり、心の目が開かれていなかったりすると、ペテロのようなことを言ってしまいます。とんちんかんな事を言ってしまうのです。ペテロがとんちんかんなことを言っているうちに、雲がわき起こってその人々をおおいました。彼らが雲に包まれると、弟子たちは恐ろしくなりました。弟子たちはどうすればいいのかよく分からなくなったでしょう。しかし、神様は弟子たちに何を求められましたか。
35節をご一緒に読んでみましょう。「すると雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしの選んだ者である。彼の言うことを聞きなさい。」と言う声がした。」とあります。弟子たちは「彼の言うことを聞きなさい。」という神様の御声を聞きました。弟子達は恐ろしくなって、ひれ伏していました。
私達はここから御言葉を聞くことの大切さを学ばせていただくことができます。ペテロがイエス様の輝きの中でモーセとエリヤとともにずっといることを願いました。それは素晴らしいことです。しかし、もっと素晴らしいことはイエス様の言うことを聞くことです。私たちが涙ながら賛美し、主のご臨在を体験することは素晴らしいことです。しかし、もっと素晴らしいことはイエス様が言われることを聞くことです。イザヤ書を見ると神様は言われます。「・・・わたしに聞き従えば/良いものを食べることができる。あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。聞き従って、魂に命を得よ。・・・」(イザヤ55:2,3,新共同訳)。神様の御声を聞くことは楽しみであり、たましいにいのちを得る道です。では私たちはどのようにして神様の御声を聞くことができるでしょうか。神様は何を通して語られるでしょうか。神様が語られる方法はいろいろあります。ペテロは鶏が鳴く声を聞いて悔い改めました。ペテロは鶏の鳴き声を通して神様の御声を聞いたのです。アウグスチヌスは雷に倒れた友たちのことを考えながら神の声を聞いて悔い改めました。しかし、最も一般的であり、確かな方法は、やはり御言葉の黙想を通して神様の御声を聞くことです。神様の御言葉を読んで黙想したり、書き記したりする時、神様は記された御言葉を通してご自分の声を聞かせてくださいます。どんな方法で聞かせてくださいますか。悟りを通してです。
御言葉を読んで、その御言葉を胸に抱くことが黙想であり、ディボーションです。鶏がひよこを抱くようにクリスチャンはいつも胸の中に御言葉を抱かなければなりません。聖霊は抱いている御言葉を通して私たちを悟らせてくださいます。ですから朝ごとに日ごとの糧を食べる時間を持つことはとても大切です。御言葉を読み、祈る事により、神様の御声を聞き、神様と交わることができます。イザヤはその恵みを告白しています。「神である主は、私に弟子の舌を与え、疲れた者をことばで励ますことを教え、朝ごとに、私を呼びさまし、私の耳を開かせて、私が弟子のように聞くようにされる。」(イザヤ50:4)。神様の御声は愛の声です。パウロ・ティリヒという方は「愛の第一の義務は聞くことである」と言いました。愛は聞くことによって深くなります。私たちが神様に愛される時は、御声を聞く瞬間です。ヘンリナウエンという人は「イエス様は体全体が耳だった」言いました。イエス様は全身全霊で神様の御声を聞き従われました。
36節をご覧ください。この声がしたとき、そこに見えたのはイエスだけであった。彼らは沈黙を守り、その当時は、自分たちの見たこのことをいっさい、だれにも話さなかった」とあります。神様の御声がしたとき、そこに見えたのはイエス様だけでした。弟子たちは沈黙を守り、その当時は、自分たちの見たこのことをいっさい、だれにも話しませんでした。彼らはこの輝かしい経験を胸深く葬って置きました。そして、イエス様がよみがえられてから、復活の証人として生きる時、主が残された苦難に喜んで参加することができました。ペテロは変貌山での経験は十字架を担う原動力となったのです(?ペテロ1:16,17)。

結論的に、私たちは輝かしいイエス様の御姿を心に刻み、私たち自身も栄光から栄光へ、御姿にまで変えられる希望を持ちましょう。それは祈りと御言葉を聞くことによってできます。私たちがイエス様のように祈り、御言葉を聞く生活を通して輝かしい経験をし、主から与えられた十字架を担って行くことができるように祈ります。