2004年ルカの福音書第43講
努力して狭い門から入りなさい
御言葉:ルカの福音書13:18?35
要 節:ルカの福音書13:24「努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。」
先週は大学の入学式があってキャンパスは活気に溢れています。昨日早稲田大学に行ってみたら、多くの学生達でにぎやかでした。東京大学には赤門があることはよく知られています。東京UBFには赤門フェローシップがあります。それでは早稲田大学を象徴する門にはどんな門があるか知っていますか。無門の門という門があります。門がない門です。なぜ無門の門というかというと、皆さん早稲田大学の正門を見たことがあると思いますが、門らしい門がありませんね。これが正門かと思われるほどです。早稲田大学は開かれた大学を目指して正門をこのように作ったらしいです。このように早稲田大学の正門は開かれていて学生ではない私でも自由に入ることができます。しかし、実際に受験して早稲田大学に入ることはやさしくありません。狭い門です。学生達は赤門に入ることを夢見ていますが、その門はとっても入りにくい狭い門です。今日の御言葉を見るとイエス様は救いに至る門も狭い門だと言われます。なぜ救いに至る門は狭い門でしょうか。また、私たちはこの狭い門から入るためにどうすればいいでしょうか。
18-21節でイエス様は神の国を「からし種」と「パン種」にたとえて話されました。19節をご覧ください。「それは、からし種のようなものです。それを取って庭に蒔いたところ、生長して木になり、空の鳥が枝に巣を作りました。」からし種は非常に小さい種です。ところがその種が生長して木になると空の鳥が枝に巣を作るほどになります。イエス様は赤ん坊としてこの世にお生まれになりました。そしてイエス様はイスラエルでも無視されていたガリラヤで福音を宣べ伝え始められました。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」(マルコ1:15)。イエス様によって始まった神の国はからし種のような小さなものでした。しかし、その神の国は全世界に広がるようになりました。
20,21節をご覧ください。「またこう言われた。「神の国を何に比べましょう。パン種のようなものです。女がパン種をとって、三サトンの粉に混ぜたところ、全体がふくれました。」ユダヤ人はふつう、影響をあらわす比喩にパン種を用いました。少しのパン種を大量の粉に混ぜると全体がふくれます。私たちクリスチャンはパン種のような存在です。日本にはクリスチャンが少ないのですが、私たちクリスチャンはパン種のように自分が属している家庭や学校や会社を変えてしまうことができる者です。私たちはよく神様に祈るとき、「早稲田大学に一人のアブラハムを立ててください。東大に一人のアブラハムを立ててください。」と祈ります。何万人の学生達の中で一人はパン種のように小さなものです。しかし、そのように小さな一人によって全体が変わることができるのです。ですから、パン種のような一人が大切です。皆さんは自分がパン種のような存在であると信じていますか。それとも私のような小さな者に何ができるかと思っていますか。私たちクリスチャンは私たちが入る家庭や教会、職場やキャンパスを変えることができる可能性を持っている存在です。さらにはこの国を聖なる国民、祭司の王国として変えることができる存在です。
22,23節をご覧ください。イエス様は、町々村々を次々に教えながら通り、エルサレムへの旅を続けられました。イエス様は、エルサレムに行って十字架につけられます。イエス様は死を目前にしておられましたが、町々村々を次々に教えながら通られました。すると、「主よ。救われる者は少ないのですか。」と言う人がありました。当時のユダヤ人は、自分達は神様から選ばれた民だから自動的に救われると思っていました。ところが、イエス様は彼らも悔い改めなければみな滅びると教えました(13:5)。また、「最後の一レプタを支払うまでは、そこから決して出られない」とも言われました(12:59)。それで彼は「主よ。救われる者は少ないのですか。」と質問したようです。
イエス様はこの人の質問に対してどのように答えられましたか。24節をご一緒に読んでみましょう。「努力して狭い門からはいりなさい。なぜなら、あなたがたに言いますが、はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。」人々が選択できる門には二つあります。一つは狭い門であり、もう一つは広い門です。イエス様はマタイの福音書7:13,14節で次のように言われました。「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです。いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです。」広い門は大きく、その道は広くてそこからはいって行く者が多いのですが、それは滅びに至る門です。狭い門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれですが、それはいのちに至る門です。ですから、イエス様は「狭い門からはいりなさい。」と言われます。
それでは狭い門から入ることは具体的にどのようにすることでしょうか。人々は富士山の頂上に至る道が幾つもあるように救いに至る門も多くあると言います。そして、どんな宗教を信じても結局至るところは同じだと考えています。しかし、イエス様は言われました。「わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。」(ヨハネ10:9)。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14:6)。イエス様は救いに至る唯一の門です。ペテロは使徒の働き4:12で次のように言いました。「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」救いに至る唯一の門であるイエス様を信じて従う生活をすることが狭い門から入ることです。先週の御言葉から学んだように自分の罪を悔い改めてそれにふさわしい実を結ぶことが狭い門から入ることです。
イエス様はなぜ努力して狭い門から入るように言われたのでしょうか。人々は誰も罪悪な本性を持っています。その本性のままに従ってしまうとどうなりますか。怠けた本性に従うと怠け者になります。太った人が食欲を自制しないとどんどん太ります。祈ることを決心しても努力しないと祈り続けることができません。聖書を読むこととテレビのドラマを見ることとどちらがやさしいと思いますか。テレビのドラマを見ることは努力しなくてもできますが、聖書を読むことは努力が必要です。狭い門から入ることは人間の罪悪な本性に逆らうことことですから努力が必要なのです。イエス様に従うためにはときには自分の考えや計画を捨てなければならない時もあります。狭い門は努力しなくても自動的に入れる門ではありません。学生達は良い大学に入るために努力しています。また、良い会社に入るために努力しています。張パウロ宣教師は先週卒業所感を発表しました。彼は論文を書いて卒業するためにかなり努力したことがわかります。その結果、無事に卒業し、就職して先週からは新会社人になって初出勤しました。このように人々が努力して狭い門に入ろうとするのはなぜでしょうか。狭い門に入ることに価値があるからです。そこに価値があるから人々はもっと遊びたい、もっと眠りたい欲望と戦いながら努力するわけです。イエス様を信じて従う狭い門から入る時に得られる救いは世の何ものよりも大切なものです。それで聖歌521番は次のように歌っています。「キリストには変えられません。世の宝も、また、富も。このお方が私に変わって死んだゆえです。」この救いは永遠のいのちを得ることであり、朽ちることも汚れることも消えて行くこともない神の国を所有することです。さらに、この世でも豊かな聖霊の実を結ぶことです。マラソン選手は金メダルを得るために人間の体力の限界を超える努力をします。私たちは神様から与えられるいのちの冠を得るために目標を目指して信仰の競争をしている者です。このような私たちにイエス様は言われます。「努力して狭い門からはいりなさい。」
イエス様は今狭い門からはいらないと後でどうなると言われますか。「はいろうとしても、はいれなくなる人が多いのですから。」と警告しておられます。キャンパスで伝道して見ると、今は試験勉強でいそがしいので試験に合格すれば聖書を読んでみると言う人がいます。すると、私はその学生に「今が聖書勉強できるチャンスです。再びこのようなチャンスは来ないかも知れません。」と言います。信仰生活は今が大切です。人は明日のこともどうなるか知らないからです。私はこの前春分の日に10キロマラソン大会に出ました。私はその大会に出るために戸山公園で練習しました。大会の時には雪がふってかなり寒かったのですが、普段の練習の成果もあって以前よりよい記録で完走することができました。普段全く走ってない人が「ジャー。明日はマラソン大会があるから今日はいっぱい練習しよう。」と言って練習しても、当日最後まで走ることは無理だと思います。信仰生活も同じです。「時間の余裕があれば聖書勉強をしてみます。歳を取ったら教会に行きます。」と言う人は、その時にははいろうとしても、はいれなくなるかも知れません。ですから、今が大切であり、普段の信仰生活が大切です。そのように努力して狭い門から入る人が救われるのです。
25節をご覧ください。「家の主人が、立ち上がって、戸をしめてしまってからでは、外に立って、『ご主人さま。あけてください。』と言って、戸をいくらたたいても、もう主人は、『あなたがたがどこの者か、私は知らない。』と答えるでしょう。」家の主人から知らないと答えられた人々は何を言い始めますか。26節をご覧ください。「私たちは、ごいっしょに、食べたり飲んだりいたしましたし、私たちの大通りで教えていただきました。」しかし、主人は「私はあなたがたがどこの者だか知りません。不正を行なう者たち。みな出て行きなさい。」と言いました。彼らは主人と関係性がありませんでした。信仰生活において大切なのは、イエス様と個人的な関係性を結ぶことです。知識的には神様についてよく知っているとしても神様との個人的な関係が結ばれていない人に対して神様は「私はあなたがたがどこの者だか知りません。」言われます。私は小泉純一郎さんが日本の総理であることを知っています。彼の顔もテレビで見て知っています。しかし、彼との個人的な関係が結ばれていないので、もし私が彼に電話して「私、金ヨハネです。」と言っても、彼は「私はあなたがたがどこの者だか知りません。」と言うでしょう。ヨハネの福音書15:5,6節でイエス様は次のように言われました。「わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。」イエス様と私たちの関係はぶどうの木と枝の関係です。枝は木から離れると枯れてしまいます。枝である私たちがぶどうの木であるイエス様と個人的な関係性を結ぶことは救いにかかわる最も大切なことです。ですから、日々主との交わりを通して自分の罪を悔い改める生活をしなければなりません。イエス様と交わりを通してイエス様を学ぶ生活をしなければなりません。
ノアは神様からの裁きの警告を受けてから120年間も毎日箱舟を作りました。しかし、当時の人々はそのようなノアをからかったでしょう。「こんなに良い天気なのに、大雨が降るからと言ってそんなにでっかい舟を、それも山の上に作るノアは頭がおかしくなったのではないか。」そして、ノアが箱舟にはいるその日まで、食べたり、飲んだり、めとったり、とついだりしていました。ところが、洪水が来て、すべての人を滅ぼしてしまいました(ルカ17:27)。ノアの家族が箱舟の中に入ると主は戸を閉ざされました。地上に残された人々のためにもう一度開かれることはありませんでした。今は主が救いの門を開いておられる恵みの時です。しかし、その門はいつまでも開かれているのではありません。閉ざされる時が来るのです。その時、「神様。あけてください。」と言って、戸をいくらたたいても、もう神様は、「あなたがたがどこの者か、私は知らない。」と答えるでしょう。ですから、私たちはその門が開かれている今、神様とのよく関係を結び、努力して狭い門から入らなければなりません。
努力して狭い門から入らない人はどうなりますか。28節をご覧ください。「神の国にアブラハムやイサクやヤコブや、すべての預言者たちがはいっているのに、あなたがたは外に投げ出されることになったとき、そこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするのです。」イスラエル人は神様から選ばれた民、アブラハムの子孫だから自動的に神の国に入れると思っていました。当然入れると思っていたのに入れなくなるとどれほど悔しいでしょうか。彼らは悔しくてそこで泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするのです。大学試験に落ちたら浪人生活をして次の機会に入ることができます。しかし、救いの門に入ることは浪人生活ができません。一度閉ざされた救いの門は二度と開きません。その救いの門が閉ざされてしまい、入れない人は火と硫黄の燃える地獄で泣き叫んだり、歯ぎしりしたりするのです。
29,30節をご覧ください。「人々は、東からも西からも、また南からも北からも来て、神の国で食卓に着きます。いいですか、今しんがりの者があとで先頭になり、いま先頭の者がしんがりになるのです。」ここで「今しんがりの者」とは、異邦人の中でイエス様を信じたクリスチャンです。「いま先頭の者」とは、ユダヤ人を指しています。彼らには「先頭の者」として神様から選ばれる恵みと特権が与えられました。それについてローマ人への手紙9:4,5節は次のように言っています。「彼らはイスラエル人です。子とされることも、栄光も、契約も、律法を与えられることも、礼拝も、約束も彼らのものです。先祖たちも彼らのものです。またキリストも、人としては彼らから出られたのです。このキリストは万物の上にあり、とこしえにほめたたえられる神です。アーメン。」このようにイスラエル人は多くの特権と恵みを受けましたが、高慢になり、キリストを十字架につける罪を犯しました。「いいですか、今しんがりの者があとで先頭になり、いま先頭の者がしんがりになるのです。」この御言葉は今の私たちにも与える警告の御言葉です。すでにイエス・キリストを信じるようになった人はそうでない人と比べると「先頭の者」です。しかし、私たちもしんがりになることができるのです。それで使徒パウロは「ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。」(?コリント10:12)と言いました。ですから、自分は今立っていると思い、高慢になると成長が止まってしまいます。ですから、私たちは神様の御前で謙遜な態度を持って信仰生活をしなければなりません。自分の罪を悔い改め、それにふさわしい実を結ばなければなりません。
31節をご覧ください。ちょうどそのとき、何人かのパリサイ人が近寄って来て、イエス様に言いました。「ここから出てほかの所へ行きなさい。ヘロデがあなたを殺そうと思っています。」これを聞いたイエス様は何と言われましたか。32,33節をご覧ください。「行って、あの狐にこう言いなさい。『よく見なさい。わたしは、きょうと、あすとは、悪霊どもを追い出し、病人を直し、三日目に全うされます。だが、わたしは、きょうもあすも次の日も進んで行かなければなりません。なぜなら、預言者がエルサレム以外の所で死ぬことはありえないからです。』」イエス様はいのちの危険にさらされていましたが、人類の救いのみわざを完成するために使命人としての道を最後まで歩まれました。使徒パウロもこのような使命人としての態度を持っていました。彼は使徒の働き20:24で次のように言いました。「けれども、私が自分の走るべき行程を走り尽くし、主イエスから受けた、神の恵みの福音をあかしする任務を果たし終えることができるなら、私のいのちは少しも惜しいとは思いません。」私たちもどんな状況の中でも揺れることなく最後まで使命人としての道を走り終えることができるように祈ります。
34節をご覧ください。「ああ、エルサレム、エルサレム。預言者たちを殺し、自分に遣わされた人たちを石で打つ者、わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。それなのに、あなたがたはそれを好まなかった。」イエス様はエルサレムに向かって嘆息されました。神様はエルサレムの人々を救うために多くの預言者達を遣わしました。しかし、彼らは預言者達を迫害し、殺しました。イエス様はそのような彼らをめんどりがひなを翼の下にかばうように、彼らを幾たびも集めようとしました。イエス様は彼らに愛の限りを尽くされましたが、彼らは拒み続けました。それでイエス様は非常に悲しまれました。イエス様はこのような彼らがどのようになると言われますか。35節をご覧ください。「見なさい。あなたがたの家は荒れ果てたままに残される。わたしはあなたがたに言います。『祝福あれ。主の御名によって来られる方に。』とあなたがたの言うときが来るまでは、あなたがたは決してわたしを見ることができません。」イエス様は彼らが荒れ果てるようになると警告されます。神様の愛を拒むことは、ついには神様の怒りを招くことになります。
この時間、私達は「努力して狭い門からはいりなさい。」という御言葉を学びました。イエス様を信じて従うことは確かに狭い門です。しかし、その門から入る人は救われ、永遠のいのちが与えられます。神の国を所有します。私たちが罪悪な本性に従わず、努力して狭い門から入ることができるように祈ります。日々イエス様とのよい交わりを持ち、豊かな聖霊の実を結ぶことができるように祈ります。