2004年ルカの福音書第44講

さあ、おいでください

御言葉:ルカの福音書14:1?35
要 節:ルカの福音書14:17 宴会の時刻になったのでしもべをやり、招いておいた人々に、『さあ、おいでください。もうすっかり、用意ができましたから。』と言わせた。

 先週は、イースター礼拝を通してよみがえりであり、いのちであるイエス様を信じるように導いてくださった神様に感謝します。私は先々週から続いている足の痛みのために心までも弱くなる時がありました。その時、6人兄弟を育てるために大変な苦労をしつづけた父親の姿が思い浮かびました。そして、自分も3人、4人の父親として頑張らなければならないと思いました。ところが、そう思えば思うほど方が重くなり疲れてしまいました。それで、学校から帰ったら着替えもしないで寝てしまう時もありました。しかし、夜明けに祈ると、主は主日に伝えた御言葉を再び、思い出し、信じるようにしてくださいました。特に「いのちです」といわれた御言葉が大きな恵みになりました。主はいのちであり、自分のいのちもいのちの主にあると思うとき新しい力が生じました。よみがえりであり、いのちである主を信じる時、「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。あなたが私とともにおられますから。(詩篇23:4)」と告白できることを感謝します。
今日の御言葉は救いがどうやって異邦の世界に流れるようになったかを教えてくれます。ここには二つのたとえがあります。一つはパリサイ人の食事会であり、もう一つは神様の宴会です。神様の宴会は貧しい人、病人、罪人たちが招かれてキリストの交わる天国の宴会です。ここで、私たちは救いの宴会を催し、罪人を切なる心で招いておられる神様の愛の声を学ぶことができます。どうか、イエス様の交わり、天国の宴会に招かれる主の御声を聞くことができるように祈ります。特にSBCを準備する私たちに「さあ、おいでください。」と招かれる主の切なる心を与えてくださるように祈ります。

?。パリサイ人の食事会(1-14)

 福音書には食事をする場面が多く出てきますが、ルカ14章はその一つです。ここで、当時ユダヤ人の食文化について少し触れたいと思います。当時のユダヤ人が考える食事は、単に食欲を満たすことだけのものではありませんでした。人々と交わることが大きな目的でした。彼らは、現在の私たちのように別々の皿でひとりひとりが食べるのではありませんでした。同じ一つのパンを裂いて食べ、同じ皿からスープを飲みました。それによって「私たちは一つである、同じ仲間である」という意識を持つことができたのです。ですから、だれかから食事に招かれる、あるいはだれかを招くことは、交わりの中に入ることを意味しました。
 1節をご覧ください。あるパリサイ派の指導者の家に、人々が食事に招かれました。指導者の家ですから、彼の肩書きにふさわしい人々が招かれていたでしょう。そこにイエス様も招かれていました。イエス様は誰から招かれても食事会にはよく出席しておられました。そして食事の後に叱るべきことに対しては、はっきりと叱られました。パリサイ人たちは何回も叱られたはずですが、今回は自分たちがイエス様を叱り、訴えようと思いました。それで、みんながじっとイエス様を見つめていました。そこに、イエス様の真正面に、水腫をわずらっている人がいました。この病人は招かれるべきでない客でした。パリサイ人たちにとってこの病人がいっしょにいることは意外だったのです。なぜなら、水腫は体内から水が出て行く病気であり、彼らはこれを神ののろいのしるしと考えていたからです。パリサイ人たちはこのような病人を助けるどころか、差別し、遠ざけていました。自分たちの集りから排除しようとしていました。さらに悪いのは、この哀れな人さえを利用してイエス様を攻撃しようとしていました。安息日についてイエス様の教えが自分たちと違っていたので、イエス様がこの水腫の人を直すかどうか、じっと見つめていたのです。みなが一致してイエス様を攻撃するためです。
そうした彼らの誤った態度に、イエス様はメスを入れられました。
 3節をご覧ください。「イエスは、律法の専門家、パリサイ人たちに、「安息日に病気を直すことは正しいことですか、それともよくないことですか。」と言われた。」とあります。イエス様は、安息日に病気を直すことは正しいかどうかをと聞いています。水腫は不治の病で死に至る病です。イエス様は死から救うのは正しいのか、と聞かれたのです。彼らは、本人を目の前にして、間違っていますと言うことはできませんでした。彼らは黙っていました。そこで、イエス様は、ただ直されたのではなく、しっかりと抱いて直してあげました。それから彼らに言われました。「自分の息子や牛が井戸に落ちたのに、安息日だからといって、すぐに引き上げてやらない者があなたがたのうちにいるでしょうか。」と。すると、彼らは答えることができませんでした。彼らは自分の息子や自分の牛であれば、安息日に働いても大丈夫だと律法を解釈していたからです。つまり、彼らは、身内の者、自分たちの考えに同意する人々、自分たちと人間関係を持つ人に対してはあわれみを示し、助けたり癒したりしていました。しかし、それ以外の人々には無関心だったのです。自分とかかわりがなければどうでもいいというような感じです。
先週、イラク人によって人質になった日本人3人を日本中の人々が心配しました。特に人質になっているイタリア人の一人が殺害されたことが知らされると、ますます心配するようになりました。総理大臣をはじめ、多くの人々が彼らの救出のために努力しました。幸いに聖職者たちの仲介があって3人は無事に解放されました。本当に素晴らしいことだと思います。同じ国民であることだけみんなが心配して上げることは感動的なことです。しかし、よく考えてみると、それには自己中心的な考えが背後にあります。自分の国民であれば心配するのです。けれども、自分と関係のない人は、自分の意識の中から消え去ります。イタリア人が殺害されたことも、イラク人やアメリカの軍人が死んでいくことはあまり意識していないのです。これは、パリサイ派と同じ仲間意識でしょう。仲間意識そのものが悪いのではありません。しかし、イエス様は自分の仲間だけではなく、自分と関係がない人とも交わり、愛することを願っておられます。イエス様はみんなが近づくことさえ嫌がる人を抱いて直してあげました。ここで、私たちはイエス様の交わり、イエス様の愛を学ぶことができます。
もし、私たちが自分と考えがぴったり合う人、自分の気持ちが通じる人、自分が必要なものを満たしてくれる人だけを愛し、彼らと交わるなら、それはパリサイ人たちの交わりです。ノンクリスチャンも、そのような交わりをするでしょう。イエス様の交わりは、自分の近くにいて困っている人に近づいて交わることです。パリサイ人の交わりは、仲間でなければ排除するような閉じられた交わりですが、イエス様の交わりは、どんな人でも受け入れる、開かれた交わりなのです。これは自分の国民だけではなく外国人とも交わり、全人類と交わる聖なる交わりです。
 人々は、この聖なる交わりができなければ、心細くなります。小さなことでも神経質的になります。椅子に座ることさえ争うようになります。7節をご覧ください。「招かれた人々が上座を選んでいる様子に気づいておられたイエスは、彼らにたとえを話された。」とあります。彼らは自分が人々からよく見られたいと思いました。人の目を気にしていました。そこで、イエス様は披露宴におけるたとえを話されました。普通の食事とはちがって、披露宴では主催者が、どの人をどの席に着いてもらうかを決めます。ですから、自分自身で上座にすわるのはみっともないことです。この人は勝手に座っていたので一番、最後に席に導かれ、末席しか残っていませんでした。何と恥ずかしいことでしょう。しかし、末席に着いていた時、自分を招いた人が来て、『どうぞもっと上席にお進みください。』と言うなら、なんと光栄なことになるでしょうか。そのときは、満座の中で面目を施すことになります。そこで、イエス様はこのたとえの結論を言われました。11節をご一緒に読んでみましょう。「なぜなら、だれでも自分を高くするものは低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」 そうです。この真理は聖書全体の中に、書かれている原則です。自分を高めれば低くされ、低くする者は高められます。イエス様は人の先に立ちたいと思って争っている弟子たちに言われました。「あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい(マルコ10:44)。」福音書を読んでみると、使徒ペテロは何とかして自分をよく見せようとして目立つ行動をしていたことが分かります。彼は負け嫌いの人間でした。しかし、彼はイエス様の謙遜の道理を深く悟った時、変わりました。彼は、若者たちにこのように勧めました。「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。(?ペテロ5:5,6)」。
 イエス様のたとえの中で主催者の導きに従わず、自分勝手に座っていた人は恥を受けました。同じように私たちも自分勝手に生きると辱められます。人生の最後には神様の御前で恥を受けるようになります。主催者であるイエス・キリストを見つめ、イエス様に導かれるべきです。自分がどのような評価を受けるかをキリストにゆだねることです。キリストを見つめ、キリストに委ねるとき、自分はキリストにあって神様に受け入れられている、認められているという確信を持つことができます。高価で尊い存在であることが分かるのです。すると、上席にすわらなくても別に構わないと思うことができます。ですから、本当の謙虚さは、人ではなくキリストを見つめることにあります。そして本当に謙虚になると、いつも私たちの心に安らぎがあり、キリストによって天国までも高く導かれる素晴らしい人生を生きるようになります。
12節をご覧ください。イエス様は、ご自分を招いてくれた人にも、こう話されました。「昼食や夕食のふるまいをするなら、友人、兄弟、親族、近所の金持ちなどを呼んではいけません。でないと、今度は彼らがあなたを招いて、お返しすることになるからです。」とあります。パリサイ人たちは人を招く時、見返りを期待しました。彼らは実利的でした。私たちも見返りを期待して食事のふるまいをするなら、神様の報いを受けることができません。ではどのような人々を招くべきでしょうか。13、14節をご覧ください。「祝宴を催すばあいには、むしろ、貧しい人、不具の人、足なえ、盲人たちを招きなさい。その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。義人の復活のときお返しを受けるからです。」とあります。
 義人の復活のとき、ひとりひとりは神様から報いを受けます。神様からの報いこそは本当に価値ある報いです。永遠の報いです。どころが、私たちはどうでしょうか。何事も神様の報いを期待し、神様の前で行なっているでしょうか。私たちクリスチャンとして何とか、良いことをしようと思い、善を施します。できれば周りの人のために役に立つ者になりたいと思うからです。けれども、相手から何のお礼のことばもないとき、どうでしょうか。また、教会のみわざにも忠実にやっているつもりなのに教会の中心的な仲間に入れてもらえないと思われる時はどうでしょうか。一生懸命に仕えているのに、なぜ認めてもらえないか、というような思いがよぎったときはないしょうか。そして、そこにある根本的な原因は、なんでしょうか。それは、もともと最初から、良い行ないを、主に対してでなく人に対するように行なっていたからではないでしょうか。義人の復活のとき、お返しをされる主に対して良いことを行なっていると考えるとき、逆に何もしてもらわないほうがうれしくなります。私たちが主から見返りを求めるとき、何をしても喜んで行なうことができるし、すべてのことにおいて感謝することができます。神様は私たちを正確に見ておられる、正しく報いてくださるからです。

?.神様の宴会(15-24)

15節をご覧ください。イエス様といっしょに食卓に着いていた客のひとりは、義人の復活とその日に受けるお返しのことを聞いて、イエス様に、「神の国で食事する人は、何と幸いなことでしょう。」と言いました。彼は復活の時、神の国の宴会に参加して受ける栄光を考えたようです。そこで、イエス様は神の国の性格と、どのような人たちが参加できるかについて話してくださいました。ある人が盛大な宴会を催しました。先週、私たちはイエス様の復活を祝いながら美味しい物をいっぱい食べましたが、この人も盛大な宴会を催しました。美味しいものだけではありません。音楽も準備しました。宴会に来て演歌を歌ってくれる歌手、世界的な東京UBFのSing-alongと重唱団の歌も準備しました。何よりも主催者はたましいの潤してくれるいのちの御言葉を用意しました。当時の習慣は、人を招待する時に、まず招待し、用意ができたら開始時間前に再び招待しました。17節をご一緒に読んでみましょう。「宴会の時刻になったのでしもべをやり、招いておいた人々に、『さあ、おいでください。もうすっかり、用意ができましたから。』と言わせた。」
もうすっかり、用意ができました。もう準備満タン、準備完了です。そこで、「さあ、おいでください。早く来てください。早く食べましょうよ。」と呼んでいます。ここで、主催者はイエス様ご自身ですイエス様は救いの宴会を100%完璧に用意してしもべたちを遣わして人々を呼んでおられます。「さあ、おいでください。」。黙示録3章20節を見ると「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」とあります。私たちはただ、信仰によってこの招きに応じればいいです。すると、私たちはイエス様と交わりができ、天国の宴会を楽しむことができます。イエス様は私たちがご自分の宴会に参加していのちのパンを食べながらご自分と交わることを切に願っておられます。賛美の歌を歌いながら交わることを願っておられます。それで、主は夜明けにご自分の宴会に招かれます。夜もご自分の宴会に招かれます。週に一回はもっと盛大な宴会を用意して主日礼拝に招いておられます。年に一度はもっともっと盛大な宴会を用意して私たちを招いておられます。今年はゴールデンウィークに今までなかった盛大な宴会を用意して私たちを招いておられます。「さあ、おいでください。東山荘へ。いのちのパンがあります。SMAPの歌よりも優れた天国の賛美があります。」と呼んでおられるのです。ところが、招かれた人々の反応はどうでしたか。
18-20節をご覧ください。彼らはみな同じように断り始めました。彼らは大きく開かれた交わりを好みませんでした。自分の世界の中で生きたかったのです。それで、ある者は、自分の畑を理由にして、その招きを断わりました。またある人は、自分の牛について断っています。でも、よく考えてみると、畑を買ったのだから、もうだれかに取られる心配はないわけで、いま見に行く必要はありません。同様に、牛も買ったのだから、いつでもためすことができます。そして、別の者は、自分の結婚を理由にして断わりましたが、なぜ夫婦がいっしょに、宴会に来ないのでしょうか。矛盾だらけですが、みな自分のことをしたかったのです。自分の世界の中に生きたかったから、このような盛大な宴会を拒みました。
21節をご覧ください。しもべは帰って、このことを主人に報告しました。すると、おこった主人は、そのしもべに言いました。『急いで町の大通りや路地に出て行って、貧しい人や、不具の人や、盲人や、足なえをここに連れて来なさい。』彼らは本来何の資格もなく、招かれなかった人々でした。しかし、彼らは一方的な恵みによって招かれるようになりました。主人は急いで出て行って、彼らを連れて来るように命じられました。しもべたちは命じられたとおりに多くの人々を連れてきて報告しました。『ご主人さま。仰せのとおりにいたしました。でも、まだ席があります。』すると、主人はなんと言われましたか。
23節をご一緒に読んでみましょう。「主人は言った。『街道や垣根のところに出かけて行って、この家がいっぱいになるように、無理にでも人々を連れて来なさい。』」ここで、「街道や垣根のところ」とは異邦の世界を指し、そこに住んでいる人々は異邦人を指しています。彼らは救いの知らせを全然聞いたことがない霊的に無知な人々でした。彼らは本来神の国の宴会に参加する資格がない人々でした。しかし、招かれていたユダヤ人たちがイエス様の招きを受け入れなかったので、救いが異邦人に流れていきました。神様はユダヤ人でも異邦人でもイエス・キリストを信じる人は誰でも救われる恵みを与えてくださったのです(ローマ10:11、12)
事実、私たちも本来異邦人として救いの宴会に招かれていませんでした。しかも、この世と調子を合わせながら神様の御心に逆らっていました。ところが、あわれみ深い神様は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、無理して私たちを招かれ、救い出してくださいました。罪の中に死んでいた私たちをキリストともに生かしてくださいました。私たちが救われたのは「無理にでも人々を連れて来なさい。」と言われる主の愛のゆえです。
特にこの世の中でも貧しい人や不具の人や、盲人や、足なえのように弱くて足りない私たちが天国の宴会に招かれて救われたことは言い尽くせない恵みです。?コリ1:27,28節は言います。「しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。」
無に等しい私のような者まで選ばれ、救われて天国の宴会に参加し、イエス様と交わる生活ができるようにして下さった主の恵みを心から賛美します。
神様は私たちに年にただ一度ある天国の宴会、Spring Bible Conferenceに私たちを招いておられます。「さあ。おいでください。」私たちが自分の畑や自分の牛、自分の結婚を理由にして、聖なる主の招きを断わることがないように祈ります。せっかく与えられた神様のお招きに応じて今まで経験できなかった天国の宴会でキリストと交わる恵みを受けることができるように祈ります。
 24節をご覧ください。「言っておくが、あの招待されていた人たちの中で、私の食事を味わう者は、ひとりもいないのです。」神様の招待を拒んだ人たちの中ではひとりも天国の宴会を味わうことができません。招待を断ることは何もないかのように見えますが、実は救いを受けるか、審判を受けるかが決まる重大な結果をもたらします。

?。弟子の道(25-35)

25-35節の御言葉はイエス様の弟子になること、聖なるイエス様の交わりに入る道について教えてくださいます。イエス様の弟子になるとは、イエス様のそばにいることです。イエス様が右を行けば、自分も右を行きます。イエス様が左を行けば左に行きます。そのために自分で何とかするのでなく、イエス様を見つめつづけることが必要です。そこで、イエス様は、イエス様の弟子になるためにはどうするべきかを教えてくださいました。まず第一に、イエス様はだれよりも絶対的に愛しなければなりません。26節をご覧ください。自分の両親、妻、子、兄弟姉妹を憎む、そして、自分のいのちを憎まなければなりません。もちろん、この憎むは大嫌いになるということではなく、むしろキリストの愛で彼らを愛することを意味します。自分の家族にある絆は、切っても切れないものです。家族同士が愛し合うことは麗しく見えます。しかし、外側にいる人々に対して、見知らぬ人に対しては排他的で、利己的であるなら、キリストの弟子にふさわしくありません.す。身内のものだけを考えるなら、この家族のきずなは、見知らぬ人、お返しができない弱い人にまで広がるキリストの愛の敵であります。だから、イエス様はこれを憎みなさい、と言われました。
第二に自分の十字架を負ってイエス様について行かなければなりません。27節をご覧ください。「自分の十字架を負ってわたしについて来ない者は、わたしの弟子になることはできません。」自分の十字架を負うとは、言い換えると、神様のみこころに完全に従うということです。ですから、また、神様と交わりをすると言い換えることができます。信仰によって生きるとも言い換えられるし、神様の言われることを、そのまま受け入れることと言うこともできます。
第三に、自分の財産全部を捨てる覚悟をしなければなりません。28-32節には二つのたとえがあります。塔を築こうとするとき、まず、完成に十分な金があるかどうか、その費用を計算しなければなりません。基礎だけを築いただけで完成できなかったら、見ていた人はみな彼をあざ笑うでしょう。戦争の時も、まず考えてもし見込みがなければ、敵がまだ遠くに離れている間に使者を送って講和を求めるでしょう。
 これらのたとえは、よく計算して考えることが勧められています。つまり、イエス様は、「よく考えろ」と言われているのです。私たちは、何もとくに考えないで生きていると、自分を憎んでいるつもりが、いつの問にか、自分を愛するようになってしまいます。自分の十字架を負うのでなく、いつの間にか、神様に自分の願っていることを押しつけてしまいます。自分はがんばっているつもりでも、イエスが望まれていることと反対のことをしてしまっているのです。ですから、よく考えてください。自分は、自分の思いにまかせて交わりをしているのか、それとも、キリストにあって人と交わっているのか、考えてみてください。考えてみると弟子の生活はどうですか。33節をご一緒に読んでみましょう。「そういうわけで、あなたがたはだれでも、自分の財産全部を捨てないでは、わたしの自分の弟子となることはできません。」自分の財産全部を捨ててでもイエス様の弟子になる覚悟がなければならないということです。それほど弟子の生活は最高の価値があるからです。よく考えてみればキリストの弟子の生活ほどに価値あり、意味ある道はありません。

 ここまでで、3つ、弟子となるための条件が書かれていました。自分の家族のきずなを憎む、自分の十字架を負う、自分の財産を捨てるということです。どれも、「自分」というものから切り離し、キリストの交わりの中に入っていくことをします。すると、塩けのあるクリスチャンとして良い信仰の影響力を及ぼすことができます。塩けがあれば、イエス様のように広い交わりを持つことができます。自分とは関係のない人にも、心をとめて祈ることができます。新しく会う人にも、声をかけてあいさつすることができます。イエス様の心を持って「さあ、おいでください。」と天国の宴会に招くこともできます。お返しできないような病人、老人、子どものために、喜んで奉仕することができます。恵みと喜び、感謝にあふれた生活ができます。