2004年ルカの福音書51講
義と認められる祈り
御言葉:ルカ18:?-14
要 節:ルカ18:14「あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」
先週、イエス様は私たちに「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」と語ってくださいました。私たちが罪を悔い改め、福音を受け入れる時、イエス様は私たちの中に来てくださり神の国が臨まれます。イエス様は平和と愛によって私たちを支配し、導いてくださいます。真にイエス様に支配されるなら、その人は本当に幸せになります。人々が食べたり、飲んだり、売ったり、買ったり、植えたり、建てたりしていても聖なる国民としてアイデンティティを持ってキリストの再臨に備える生活ができます。ところが、イエス・キリストの再臨の時、終わりの日が近づいて来ると、信仰を守ることがますます難しくなります。終わりの日には困難な時代がやってくるからです。
パウロはこう言っています。「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい。そのときに、人々は、自分を愛する者、金を愛する者、大言壮語する者、不遜な者、神を汚す者、両親に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、そしる者、節制のない者、粗暴な者、善を好まない者になり、裏切る者、向こう見ずな者、慢心する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです(?テモテ3:1-5a)。このような時代の中で信仰を持って敬虔に生きることはますます難しくなるのです。そこで、イエス様も「人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」とおっしゃっています。
では、どうやって信仰を守り、霊的な価値観を持って生き続けることができるでしょうか。それは祈りによってできます。いつでも祈ることを通して私たちは神様の力と知恵をいただき、圧倒的な勝利者の人生を生きることができるのです。
そこで、イエス様はいつも祈るべきであり、失望してはならないことを教えてくださいます。また、どんな心を持って祈るべきかを教えてくださいます。どうか、私たちひとりひとりがイエス様の教えを通してしつこい祈り、義と認められる祈りを深く学び、心に刻むことができるように祈ります。イエス様に義と認められて家に帰った収税人のように義と認められる祈りの生活ができるように祈ります。
?.失望しないでいつでも祈るべきこと(1-8)
1節をご一緒に読んでみましょう。「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。」「いつでも祈るべきである」と言われました。皆さんはいつでも祈る生活をしているでしょうか。この間、私は叫びの祈りをすることを決断し、夜明けに声を出して祈る時間を増やしていますが、いつでも祈ることはなかなか難しく感じています。年を取ればもっと祈るべきですが、正直に独身の時よりも、子どもがひとりであった時もよりもますます祈りに専念することが難しくなるような気がします。パウロが預言したとおりに時代はますます困難な時代になって行くので、やるべきことも多くなり、祈りに励むことがますます難しくなることもあると思います。また、祈りがすぐに応えられている時、祈ることも楽しくなりますが、祈っても祈ってもなかなか応えられてない時はしつこく祈ることが難しくなります。しかし、イエス様はそんな時代だからこそもっともっと祈るべきであると教えておられます。「祈ればいいよ。祈ったほうがいいでしょう。」ということではなく、祈るべきことを教えておられるのです。やはり、祈りはしても、しなくてもいいようなものではありません。
私たちがよく知っている預言者サムエルは「祈るのをやめて主に罪を犯すことなど、とてもできない。」と言いました。祈らないことは言うまでもなく、自分の都合によって祈のるのをやめるなら、それも罪だと言うことです。サムエルが、このように、「祈るのをやめて主に罪を犯すことなど、とてもできない」と思っていたのは、自分の母ハンナの影響を受けたと思います。祈りの母が祈りの息子を産んだのです。祈りを生み出します。牧者が自分は祈らないで羊の方に祈りなさいというなら、意味がないでしょう。祈りは理論的なものではありません。イエス様はここでいつも祈るべきであり、失望してはならないことを教えておられますが、実はイエス様ご自身がいつでも祈る生活をしておられました。私たちが今まで学んできたルカの福音書は、テーマの一つがイエス様の祈りです。イエス様がバプテスマをお受けになり、祈っておられました。すると聖霊を受け、神様の御言葉をお聞きになりました(3:21)。忙しい伝道活動の中でも、イエス様は、よく荒野に退いて祈っておられました(5:16)。イエス様は時々祈りながら夜を明かされました(6:12)。祈りはイエス様にとって力の源であり、神様の知恵と導きを得る通路でした。ですから、イエス様は弟子たちがご自分の死と復活を受け入れるように助けられる時も祈りによって備えられました (9:18、29)。このようなイエス様の祈りの生活を見てきた弟子たちはイエス様に祈りを教えてくださるようにお願いしました。そこで、イエス様は彼らに「主の祈り」を教えてくださいました(11:1)。
でも、まだまだ、弟子たちはイエス様のようにいつでも祈ることができませんでした。祈るべきであることをよく知っていてもそれを実践することはなかなか難しかったようです。それは私たちも体験していることではないかと思います。私は皆さんの要節と祈りの課題を持って祈っていますが、ほとんどの方が祈ることを祈りの課題としています。祈りの重要性をよく知っているからでしょう。張パウロ宣教師の場合は第一の課題が「祈りを霊的ないのちのレッドラインとして夜明けの祈りに励む」ことです。私自身も今年の祈りの課題、第一は主の宮で夜明けの祈りを毎日ささげることです。どころが、皆さんどうでしょうか。今年の要節と祈りの課題を決めるときの気持ちと覚悟でいつでも祈っているでしょうか。本当にしつこく、しつこく祈っているでしょうか。いつでも祈るべきであり、失望してはならないことをよく知っているにもかかわらず、なかなかできない状態が続いている方はいないでしょうか。もう失望している方はいないでしょうか。自分が決めた祈りの課題さえ忘れている方はいないでしょうか。イエス様は私たちがいつでも祈ることを願っておられます。失望しないで祈りつづけること願っておられます。そこで、イエス様はたとえを話されました。
2-5節をご覧ください。「ある町に、神を恐れず、人を人とも思わない裁判官がいた。その町に、ひとりのやもめがいたが、彼のところにやって来ては、『私の相手をさばいて、私を守ってください。』と言っていた。彼は、しばらくは取り合わないでいたが、後には心ひそかに『私は神を恐れず人を人とも思わないが、どうも、このやもめは、うるさくてしかたがないから、この女のために裁判をしてやることにしよう。でないと、ひっきりなしにやって来てうるさくてしかたがない。』と言った。」とあります。ある町に、全く神様を恐れず、人を人とも思わない不正な裁判官がいました。私たちは「裁判官」と言えば「正しい裁きをしてくれる人」と考えます。しかし、イエス様当時のイスラエルでは裁判官のイメージがとてもよくありませんでした。特に、この裁判官は「神を恐れず、人を人とも思わない」と書かれているところをみると、いい加減な裁判官だったようです。その裁判官のところに社会的に一番立場の弱い「やもめ」が来ました。やもめはお金もなく、コネもない中、どうやって正しい裁判をしてもらえるでしょうか。
彼女には一つの武器がありました。「しつこさ」です。求めつづけるしつこさです。彼女はは、毎日毎日何回も何回も来て、何とかしてください願ったと思います。夜も昼も「裁判をして下さい! 裁判をして下さい!」と願ったのでしょう。裁判官は、初めのうちは取り合わないでいました。しかし、このまま毎日、何回も来られたのでは、断るのだけでも時間がかかって仕方がない。うるさくて仕方がないからと思い、結果的に裁判をしてやることに決めたのです。やもめのしつこい願いが、このいい加減な裁判官の心を動かし、やもめが願ったとおりになったのです。イエス様がこのたとえを通して教えてくださることは何でしょうか。
6-8節をご一緒に読んでみましょう。「主は言われた。「不正な裁判官の言っていることを聞きなさい。まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のためにさばきをつけないで、いつまでもそのことを放っておかれることがあるでしょうか。あなたがたに言いますが、神は、すみやかに彼らのために正しいさばきをしてくださいます。しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」とあります。
イエス様は、「裁判官の言葉に聞きなさい。たとえ悪い酷いいい加減な裁判官であったとしても、どうだったのか。彼女がしつこく、しつこく、しつこくせめる時に、遂には正しい裁判をしてくれたのではないか。まして昼夜求めるあなたがたの為に、神様がどうして応えない事があるだろうか」ということです。私たちを愛し、私たちを生かし、導いて下さり、私たちに祝福を与えようとしている神様だったら、祈り続ける私たちの願いに応えて下さらないはずがあるか、とうことです。神様は必ず私たちの願いに答えてくださいます。ただ、ここで、私たちが気をつけるべきことの一つは信仰を持って祈りつづけることです。
8b節を見ると「しかし、人の子が来たとき、はたして地上に信仰が見られるでしょうか。」とあります。「人の子が来た時」とはイエス様が再臨される時です。すなわち、終末のときにやもべのような信仰が見られるでしょうかということです。ではやもべのような信仰とは何でしょうか。
第一にいつでも祈る信仰です。終わりの日になると、人々はさまざまの誘惑を受けて祈らなくなると言うことです。使徒パウロによると、そのときに人々は自分を愛する者、金を愛する者になります。また、神様よりも快楽を愛する者になります。実際にクリスチャンの中でも日曜日に楽しみを楽しんでから、家でインターネットを通して礼拝を済ませる人たちが現われています。女たちは、さまざまの情欲に引き回されて罪に罪を重ねます。見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になりなります。クリスチャンが教会に通い、敬虔に生きているようですが実を結んでないのです。そういうわけでイエス様はご自分が再び来られた時にはたして信仰が見られるでしょうかと言われたのです。私たちは終わりの日に現われる人々の姿、自己中心的であり、神様よりも快楽を愛している人々に気をつけなければなりません。終わりの日が近づいて来るとますます祈りに励むことが難しくなりますが、そのときこそ、やもめのようにしつこく祈らなければなりません。
第二に祈りにすみやかに応えてくださる神様を信じる信仰です。人の子が来た時、人々に「神様がすみやかに答えてくださるという信じる「その信仰」があるかとイエス様は問うておられます。では、皆さんは神様に対してどういう思いを持っているでしょうか。神様をどのような方として信じているでしょうか。
私たちが神様に対してどういう信仰を持っているかは、祈りの姿勢に大きな違いをもたらすと思います。時々、「神様に祈っていてもあまり良き事がないな。」「祈っても生活に変わりはなく、あまりおもしろくない。」と思っている方がいるかも知れません。そのように思い始めると、神様に対する不信感が大きくなってしまいます。私たちはそれを十分注意すべきです。そんな思いを持ちながら、どうやって神様を信頼して祈る事ができるでしょうか。この思いをなくさなければなりません。私たちは神様に対する信頼、信仰を持って祈るためには神様について正しく知ることが大切です。
ゼパニヤ3章16?17節は言います。「その日エルサレムはこう言われる。シオンよ。恐れるな。気力を失うな。あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。救いの勇士だ。主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、その愛によって安らぎを与える。主は高らかに歌ってあなたのことを喜ばれる。」とあります。私たちがしつこく祈る時、神様は笑顔で私たちを迎えて下さいます。仕方なくて祈りに応えて下さるのではありません。『主は高らかに歌われ』、迎えて下さるのです。神様は私たちにこういう思いを持って下さっているのです。神様は皆さんが好きです。神様は○○さんが大好きです。私たちは神様に愛されるために生まれました。ですから、神様は私たちの願いにすみやかに応えてくださらないはずがないのです。ただ、私たちに求められることは神様に対する信仰、しつこく、しつこく、しつこく祈る祈りです。?ヨハネ5:14-15節は言います。「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。」とあります。
すべては神様の御手の中にあります。私たちが主を信じ、祈り求め、願い続けていく時に、神様が一番ちょうど良い時に、主の業を現し、祈りに応えて下さるのです。私たちには各々さまざまな祈りの課題を持っています。救われて欲しい家族や友人のこと、まだ結婚していない方にとっては結婚について祈っておられるかも知れません。牧者や宣教師にとって毎週1:1できる学生の羊を得ることが切実な祈りの課題です。また、福音のみわざに仕えるのにふさわしい職場を得ること、癒されることのために祈っています。日本が祭司の王国、聖なる国民となるように、今年21チームの1:1聖書勉強、30名礼拝参加ができることのためにも祈っています。どころが、私たちはどれだけしつこく祈っているでしょうか。やもめのようにしつこく、しつこく、祈りつづけているでしょうか。私たちに今必要なことは継続することです。継続して祈り続け、願い続け、求め続けることです。これこそ、イエス様が終わりの日に生きている私たちに望んでおられることです。どうか、一人一人が失望しないでしつこくしつこく祈りつづけ、願い続けることができるように祈ります。
何よりも私たちは神様の子どもとして持つべき祈りの課題があります。それはイエス様が教えてくださった主の祈りです。「天にますます我らの父よ。願わくは御名をあがめさせたまえ。御国をきたらせたまえ。・・・」と祈ることです。今年MSU修養会のタイトルは「Your Kingdom Come。御国が来ますように」ですが、これこそ、いつでも祈るべき祈りの課題です。私たちは神の国の建設のために祈らなければなりません。サタンの支配がなくなり、完全な神様の支配が到来することです。サタンが支配しているところは不義と暴力、憎しみと、つぶやきに満ちています。しかし、神様が支配しておられる所は、愛と平和が満ちています。いつも喜び、すべてのことについて感謝しているところです。このような神の国がこの地上に拡張されることのために祈らなければならないのです。私たちがキャンパスに行って伝道し、世界宣教のために祈っていることはまさに御国の拡張のためです。イエス様はこの神の国のためにしつこく、しつこく祈られました。そして、最後には「あらゆる国の人々を弟子としなさい」と世界宣教を命じられました。イエス様のしつこい祈りの課題はあらゆる国の人々を弟子とすることです。使徒パウロのしつこい祈りの課題も世界宣教でした。彼は言いました。「私は、ギリシャ人にも、知識のある人にも知識のない人にも返さなければならない負債を負っています。ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。(ローマ1:14、15)。と。私たちにもこのような祈りの課題、情熱があるでしょうか。
私には日本宣教、特にキャンパスの学生たちをキリストの弟子とする祈りの課題があります。経済大国日本が福音大国となり、日本の品物が輸出されている国々に日本の宣教師が遣わされて行くビジョンがあります。このために今まで祈り、神様が許される限り、日本宣教のために励んできました。しかし、私はこの御言葉を準備しながらやもめのようにしつこくしつこく祈ることができていないことを悟りました。生ぬるくなっている自分の姿に悔い改めざるを得ませんでした。神様がこのしもべをあわれんで下さり、日本宣教、世界宣教に対して燃える熱望を与えて下さるように祈ります。私たちに切なる祈りの課題がある時、夜昼神様を呼び求めることができます。いつでもしつこく祈ることができます。そして、神様はしつこく祈る祈りに必ず応えてくださいます。
?.へりくだって祈るべきこと(9-14)
9節をご覧ください。「自分を義人だと自任し、他の人々を見下している者たちに対しては、イエスはこのようなたとえを話された。とあります。イエス様はこのたとえを通して私たちにへりくだって祈るべきことを教えてくださいます。
私たちの人生においてとても重要なことの一つは自分が自分をどのように思っているかということです。神様の御前で自分を小さく見ている人はどんな状況の中でも感謝します。心がへりくだっていて、すべてのことが自分にとっては光栄なことだと思うし、能力以上に与えられていると思うからです。しかし、自分を偉く見ている人は、良い環境の中でも感謝しません。偉い自分に立派な仕事が与えられ、もっと良いものが与えられて当然だと思っているからです。
夫婦間にもそうです。自分が相手より上だと思っている人は自分が損しているという考えの中で生きています。ある人は自分の妻に対して「嫁になれない女を自分が救ってあげた。」言っていました。妻がただ自分のお陰生きているかのように思っています。考えてみれば本当に哀れな人です。生涯自分は損していると思って生きるから、本当にかわいそうな人間ではないでしょうか。このような人はいつもつぶやいています。しかし、妻より自分が足りない人間であると思っている人もいます。自分にとっては過分な妻だと思っているのです。すると、妻が自分のそばにいてくれることだけでもありがたいことです。夫婦が一緒にいることだけでも幸せを感じるようになります。結局、自分の心構えによって幸せも、不幸せも、感謝もつぶやきも決まるのです。
イエス様のたとえには自己評価において対照的なふたりの祈りが記されています。ここで、私たちはへりくださって祈るべきこと、謙虚な生き方を学ぶことができます。
10節をご覧ください。ふたりの人が、祈るために宮に上りました。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人でした。パリサイ人は厳格に律法を守る敬虔な人であり、収税人は皆に嫌われている罪深い人でした。ところが、このふたりが宮に上って祈りました。11、12節をご覧ください。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをしました。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております。』彼は本当に不思議な祈りをしました。彼は主の御名をあがめることも、神様に願い求めることもなければ、受けた恵みに対する感謝もありません。彼の祈りは祈りではなく、神様に自分を誇ることでした。しかも祈りの中で人を無視しています。自分だけが偉い人間であることを人々も分かってくれるように願っているような祈りをしています。彼の祈りの中には「私は・・・、私は・・・」と言って自分が主語になっています。悔い改めるどころか、高ぶっています。こういう人は自分が神様のようになって人のことを判断し、神様の栄光を奪い取ります。神様がこのような人の祈りを喜ばれるはずがありません。神様はへりくだっている人の祈りを喜ばれます。へりくだっている人は神様が主語であり、自分は目的語になります。創世記のヨセフの言葉を見ると、「神は・・・私を遣わしてくださった」「神は私をエジプト全土の主とされました。」と言っています。彼はすべてのことにおいて神様に感謝し、神様の導きとして告白しています。神様が自分をいのちを救うために自分を遣わしたとも言っています。このような人はどこに行っても神様の栄光を現わします。人々はへりくだっている人を通して恵みとやすらぎ、心の潤いを得ます。これに対してもう一つの祈りは取税人の祈りです。
13節をご覧ください。「ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』」とあります。
取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて、『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』と祈りを捧げました。これは、「自分は神殿に近づく資格のない者だ、そんな価値がない者だ」と自覚していたからです。彼には、神様の前に出ることさえでふさわしくない者であるという思いがありました。この取税人は顔を天に向ける事すらできないというへりくだった気持ちを持っていました。そして自分の胸を叩き、『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください。』と祈ったのです。その結果、彼はどうなりましたか。
14節をご一緒に読んでみましょう。「あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです。」
ここで考えてみると、彼らは2人共神様に祈りました。祈っている姿を見ると、敬虔なパリサイ人のほうが立派に見えたことでしょう。しかし、彼は神様に向かって祈ったというよりも、自分を自己推薦する様な祈りをしました。神様の前にへりくだった姿ではなく、「自分はこうです」と一生懸命さによって神様に受け入れられ様とする姿があり、さらに他の人を裁く心がありました。反面、いかにも神様の前にしてはならない事をしているのが取税人です。彼は本当にへりくだって祈ったのです。イエス様はこの取税人の祈りこそが認められたと語るのです。
結論的に、私たちはやもめのようにどうしても解決してもらわなければならない祈りの課題を持ってしつこくしつこく祈らなければなりません。また、義と認められる祈りは収税人のように謙遜に祈ることです。私たちはへりくだった心、悔いた心を持って祈る必要があります。すると、主は私たちの祈りにすみやかに応えてくださいます。