2004年ルカの福音書52講   
        
子どものように神の国を受け入れなさい

御言葉:ルカ18:15-30
要 節:ルカ18:17「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」
 
先週、イエス様は私たちに祈りについて教えてくださいました。失望せずに常に祈るべきであり、へりくだって祈るべきことです。ところが、最近の人たちは何事も継続することが苦手になっているようです。フリーター」という言葉は物珍しくなくなってきました。多くは若者であり、定職に就かず自分の都合に合わせて職を転々します。その数は400万人を超えます(平成15年国民生活白書)。食べ物もインスタント食品を好む時代になっています。クリスチャンもこのような世の影響を受けているでしょうか、教会を転々する人が増えているそうです。また、インスタント祈りが増えているそうです。祈ってもインスタントに応えられなければあきらめてしまうということです。インスタント食品のようにすぐに与えられることを求めているのです。しかし、初めは熱心に祈り出しても、うみ疲れて途中で祈るのをやめてはなりません。サムエルは祈るのをやめるようなことは罪を犯すことだと思っていました。私たちは継続的に信仰と望みを持って祈らなければならないのです。「神を恐れず、人を人とも思わない裁判官」でさえ、聞かれなければやまない熱心な願いにはついに心を動かされます。愛に富んでおられる恵み深い神様においてはなおさらです。それゆえ私たちは、祈り続けることができます。どうか、私たち一人一人が何事も継続的に行い、どんな場合にも祈りつづける生活ができるように祈ります。
 今日の御言葉には二つの出来事があります。一つ目は、イエス様が幼子たちを叱っている弟子たちに「神の国は、このような者たちのものです。」と教えられたことです。二つ目は永遠のいのちを求めてきた金持ちの役人に永遠のいのちを受ける道を教えられたことです。この時間、聖霊が私たちのうちに働いてくださって、神の国を素直に受け入れ、永遠のいのちを受ける道を知ることができるように祈ります。

?.神の国は幼子のような者のものです(15-17)
 15節をご覧ください。イエス様にさわっていただこうとして、人々がその幼子たちを、みもとに連れて来ました。幼子たちはイエス様に「抱っこしてちょうだい。おじちゃん!」と言っていたでしょう。熱心なお母さんたちが「先生、うちの子にさわっていただきです。」と言っていたかもしれません。とにかくイエス様から祝福をいただこうとして、イエス様にさわろうとしていたのです。ところが、弟子たちがそれを見てしかりました。彼らは子どもたちに「うるさい。うるさいよ。」と言っていたでしょう。不思議なことに自分の子どもたちは騒いだり、大声を出したりしている時はあまり問題になりません。ところが、人の子どもの騒ぎはうるさく聞こえるものです。かわいい子どもが邪魔者になってしまいます。弟子たちにエルサレムに向かっているイエス様にくっついてくる子どもたちが邪魔になっていたでしょう。そこで、弟子たちは幼子たちを叱ったのです。特に弟子たちはイエス様のことを考えて「先生は、お疲れなのだから、こんなことをさせてはいけない。」と思ったかもしれません。しかしそれを見てイエス様はどうされましたか。
16節をご一緒に読んでみましょう。「しかしイエスは、幼子たちを呼び寄せて、こう言われた。子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。」弟子たちは幼子たちを叱りましたが、イエス様は、ご自分に近づく人を、喜んで受け入れられました。イエス様は彼らを抱き上げて祝福したことでしょう。イエス様は子どもたちを喜ばれました。そして、イエス様は「止めてはいけません。神の国は、このような者たちのものです。」と言われました。『このように素直に神様を受け入れ求める者。これが神の国にふさわしい。』と教えておられます。弟子たちは子どもたちに弟子たちを律法的であり、権威的に扱いました。彼らは高ぶっていました。イエス様に従い始めたときの素直さを失っていました。イエス様の御言葉に素直に従った時の純粋さを失っていたのです。イエス様はそんな彼らの前で、幼子たちを呼び寄せました。そしてて「神の国は、このよう者たちのものです。」と言われたのです。神の国は、あなたがたのように律法的な人、権威的な人ではなく、このような子ども、素直な子どもたちのものだと教えてくださったのです。
大人は立派そうに見えて、神様の言葉をなかなか素直に受け取れません。素直さがずいぶんと消えてはいないでしょうか。しかし、子どもは本当に素直です。神様が「あなたが好きです。」と言えば、すぐに顔つきが変わります。「嬉しいなあ。」という表情を見せてくれます。私は毎週子どもの礼拝にも御言葉を伝えていますが、信徒宣教師として一日に三回もメッセージを伝えることは大変じゃないかと言われるときがあります。正直に大変です。しかし、子どもたちが素直に御言葉を聞いてくれる姿を見て感動する時が多くあります。子どもたちはひとりも居眠りしていません。目がキラキラときらっています。先週の御言葉を聞いてみるとちゃんと覚えていて素直に応えてくれます。私はその素直な姿に感動し、自分の鈍い心を悔い改める時もあります。私たちはもっと素直に受け取ることが大切ではないでしょうか。特に神様の御言葉に対していつまでも子どものように素直でありたいと思います。私たちは大人の方が賢い。」と考えます。いろいろな立場を考えてくれる人、実力のある人、力のある人になりたがります。しかし、御国では幼子の方が神様の前で喜ばれている可能性が大いにあるのです。私たち一人一人が神様の前にもっともっと素直な人、素直に御言葉を受け取っていく者でありますように祈ります。イエス様は幼子たちを呼び寄せて「神の国はこのよう者たちのものです。」言われました。神の国は幼子のように素直に受け入れる人たちのものです。彼らこそが神の国の喜び、平安、祝福を受けます。そして、彼らこそが神の国にはいることができます。
 17節もご一緒に読んでみましょう。「まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる者でなければ、決してそこに、はいることはできません。」神の国に入る、つまり救われるためには、子どものようにならなければなりません。霊的な世界に入るために神様の御前にへりくだる必要があります。子どもは自分の立場やメンツを考えません。大人たちが考える複雑なことは気にしません。大人は総理大臣とか天皇が自分の所に来るならとても気を使います。しかし、高い地位や肩書きを持つ偉い人でも子どもたちにとってはだれでも「おじさん」です。だから失礼なことをしてはいけないと思われるところでは子どもたちを連れて行きません。そして、子どもたちがいる場合は、弟子たちのように子どもが近づけないように注意したり、追い出したりします。でも子どもは子どもです。子どもはさっと大人の所に行きます。本文にでる子どもたちもイエス様の所に行きました。我々大人たちもこの子どもたちのように、何気なく神様に近づく必要があります。人のことを気にしてないでへりくだって行くと、神の国を受けるようになります。子どものように何でも学ぼうとしてイエス様に近づくことは大切な事です。そういう人たちに素晴らしい神の国が臨まれるからです。
ところが、大人は大人になればなるほどイエス様について学ぼうとしない傾向があります。知っていないことでも知っているふりをします。牧者や宣教師の中でもイエス様を信じる時には素直だったのに、今はあれこれ考えすぎて心が複雑になっている場合があります。はなはだしくは、素直で真実な人、従順な人を無視すすることさえあります。素直な人に対しては賢くないと思うのです。しかし、神の国は子どものように素直でへりくだっている人が入るところです。素直な人こそ賢い生き方をしている人です。信仰が成長すると言うことは複雑なところから単純になることです。疑い深い心から素直に、高慢な心からへりくだった心に変わっていくことです。つまり、本当の意味で信仰が成長するというこは子どものようになることなのです。それはまさにイエス様のようになることです。イエス様は幼子のように神様を信頼し、神様に従われました。十字架にかかって死なれるまでに従われました。私たちが子どものように、イエス様のように神様に対する全き信頼を持って従う素直な人として生きるように祈ります。

?.金持ちの役人と神の国(18-30)
18節をご覧ください。「またある役人が、イエスに質問して言った。「尊い先生。私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」とあります。ここで、役人は今で言えば衆議院のようなサンヘドリン議会の議員のことです。彼は議員の中でも金持ちの議員でした。また、この箇所と並行しているマタイの福音書(19:16-29)によると青年です。彼は人々が求めているお金も、権力も、若さも手に入れていました。彼は多くの人々が求めている理想的な人になっていたのです。しかし、彼は自分の生活に満足していませんでした。彼の心には本当の満足も喜びもありませんでした。何よりも永遠のいのちに対する確信がありませんでした。何だか不安で恐れる生活をしていました。ものによっては満たすことのできないたましいの欠乏を感じていました。すると永遠のいのちに関心を持つようになりました。そこで、彼はイエス様に永遠のいのちについて質問しています。彼らは、永遠のいのちとは、神の国にある祝福であると考えたからです。だから、彼は神の国にある祝福を求めているのです。彼はこの世で出世し、金持ちになっていましたが、それだけではなく、神の国の祝福を受けたいと考えています。たましいを持っている人間はだれも目に見えるものだけではなく、目に見えない霊的世界、永遠のいのちにも関心があるでしょう。人には目に見えるものだけでは満たされない領域があるのです。それで、彼は、イエス様に丁寧に「尊い先生」と呼んでいます。彼は役人としてイエス様にそれなりの敬意を払おうとしたのでしょう。当時、「尊い」とは神様に対してだけ使っていたようです。イエス様は神様なのですから、彼の言ったことは間違っていません。しかし、イエス様は何と答えられましたか。
19節をご覧ください。「イエスは彼に言われた。「なぜ、わたしを『尊い』と言うのですか。尊い方は、神おひとりのほかにはだれもありません。」とあります。なぜ、このように言われたでしょうか。これには二つのとらえ方があると思います。一つは、「なぜ、わたしを尊いと言うのですか。私は尊くないという捉え方です。もう一つは、彼が本当にはイエス様のことを「神様」として受け止めていないと指摘されたという捉え方です。すなわち、イエス様は彼に「あなたは本当に神様に対して言っているか、へつらっているだけではないかと問い掛けられたということです。おそらく、イエス様は彼の真実に問い掛けておられると思います。そして、彼をあわれんで下さり「ご自分が神であり、ご自分のうちに永遠のいのちがある、と教えようとされたでしょう。彼が求めている神の国の祝福、永遠のいのちを受ける真理を教えようとされたのです。そこでイエス様は言われました。
 20節をご覧ください。「戒めはあなたもよく知っているはずです。「姦淫してはならない。殺してはならない。盗んではならない。偽証を立ててはならない。父と母を敬え。」とあります。これは十戒の後半部の戒めです。十戒は、2枚の石板に書かれましたが、一枚目は神様と人との関係が取り扱われており、二枚目は人と人の関係が書かれています。イエス様は、この二枚目についてお聞きになりました。すると、彼は言いました。「そのようなことはみな、小さい時から守っております。」すごいですね。皆さんはこの人のように「十戒は、みな小さい時から守っております。」と言えるでしょうか。彼がウソを言ったのではなく、自分を威張っていることでもありません。イエス様は、「偽善者」だと言われなかったし、マルコの福音書によるとイエス様は彼を見つめ、その人をいつくしまれました。彼は実にまじめな人で、誠実な人だったのです。しかし、彼は自分が永遠のいのちを持っているとは言えない心の虚しさを感じていました。そこで、イエス様は彼に「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい。」と答えておられます。イエス様は彼の言い分を認められましたが、一つだけ欠けていることも教えてくださいました。その欠けた物は『あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい』と言われたことです。つまり、隣人を愛することです。
イエス様は何が一番大切な戒めかと質問する律法学者に答えて言われました。『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くしてあなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。戒めを守っていることは素晴らしいことですが、心の動機はもっと大切な事です。「隣人を愛する」という動機からするのでなければ、本末転倒なのです。もし、この役人は永遠のいのちを所有し、神の国の祝福を受けたいと願うなら、自分の周りにいる人々、餓えている人、苦しんでいる人々を愛し、彼らに財産を分けて上げる必要がありました。そして、彼が本当に戒めを守っているならば、そのことができるはずですということです。本当に与える者が幸いなのだ、本当に幸いになりたいなら与える者になりなさいと言われたのです。しかし、彼の反応はどうでしたか。23節をご覧ください。「すると彼は、これを聞いて、非常に悲しんだ。たいへんな金持ちだったからである。」とあります。彼はイエス様のお話を子どものように素直に受け取っていません。イエス様の教えを聞いて悲しんだのです。しかも金持ちだったから、悲しんだのです。不思議なことですね。人は、金持ちになれば幸せになると思います。お金を儲かるためにどれだけ苦労しているでしょうか。ところが、この役人はたいへんな金持ちだったから悲しんだのです。彼はイエス様の教えを素直に受け入れるより自分の財産のことを考えました。彼は永遠のいのちを受けたいと願いましたが、財産を捨てることはできませんでした。彼の問題は神の国の祝福も受け、この世の財産も多く所有したいと願いました。人々はそのようにすることが賢い生き方だと思っています。神の国の祝福を受けていつも喜び、すべてのことについて感謝している信仰の人を見ると本当にうらやましく思いながらも、そのために自分の持ち物を犠牲にすることは嫌がります。イエス様を通してもらうこと、自分が受けることばかり考え、自分の方から与えること、施すこと、おごることは考えません。本当に与え続ける生活、施し、もてなしをする生活に天国の喜びと祝福があるのにそれを知らないのです。それで欲張りつづけながら滅びに至ります。
そこでイエス様は言われました。24、25節をご覧ください。「イエスは彼を見てこう言われた。「裕福な者が神の国にはいることは、何とむずかしいことでしょう。金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」とあります。イエス様は、ここで清貧な生活を教えているのではありません。イエス様は、この役人にとって神様の祝福を受けるのに妨げになっていたものを指摘されたのです。彼にとっては、お金が邪魔になっていました。彼は道徳的な律法をよく守っていましたが、最も大切な戒めを破っていました。出エジプト20:3節を見ると「あなたがたは、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」とあります。ところが、彼はお金を神様としていたのです。ですから、イエス様はそれを捨てなさいとおっしゃられました。貧しくなることが神の国にはいることではないのです。それでは、イエス様が私たちをご覧になるとき、何と命じられるでしょうか。私たちには「これは絶対に手放したくない」というものはないでしょうか。お金であろうと、何であろうと、それらが神様より優先的になっているなら偶像です。イエス様はそれを捨てなさいと言われているのです。
 26、27節をご覧ください。イエス様のお話を聞いた人々が言いました。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」それでは、不可能ではないかという反応です。そこで、イエス様は言われた。「人にはできないことが、神にはできるのです。」
 神の国に入るのは、人にはできません。不可能です。神の国に入るために、自分を改善することは不可能なのです。したがって、神に近づくには、自分の可能性を捨てる必要があります。
 捨てるのは、自分の可能性だけではありません。28節をみると、ペテロが言った。「ご覧ください。私たちは自分の家を捨てて従ってまいりました。」この役人が財産を捨てることができなかったのに対して、ペテロや他の弟子たちは自分の家を捨ててまでイエス様に従いました。このことを神様は喜んで下さるのです。でもこれができたのも、神様によってできたものです。ではクリスチャンは全部捨てて世捨て人にならなければいけないのでしょうか? 意味するのは今自分が与えられているものを「神に委ねる」ことです。「これはもう自分の物ではありません。」とこの世の物に対していったん神様にお返しするのです。このことがとても大切です。そうする時に神様はそれらのものを一番よく用いて下さるのです。そうなっていくために私たちは全てのことをお捧げしていくことが必要なのです。身を切る大変な犠牲を払っていかなければならないようですが、そうではないのです。神様に捧げる時に私たちはもっとも自分が充実し納得する生き方が始まるのです。
29、30節をご覧ください。「イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子どもを捨てた者で、だれひとりとして、この世にあってその幾倍かを受けない者はなく、後の世で永遠のいのちを受けない者はありません。」とあります。神様のために自分を犠牲にする時、この世においても幾倍も祝福されるのです。神様のために自分を犠牲にして生きる人は、小学校の算数レベルでは損していても高等数学の計算によればもっと祝福される人生となるのです。

ある方は言いました。悪魔の福音は「与えるより受ける方が幸いである」と言うことです。しかし、神様の福音は『受けるよりも与える方が幸いである。』ということです。悪魔は「与えるな。全て奪い取れ。もらえるものは全部もらえ」と教えます。しかし、私たちは神様の福音、イエス様の基準に従って生きたいと思っています。やがて御国に行った時に「本当にこれで良かった」と言える基準に従って生きることです。そのためには、子どもを小さく見るのではなく、子どもに学ぶ姿勢が必要でしょう。子どものように信頼して素直に受け取る姿勢が大切です。そして、この世のものに縛られることなく、神様に捧げ、委ねることです。すると、神様がそれを正しく用いられるし、私たちに必要なものも祝福してくださいます。私たちは神の国を所有し、この世においても幾倍も祝福された人生となります。