2004年ルカの福音書第59講
力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来られるイエス様
御言葉:ルカの福音書21:1?38
要 節:ルカの福音書21:27「そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。」
私たちは朝出かける時に天気予報を聞いて雨が降りそうだったら傘を持って出かけます。本文でイエス様は終末の前兆について教えてくださいました。もし、私たちが人類の歴史の未来を確実に知ることができるなら、私たちは何のためにいきるべきか、どのように生きるべきかを判断することができると思います。今日はイエス様が教えてくださった終末の前兆について学びます。本分の御言葉を通して私たちは何のために生きるべきか、どのように生きるべきか、その答えを見つけることができるように祈ります。
1-2節をご覧ください。イエス様が、目を上げてご覧になると、金持ちたちが献金箱に献金を投げ入れていました。彼らはたくさんのお金を誇らしげに投げ入れていたでしょう。ところが、ある貧しいやもめは、そこにレプタ銅貨二つを投げ入れていました。レプタは当時のお金の中で一番小さな単位でした。一レプタは今のお金で言えば百円くらいです。彼女は恥ずかしい思いをしながら投げ入れていたでしょう。ところが、イエス様は誰がたくさん投げ入れた、と言われましたか。3,4節をご覧ください。「わたしは真実をあなたがたに告げます。この貧しいやもめは、どの人よりもたくさん投げ入れました。みなは、あり余る中から献金を投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、持っていた生活費の全部を投げ入れたからです。」イエス様は、やもめが投げ入れたレプタ銅貨二つは他のどんな捧げ物よりも値打ちがあると言われました。それが彼女の持っているすべてだったからです。金持ちが献金を捧げても、それは彼らには、ちっとも負担になりませんでした。しかし、やもめの小銭二枚は、彼女の全財産でした。彼女の捧げ物は犠牲をともなわれた捧げ物でした。いやいやしながら捧げるもの、自己宣伝のための捧げ物を主は喜ばれません。ある人は献金の大きさは捧げた金額ではなく、残した金額によってきまると言いました。やもめは生活費全部をささげたのだから、残るものは全くありません。だからこれほど大きいものはありません。それでイエス様は金持ちが投げ入れたのに対しては献金と言われ、やもめが投げ入れたものに対しては生活費と言われました。神様は量より質をご覧になる方です。
5節をご覧ください。宮がすばらしい石や奉納物で飾ってあると話していた人々がありました。マルコの福音書13:1節を見るとそれを話していたのは、弟子のひとりでした。弟子達は宮の美しさと大きさに圧倒されてしまったようです。神殿は、当時のユダヤ人にとっては、私達が考える以上に神聖なものであり、神殿がりっぱであれば神の栄光が輝いている、ほんとうに神の宮であり、神の家だというふうに考えられていました。神殿の表玄関と回廊の柱は、白い大理石の円柱で、12メートルの高さをもち、それぞれがつなぎめのない一本の石でできていました。奉納物について言えば、最も有名なのは純金でできた大きなぶどうの木で、その房は人間の背丈ほどもありました。
宮の美しさに驚いている弟子達にイエス様は何と言われましたか。6節をご覧ください。「あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやって来ます。」この栄光に輝く神殿がちりあくたになることは、ユダヤ人の誰も考えられませんでした。人々は近づきつつある破局に盲目でしたが、イエス様は歴史のしるしを読むことができました。神殿はまるで葉は茂っているが、実がないいちじくの木のようでした。神殿は神様を礼拝する場所です。祈りの家です。ところが、当時の神殿は金儲けのための強盗の巣になっていました。イエス様はそのように腐敗した神殿が神様の裁きによって滅びることを予言しました。
イエス様の御言葉を聞いた弟子達は驚いて質問して言いました。「先生。それでは、これらのことは、いつ起こるのでしょう。これらのことが起こるときは、どんな前兆があるのでしょう。」(7)。彼らの質問にイエス様は終末の前兆とエルサレムの滅亡について教えてくださいました。
第一に、キリストを偽る者が大勢現われます。8節をご覧ください。イエス様は言われました。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大ぜい現われ、『私がそれだ。』とか『時は近づいた。』とか言います。そんな人々のあとについて行ってはなりません。」終末になると人々は続く災難によって恐れや不安を覚え、何か頼るものを捜し求めます。このような人々の恐れや不安な心を利用して偽キリストが現われます。偽キリストは恐ろしい者です。なぜなら人々を惑わしてその人のたましいを滅びに至らせるからです。偽キリストは人々に偽りの希望を与えるので惑わされやすいです。最近50年の間世界に現われた偽キリストは1,100名を超えました。日本でも統一教会、モルモン教、エホバの証人、幸福の科学など多くの偽キリストが活動しています。エホバの証人は1914年、1918年、1925年、1941年、1975年、1995年世の終わりが来ると次々と主張しましたが、すべて失敗に終わりました。また、彼らは聖書の中で自分達に不利なところは除いて、自分達の都合によく聖書を作って使っています。それが新世界訳の聖書です。このように偽キリストは聖書の御言葉を引用したり、聖書を作ったりして自分達もクリスチャンと言うので惑わされやすいです。しかし、彼らは聖書を利用するだけで聖書を正しく教えていません。聖書を利用して自分達が主張することを教えます。彼らにとって聖書は教祖の考えを権威つけるものです。また、聖書以外に啓示を受けたと言ってそれをもっと大切にします。彼らの目的はイエス・キリストを宣べ伝えることにあるのではなく、偽キリストを宣伝することにあります。私たちはこのような偽キリストに惑わされないように気をつけなければなりません。
第二に、災難の連続です(9-11)。戦争や暴動が起こります(9)。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がります(10)。去る4,000年の間戦争がなかった時期はわずか268年だけでした。第一次世界大戦と第二次世界大戦が起こりました。21世紀に入ってからもアメリカとイラクの間に戦争が起こり、パレスチナ地方では紛争が続いています。また、911アメリカテロに続き、世界各地でテロが起こっています。また、大地震があり、方々に疫病やききんが起こります(11)。人々は関東地方にも再び大地震が起こると予想しています。去年は鳥インフルエンザ?が猛威を振るい、人々を不安に陥れました。今年は東京の7月平均気温が今までの最高を記録しました。7月20には40度近く気温があがり、熱中症で多くの人々が病院に運ばれました。その中では死亡する人々も多くいました。8月もこのまま熱さが続くと最高記録になると思います。このような熱さも一つの災難と言えるでしょう。ききんはアフリカのような所だけの問題ではありません。先週大坂でも19歳の男性が餓死する事件がありました。彼は身長が183センチなのに体重は32キロしかありませんでした。このように災難が連続して起こると人々は恐れるようになります。しかし、イエス様は「これらのことを聞いても、こわがってはいけません。それは、初めに必ず起こることです。だが、終わりは、すぐには来ません。」と言われました。
それではこれらの災難にはどんな意味があるでしょうか。災難は終末の前兆であり、神様の裁きに対する警告です。そして、私たちクリスチャンにとっては信仰を精錬するものです。人々は困難な時には神様を捜しますが、平安な時には神様について無関心です。しかし、災難が起こると自分の人生について真剣に考えるようになります。この世のものが空しいものであることを知るようになります。神様は災難を通して人々が自分の罪を悟り、悔い改めて神様に立ち返ることを願われます。災難は私たちクリスチャンには神の国に対する生ける望みを与えてくれます。
イエス様は災難が連続して起こってもこわがってはいけないと言われました。どうすればこのような災難が起こっても怖がらないことができるでしょうか。それは神様がすべてのことを御旨に従って行わっておられるということを信じる時に可能です。神様は私だけではなく私の家族や民族や世界の歴史を御旨に従って導いてくださいます。それに対する信仰を持つとき、災難の中でも恐れず、勝利の人生を送ることができます。災難を通して天の御国に対する生ける望みを持つことができます。
第三に、クリスチャンが迫害を受けます。12節をご覧ください。「しかし、これらのすべてのことの前に、人々はあなたがたを捕えて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すでしょう。」確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます(?テモテ3:12)。初代教会の聖徒達は信仰を守るために激しい迫害を受けました。13節をご覧ください。「それはあなたがたのあかしをする機会となります。」迫害を受ける時にキリストをあかしする機会となります。14,15節をご覧ください。「それで、どう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい。どんな反対者も、反論もできず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます。」聖霊は言うべき言葉を与えてくださいます。
16,17節をご覧ください。イエス様は一番耐え難い家族の迫害についても言われます。「しかしあなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られます。中には殺される者もあり、わたしの名のために、みなの者に憎まれます。」愛する家族から迫害を受けることは耐え難い苦しみです。しかし、このような迫害や苦難を受けてもイエス様の弟子達はどんな信仰を持つべきでしょうか。18,19節をご一緒に読んでみましょう。「しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。」私たちは主が髪の毛一筋も失われることがないように守ってくださることを信じなければなりません。そして、その信仰を持って忍耐しなければなりません。キリストとともに歩む人は、たとえ生命は失っても、魂を失うことは決してありません。どんな迫害があっても、最後まで信仰の道を歩む人は、自分のいのちを勝ち取ることができます。
第四に、エルサレムの滅亡(20-24)
これからイエス様はエルサレムの滅亡について言われます。エルサレムの滅亡は将来来る最後の審判に対するしるしです。将来エルサレムはどのようにして滅びるようになりますか。20節をご覧ください。「しかし、エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら、そのときには、その滅亡が近づいたことを悟りなさい。」エルサレムはすさまじい包囲攻撃のあとで、紀元70年ついにローマ軍の手の中に落ちました。その間、住民は実際に共食いをするまでになり、市内は文字通り石の上に石が残ることのないほど、徹底的に破壊されました。ユダヤ人の歴史家ヨセフスは、百十万人という信じがたい数の人々が包囲攻撃の最中に死に、九万七千人が捕虜として連れ去れた、と報告しています。ユダヤ人の国は抹殺されました。神殿は焼かれて廃墟とされました。イエス様はエルサレムの滅亡を予言しながら「そのとき、ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ちのきなさい。いなかにいる者たちは、都にはいってはいけません。」(21)と言われました。そのとき、イエス様の言われたとおりに堕落した都から山へ逃げた人々は救われました。しかし、自分なりの判断によってエルサレムを離れなかった人々はみな滅びました。
エルサレムの滅亡について予言されたイエス様は続けて人類の終末について言い始められました。人類の終末の時に、どんな恐ろしいことが起こりますか。25,26節をご覧ください。「そして、日と月と星には、前兆が現われ、地上では、諸国の民が、海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩み、人々は、その住むすべての所を襲おうとしていることを予想して、恐ろしさのあまり気を失います。天の万象が揺り動かされるからです。」マタイの福音書24:29節には、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされると言われました。太陽が暗くなると生物は命を維持することができません。星は今までぶつかることなく秩序正しく動いていました。ところがその日には台風によって果物が木から落ちるように天から星が落ちます。人々は海と波が荒れどよめくために不安に陥って悩みます。その日には人類が築き上げたすべての科学文明は滅びるようになります。?ペテロ3:10はこう言っています。「しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。」このような恐ろしい災難の後にイエス様が再び来られます。
その時、イエス様はどんな姿で来られますか。27節をご一緒に読んでみましょう。「そのとき、人々は、人の子が力と輝かしい栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。」神様なしに生きている人々は大胆に罪を犯します。肉の欲望に従います。このような人々はイエス様を十字架につける人々です。人々はイエス様を十字架につけるとき、再びイエス様を見ることはないと思いました。しかし、イエス様は神様の力によって死者の中からよみがえられ、神様の右の座に着座されました。そして、時になると再び雲に乗って来られます。使徒パウロはその日の栄光について次のように言いました。「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。」(?テサ4:16)。イエス様が力と輝かしい栄光を帯びて来られる日は神様に敵対していた人々には悲しみの日であり、滅びの日です。しかし、神様を信じる人々にとっては喜びの日であり、救いの日です。最後の勝利と栄光の日です。この世では迫害を受けていた人々はその日には堂々と胸を張ることができます。28節をご覧ください。「これらのことが起こり始めたなら、からだをまっすぐにし、頭を上に上げなさい。贖いが近づいたのです。」そのとき、イエス様は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます(マルコ13:27)。その時、いのちの書に名前が記されている人々の名前が呼ばれます。すると、名前が呼ばれた人はからだをまっすぐにし、頭を上に上げて答えます。「はい。主よ。私がここにおります。」その時、キリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私達が、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。そして、神の国で永遠に愛する主とともにいるようになります。この生ける望みはこの世のどんな苦しみにも耐えられる力を与えます。
私たちにはいろいろな望みがあります。キャンパスの多くの学生達に福音を宣べ伝える望みを持っています。また、彼らを弟子として育てる望みを持っています。幸せな結婚に対する望みがあります。このような望みは私たちに苦難を乗り越える力を与えます。しかし、クリスチャンにとって究極的な望みは力と輝かしい栄光を帯びて来られるイエス様に対する望みです。その日、主は主と福音のために涙を流し、苦難の中でも忍耐し、小さな事に忠実した人々を慰めて報いてくださいます。「よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。」(ルカ19:17)。
それでは主の再臨を待ち望んでいる私達はこの世でどんな生活をしなければならないでしょうか。29-31節をご覧ください。「いちじくの木や、すべての木を見なさい。木の芽が出ると、それを見て夏の近いことがわかります。そのように、これらのことが起こるのを見たら、神の国は近いと知りなさい。」32,33節はイエス様の御言葉は必ず成就することを言ってくれます。歴史の始まりがあると必ず終わりがあります。ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。(マルコ3:32)。それでイエス様は言われました。34節をご覧ください。「あなたがたの心が、放蕩や深酒やこの世の煩いのために沈み込んでいるところに、その日がわなのように、突然あなたがたに臨むことのないように、よく気をつけていなさい。」また、36節で言われました。「しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。」主はいつ再臨するかわかりません。また、私たちはいつ主の御前に立つようになるかわかりません。ですからいつも油断せずに祈っていなければなりません。イエス様は、昼は宮で教え、夜はいつも外に出てオリーブという山で過ごされました。イエス様はいつも目を覚まして祈り、御言葉を教えておられました。イエス様は、神殿に集まった群衆の真中で一日をすごし、星の下で神とともに一夜をすごされました。このような神様との交わりがあったからこそ、イエス様は群衆に対して、力を発揮することができたのです。
以上から私たちは人類の歴史はイエス様の再臨に向かって行くのを学びました。私達はいつか死ぬことはわかっています。しかし私達にその日がいつであるかは知らされていません。同様に、世の終わりがあることはわかっていても、それがいつであるかはイエス様は言われませんでした。いつ来るかわからない終末を、きょう終末がある、そしてきょう神の前に立つかのように生きていくところに、私達の終末信仰があります。私たちクリスチャンの究極的な望みはイエス・キリストの再臨とその日に臨まれる神の国にあります。私たちがこの望みを抱いてどんな迫害や苦難があっても最後まで忍耐することができるように祈ります。いつも油断せずに祈り、主の御言葉を教える生活に励むことができるように祈ります。