2004年7step第3講

幸福の園、エデン

御言葉:創世記2:4?25
要 節:創世記2:16,17「神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」

 先週、私たちは神様が人をご自身のかたちに創造されたことを学びました。神様は人間を造られてからお造りになったすべてのものを見て「それは非常に良かった。」と告白なさいました。こうして天と地とそのすべての万象が完成されました。それで、神様は第七日目に、なさっていたすべてのわざの完成を告げられました。すなわち、第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれました。私たちは、この第七日目を安息日と呼んでいます。土曜日のことですが、今はイエス・キリストが死者の中からよみがえられた主日を安息日として守っています。神様はこの安息日を祝福し、この日を聖であると宣言されました。安息日は祝福された日、聖なる日になったのです。ですから、私たちは安息日を聖なる日として守ることによって神様の祝福を受けます。安息日を守って今日の礼拝に参加された皆さんの上にも神様の豊かな祝福が注がれることを信じます。神様がこの日を祝福されたからです。
今日、学ぶ創世記2章は、神様の創造の中で最も大切な人間創造を一章よりももっと具体的に記しています。1章は創造主神様が中心でした。1章の中で「神」ということばが31回も記されているほどです。しかし、2章は神様の創造の傑作品として造られた人間にスポットライトが照らされています。もちろん、人間創造の主体も神様です。神様は宇宙のすべてを造られたし、すべてを治めておられます。ところが、この神様の主な関心の対象は人間です。この世にある万物は人間のために造られたものです。特に神様は最初の人間アダムのために幸福の園、エデンを設けてくださいました。では人間はどのようにして造られ、神様が特別に設けてくださったエデンはどんなところだったでしょうか。
この時間、私たち一人一人が御言葉を通して人のためにエデンを設けてくださった神様の愛、いつも幸せに暮らす秘訣を学ぶことができるように祈ります。

?.幸福の楽園、エデン(1-17)

 4節をご覧下さい。「これは天と地が創造されたときの経緯である。神である主が地と天を造られたとき、」とあります。ここからは神様のことを「神である主」と言っています。創世記1章に記された神様の名は「エロヒーム」でした。主として全能者としての創造主という性格を表わす時に用いられました。2章から記された「神である主」(ヤーウェ)とはで契約を結ばれ、また守られる恵み深い救い主の神であることを表わしています。では神様愛がどのように現われているでしょうか。
 5,6節をご覧下さい。「地には、まだ一本の野の潅木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である主が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。ただ、霧が地から立ち上り、土地の全面を潤していた。」これは土地を耕す働き人が必要な状態でした。先週、私たちはセンター用のノートブックを買いましたが、まだ何もインストールされていませんでした。ちゃんとしたコンピュータですが、すぐに使うことができなかったのです。Windows XP、Ofice2000をインストールしてから使えるようになりました。地球も創造の主人公である人間が現されるまでは何も動けない状態でした。ただ、人間が現われることを望んでいる状態でした。
7節をご覧下さい。「その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。」とあります。神様は土地のちりで人を形造られました。私たちは土地のちりにすぎない存在なのです。私たちは、この事実を覚えてへりくだらなければなりません。人間の限界と弱さを知って、創造主である神様に頼らなければなりません。創造主である神様は私たち人間がどれほど弱い存在であるかを知っておられます。それで父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれます。主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられます(詩篇103:13,14)。ですから、私たちが自分の弱さを知り、神様に頼るなら、神様は御力をあらわしてくださいます。その力を受ける通路は霊です。
神様は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれることによって人間が神様のいのちを持つ存在にしてくださいました。神様の力をいただき、神様と交わることができる存在にしてくださったのです。ですから、われわれ人間は土で造られた肉体の満足だけではなく、神様のいのちを持っている生きものとして、霊的にも満たされなければなりません。マタイの福音書4章4節をみると「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる。」とあります。この御言葉は人間が肉的にはパンで生きるのですが、霊的には神様の御言葉によって生きることを教えています。私たち人間はからだに吹き込まれている神様のいのちによって神様の御言葉を食べる存在です。私たちは神様の御言葉を通して神様との交わりをし、健全に、健康に生きることができます。最初の人間アダムはそのように生きることができました。神様が造られた完全な人間として何の孤独も、苦しみもなく、神様と交わる生活ができたのです。しかし、サタンの誘惑によって人間が堕落し、神様に逆らった時、神様のいのちを失ってしまいました。そこから人間の孤独と苦しみ、葛藤が始まりました。肉体を持っていますが、神様の霊を失った人間はさびしくて孤独な人生の中でさまよいます。航路を失った船のようになっています。方向がなく、目的もない人生を動物のように生きています。だからといって、何も考えず単純に動物的に生きることもできません。なぜなら、自分が動物ではないことを分かっているからです。それで、人間には葛藤があります。さまよいがあります。まじめに生きている人はまじめにさまよっています。熱心に生きている人は熱心にさまよっています。毎日よく食べて、健康に生きているように見えても神様との交わりがなければ心の中から虚しさを感じるからです。
私たち人間は神のいのちを回復して神様と交わる生活をしなければなりません。神のいのちを回復する道はイエス・キリストを信じることです。道であり、真理であり、いのちであるイエス・キリストを信じて受け入れる人に神のいのち、聖霊が臨まれます。神様のいのちが回復されて神様と交わるところにいのちがあり、救いがあります。そこには上から与えられる力あり、平安と天の喜びがあります。今までこの世の喜びしか知らなかった人が天の喜びを経験するようになります。心が癒され、からだが癒される経験するようになります。死んだも同様の人がよみがえります。神様のいのちとは、いのちの霊、よみがえりの霊であり、聖霊の霊だからです。
教会に通っているからといって霊的に満たされるのではありません。多くの奉仕をしたからといって神の霊を受けるのではありません。イエス・キリストを信じることによってのみ神の霊が回復されるのです。キリストを信じる者だけが神様の力を体験します。イエス様は言われました。「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人は癒されます。」私たちはイエス・キリストを信じることによって神の霊を回復し、輝かしい神様の世界、いのちと力の世界を経験することができるのです。われわれ人間は肉体だけの存在ではありません。天使のように霊だけ存在するものでもありません。最初の人間は肉体だけではなく、神様のいのちを持っていて神様と交わり、素晴らしい神様の世界を神様とともに経験する存在として造られました。では土地のちりから形造った人間のために神様は何をされましたか。
8節をご覧下さい。神である主は、東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれました。神様がアダムのために園を造ってくださいました。大きな建物ではありませんでした。皇居のように内堀、外堀によって囲まれる宮殿でもありません。素朴なところ、美しい所、憩いの場であり、ぐっすり眠れる所です。自由に歌えるし、神様と交わることができる園でした。そこが楽園パラダイスだったのです。楽園とはこのような所です。キラキラ輝く建物では神様が造られた美しい自然の中で、人が愛し合う所、神様を賛美し、神様の祝福を分かち合う所なのです。皆さんの家がこのような所となりますように祈ります。東京センターも、幸福の園、エデンのような所となりますように祈ります。罪がなく、悪の影もない所、神様の栄光に満ちている所、神様と人間が交わる所こそがエデンの園です。私たちが夢見る家庭の姿であり、私たちが夢見るこの国の姿、世界の姿です。
9節をご覧下さい。「神である主は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の木とを生えさせた。」とあります。エデンには木が多くありました。ビルディングより多くの木がある所が良い所です。家もコンクリートの家より木材の家の方が心地良い所でしょう。また、家には食べ物がなければなりません。いくらりっぱな家でも食べ物がなければ不便な家です。仕事から帰って来ても、学校から帰って来ても冷蔵庫に何もなければさびしいですね。エデンの園には食べ物がいっぱいありました。しかも見るからに好ましく食べるのに良いもの、おいしいものがいっぱいあったのです。それだけではありません。いのちと祝福の川が流れていました。
10-14節をご覧下さい。一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていました。第一のものの名はピションで、それはハビラの全土を巡って流れ、そこには金がありました。その地の金は、良質で、また、そこには、ブドラフとしまめのうもありました。第二の川の名はギホンで、クシュの全土を巡って流れました。第三の川の名はヒデケルで、それはアシュルの東を流れました。第四の川、それはユーフラテスでした。エデンは四つの川の源となっていました。つまり、エデンの園には水が豊かにありました。園を潤す水です。この水はいのちを生かすものです。石油やガソリンよりも大切なのは水です。石油はなくても生きられますが、水がなくては生きることができません。ところが、人々は水よりも石油がもっと価値あるものであるかのように思って生きています。しかし、人類が生きる道は水をきれいに保つことです。エデンの園には私たちの想像を超えたきれいな水が流れていたのです。これらのことを考えてみると、エデンの園はいかに美しく、素晴らしいところだったのかがわかります。環境だけではありません。エデンには罪がなく、いつでも神様と交わることができる園でした。悲しみも、叫びも、苦しみもないところでした。真の自由といのちと平安と愛と恵みが全地に満ちているまさに楽園でした。神様は人を取り、エデンの園に置き、そこを管理させられました。神様は喜びの園、幸福の園を人にくださったのです。では、人がエデンの園に住み着いて永遠に幸せに生きる秘訣は何でしょうか。
私たちは、9b、16、17節からその秘訣を学ぶことができます。まず9bをご覧ください。「園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木とを生えさせた。」とあります。園の中央には、いのちの木がありました。いのちの木とはいのちを与える木です。この木の実を食べると私たちのうちにいのちがあるのです。このいのちの木は園の中央にあってアダムを祝福する木でした。しかし、アダムとエバがサタンの誘惑に陥って善悪の木から実を取って食べた後に無くなりましたが、イエス・キリストによって再び現われます。ご一緒に黙示録2:7節を開いて見ましょう。「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」とあります。このいのちの木には実があり、その果物は食べるものなのです。イエス様は言われました。「わたしは、いのちのパンです。あなたがたの先祖は荒野でマナを食べたが、死にました。しかし、これは天から下って来たパンで、それを食べると死ぬことがないのです。わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。また、わたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です」(ヨハネ6:48-51)。私たちはいのちのパンであるイエス・キリストを通してパラダイスにあるいのちの木の実を食べることができるのです。神様はイエス様を信じて、信仰によって勝利を得る者にいのちの木の実を食べて永遠に生きる道を開いてくださったのです。この世のいのちも、イエス・キリストのうちにあるなら、キリストによって新しくされていのちにあふれるようになります。イエス様は「また、わたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。」とおっしゃいました。ですから、イエス・キリストによっていのちの木から実を取って食べる人は、いのちを得、豊かに得て生命力にあふれた人生を生きるようになります。
エデンの園から無くなっていたいのちの木がイエス・キリストを通して再び私たちに現われていることを感謝します。いのちの木は遠い昔、世の初めにあっただけではなく、イエス・キリストによって今の私たちのうちに存在するのです。毎日、いのちの木を食べましょう。だれでもいのちの木の実を食べる者は飢えることがなく、決して渇くことがありません。また、このいのちの木には癒しがあります。エゼキエル書47:12節は言います。「川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。」とあります。いのちの木にある実は食物となり、その葉は私たちのすべての病を癒す薬となるのです。イエス・キリストのいのちが私たちのうちにあるなら、私たちは人を愛するようになります。御言葉の力、よみがえりの力、癒しの力を経験するようになります。本当に元気な人生、永遠に生きる人生を生きるようになるのです。私たちがまことに幸せに生きる秘訣はいのちの木を食べることにあるのです。食べ物は一度にいっぱい食べていいものではありません。日ごとに食べることです。これが祝福される人生、幸せな人生の秘訣なのです。しかし、食べてはならない木があります。
16,17節をご一緒に読んで見ましょう。「神である主は、人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」ここに、不幸になる秘訣、必ず死ぬ秘訣があります。それは善悪の知識の木から取って食べることです。私たちは善悪の区別をはっきりする知識があればどんなに良いことでしょうか。しかし、それを食べると死ぬのです。なぜなら、善悪の知識を与える木の裏にはサタンがいるからです。
エデンの園には悪も、闇の勢力もありませんでした。私たちには悪を知る必要がありません。悪は善を作り出すことができません。罪は罪を生み出します。悪魔は説得するものではなく、追い出すべきものです。善悪の知識の木は悪について目覚めさせます。毒ガスは目に見えないものですが、体にはいると、人を死なせることまでもします。それが悪です。私たち人間は悪を知る必要がない存在でした。ところが、善も知り、悪も知る「善悪の知識」という言葉は魅力的です。悪魔はそれを利用したのです。来週、学ぶ3章を見ると、悪魔は「善悪の知識の木」食べるそのとき、神のようになると誘惑します。人間の最大の誘惑は神になろうとすることです。人間は神様になることができません。
善悪の知識の木はサタンとつなげる通路です。それで、神様は「善悪の知識の木からは取って食べてはならない。」と命じられました。それを取って食べるそのとき、必ず死ぬことも警告されました。善悪の知識の木から取って食べると、サタンと接触するようになり、滅びるからです。ところが、サタンは今も、私たち人間に善悪の知識の木から実を取って食べるように誘惑します。アダムとエバの子孫たちに毎日善悪の知識の木を食べさせるのです。クリスチャンも食べるようにします。
それで、人々はそれを食べて毎日のように「あなたは善であり、お前は悪である」とさばきます。学校でもそれを教えています。「あなたは良い子で、あの子は問題児だ。」と言っています。韓国は我らの同盟であり、北朝鮮は、悪の軸だ。」とさばきます。このようにさばき続けるうちに戦争が起こり、死をもたらします。夫婦の間もそうです。「あなたが悪かったよ。いやお前のせいだ。」と善悪を追求するうちに離婚するようになります。何もないようなことが恐ろしい悲劇をもたらします。善悪の知識を持って罪を指摘することはできますが、解決することはできません。善悪の知識の木を食べている政治、教育を通して人を癒し、生かすことはできません。善悪をはっきりと区別してあげることによって人が変わるのではありません。赦しと愛によって変わるものです。イエス様は愛と赦しによって人類歴史上、数え切れない人々の人生を変えてくださいました。イエス様はご自分を十字架につけた人々を目の前において、彼らのために、また、全人類のために「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分で分からないのです。」と祈られました。この赦しと愛が人を変えるのです。私たちがいのちの木を食べると、イエス様のように赦し、愛することができます。事実、いのちの木を食べているなら、私たちは「私が悪かった。」と謝って和解し、愛する生活しなければなりません。善悪の知識の木を食べて生活するなら、自分の苦しいし、人を苦しめてともに死ぬのです。善悪をさばくところにいのちはありません。必ず死ぬのです。

?.家庭を造られた神様(18?25)

 神様は土地のちりから人を形造り、その鼻に息を吹き込んで神のいのちを持たせてくださいました。また、幸福のエデンの園を設け、そこでいのちの木を食べながら永遠に幸せに生きるようにしてくださいました。絶対にサタンとの接触を持たないように善悪の知識の木からは取って食べてはならないという戒めも与えてくださいました。神様は、本当に人間を愛してすべての良いもので満たしてくださいました。しかし、神様の愛はそこで留りませんでした。さらに、人のことを考えてくださいました。
18節をご覧下さい。「その後、神である主は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」とあります。神様は人のことを考えた上、彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう、とされました。それからどうなさいましたか。
19、20節をご覧ください。神様は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造られたとき、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られました。神様はおもしろいですね。神様はご自分が造られたものに名をつけることもできたはずですが、わざとアダムがどんな名をつけるかを見るために彼のところに動物たちを連れて来られましたね。やはり神様は人間のすべてに関心があり、助けようとしておられることがわかります。神様がご覧になると、アダムは熱心に生き物に名前をつけていました。アダムはゾウを見て「あなたは鼻が超長いので、ゾウと名づけよう」としました。豚がブーブーとしているのを見て「豚」名づけました。おそらく、アダムがメスもオスも同じく名づけていたようです。ところが、神様がご覧になると、アダムだけはひとりであって、彼にふさわしい助け手が見当たりませんでした。ここで重要なことを発見することができます。神様は女を助け手として造ろうとされたことです。助け手がどのように助けるかは非常に大切なことです。偉大な人のうしろには偉大な助け手がいます。世界を征服するのは男性ですが、男性を征服するのは女性だと言われています。このように女性は弱く見えますが男性に対しては非常に強いです。女性はその強さを持って男を無視するのではなく、助けなければなりません。また、女性が良い助け手となるためには男性も広い心を持って受け入れる必要があります。霊的に成熟した内面性が求められるのです。また、アダムがあらゆる動物の名をつけたように、想像的な知恵を持って家庭をリーダーするリーダーシップを持つことも大切なことです。それでは神様は助け手をどのように造られましたか。
21節をご覧下さい。「そこで神である主が、深い眠りをその人に下されたので彼は眠った。それで、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。」とあります。ここで見ると、男と女は材料から違います。女のほうがはるかに良い材料で造られています。男性はいやしい土地のちりで造られましたが、女性はアダムのあばら骨で造られています。だから、女性はきれいです。女性を造った材料は土ではないのです。動物は土で造られていて人格とか道徳がありません。土で造られた男も動物的です。女性は男から造られました。神様は女を造られる時、アダムに深い眠りをくださいました。これは、まるで手術する時に麻酔して何も知らないようにすることと同じです。また、「眠った」というのは「死んだ」という言葉と同じであるそうです。つまり、女は男の死を通して生まれたのです。男が死ぬ時に女は生かされるのです。女性はこのように高価で尊い存在です。男性が女性のために死ぬなら、その家庭は幸福のエデンになります。その家は天国のようになります。また、神様は女を造る材料をアダムの頭とか、指の爪からとらないでわきにあるあばら骨から取られました。「あばら骨」の原語は「ツェラー」で「わき」と訳すことができるそうです。つまり、女性の位置は男性のわきです。女性は男性のわきにくっついている時、一番幸せです。なぜなら、故郷がそこだからです。女性は男性の同僚であり、友達です。男性の所有物ではありません。自分の手足のように使うものでもありません。自分の心の真ん中に抱いて愛するべき存在です。神様は女性をこのように特別に造られました。一番、最後に造った商品が一番良いものです。男を造られ、その男から造られた最高の作品がまさに女性です。
22節をご覧ください。「こうして神である主は、人から取ったあばら骨を、ひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。」とあります。「その女を人のところに連れて来られた。」とあります。この御言葉は本当に重要なことばです。神様が女を人のところに連れて来られることが結婚です。ところが、人々は道で出会った人とか、自分の気持ちによって結婚します。そこに神様がおられません。結局、気持ちが悪くなると、二人の関係も悪くなってしまいます。互いにぶつかり合い、傷つけたり、傷つけられたりします。結局、離婚してしまいます。それで、ある人は結婚の相手は最低約束を守る人でなければならないといいました。約束を守る人は気持ちが悪くなっても結婚式の時の約束を守ろうとするからです。しかし、神様が結び合わせてくださる結婚こそが聖書的な結婚です。神様の導きを悟り、神様が連れてきてくださったことを信じて神様の御前で結婚することが大切なのです。
では、神様が与えられた同労者を迎えるアダムの喜びはどうでしたか。23節を男性だけで読んで見ましょう。「これこそ、今や、私の骨からの骨、私の肉からの肉。これを女と名づけよう。これは男から取られたのだから。」素晴らしい告白です。肉親にさえ、こうは言えないでしょう。自分の半身である妻を呼ぶときにのみ言える表現ではないでしょうか。夫である方は神様の傑作品である妻をほめましょう。「あなたはきれいですね。You are Wonderful!」と一日に三十回くらい話してみてください。奇跡が起こります。私は時々「私の目にはあなたはきれい。」と言っていますが、先週は、会うたびに「あなたはきれいですね」と言いました。センターで夜明けの祈りをしてから家に帰ってまだ顔洗いもしないで朝食の仕度をしている妻に「あなたはきれいですね」と言いました。すると、私が心からしていないことに気がついたのか、「そういわないで・・」といわれました。でも「気持ちはいいですわ。」とも言いました。一日に30回も妻をほめ言葉を言うことはとても難しいことです。私が妻に何度「あなたはきれいですね。」と言っていると、今度は娘がお母さんに言わないで「自分に言うって」言っていました。母さんには「美しい」といい、妹に「かわいい。」といって「自分にきれいだよ」というのだと教えてくれました。それで娘に「あなたは本当にきれいだよ」と言ったらとても喜んでくれました。女性はほめることは花を咲かせることです。ほめられる女性はきれいになります。家の食卓もきれいになります。家もきれいになります。これは家庭の幸福の秘訣であり、夫婦生活の秘訣です。創造の原理に従って生きると、このような祝福があります。
24節をご覧下さい。「それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」とあります。結婚すると、男も女もそれぞれ両親から独立しなければなりません。この独立とは経済的なことも意味していると思いますが、まず精神的に独立しなければなりません。親に依存する生活から離れて神様だけに頼って独立しなければならないのです。そうして夫婦が一体になるのです。結婚は二人を一体とする神秘的事実です。体だけではなく、心もひとつになるためには信仰も使命も人生の方向や目的も、望みも同じでなければなりません。そのために互いに助け合い、理解し合い、尊敬し合うために努力する必要があります。すると、二人の間は何も恥ずかしいことがなくなります。
25節をご覧ください。「そのとき、人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。」とあります。素晴らしい夫婦関係を見ることができます。恥ずかしいと思わなかったということは二人の間に隠し事も、ウソもなく、罪がないということです。そのとき、夫婦は恥ずかしくない関係になります。私たちの家庭が夫は妻に、妻は夫に何も恥ずかしいことがないものでありますように祈ります。そのとき、家庭は神様に喜ばれる家庭になると信じます。エデンの幸せ、神様の祝福が皆さんの家庭に、夫婦の間にあふれるように祈ります。

以上で、私たちは神様がいかに人を愛しておられるかがわかります。神様の人のために幸福の園、エデンの園を造ってくださいました。いのちの木をくださったし、サタンの誘惑に陥ることがないように戒めも与えてくださいました。さらに、最も美しい助け手を造ってくださいました。私たちがイエス・キリストを信じることによってこの素晴らしいエデンの園を回復し、日ごとにいのちの木を食べる生活をするように祈ります。神様から与えられた戒めをよく守ってサタンの誘惑に陥ることなく、神様の祝福を自分のものにして生きることができるように祈ります。特に夫なる方は毎日妻に愛の告白をして幸せな家庭を築き上げて行きましょう。