2004年7ステップ第4講
人間の罪と神様の愛
御言葉:創世記3:1-24
要 節:創世記3:15「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」

神様は創造の時から、人を特別に愛しておられます。人をご自身のかたちに創造されました。人の幸福のために東の方、エデンに幸福の園を設けてくださいました。園の中央にはいのちの木を生えさせてくださり、人がその木からいのちを得て永遠に生きるようにしてくださいました。善悪の知識の木からは実を取って食べてはならないと戒めも与えてくださりサタンとつながることも、悪を知ることもなく、いつまでも神様の愛の中で幸せに生きるようにしてくださいました。それだけではありません。神様は最初の人間アダムからあばら骨を取って助け手を造ってくださり、人がさびしいことなく、熱く愛し合いながら、神様が造られた美しい世界を管理することができるようにしてくださいました。神様は人のために言い表せないほどの素晴らしい環境の中で神様の愛、人間同士の愛の中で幸せに生きるようにしてくださったのです。
ところが、人間は堕落し、神様に罪を犯してしまいます。サタンの誘惑に負けて神様に逆らってしまったのです。こんな人間は神様に罰せられて当たり前です。捨てられても弁解の余地はありません。赦される価値のない者が人間なのです。しかし、神様は人間を見捨てになりませんでした。自分の存在を失ってしまった人間を探して保護し、救われる道を開いてくださいました。ここに神様の愛があります。どうか、御言葉を通して神様の愛を深く悟ることができるように祈ります。また、サタンの誘惑の方法を知り、サタンに惑わされることなく、誘惑に打ち勝たれたイエス様のように勝利の人生を生きる秘訣を学ぶことができるように祈ります。

?.罪の誘惑(1‐8)
 1節をご覧ください。「さて、神である主が造られたあらゆる野の獣のうちで、蛇が一番狡猾であった。」とあります。ここで、蛇はサタンに用いられた動物です。サタンはいつも表に現われず、裏側で陰謀を企んでいます。隠れて隠密に働きます。私たちがこのようなサタンに勝つ方法の一つは彼らの正体を現すことです。イエス・キリストの御名によって悪魔に立ち向かってその正体が表にあらわされるようにするのです。ヤコブの手紙4:7bを見ると「悪魔に立ち向かいなさい。そうすれば、悪魔はあなたがたから逃げ去ります。」とあります。ここで、私たちは何もかも自分を隠して生きようとするところにサタンが働くことも覚える必要があります。ある人はイエス様を信じていることを隠そうとしています。心の中で信じていればいいじゃないかと言います。ところが、サタンはそのような人に攻撃するのです。ですから、私たちはイエス様を信じていることを言い表し、誇りとして生きるべきです。自分のことを明るみに出して真実に生きている人にはサタンが近づけません。自分を隠し、心を暗くするところにサタンが働きかけてくるのです。
また、サタンはあらゆる野の獣のうちで蛇を選んで使いました。それは蛇が一番狡猾であったからです。ここで「狡猾」という言葉はもともとは「賢い、頭がいい」という意味です。つまり、サタンは狡猾な人、頭のいい人を用いるということです。狡猾な人、賢く自分の本音を隠すような人たちは悪魔に利用されやすいのです。自分を威張る人、高慢で、頭のいい人たちは危険な人たちです。私たちはそういう人たちを警戒しなければなりません。買い物するときも自分の店のものが一番いいとうまく説明する人には騙されやすいです。なぜなら、そういう人は悪魔が使いやすいタイプだからです。
神様の人は真実な神様に似ている人です。神様を信じる信仰の人たちの特徴は真実さにあります。ちょっと足りなく、愚かであってもそれは問題になりません。大切なのは真実さです。夫も、妻も真実な人が最高でしょう。友だちも何でも真実に話し合える人が最高です。私たちは外見上の姿がきれいで頭のいい人、能力のある人に気をつけるべきなのです。サタンが出エジプトするイスラエル人に敵対する人として使ったのは頭のいいパロでした。弟子たちの中で一番賢いと思われるユダを使いました。
 もう一つ覚えておくべきことがあります。蛇は女に「あなたがたは、園のどんな木からも食べてはならない、と神は、ほんとうに言われたのですか。」と言ったことです。蛇は、女に神様の言葉に対する疑いを植え付けています。神様が人を愛してくださった戒めなのに、「どんな木からも」とか「ほんとうに」という言葉によって、神様の愛を疑わせました。疑いの種を植えているのです。人は愛されるために生まれたのに、自分は愛されていない、自分の夫からも愛されてない、というような疑いを植えつけます。何気なく言われた一言のことばを通して夫婦の間に疑いを植えつけます。それによって神様との関係を崩し、平和な家庭を騒がすことがサタンの働きです。また、サタンの攻撃目標は男でしたが、美しい女に弱い男の弱点を良く知っていて先に女の人を攻撃しました。サタンは人の弱点を利用することが分かります。私たちはさまざまな罪を犯すのではありません。大体、自分に弱い罪を繰り返しています。ある人は情欲に弱いし、ある人はお酒に弱いものです。インターネットの誘惑に弱い人もいるし、淫乱な雑誌の誘惑に弱い人もいます。短気な性格や怠ける生活習慣が自分の弱さである場合もあります。私たちは自分の弱さを知り、そこから離れなければなりません。
2、3節をご覧ください。「私達は、園にある木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実について、神は、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ。』と仰せになりました。」この答えを見ると、女はもうサタンの攻撃にやられています。神様は「園のどの木からでも思いのまま食べてよい」と言われました。しかし女は「園にある木の実を食べてよいのですが」と答えました。また、神様は「善悪の知識の木」と明言しましたが、女は「園の中央にある木」だと言いました。神様は「取って食べてはならない。」と言われましたが、女は「それを食べてはならない。触れてもいけない。」といって、付け加えています。そして、神様は「それを食べるその時、あなたは必ず死ぬ。」と警告されましたが、女は「死ぬといけないから」と言って神様の御言葉を変えてしまいました。それがサタンの狙いでした。
私たちは誘惑されるとき、健康やお金、快楽、名誉のせいだと思います。しかし、サタンの関心はお金でも、快楽でも、名誉でもありません。サタンの関心は御言葉です。私たちが御言葉のとおりに生きるなら、サタンは敗北してしまいます。だから、サタンは人々が神様の御言葉を聞かないように、聞いても正確に聞かないで適当に聞いて適当に行動するようにします。あるアンケート調査によると、生活に喜びと感動がない人は信仰生活を始めて間もない人より、十年、二十年も経っている人の方が多いそうです。なぜなら御言葉を聞いてもよく知っているふりをするからです。サタンの最大の攻撃は礼拝のメッセージを聞こえないようにすることです。その方法は簡単です。それはメッセンジャーに対する不信感を植えて憎むようにすること、聖書を教えてくださる人を無視するようにすることです。すると、いくら御言葉を聞いても聞こえません。サタンの目的は昔も今も同じです。神様の御言葉を聞かないようにするのです。だから、「教会に行ってもいい。しかし、説教の時には居眠りしなさい」と誘惑します。また、信仰生活が長くしたら、もっと教会の奉仕を忠実にしなさい。しかし、聖書勉強はそんなに深く準備しなくてもいいよ。よく知っているのではないか。」と誘惑します。それで、仕事を優先にやって行くと、霊的な姿を失い、以前よりもっと短気な人になります。もっと理性的になり、もっと人間的に、もっと合理的に、もっと世的になってしまいます。心は冷たくなって人をさばくようになります。すると、教会に来ていてももなんだかさびしくなります。結局に人間的な話ばかりをしてサタンの奴隷として用いられてしまいます。本当に惨めになってしまうのです。ですから、私たちがサタンに打ち勝つ秘訣はただ一つ、神様の御言葉をよく聞くことです。御言葉を口ずさむことです。私たちが聖書を適当に読まないで精読し、日ごとの糧を深く食べ始めるなら、私たちの周りにいるサタンが逃げ去ります。
私は先週、パウロチームの勉強会の時、朴エズラ宣教師の話を通して恵みを受けました。彼が日ごとの糧の御言葉から学んだことを話するとき、彼の目が輝いているのような気がしました。彼も夜二時、三時に寝るほどに忙しい生活をしていますが、本当に御言葉を深く黙想し、御言葉を通して力を受け入れることが分かりました。本当に私たちが御言葉を大切にして生きるとき、サタンの誘惑に打ち勝ち、元気よく、力強く生きることができます。しかし、御言葉を聞いても適当に聞いているなら、適当な人生になります。心は揺れ動き、何をしても疲れます。一日の方向、人生の目的が見えないからです。サタンはいのちの御言葉より世の価値観、賢い人々の話をもっと大切にしてしまいます。サタンはそれを狙っています。
4、5節をご覧ください。「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。」蛇は神様の御言葉とは全く正反対のことを言いました。さらに、サタンは女に神様のようになるというビジョンを与えました。それは人間にある最大の誘惑です。人はもっと地位の高い人になりたがるし、もっと大きな権力を待ちたがります。神様のようになることまで望むのです。サタンはこのような人間の心を巧妙に利用しました。サタンは神様がエバに神様のようになることを禁じたのだと言ったのです。その言葉を聞いたエバの反応がどうでしたか。
6節をご覧ください。「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、一緒にいた夫にも与えたので、夫も食べた。」とあります。言葉は本当に恐ろしいものですね。蛇が来て言うまでは善悪の木を見ても普通に見えました。しかし、蛇の言葉を聞いてから見ると、その木はまことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするほどに好ましく見えました。ここで、サタンの誘惑の段階を見ることができます。最初は食べるのに良く見えたことです。私たちは食べることで多くの誘惑を受けます。事実、私たちは生きている限り食べなければなりません。だから、これは一番本質的な誘惑です。飢えている幸せになりません。しかし、満腹しているからと言って皆が幸せになることでもありません。お金も必要です。しかし、食べ物もお金もあるから幸せだと言えるでしょうか。いくら満たしても満足的ないことが肉体的な満足です。これに性的な満足も含まれます。肉的、物質的な誘惑がありました。二番目は目に慕わしく見えたことです。これは精神的な誘惑です。「見る」ということは心理的であり、精神的なことです。人はだれでも美しくなることを望んでいます。目に慕わしい存在になりたがるのです。三番目は賢くするほどに好ましく見えたことです。人間の心の中は、常に新しいことを追求し、神様のようになる知恵を得ようとします。これは霊的な誘惑です。これらの誘惑は今日の私たちにもあります。肉的な快楽、心理的な快楽、貪欲と霊的な欲望に対する誘惑があるのです。でも、私たちがこれらの誘惑に打ち勝ち、勝利します。その理由は、イエス様が私たちの先に誘惑を受けられましたが、悪魔の誘惑に打ち勝ち、勝利されたからです。マタイの福音書4章を見ると、イエス様はサタンの三つの誘惑から勝利なさいました。アダムとエバは敗北した誘惑ですが、イエス様は御言葉によって誘惑に打ち勝たれました。
サタンはイエス様の時も同じパターンで誘惑しました。第一に石がパンになるように、命じなさいと言いました。肉的な誘惑です。イエス様は申命記8:3節を引用して「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」と言って肉的、物質的な誘惑に打ち勝たれました。第二に、サタンはイエス様を神殿の頂に立たせて「あなたが神の子なら、下に身を投げて見なさい。」と言いました。心理的な誘惑をしたのです。その時もイエス様は申命記6:16節から「あなたの神である主を試みてはならない。」言って誘惑を退けました。第三に、サタンがイエス様を非常に高い山に連れて行って霊的に誘惑しました。その時も、イエス様は「あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ」といって誘惑に打ち勝ちました。イエス様は女が失敗した三つの誘惑に打ち勝ちました。それによって私たちをサタンの支配、サタンの誘惑から救い出してくださいました。ですから、イエス様を信じる者はだれでもイエス様の勝利を自分のものにすることができます。肉的な誘惑、物質的、精神的な誘惑、あらゆる霊的な誘惑に打ち勝つことができるのです。なぜなら、イエス・キリストが誘惑に打ち勝たれたからです。ここで、大切なのは、誘惑の時に御言葉を思い出し、御言葉によって立ち向かうことです。私たちがあらゆる誘惑に打ち勝つ秘訣は御言葉を堅くつかむことです。御言葉を学ぶことだけではなく、御言葉を教えるなら、もっと確実に御言葉に根を下ろして生きることができます。そして私たちが御言葉に頼って生きるなら、何をしても必ず勝利します。私たちが御言葉を堅くつかんでいるなら、私たちの家族も、教会も誘惑に負けることなく、神様に祝福されます。川のほとりに植わった木のように実を結び、何をしても栄えるようになります。しかし、誘惑に負けてしまった人間の内面にはどんな変化がありましたか。
 7節をご覧ください。「このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分達が裸であることを知った。そこで、彼らは、いちじくの葉を綴り合わせて、自分たちの腰のおおいを作った。」とあります。彼らの目が開かれたとき、自分たちの裸の姿を恥ずかしく思うようになりました。罪の結果、ふたりは互いに恥ずかしく思う関係になったのです。また、神様の御声を聞いても神様の御顔を避けて園の木の間に身を隠す逃亡者になってしまいました。神様のかたちに造られた人間として堂々と生きるべき人だったのに、今は罪のために神様の御顔を避けて逃げ回る人生になってしまいました。もはやエデンは幸福の園ではありませんでした。むしろ、神様の裁きに対する恐れが生じて恐れにさいなまれた人生になってしまいました。罪を悔い改めることなく、逃げ回るとき、エデンは幸福の園ではなく、暗闇の園、苦しみの園、どこにいても恥ずかしい園になってしまったのです。教会に来ていても同じです。周りの人々がどんなに喜んでいても自分の罪を悔い改めることなく、隠しているなら、教会が暗闇の園、恥ずかしい所になってしまいます。しかし、罪を言い表し、告白して悔い改めるなら神様は私たちのすべての罪を赦してくださいます。赦された者には神様の祝福と平安が与えられます。ところが、アダムは神様の御前に悔い改めませんでした。自分の方から神様を恐れて身を隠しました。ここに人間の悲劇があります。人間は救われる道を避けて逃げて行ってしまいました。でも、神様はこんな人間でも捨てませんでした。ではどのように助けてくださいましたか。

?.罪を犯した人に向けられた神様の愛(9‐24)
 ? 私たちを呼んでくださる愛 
9節をご覧ください。「神である主は、人に呼びかけ、彼に仰せられた。あなたは、どこにいるのか。」神様は隠れているアダムを捜しておられました。神様は私たちをあきらめてしまう方ではありません。私たちが罪を犯し、神様を裏切ったとしても神様は私たちを探しに来てくださいます。地の果てまでも、海の果てまでも探しに来てくださいます。私たちを見つけ出すまで捜してくださいます。これが神様の愛です。私たちは神様を騙すことができません。神様は私たち自身よりも私たちをもっとよく知っておられるからです。神様はアダムとエバをあきらめないで捜し始められました。「アダム。アダム。あなたは、どこにいるのか。」神様は「アダム。アダム。あなたは何をしていたのか。」聞かれず、「あなたはどこにいるのか。」と聞かれました。それは失われた羊を見つけるまで捜すよい牧者の声です。神様は、この時間、私たちの名前も呼んでおられます。(神様の愛を込めて自分の名前を呼んでみましょう。ダニエル。あなたはどこにいるのか。)。「あなたは、どこにいるのか。」神様の心は家を出た放蕩息子が帰って来るのを切なる心で待っている父の心です(ルカ15:20)。神様はアダムが堕落したからといって見捨てられませんでした。神様は相変わらずアダムを愛しておられました。しかしアダムはまだ、神様の愛を素直に受け入れていません。
10節をご覧ください。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」彼は悔い改めませんでした。ただ、言い訳を言いました。それでも神様はあきらめませんでした。彼が悔い改めることができるように、罪を指摘してくださいました。11節をご覧ください。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」とあります。神様は質問を通してアダムが裸であるのを教えたのはサタンであると教えてくださいました。すべての問題の背後には闇の勢力があるのです。私たちがつぶやき、怒り、憎しみ、苦しむことはサタンの勢力があるからです。私たちはこのサタンの勢力を無視していけません。神様から離れて恵みの中で生きることができない理由は神様の御言葉を拒んでいるからです。また、それは御言葉を拒み、祈りを拒むように私たちの背後でサタンにコントロールするサタンの勢力があるからです。
12節をご覧ください。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」アダムは自分の罪を悔い改めませんでした。神様の赦しを求めませんでした。むしろ自分が犯した罪の責任を女の人に転嫁しました。人類最初の夫婦喧嘩が始まりました。この事件は何を言ってくれますか。神様との関係性が壊れると人々との正しい関係性も壊れることを教えてくれます。そこで、神である主は女に仰せられました。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」すると、女は答えました。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」(13)。女も蛇に責任を転嫁しました。それでも神様は人間に対する希望を捨てませんでした。

? 救い主を約束された神様
14節をご覧ください。「神である主は蛇に仰せられた。「おまえが、こんな事をしたので、おまえは、あらゆる家畜、あらゆる野の獣よりものろわれる。おまえは、一生、腹ばいで歩き、ちりを食べなければならない。」とあります。神様は人間に対して悔い改める機会をくださいました。12、13節を見ると、人間に対してなぜそうしたのかを聞かれています。悔い改めるチャンスを与えたのです。しかし、蛇に対しては悔い改めるチャンスが与えられませんでした。それがのろいです。何も聞かずに呪われました。一番目の呪ろいすべての獣より呪われて一生、腹ばいで歩くことです。二番目は一生、ちりを食べなければならないことです。サタンが完全に敗北したことがわかります。蛇はサタンの道具として用いられて一番惨めな存在に転落しました。
 15節をご一緒に読んで見ましょう。「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。」この御言葉は蛇に与える裁きの御言葉ですが、その後にあるサタンに対する神様の裁きの御言葉でもあります。神様は女の子孫からキリストをお与えになり、サタンの頭を踏み砕かれることを約束されました。それでサタンに支配されている人々を罪から救うことを約束されました。そして神様はこの約束を守られました。約束のとおりに、定めの時になるとご自分の御子を処女マリヤから生まれるようにされました(マタイ1:23、ガラ4:4)。そしてアダム以来すべての人類が犯した罪をイエス様に負わせてくださいました。イエス様は私たちの身代わりとして十字架につけられ死なれました。そして死者の中からよみがり、サタンの頭を踏み砕かれました。サタンに打ち勝ち、罪と死の奴隷となっている私達を救って下さいました。ここに神様の変わらない愛があります。神様の恵みを裏切り、神様の御言葉に逆らっていたにもかかわらず、私たちを救うために一人子さえ惜しまずこの世にお与えになった神様の大きな愛に感謝します。救われる価値のない者を救うために十字架につけられて死なれ、よみがえられた主の御名を賛美します。

 ? 皮の衣を作り、着せてくださった神様
 女はどんな罰を受けるようになりましたか。16節をご覧ください。「女にはこう仰せられた。「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを大いに増す。あなたは、苦しんで子を産まなければならない。しかも、あなたは夫を恋い慕うが、彼は、あなたを支配することになる。」 それでは神様はアダムをどのように裁かれましたか。17節をご覧ください。アダムの罪のゆえに土地が呪われてしまいました。彼は、一生、苦しんで食を得るようになりました。18節を見ると土地は、いばらとあざみを生えさせました。人は、顔に汗を流して糧を得なければならなくなりました。人は神様から与えられた聖なる使命を果たす存在から食を得るために一生苦しむ存在に転落してしまいました。そればかりではありません。19節をご覧ください「あなたは、顔に汗を流して糧を得、ついに、土に帰る。あなたはそこから取られたのだから。あなたはちりだから、ちりに帰らなければならない。」この御言葉は人類に下された死刑宣告です。  神様は人間をお裁きになった後、どんな愛を見せて下さいましたか。神である主は、アダムとその妻のために、皮の衣を作り、彼らに着せてくださいました。イチジクの木の葉とは違う皮の心を造ってくださったのです。これは罪人に対する神様の愛の表現です。
 神様が人間をエデンの園から追い出した理由は何ですか。22節をご覧ください。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」そこで神である主は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになりました。こうして、神様は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれました。神様がいのちの木を残して守られたのはアダムに永遠のいのちへの望みを与えてくださったことです。罪人を相変わらず愛してくださる神様の救いの愛を賛美します。
 以上で、私たちはサタンの誘惑、大いなる神様の愛を学びました。神様は罪を忌み嫌われ、裁かれます。しかし神様は罪を犯したのにも関わらず変らず人々をは愛しておられます。ですから自分の罪のゆえに絶望したり、暗い人生を送ってはなりません。神様は罪を犯して神様から離れている人々を捜しておられます。「あなたは、どこにいるのか。」この神様の御声を聞いて、真実にあるがまま主の御前に出て行き、自分の罪を悔い改めると主はすべての罪を赦し、罪から救って下さいます。堕落した人間を相変わらず愛して下さり、一人子イエス・キリストをこの世に遣わされた神様の大きな愛を賛美します。