2005年 列王記第一第10講
私こそ主であることを知ろう

御言葉:列王記第一20?22章
要 節:列王記第一20:13「ちょうどそのころ、ひとりの預言者がイスラエルの王アハブに近づいて言った。「主はこう仰せられる。『あなたはこのおびただしい大軍をみな見たか。見よ。わたしは、きょう、これをあなたの手に引き渡す。あなたは、わたしこそ主であることを知ろう。』」

生きておられる神様の御名を賛美します。私は去年から列王記を学びたいという願いを持っていましたが、いざと学び始めようとすると戸惑いもありました。本文の御言葉だけでも長い御言葉を十分に黙想してメッセージを準備し、伝えることができるだろうかと思われたからです。でも、「できるものならというのか、信じる者にはどんなことでもできるのです」と言われるイエス様の御言葉に励まされて挑戦することにしました。そして、神様の大いなる哀れみと愛する皆さんの祈りに励まされつつ、10講のメッセージを伝えることができるようになりました。御言葉を通して神様が生きておられる主であり、すべての歴史を主管しておられる主であることをますます深く悟り、体験するようになったことを感謝します。特に今日は列王記第一の御言葉に対する感謝とともに、李ヨシュア宣教師の修士課程、朴エズラ宣教師の博士課程卒業を感謝する礼拝としてささげるようになったことも心から感謝します。キャンパスミッションのために四十代に再び大学に入学して大学院を卒業される李ヨシュア宣教師も、東京大学に弟子を立てるために東大にチャレンジして博士号を収得された朴エズラ宣教師も、同労者の李リベカ宣教師、朴エステル宣教師の労苦と涙の祈り、愛のサポートを忘れることはできないでしょう。神様がおふたりの労苦と祈り、愛情を大きく祝福してくださることを信じて感謝します。また、多くの同労者たちのとりなしの祈りもありましたが、祈りに答えてくださった神様を賛美します。
今日の御言葉のタイトルは「私こそ主であることを知ろう」です。日本ではキリスト教の神様を八百万の神々の一つにしか考えられない人々が多くいますが、実は聖書の神様こそ主です。神様は敵のおびただしい大軍の前で戦う気力さえ失っているアハブに現われて仰せられました。『あなたはこのおびただしい大軍をみな見たか。見よ。わたしは、きょう、これをあなたの手に引き渡す。あなたは、わたしこそ主であることを知ろう。』
この時間、本文の御言葉を通して神様こそ主であることを確信し、信仰によって新学期のみわざを準備し、霊的な戦いにいつも勝利することができるように祈ります。

?.神様こそ主である(20章)
1-12節をご覧ください。 アラムの王ベン・ハダデは三十二人の王たちの国を支配していましたがイスラエルも完全に支配しようとしました。彼はイスラエルの王アハブに使者たちを遣わし、『あなたの銀と金は私のもの。あなたの妻たちや子どもたちの最も美しい者も私のものだ。』と言わせました。これはイスラエルの王にとってとても屈辱的なことです。でも、三十二人の王たちが連合している強国アラムに対抗することは不可能なことでした。そこで、彼は、ただ、「王よ。仰せのとおりです。この私、および、私に属するものはすべてあなたのものです。」と言っています。このように弱みを見せると、アハブにはさらに屈辱的な言葉が伝えられました。『私は先に、あなたに人を遣わし、あなたの銀と金、および、あなたの妻たちや子どもたちを私に与えよ』と言われました。そこで、イスラエルの王は長老たちに相談しました。何事も多くの経験をしている先輩と相談することは良いことです。アハブは長老たちのコメントを受け入れて屈服することはできないと伝えました。するとベン・ハダデは、彼のところに人をやって言わせました。「サマリヤのちりが私に従うすべての民の手を満たすほどでもあったら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」 つまり、おびただしいアラムの軍事力と比べると、サマリヤの町は小さすぎる、ということです。イスラエルを完全に無視しています。そこでイスラエルの王は『武装しようとする者は、武装を解く者のように誇ってはならない。』ということを伝えました。「まだ、戦ってもないのに、馬鹿なことを言うな。「戦争に勝ってから誇りなさいよ。」ということです。すると、ベン・ハダデは、このことばを聞いたとき、家来たちに、「配置につけ。」と命じました。彼はイスラエルを攻撃することになりました。イスラエルは三十二人の王たちによる連合軍に攻撃されるようになりました。これは強国アメリカと連合した多国籍軍とイラクと戦うような戦争になります。間違いなく負ける戦争となるのです。そのような状況、この厳しい現実をよく知っているはずのアハブ王はどんなに恐れるようになったでしょうか。アラム王はおびただしい大軍を考えるたびに恐れ震えていたかもしれません。ところが、神様はアハブに何と言われましたか。
13節をご一緒に読んでみましょう。「ちょうどそのころ、ひとりの預言者がイスラエルの王アハブに近づいて言った。「主はこう仰せられる。『あなたはこのおびただしい大軍をみな見たか。見よ。わたしは、きょう、これをあなたの手に引き渡す。あなたは、わたしこそ主であることを知ろう。』」 神様はアハブ王に「あなたはこのおびただしい大軍を見たか。」と言われました。アハブはアラム連合軍がイスラエルと比べられないほどに強い戦力を持っていることをよく知っていました。だから、彼はベン・ハダデが使者を送って戦争を仕掛けたとき、最初は「王よ。仰せのとおりです。この私、および、私に属するものはすべてあなたのものです。」と答えたのです。人間的に考えると、イスラエルは全く相手にならないほどに力がなかったのです。しかし、神様は「見よ。わたしは、きょう、これをあなたの手に引き渡す。あなたは、わたしこそ主であることを知ろう。」と言われました。神様はアハブにご自分こそ主であることを知らせようとされたのです。神様はまだ極悪人であるアハブをあきらめておられませんでした。神様はなおも、ご自分こそ主であることを知ってほしいと望んでおられたのです。神様は貧弱な軍勢であるイスラエルに勝利を与えて、アハブとイスラエルが神様こそ主であることを知るように願っておられたのです。神様はイスラエルに与える勝利を通してご自分の栄光を現そうとされたのです。
私たちの人生にはさまざまなことが起こります。想像もしなかった試練に襲われたり、理由もなく、自分を苦しめる敵たちに襲われたりします。戦っても勝てないようなおびただしい敵たち、考えるだけでも恐ろしくなり、絶望的な現実に脅かされる時もあります。特に、自分の過ちや失敗、自分の罪のために人々から言われたり、嘲られたりするようなことが起こると、本当に悲しくなります。自分の人生に起こるさまざまな試練がとても大きく見えます。しかし、神様は私たちに言われました。「あなたはこの大きな問題を見ているのか。見よ。わたしは、きょう、これをあなたの手に引き渡す。あなたは。わたしこそ主であることを知ろう。」神様は私たちが大きな問題だけを見て失望していることを願われません。私たちを襲ってくるさまざまな問題のために落胆し、絶望していることを望まれません。貧弱な自分の力では何もできないと思っていることは不信仰です。やってもないで、できないと決め付けていることは神様の御前で罪です。神様は私たちの前にどんなに大きな問題が起こっても恐れることなく、神様を信じて戦い、勝利することを願っておられます。たとえ、私たちがアハブ王のように神様の御前で罪を犯したとしても、哀れみ深い神様は私たちに勝利を与えて神様こそ主であることを知らせようとしておられるのです。本当に哀れみ深い神様です。私たちは貧弱な者であってよく倒れますが、それでも私たちに勝利を与えて神様こそ主であることを知り、主に仕えることができるようにしてくださることを感謝します。ただ、神様は何もしないで横になっている人に勝利を与えてくださるのではありません。私の方から始めること、勝利のために戦い始めることを願っておられます。
14,15節をご覧ください。アハブは「それはだれによってでしょうか。」と尋ねました。すると、主が『諸国の首長に属する若い者たちによって。』と仰せられると答えられました。アハブは再び、「だれが戦いをしかけるのでしょうか。」と尋ねました。すると、「あなただ。」と答えられました。おびただしい敵たちに誰が戦いをしかけるのかと思っているアハブに主は「あなただ」と言われたのです。私たちは今年50チームの1:1ができるように祈っています。どうやってそれができるかなと思っている方はいないでしょうか。だれがフィッシングして弟子養成出来るかと思っているかもいるでしょうか。主はおおせられます。「あなただ」。そうです。何事も私から始めなければなりません。私が決心して始めると、神様は助けてくださり勝利を与えてくださいます。アハブは主から「あなただ」と言われた時、自分が諸国の首長に属する若い者たちを調べてみました。使いを遣わして調べさせたのではなく彼が調べてみたのです。すると若い者たちが二百三十二人いました。そのほか、民の全部、すなわちイスラエル人全部を調べたところ、七千人いました。おびただしい敵軍に比べれば少ない人数でありますが、戦える若い者たちがいたのです。イスラエルの王は彼らと出て来ました。戦い始めたのです。すると、神様は約束のとおりにイスラエルに大勝利を与えてくださいました。勝利は権力によらず、能力によらず、神様によって得られるものであることがはっきりと示されました。
そこで、イスラエルは「見よ。わたしはきょう、これをあなたの手に引き渡す。あなたは、わたしこそ主であることを知ろう」と言われた主の御言葉を体験することができました。彼らは約束の御言葉を信じて戦い、信仰による勝利を体験したのです。ところが、アラムの王の家来たちは王に言いました。23節をご覧ください。「彼らの神々は山の神です。だから、彼らは私たちより強いのです。しかしながら、私たちが平地で彼らと戦うなら、私たちのほうがきっと彼らより強いでしょう。」とあります。アラムの軍隊は王様に自分たちが敗戦した言い訳を言ったのです。それで、ベン・ハダデは再びアラムを召集し、イスラエルに戦いを仕掛けてきました。イスラエル人は一度戦争に勝ったとしても、まだ二つの群れのヤギのようでありました。反面、アラムの軍勢はその地に満ちています。アハブ王の心はどうなったでしょうか。その地に満ちている敵軍を見ると再び恐れ、落ち込んだことでしょう。神様は彼をどのように助けられましたか。28節をご覧ください。「主はこう仰せられる。『アラムが、主は山の神であって、低地の神でない、と言っているので、わたしはこのおびただしい大軍を全部あなたの手に渡す。それによって、あなたがたは、わたしこそ主であることを知るであろう。』」とあります。神様は、もう一度ご自分が全地の神であることを示されるために、この戦いにも勝利をもたらされると約束されました。そして、イスラエルは、今度も神様の御言葉を信頼して戦い始めると、神様は彼らに偉大な勝利を与えてくださいました。アハブはベン・ハダデを打ち殺すこともできました。ところが、アハブはベン・ハダデを生かしてしまいます。それは一見良さそうに見えます。しかし、これが致命傷になりました。42節をご覧ください。「彼は王に言った。「主はこう仰せられる。『わたしが聖絶しようとした者をあなたが逃がしたから、あなたのいのちは彼のいのちの代わりとなり、あなたの民は彼の民の代わりとなる。』」」とあります。アハブは神様が勝利を与えられた時、喜んだでしょう。彼はこの勝利が神様によって与えられたことを忘れず、謙遜に神様に感謝するべきでした。自分がよくやったから与えられた勝利ではなく、ただ神様がご自分こそ主であることを知らせるために勝利を与えてくださったからです。今日、卒業感謝礼拝の主人公である、李ヨシュア宣教師も、朴エズラ宣教師も多くの苦労をして卒業するようになりました。でも、神様が勝利を与えてくださったことです。だらか、神様に感謝の礼拝をささげています。ところが、アハブは勝利してから、自分の力によって勝利したかのように自慢していました。それで、自分が哀れみ深い人であるかのように見せるために、自分のイメージ管理のために、ベン・ハダデを殺さなかったのです。つまり、神様が「聖絶しよう」とされたのに聞き従わなかったのです。それゆえ、神様は彼に「あなたのいのちは彼のいのちの代わりとなり、あなたの民は彼の民の代わりとなる」と警告されました。アハブは今でも神様の御前で悔い改めるべきでした。神様は最後まで彼に悔い改めるチャンスを与えられたのです。しかし、主の警告に対する彼の反応はどうですか。43節をご覧ください。「イスラエルの王は不きげんになり、激しく怒って、自分の家に戻って行き、サマリヤに着いた。」とあります。彼はへりくだって悔い改めず、非常に不機嫌になり、甘えん坊の子供のように、ふてくされて家に帰りました。今流行の言葉を使うなら「逆切れ」というのでしょうか?主によって叱責を受けたときに、自分を正すのではなく、頭に来たのです。

?。悔い改めるなら赦してくださる神様(21章)
1?3節をご覧ください。)。アハブが宮殿のそばにあった、ナボテの畑を欲しがることろから始まります。アハブは何とかしてナボテの畑を自分のものにしようとしました。しかし、ナボテはアハブに言いました。「主によって、私には、ありえないことです。私の先祖のゆずりの地をあなたに与えるとは。」ナボテがこのようにしたことは、正しいことでした。神様の律法には、自分の家の土地、先祖から受け継いだ土地を、どのようなことがあっても売り飛ばしてはならないことが教えられています。もし貧しくて売ってしまったら、近親者が買い取らなければいけない規定も書かれています(レビ25:25以降)。たとえ相手が王であっても、神様のみことばの権威にまさることはありません。ですから、アハブは断れた時、自分の欲望を悔い改め、神様の律法に従うべきでした。しかし、彼はどうしましたか。
4節をご覧ください。「アハブは不きげんになり、激しく怒りながら、自分の家にはいった。イズレエル人ナボテが彼に、「私の先祖のゆずりの地をあなたに譲れません。」と言ったからである。彼は寝台に横になり、顔をそむけて食事もしようとはしなかった。」とあります。激しく怒って、ふさぎこんで、寝床から上がってきません。私には経験があります。自分の思いのとおりにできないと、落ち込むと起き上がりたくないと思います。ずっと寝ていたい、何もしたくない、食べることもしたくない、と願うのです。アハブは、自分が間違っていることを知っていました。だからといって、その間違いを間違いであることを認めることも、したくありませんでした。その結果、落ち込みます。そして、彼は自分の妻イゼベルの手によって、間接的にナボテを殺すことになります。イゼベルは、実質的にアハブを支配していました。アハブの名で手紙を書き、彼の印で封印し、ナボテ殺しのための手紙を送ります。アハブは完全に、妻の尻に引かれていたわけです。男性が妻の尻に引かれることはそれ自体が罪であるとか悪であるとは言えません。しかし、罪になるときがあります。エバはアダムを惑わしましたが、彼女が罪を犯した、とは書かれていません。アダムが罪を犯した、と書かれていま。男性には責任が問われるのです。
19節をご覧ください。「彼にこう言え。「主はこう仰せられる。あなたはよくも人殺しをして、取り上げたものだ。」また、彼に言え。「主はこう仰せられる。犬どもがナボテの血をなめたその場所で、その犬どもがまた、あなたの血をなめる。」とあります。アハブは以前、シリヤの王ベン・ハダデのいのちを取らなかったので、今度は自分のいのちが取られることを、預言者から告げられていましたが、さらに悲惨です。ナボテを殺した罪を重ねたので、そのしかばねが、ナボデの畑のところで捨てられ、犬がその血をなめる、という宣言を受けます。アハブはどのように反応していますか。
27-29節をご覧ください。「アハブは、これらのことばを聞くとすぐ、自分の外套を裂き、身に荒布をまとい、断食をし、荒布を着て伏し、また、打ちしおれて歩いた。そのとき、ティシュベ人エリヤに次のような主のことばがあった。「あなたはアハブがわたしの前にへりくだっているのを見たか。彼がわたしの前にへりくだっているので、彼の生きている間は、わざわいを下さない。しかし、彼の子の時代に、彼の家にわざわいを下す。」とあります。アハブの家が全滅するという言葉を聞いて、ようやく心刺されることになりました。外套を裂き、荒布をまとい、打ちしおれています。
ここで、私たちは神様の御言葉に対する姿勢を学ぶことができます。ある人は自分にとって慰めとなり、力となる御言葉だけをよく覚えています。主の言葉によって自分の気持ちを良くします。しかし、神様のみことばは、自分の気持ちを良くするためであるのではありません。自分がやっていることを正当化させるためのものでもありません。へりくだりに至らない聞き方をしていれば、悔い改めなかったときのアハブと同じです。私たちは「アハブは悪い王だ、極めて悪質的な王だ、妻の尻に引かれて何もできない男だ。」と言います。しかし、私たちたちも、あまり、悔い改めていないならアハブと同じです。今でも悔い改めることができないならアハブより悪いです。なぜなら、今のアハブは激しく怒って、不げんになるのではなく、ついに神様のことばをそのまま受け取って、悲しむようになったからです。アハブが悔い改めると、主は彼をあわれんでくださいます。悪王アハブが悔い改めたことは、本当に驚くべきことです。しかし、もっと驚くべきことは、悔い改めた彼をあわれんでくださる神様のあわれみです。神様は、ここまで人をあわれむことに富んでおられます。今までのことはどうでもいいです。本当にどうでもいいです。今、へりくだり、悔い改める者を神様は哀れんでくださいます。罪の赦しを与え、新しい力、新しい人生を赦してくださいます。神様はナボテの畑のところで殺されて、犬がその血をなめるとか、またアハブの子供を含めた全員が立ち滅ぼされるという預言は、アハブが生存中には起こらない、と約束してくださいました。

?.御言葉のとおりになる(22章)
22章は神様の限りない哀れみと忍耐、望みにもかかわらず、罪びとが悔い改めにふさわしい実を結ばない時は、神様の警告とさばきが御言葉のとおりに成し遂げられることを証してくれます。
1-3節をご覧ください。アラムとイスラエルとの間には戦いがないまま三年が過ぎました。その時、ユダの王ヨシャパテがイスラエルの王のところに下って来ると、イスラエルの王からアラムとの戦争に協力してくれることを頼まれました。ヨシャパテはアサ王の子であり、アサと同じように、主の目にかなうことを行なっていました。ダビデのように最後まで主の目にかなうことを行なうことはできませんでした。それは、北イスラエルの悪王と仲良くしていることです。使徒パウロは手紙の中で、「正義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあるでしょう。(2コリント6:14)」と言いました。ところが、ヨシャパテは悪王アハブと交わることになっています。ヨシャパテは、戦争の前にイスラエルの王にまず、主のことばを伺ってみることを手案しました。そこで、イスラエルの王は約四百人の預言者を召し集めて、彼らに尋ねました。すると、彼らは「上って行きなさい。そうすれば、主は王の手にこれを渡されます。」と言いました。これは正しい預言ではなく、王の機嫌を取るためのことばでした。しかし、ミカヤ預言者は違いました。17節をご覧ください。「彼は答えた。「私は全イスラエルが、山々に散らされているのを見た。まるで、飼い主のいない羊の群れのように。そのとき、主は仰せられた。『彼らには主人がいない。彼らをおのおのその家に無事に帰さなければならない。』」とあります。神様は真実な預言者ミカヤを通してアハブが戦争に行くことを防ぎ、彼をいのちの危険から救ってあげようとされました。しかし、彼は悔い改めて神様の御心に従うことより、自分の欲望に縛られて、神様の警告を受け入れませんでした。結局、彼の最後はどうなりましたか。
35-38節をご覧ください。「その日、戦いはますます激しくなった。王はアラムに向かって、戦車の中に立っていたが、夕方になって死んだ。傷から出た血は戦車のくぼみに流れた。日没のころ、陣営の中に、「めいめい自分の町、自分の国へ帰れ。」という叫び声が伝わった。王は死んでからサマリヤに着いた。人々はサマリヤで王を葬った。それから、戦車をサマリヤの池で洗った。すると、犬が彼の血をなめ、遊女たちがそこで身を洗った。主が語られたことばのとおりであった。」とあります。神様はアハブ王に何度も何度も悔い改めるチャンスを与えてくださいました。しかし、彼は悔い改めませんでした。その結果は悲惨なものでした。神様のさばきは彼自身だけではなく、彼の子どもにも及ぼされています。
51-53節をご覧ください。アハブの子アハズヤは、二年間、イスラエルの王でした。ヤロブアムの子ナダブの治世も、バシャの子エラも治世は二年間だけでした。それぞれの王家に神様のさばきがあるからです。アハズヤは主の目の前に悪を行ない、彼の父の道と彼の母の道、それに、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの道に歩みました。すなわち、彼はバアルに仕え、それを拝み、彼の父が行なったと全く同じように行なって、イスラエルの神、主の怒りを引き起こしました。
以上で、私たちはさまざまな出来事を通してアハブとイスラエル民が神様こそ主であることを知るようになることを願っておられる神様の御心を学びました。神様は私たちがダビデのように、神様の預言者エリヤやミカヤのように生きておられる主を知り、主を信じて御言葉に従って生きることを願っておられます。神様は私たちも自分に起こるすべての事を通して神様こそ主であることを知るようになることを切に望んでおられます。そして、私たちが御言葉を通して主の御前で真実に悔い改め、御言葉に聞き従う時、何をしても勝利を与えてくださる神様に出会うことができます。アハブは神様のみことばを受け入れるときは、たまにありました。しかし、基本的に、今日の御言葉に現われているように、自分の気持ちが神様のみことばに優先して、自分のやりたい事を行なっていました。私たちはどうでしょうか。神様の御前に真実に考えて見ましょう。真実に自分のことを顧みると、自分の弱さだけが浮き彫りにされるかもしれません。そして、現実の問題だけが大きく見えるかも知れません。しかし、主は言われます。『あなたはこのおびただしい大軍をみな見たか。見よ。わたしは、きょう、これをあなたの手に引き渡す。あなたは、わたしこそ主であることを知ろう。』」この主を信じて信仰によりいつも勝利しましょう。