2004年聖誕の御言葉第一講   
                   
一人のみどりご・イエス様

御言葉:イザヤ書9:1?7
要 節:イザヤ書9:6一人のみどりごが、私たちのために生まれる。一人の男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は、「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

先週、私たちはイエス・キリストについて学び、イエス様に「あなたはキリストです。」と告白しました。私たちが心からイエス様をキリストとして信じて「あなたはキリストです。」と告白する時、私たちのすべての罪は贖われます。キリストは私たちを罪と死の勢力から救ってご自分の子どもとしてくださることだけではなく、平和と愛の王として私たちを治め、導いてくださいます。イエス様がキリストであると知っている人たちはキリストの救いと支配、導きを体験することができませんが、本当に信じて信仰告白している人々はキリストの支配を体験するようになります。私たちの生活が毎日イエス様はキリストですということを悟り、体験することができるように祈ります。
 今日の御言葉はイエス様がお生まれになるよりも700年ぐらい前に、今から2700年ぐらい前に、預言者イザヤによって、預言されたクリスマスメッセージです。このメッセージにはイエス様はどんな方であるか、イエス様の身分について教えてくださいます。

?.大きな光を見た(1-5)
1節をご覧ください。「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。」とあります。イザヤは「苦しみのあった所にやみがなくなる。」と言っています。やみのある所には苦しみがあります。東京は暗くなると街灯が灯るから、夜中道を歩いてもあまり怖くないでしょう。しかし、街灯が灯らない田舎の道を歩くことは本当に怖いものです。林ステパノ宣教師はこういう話をしてくれました。ある日、街灯もなく、月も全く見えない田舎の道を歩きましたが、とても怖かったそうです。怖くて怖くて両手に小石を強く握って歩いたそうです。本当に、ひとりで暗やみの中を歩くことは怖いものです。暗い道でも仲間と一緒に行くなら、それほどは怖くないでしょう。でも、闇の中を歩くことは危険です。倒れて怪我をする危険もあるし、獣や強盗に襲われる危険もあります。私たちの人生もそうです。行くべき道が見えない、未来のことが全く見えてこない闇の中にいることほどに苦しいこともないでしょう。自分が暗やみの中にいることも知らずに苦しんでいる場合も多くあります。赤信号もみんなでわたれば怖くないといわれます。暗い世の中で多くの人々とともに暗やみの中にいるから、その怖さをあまり感じていないのです。しかし、自分の人生がどこに向かって行くのかを知らずに歩み続けることは危険です。闇がなくならなければ、この世は苦しみのあるところにすぎません。波乱万丈の人生を苦しみながら、この世を去って行きます。闇の中で闇の問題を解決することができないからです。しかし、どんなに苦しみのある所であっても、大きな光が照らされると、やみがなくなります。闇がなくなると、行くべき道が見えて来ます。すると、何をしても義の道を歩むようになります。今までと同じ仕事をしても苦しみの仕事ではなく、意味があり、価値がある仕事に変わります。
イザヤの時代、ゼブルンの地とナフタリの地は苦しみのあるところでした。彼らはずかしめを受けていました。国境として戦争が起こるたびに異邦人の攻撃を受けていました。残酷な兵士たちに強奪されました。虐げられました。しかも、同じ民族のユダヤ人から異邦人としてみなされる恥辱を受けていました。彼らは、今日、イライラしているイラクのように悲しみ、苦しみの所になっていたのです、だれも、希望を持つことができませんでした。明るい未来は夢見ることさえできませんでした。ところが、イザヤは苦しみのところにやみがなくなることを見ました。異邦人のガリラヤが神様からの光栄を受けたからです。彼らの行ないが変わったり、彼らが強くなったりしたからではありません。神様の一方的な恵みによって大きな光が照らされるようになるからです。闇の中で闇の問題は解決できませんが、光に照らされると闇はなくなるものです。ところがイザヤは大きな光を見ました。
2節をご覧ください。「闇の中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者達の上に、光が照った。」とあります。イザヤは神様が遣わされるメシヤは大きな光として来られることを見ました。彼は神様から啓示されてガリラヤ地域を照らす大きな光を見ました。闇の中を歩んでいた民は、大きな光を見たと言っています。また、この光は、死の陰の地に住んでいる者たちの上に照らされている光であります。この光はいのちの光です。生物は陰の中にいると弱くなり、死んで行きます。しかし、光に照らされると生き返ります。光はこの世を明るくすることだけではなく、ばい菌を殺し、いのちを生かす力を持っています。
私はインターネットにはいって調べましたが、光には太陽光線だけでも驚くべき力があります。地上に到達する太陽光線には赤外線、可視光線、紫外線の三つの光線で構成されています。赤外線には温熱作用があって暖かくしてくれます。この世界は可視光線によって明るくなります。紫外線は生物の生理活動に深く関わっています。A、B、Cの三段階に分類されますが、それぞれ異なる性質を持っています。紫外線Aは、細胞の物質交代の進行に関わり、細胞の機能を活性化します。紫外線Bは体の生理活動にさまざまな関わりをし、免疫力を強化します。多くのホルモンの生成と、その分泌に関わります。紫外線Cには強い殺菌力があります。ですから、光を避けると病気にかかりやすくなるし、続けて光を浴びることがなければ死んでしまいます。
日光の生理作用と、ビタミンDの研究で有名な、アメリカ・ボストン大学医学部のマイケル・ホリック博士{Dr. Michael Holick}の研究によると「全身をベールで覆って生活しているアラブ女性は、皮膚が日光を浴びないために、体内のビタミンDが慢性的に不足していて、骨軟化症や骨粗しょう症を引き起こす人が非常に多い。また、ビタミンDの不足は、タイプ1の糖尿病や、結臓ガン、乳ガン、前立腺ガン、子宮ガンなどの発病の確率を高くしている」と、指摘しています。また、日光には皮膚の免疫能力を維持させる働きがあるので、日傘やサンスクリーン剤で日光の紫外線を避け続けていると、免疫力が低下するばかりか、免疫システムが異常を起こして、アトピー性皮膚炎や花粉症にかかりやすい体質になるそうです。さらにまた、日光を浴びない生活を続けていると、正常なボディリズムが刻めなくなり、うつ病にかかりやすくなるそうです。私たちは光を浴びなければ、気力を失い、免疫力も失ってしまうのです。しかし、私たちは太陽の光を浴びて生きなければなりません。それで、最近、ヨーロッパやアメリカの中高年世代は、昼の日光浴や、ゴルフなどのアウトドアスポーツで太陽を浴びて、ボディリズムを維持するために励んでいるそうです。私たちには光が必要なのです。光は必要条件だけではありません。必要十分条件です。
ところが、イザヤは大きな光を見ました。大きな光がやってこられることを見たのです。神様が造られた太陽の光ではなく、光を造られた方が大きな光として来られるのを見たのです。この大きな光は太陽のような強さだけではなく一人一人に人格的に照られる神様の光です。大きな光は全世界、全宇宙を暖かめることができる光です。罪のために冷たくなっている心を温かくし、癒してくれる光です。無気力な人にはエネルギーを与えてくれる光です。繰り返す失敗によって挫折している人を励まし、力づけてくださる光です。ですからこの大きな光に照らされると、人は、人生の目的地が発見することができます。たくましく、力強く義の道を歩むことができます。人々は生き返り、希望を持つようになります。それだけではなく、月が太陽の光を受けて暗い地球を照らすことのように、この世の光となります。暗やみの中でさまよっている人々を照らし、心を暖かめ、真理の道に導くことができます。大きな光に照らされて救われたクリスチャンは、クリスマスには多くの友達や親族だけではなく、知らない人たちにもキリストを証しています。大きな光に照らされると、死の陰にすわっている人が元気になるし、活気とビジョンに満ちた新しい人生を生きるようになるからです。
ペテロが暮らしていたゼブルンの地とナフタリの地であるガリラヤは苦しみの地でした。彼らは苦しみの地で夜通して網を下ろしても一匹の魚も取れない日もありました。彼の人生には全く希望が見えず、真っ暗でした。ところが、朝日が昇り始めたころ、彼の人生にも大きな光が昇って来ました。そして、彼が大きな光であるイエス・キリストに出会った時、彼の人生は暗やみから驚くべき光の世界に移されました。ヨハネ、アンデレも大きな光・イエス様に出会って光の人生を生きるようになりました。マタイも、使徒パウロもが大きな光であるイエス様と出会った時、彼らはキリストの光に照らされてその光を暗い世の中に反射する光の人生、光り輝く人生を生きるようになりました。
ここで私たちは一つの重要な真理を学ぶことができます。暗い現状が問題ではなく、現実を照らす光を受け入れていないことが問題であるということです。いくら現実が厳しくても、光さえあれば道が見えて来ます。明るい未来を見ることができます。暗い現実に最も必要なことは大きな光・イエス・キリストです。クリスマスは全宇宙を照らす大きな光であるイエス・キリストが、この小さな地球に来てくださった日です。苦しむの所、死の陰にすわっている私たちを救うためにこの地に来てくださった日なのです。その大きな光が来ておられます。
真っ暗な夜、この暗闇を吹き飛ばすにはどうしたらよいでしょうか。どんなに強力な風を送っても、暗闇を吹き消す事は出来ません。しかし、そこにたった一本のロウソクの光を持ってくるなら、その瞬間に闇は消え始め、更にその火が一つ一つ増すごとに、暗闇は消え去って行くのです。
では、皆さんの心の中はどうでしょうか。闇がなくなってない状態ではないでしょうか。不安でしょうがない心、イライラが治まらない心、憎しみ、恨み、嫉妬―自分で何とかしよう、忘れようとして他の事に熱中してみても、結局どれもこれも役に立たない事を知るばかりではないでしょうか。しかし、大きな光として来られたこのキリストを救い主としてお迎えするならば、心に今まで知らなかった光がともります。闇はなくなります。クリスチャンとは、このキリストを心に迎えた者、―救い主として信じ、生涯をこの方と共に歩んで行こうと決断した人のことです.
2000年前に起こったキリストの誕生、しかしそれは今を生きる私たちと無関係なことでは決してありません。このクリスマス、イエス・キリストを心に迎え、豊かな命にあふれる光を体験なさいますように祈ります。でも、私たちが、疲れた心、つぶやき、憎しみ、ねたみ、不平不満などの自分を隠していると光を見ることができません。全身をベールで覆って生活しているアラブ女性のように光を見ることも、光の恵みを受けることもできず、病気にかかりやすい者になってしまいます。ですから、私たちは人を欺く情欲によって滅び行く古い人を脱ぎ捨てるべきです。それが大きな光として来られるイエス様を迎え入れる準備です。そして、神様の御前に謙遜に悔い改めて、心をきれいにする人こそが大きな光を見ます。罪のために闇の中を歩んでいた民が大きな光を見るのです。では、大きな光は、どのような働きを見せてくださいますか。
3節をご覧下さい。「あなたはその国民をふやし、その喜びをまし加えられた。彼らは刈り入れ時に喜ぶように、分捕り物を分けるときに楽しむように、あなたの御前で喜んだ。」とあります。大きな光は喜びを増し加えてくださいます。その喜びは、農夫が刈り入れ時に喜ぶ喜びです。また、兵士たちが分捕り物を分ける時に楽しむ喜びです。これは、最高の喜びです。農夫が一番喜ぶときは言うまでもなく刈り入れの時です。私も農夫の子どもですが、農夫の仕事は大変なものです。農繁期の時はもう疲れて、疲れて力が抜けてしまいます。農業をやめたくなります。しかし、刈り入れの時になるとすべての労苦と辛い思いが消え去ります。ただ、喜びに満たされます。毎日のように汗をかいて苦労しただけにその喜びも大きいものです。同様に、命をかけて戦って勝利した兵士たちが分捕り物を分ける時の喜びも大きいものでしょう。私は実際に戦争に参加して分捕り物を分ける楽しみを経験したことはありませんが、戦争に勝利して分捕り物を分ける喜びは実に大きいものでしょう。
ガリラヤは、今まで異邦人たちにやられて刈り入れの時の喜びを忘れるほどでした。何度も侵略されて自分の財産や家族が分捕り物になっていました。しかし、彼らは大きな光によって刈り入れ時の喜び、分捕り物を分ける喜びを味わうようになるのです。マタイの福音書2章10節を見ると、東方の博士たちはキリストの星を見て「この上もなく喜んだ。」のですが、そのような喜びを経験するのです。そうです。キリストが大きな光として来られるクリスマスはこの上もなく喜ぶ日です。ですから、私たちは「♪たみみなよろこべ、主はきませり、こころをーそなえてー、いざむかえよ、いざむかえよ、いざーいざーむかえよ(聖歌122番)」と喜びます。なぜ、そんなに喜ぶようになりますか。
?.ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる(6,7)
6節をご一緒に読んで見ましょう。「一人のみどりごが、私たちのために生まれる。一人の男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は、「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」苦しみのところ、悲しみのところに住んでいた人々も、死の陰にすわっていた人々も、みな喜ぶことは、ひとりのみどりごが私たちのために生まれるからです。イザヤはイエス様がお生まれになるよりも700年ぐらい前、今から2700年ぐらい前に、ひとりのみどりごがお生まれになると預言しています。「こういう方がやがてお生まれになるぞ」と言われて生まれてこられた方は、歴史の中でイエス様以外にはおられません。イエス様はそういう特別な方なのです。イエス様がひとりのみどりごとしてお生まれになりますが、その肩には主権があります。主権は、統治権(government)を言います。ひとりのみどりごは世の万民を治める統治権をもっています。統治者が一国の運命を左右します。人は誰に治められるのかによってその人生は全く異ります。罪を犯して堕落した人間は、みなサタンの下で不幸に生きるしかありません。また、死後には、神様の恐ろしい裁きを受け、地獄に投げ込まれ、永遠に苦しむしかありません。ひとりの嬰児はそのような不幸で惨めな人間を救うために、自ら統治権をもって来られます。
それでは、ひとりのみどりごの名前は何でしょうか。もう一度6b節をご覧下さい。「その名は『不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君』と呼ばれる。」イエス様の身分を一番よく教えてくれる御言葉だと思います。
第一に、その名は不思議な助言者です。英語では『不思議な助言者』を『ワンダフル・カウンセラー』と訳しています。こちらの方がピンとくる訳かもしれません。 私たちはキリストの十字架によって、神様とひとつにされています。キリストの十字架を信じることによって、私たちの罪が清められ、神が私たちの中に住んでくださるようになりました。私たちの内にいてくださる神は聖霊です。聖霊はキリストの霊です。
 ちょうどイエス様が馬小屋のような汚いところに生まれてくださったように、聖霊は私たちの汚い心の中に来てくださっています。イエス様が自分の救い主であると信じるものには例外なく、聖霊は来ておられます。この方はもうひとりの助け主として、私たちの日々の歩みを導いてくださる方なのです。私たちが、間違いなくキリストを信じながら、生活していくことが出来るように、ずれていかないように、助けてくださいます。キリストを信じ受け入れたら、日々の生活のなかで、何の問題も悩みも苦しみも無くなるかといったらそんなことは決してありません。しかし、そのような時に、どう対処していくか、その対処の方法が全く変わって来ます。 この、ワンダフル・カウンセラー、素晴らしいカウンセラーに相談しながら対処していくようになるからです。私たちは苦しい時も、悲しい時も、つらい時もだれから自分の心を理解し、自分のよく聞いてくれるなら慰められます。人はありのままの自分が受容されるなら、癒しを経験します。ですから、カウンセリングの中で一番大切なことは受容です。どんな話でもよく理解し、受容できるなら、立派なカウンセラーです。ところが、イエス様は私たちのすべてをありのまま受容してくださいます。仕事のために悩んでいる方がいますか、子どもの問題、夫の問題、健康や将来の問題のために悩んでいる方がいるでしょうか。すべてをイエス様に告白して見てください。イエス様はすべてを理解し、聞いてくださいます。それだけではありません。実際に力を持って助けてくださいます。福音書を見るとさまざまな人々がイエス様のカウンセリングによって癒されました。この世のカウンセラーはどんなに立派なカウンセラーでも悩みを聞いてくれるだけですが、イエス様はそれだけでなく、神様の力によって助けてくださるワンダフル・カウンセラーです。なぜなら、イエス様は力ある神であられるからです。
第二に、その名は、力ある神様です。ひとりのみどりごイエス様は元々天地万物を創造された神様です。だからひとりの嬰児は全能の神様なのです。ひとりのみどりごイエス様は、サタンの力を打ち破る力をもって来られます。イエス様はこの世に来られ、全能の力をもって悪霊につかれた人々や38年もある病人を癒され、死んだラザロを蘇らせられました。イエス様には不可能なことはありません。使徒パウロはイエス様を信じる信仰により、空前絶後の御業を成し遂げることが出来ました。そして次のように告白しています。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」(ピリ4:13)。私たちも力ある神、キリストを信じて生きる時、神の力を帯びておられるキリストによってどんなことでもできる人生を生きるようになります。神様の力を体験することは、ある一定の期間だけではありません。永遠に力ある神様を体験することができます。イエス様は力ある神であり、永遠の父だからです。
第三に、その名は、永遠の父です。「永遠の父」、イエス様が私の永遠の父であるということは、本当に感動的なことです。父の役割は大きなものです。家族を保護し、必要なものを満たします。子どもを養育し、教育します。いつまでも子どもを見守り、助けようとします。私の父は70歳になるまで6人の息子、娘たちの養育、教育のために骨を折る苦労をして来ました。それでも、この間、私が国に帰った時、父は私の兄弟たちに「これからは、嫁たちにも、孫たちにも小遣いを上げたかった。」と言いました。いつまでも子どもたちを助けようとしている父の心に私は涙を流しました。私たちの中でもヨシュア宣教師は韓国とカナダにいる子どもたちの教育のために50代になる年にも肉体労働の仕事を始めています。この世の父でも力の限り、子どもを助けようとしているのです。しかし、この世の父はいくら素晴らしい父であっても限界があります。力においても時間的にも限界があります。あくまで人間であるため、根本的に死の問題、罪の問題、内面の問題を解決することはできません。また、いつかはこの世を離れて行きます。しかし、イエス様は永遠の父となって下さるのです。韓国やカナダように遠く離れることもなく、いつも、私たちと共にいてくださいます。私たちをすべての悪より救いだし、あらゆる面で助けてくださいます。いのちの道、真理の道へ導き、天国までも導いて下さいます。真理の御言葉で食べさせ、信仰のある者と成長させて下さいます。霊的・肉的に必要なすべてを溢れさせて下さいます。私たちを助けるためにみどりごとしてお生まれになった永遠の父、イエス様を心から賛美します。永遠の父は私たちを愛と平和によって助けてくださいます。この世の父は子どもを助けていても愛と平和ではないから子どもたちが傷つけられてしまう場合も少なくありません。しかし、イエス様は愛と平和によって助けてくださる平和の君です。
第四に、その名は、平和の君です。イエス様は天地万物を統治する力をもっておられながらも、私たちを武力で治められず、愛と平和によって治めてくださいます。人々は心の平和を求めます。平安を得るために仕事に没頭したり、音楽を聞いたりします。ゆったりしたお風呂に入ったりします。スポーツやゲーム、勉強、芸術、旅行などを通して心の安らぎを得ようとする人たちもいます。そのようにして疲れを癒し、平安を得ることも必要でしょう。しかし、世の中には人間に真の平和を与えるようなものはありません。心の真の平和や霊の平和は人間の努力や、お金によって得ることのできるものではありません。それは、ただ平和の君であられる、イエス様によって与えられるものです。イエス様が私たちの心を治めてくださるとき、神様の国の平和で満たされるようになります。だから、クリスチャンになった人々の証の中で一番よく言われることは平安を得たことです。ボヨンのお母さんは、ふたりの娘たちが大学生になってから、この教会に通い始めました。なかなかなじめないところに足を運んだのです。しかし、ここの礼拝に参加すると何となく平安になるそうです。それは平和の君、イエス様が平安を与えてくださるからです。ほんとうにひとりのみどりご、イエス様をキリスト信じる人々はイエス様が与えてくださる真の平和を自分のものにすることができます。私たちが心からひとりのみどりごイエス様を迎え入れると、イエス様の主権は増し加わり、その平和は限りなく広がります。
7節をご覧下さい。「その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」とあります。ひとりのみどりご・イエス様を受け入れない人たちにはサタンの主権が増し加わり、人生の最後にはサタンの完全な奴隷として地獄に陥ってしまいます。しかし、ワンダフル・カウンセラー、力ある神、永遠の父、平和の君であられるイエス様を迎え入れて信じる者は、ますます愛と平和の君であるイエス様に治められて義の道を歩むことができます。平和の君、イエス様が治められる国で平和に永遠に生きるようになります。
イザヤは絶望的な時代に生きていても、大きな光、メシヤがお生まれになるビジョンを見ました。そして、万軍の主の熱心がそれを成し遂げられることを確信しました。その信仰のとおりに、ひとりのみどりごがお生まれになりました。イエス様は無力で軟弱なみどりごの姿をとってこの地に来られました。しかも飼葉桶でお生まれになりました。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。ことばは人となって私たちの間に住まわれました。ですから、どんな人でもイエス様に近づき、ワンダフルカウンセリングを受けることができます。どんなに身分の低い人でも、どんなに弱い人でも、キリストによって力ある神様を体験し、永遠の父の愛を経験することができます。イエス様によって真の平安を得ることができます。
結論的に、イエス様は今年も大きな光として来られます。戦争や自然災害、不景気と心の病などによって暗くなっているこの世を照らす大きな光です。また、イエス様は苦しみのところ、死の陰のようなこの世で苦しんでいる人々、悩んでいる人々とカウンセリングして助けてくださる不思議な助言者、ワンダフル・カウンセラーです。イエス様は、自分の無能力のために悩み、絶望している人々には力ある神として臨まれる方です。忙しい世の中で父の役割を十分に果たせない父親のためにさびしい子どもたちに永遠の父となられます。何よりも、イエス様は平和の君としてこの世に来られたメシヤです。ひとりのみどりごイエス様は、万民を救うためにこの世に来られた、平和の君、真の王であるメシヤなのです。私たちが謙った心をもって、ひとりのみどりごイエス様を迎え入れるように祈ります。イエス様によって平和と喜びで満ちたクリスマスとなりますように祈ります。ひとりのみどりご・イエス様を迎え入れてイエス様中心に過ごすクリスマスこそ、ワンダフルクリスマスです。私たちのために生まれた、ひとりの嬰児イエス様に感謝と賛美を捧げます。