2005年列王記第一第8講

信仰訓練を受けたエリヤ

御言葉:列王記第一17章
要 節:列王記第一17:21,22「そして、彼は三度、その子の上に身を伏せて、主に祈って言った。「私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに返してください。」主はエリヤの願いを聞かれたので、子どものいのちはその子のうちに返り、その子は生き返った。」

先週、私たちはヤロブアムの道について学びました。ヤロブアムが自分で犯した罪と、彼がイスラエルに犯させた罪のために、主はイスラエルを捨てられるようになりました。でも、哀れみ深い神様は、イスラエルをあきらめず、預言者エリヤを通して彼らの信仰を回復させ、新しい歴史を始めようとされました。それで、神様はエリヤに祈りと信仰の訓練を与えられました。
今日の御言葉は、神様がどのようにエリヤを訓練されたか、また、訓練を通してエリヤが確信するようになった神様はどんな方かについて学びます。どうか、私たちと同じような人であるエリヤを訓練して、偉大な預言者、力ある神のしもべとして用いられた神様を深く学ぶことができるように祈ります。そうして、私たちもエリヤのような主のしもべとして成長することができるように祈ります。

?.烏、やもめに養われるエリヤ(1?16)
1節を読んでみましょう。「ギルアデのティシュベの出のティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」」ここにあの有名な預言者エリヤが登場しています。彼は都から離れたギルアデのティシュベ出身です。ギルアデはヨルダン川の東の方にありました。ティシュベはエリヤの故郷としてのみ知られている田舎です。エリヤは田舎者ですね。でも、彼は当時の都サマリヤの地で栄華をきわめていたアハブ王に立ち向かっています。彼は「私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう」と言っています。露も、雨も降らないということは、律法によれば、罪に対する神様ののろいです(申命記28:23、24)。だから、エリヤは王の前で、「あなたは呪われている。あなたのせいでこの国も呪われるのだ」と言っているのです。
私がエリヤだったら、このような預言をしたくありません。王でなくても人に厳しいことを言うのはやさしくありません。人に嫌がられるでしょう。王に対して言うと、殺されるかもしれない危険性もあります。何よりも自分自身にも被害が及ぶようなことです。ですから、災いが下さるようなことは言いたくないのです。もし、日本に地震がなくなり、台風もなくなるという預言ならはしてもいいでしょう。しかし、総理大臣の前に行ってあなたが偶像崇拝をしているから、日本に地震が続き、もっと多くの者が死に、滅びる、という預言はしたくないのです。ところが、エリヤは自分が不利になることを知って、それでも預言をしました。
このようなエリヤの勇気と大胆さ、権威はどこから来たでしょうか。もう一度1節をご覧ください。彼は王に向かって「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。」と宣言しています。エリヤの権威と力の根拠がここにあります。彼は「生きておられる主」を信じ、主に仕えていました。すると、彼には恐れるものがなくなりました。たとえ、自分のいのちが脅かされてもそれを恐れる必要がありませんでした。言うべきことを言える権威と力、勇気が生きておられる主から与えられるからです。また、生きておられる主が主に仕える者を守ってくださるからです。
2-4節をご覧ください。「それから、彼に次のような主のことばがあった。「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。そして、その川の水を飲まなければならない。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」」とあります。神様は雨が降らなくなることに備えて、エリヤが水の流れる川のほとりに身を隠すように命じられました。そして、その川の水を飲んで生きるように助けてくださいました。ところが、彼に差し入れを持ってくるのは、なんと烏です。烏に養われるのです。人は自分より年下の人から助けられてもプライドが傷つけられるものです。私の父は貧しい田舎の農夫として私の兄弟たちを教育するとき、非常に苦労しました。それでも、二歳年下の弟から経済的に助けられるときがありました。私が大学に入学する時もその叔父さんが入学金などの学費を支援してくれました。本当にありがたいことです。でも、私の母はとても自尊心に傷つけられているようでした。母は長男の私に「あなたは弟たちに貸すことがあっても、決して借りることがあってならない。兄が弟を助けることは良いけれども、弟から助けられることは惨めなことだ」と何度も言いました。自分の弟であっても、人に助けられるときはプライドがめちゃくちゃにこわされるのです。
ところが、人でもない鳥、しかも、イスラエル人にとって汚れた動物として知られている(レビ11章)烏に養われることは、なんとひどい訓練でしょうか。本当に自我が砕かれる訓練です。プライドがメチャメチャにされることでしょう。できるものなら避けたい訓練ではなかったしょうか。しかし、エリヤはどうしましたか。
5節をご覧ください。エリヤは行って、主のことばのとおりにしました。すなわち、彼はヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに行って住んだのです。自分には何の力もないことを知り、すべてを生きておられる主に委ねたことでしょう。彼は烏を通して自分に養われる神様を信じて毎日祈らなければなりませんでした。特に、夜明けに目が覚めると、「生きておられる神様!今日も烏に養われるようにしてください。」と祈ったでしょう。すると、幾羽かの烏が、朝になると彼のところにパンと肉とを運んで来ました。また、夕方になるとパンと肉とを運んで来ました。彼は神様に食事祈りをしてパンと肉を食べました。そして、ヨルダン川から水を飲みました。ところが、このように日ごとに神様に祈って日ごとの糧を食べているエリヤにどんなことが起こりましたか。
7節をご覧ください。「しかし、しばらくすると、その川がかれた。その地方に雨が降らなかったからである。」とあります。今度は水を汲んでいる川がかれてしまいました。毎日パンと肉が与えられても水がなければ人間は生きられません。もう、そこで住み続けることはできなくなりました。そんな彼に主のことばがありました。「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」」と言われたのです。シドンという国は、異邦人の地であり、アハブよりも悪辣なイゼベルが出てきたところです。主はそのシドンに行きなさい、と命じられました。しかも、ひとりのやもめに養われるようになることを言われました。これもプライドがメチャメチャにされることです。特に、当時のやもめはまともな仕事が許されず、人々に助けられなければならない、貧しい生活をしていました。それなのに神様はエリヤに「やもめのところに行き、そこに住め」と命じられたのです。エリヤはどうしましたか。
10?12節をご覧ください。エリヤは言われたとおりに、ツァレファテへ出て行きました。その町の門に着くと、ちょうどそこに、たきぎを拾い集めているひとりのやもめがいました。そこで、彼は彼女に「水差しにほんの少しの水を持って来て、私に飲ませてください。」と言いました。また「一口のパンも持って来てください。」と言ってパンもお願いしました。すると、彼女は答えました。「あなたの神、主は生きておられます。私は焼いたパンを持っておりません。ただ、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけです。ご覧のとおり、二、三本のたきぎを集め、帰って行って、私と私の息子のためにそれを調理し、それを食べて、死のうとしているのです。」
神様は、エリヤを本当にひどいところに遣わされたことが分かります。旅人を家に受け入れてもてなすことは素晴らしいことです。でも、当時は全く雨が降らず、露もありませんでした。呪われたような土地は干ばつが続き、農作物は全く刈り取ることができませんでした。それで、貧しいにやもめの家には、かめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけでした。極度の貧しさです。ある人はちょっと貧しくても心の余裕があればいいじゃないといいます。しかし、本当の貧しさを経験していないから言えることでしょう。子どもにあげる食べ物さえなくなったほどに貧しくなった経験をしたことがあるでしょうか。子どもに食べ物を与えることができない時の親の心は本当に、つらいものでしょう。やもめは、もう食べるものがなくて死のうとしていました。子どもと一緒に最後の食事をして自殺しようとしていたのです。本当に悲しい話です。
ところが、エリヤはやもめに何と言いましたか。13,14節をご一緒に読んで見ましょう。「エリヤは彼女に言った。「恐れてはいけません。行って、あなたが言ったようにしなさい。しかし、まず、私のためにそれで小さなパン菓子を作り、私のところに持って来なさい。それから後に、あなたとあなたの子どものために作りなさい。イスラエルの神、主が、こう仰せられるからです。『主が地の上に雨を降らせる日までは、そのかめの粉は尽きず、そのつぼの油はなくならない。』」」エリヤがまず、自分のためにパンをつくりなさいと言いました。これは、もし主の備えの約束を信じなかったらとても言えないことです。けれどもエリヤは、それを隠す主が言われたとおりに語りました。人間的に聞いたら、とても残酷なことですが、神様の働きを信じて自分のためにパンを作ってくれるように要求しました。でも、聞いているやもめにとってはエリヤの態度が理解できなかったでしょう。本当にあつかましいことだからです。やもめは「鉄面皮の男か、ずいぶん、ずうずうしい男ですね。」と思ったかも知れません。また、神様に対しても「神様!何でこんな人を私の所に遣わしたのですか、町には金持ちの家もいっぱいあるじゃないですか。」と言いたかったのではないでしょうか。ではなぜ神様は、エリヤを多くの金持ちの家ではなく、やもめの家に遣わしたのでしょうか。その理由は何でしょうか。結論から言いますと、それは、神様が貧しいやもめを愛したからです。多くの金持ちよりこの女性を愛したからです。時々、神様の愛は不思議なものです。人間的に考えると、一食の食べ物しか持ってない人、しかもそれを食べて死のうとしている人にパンを要求することは、愛ではありません。むしろ、そんな人に対しても自分の持ち物でもてなすことが愛でしょう。しかし、神様人間の理解を越えています。私たちが不思議に思われることに、私たちのためにベストを与えてくださる神様の愛があります。
15、16節をご覧ください。「彼女は行って、エリヤのことばのとおりにした。彼女と彼、および彼女の家族も、長い間それを食べた。エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかった。」とあります。ハレルヤ!エリヤも、やもめも神様の愛と力を体験するようになりました。彼らが神様ののみことばのとおりにした時、奇跡が起こったのです。ふたり分だけの粉と油から、三人が毎日食べても、かめの粉は尽きず、つぼの油もなくなりませんでした。それで、彼らはかつてイスラエルに与えられたマナのように、日ごとに食べ物が与えられて、日ごとに起こる奇跡を体験するようになりました。全能と愛の神様を体験することができたのです。結局、彼女と彼女の息子は多くの人々がききんの中で死んでいく患難の中でも飢え死にならず、生き続けることができました。神様はエリヤを遣わして彼女の家族を救われたのです。後に、イエス様はこのことについて解釈してくださいました。ルカ4:25-26節によると、「わたしが言うのは真実のことです。エリヤの時代に、三年六か月の間天が閉じて、全国に大ききんが起こったとき、イスラエルにもやもめは多くいたが、エリヤはだれのところにも遣わされず、シドンのサレプタにいたやもめ女にだけ遣わされたのです。」とあります。エリヤがやもめ女にだけ遣わされたことは、彼女に対する神様の特別な愛だったのです。イスラエルにも、やもめは多くいましたが、エリヤは異邦人である彼女にだけ遣わされたからです。
ここで、私たちは神様が人をどのように人を訓練されるかを学ぶことができます。まず、神様はエリヤが人間的な情や自分のアイディアによって人を助けるのではなく、御言葉のとおりに人を助けるように訓練されました。人間的に考えると、信仰の弱い人にまず神様のためにささげなさいということはとても難しいことです。しかし、神様はエリヤが信仰によってやもめの全財産とも言える最後の食べ物を要求するようにされました。エリヤは、それに従いました。それによって人知を超えて祝福してくださる神様を体験しました。結局、彼はこの出来事を通して神様のみことばを伝える人は、人間的に聞いたら嫌われること、憎まれることでも、信仰によって主の御言葉をまっすぐに伝えるべきことを悟り、学んだことでしょう。
第二に、神様はやもめに「新しい意欲」を持つように訓練されました。やもめは今までひとり息子と一緒に生きるためにさまざまな仕事をしてきたでしょう。当時の社会ではやもめの仕事が限られていましたが、それでも子どものために一生懸命に働きました。しかし、今は仕事がなくなりました。ただ一つの仕事が残っていました。最後の仕事とは「子どもとともに最後の食事をして死ぬこと」です。彼女は何もかもあきらめていました。しかし、エリヤが彼女の家に客として来ることによって彼女には新しい仕事が与えられました。それは「旅人をもてなすこと」です。ところが、この仕事は彼女に新しい意欲をもたらしました。死ぬ前に旅人をもてなさなければならないと思うとき、彼女には緊張感とともに不思議な力が生じました。「旅人をもてなすこと」は簡単なことではありません。息子のためなら、いつものようにすればいいでしょう。しかし、人のためには部屋の掃除からいろいろ気を遣わなければなりません。うちには時々お客さんが来ますが、不思議なことにその時ごとに家全体がきれいになります。普段より二倍ぐらいの家事ができちゃうような気がします。同じ材料でもおかずももっとおいしくなります。家内の顔ももっと美しくなります。普段より緊張しているからでしょう。なんだか顔が少し赤くなってきれいに見えるんです。適当な緊張感は人を生かすものです。特に与えられた仕事を適当にするのではなく、新しい意欲を持ってやるとき、不思議にも人には新しい力が与えられます。つまり、自殺のための薬のような最後の食事を準備する時のやもめの心と、同じ材料でも人をもてなすために食事を準備する心は全く違うのです。
私たち人間は、適当な緊張感と使命感を持つときに力強くなります。人生において大きな問題は粉や油がなくなることではありません。むしろ、なくなる粉や油とともに意欲もなくしてしまうことです。たとえ、粉がなくなっても何かをやるという意欲、やる気があるなら、その人には希望があります。なんでもやる気があれば知恵と不思議な力が湧いてくるのです
やもめは不思議な旅人の要求を受け入れました。何もかもあきらめていましたが、最後に人をもてなす決断をしました。エリヤの訪問によって彼女は人に仕える新しい意欲を持つようになったのです。それで、彼女は意欲的に料理をしてもてなしをしました。すると、彼女は神様の奇跡を体験するようになったのです。私たちも神様の要求を受け入れると、新しい意欲が与えられます。神様は忙しい人に時間を要求します。貧しい人に人をもてなすこと、同労者や兄弟姉妹たちに仕えることを要求します。全く知らない人に行って伝道することも要求します。センターの掃除も要求します。世界宣教のために英語勉強することも要求するときもあるでしょう。すると、何で私だけにこんなことを要求されるのですかと言いたくなる時もあるでしょう。「かめの中に一握りの粉と、つぼの中にほんの少しの油があるだけです。もう死にたいです」と言いたくなる時かも知りません。しかし、神様の要求を受け入れることは、まことに祝福される秘訣です。その人はかめの粉は尽きず、つぼの油はなくならない祝福を受けるようになります。ですから、私たちは神様の御言葉に反応して何かを始めることです。かめの粉がなくなることを心配したり、つぼの油がなくなることをつぶやいたりしないで信仰によってチャレンジするのです。生きておられる主は、神様の御言葉のとおりに生きる人、信仰によってチャレンジする人を祝福してくださいます。特に、貧しい人が神様の要求を受け入れて奇跡を体験し、救われることを願っておられます。私たちが自分は貧しい、足りないと思っているだけなら、何もできません。しかし、やもめのようなに貧しくても神様の要求を受け入れて反応すると、大いなる神様の力と愛を体験するようになるのです。ですから、心の貧しい人は幸いです。

?.祈りによってやもめの息子を生き返らせたエリヤ(17?24)
17、18節をご一緒に読んでみましょう。「これらのことがあって後、この家の主婦の息子が病気になった。その子の病気は非常に重くなり、ついに息を引き取った。彼女はエリヤに言った。「神の人よ。あなたはいったい私にどうしようとなさるのですか。あなたは私の罪を思い知らせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。」」とあります。エリヤがお世話になっている家の主婦の息子が病気になりました。その子の病気は非常に重くなり、ついに息を引き取りました。もともと、やもめは、子どもと一緒に最後の食事をして死のうとしていました。神様はそんな彼女を特別に愛してくださりエリヤが遣わし、彼女の家族を救ってくださいました。食べても、食べてもかめの粉が尽きず、つぼの油がなくならないようにしてくださいました。やもめは、息子の病気が非常に重くなり、息を引き取った時、目の前が真っ暗になりました。彼女はどんなに絶望したのでしょうか。彼女はエリヤに言いました。「神の人よ。あなたはいったい私にどうしようとなさるのですか。あなたは私の罪を思い知らせ、私の息子を死なせるために来られたのですか。」こういわれるとき、エリヤの気持ちはどうなったでしょうか。やもめの気持ち、エリヤの気持ちを考えてみてください。エリヤも自分を世話してくれたやもめの息子をかわいがっていたでしょう。やもめの悲しみはエリヤの悲しみであり、やもめの涙はエリヤの涙でもあったでしょう。エリヤも自分の子どもを亡くしたような絶望感と悲しみを経験していたでしょう。しかし、エリヤは人につぶやきませんでした。彼は自分にとってできることから始めました。19、20節をご覧ください。エリヤは彼女に、「あなたの息子を私によこしなさい。」と言って、その子を彼女のふところから受け取り、自分が泊まっていた屋上の部屋にかかえて上がり、その子を自分の寝台の上に横たえました。そして彼は主に祈って言いました。「私の神、主よ。私を世話してくれたこのやもめにさえもわざわいを下して、彼女の息子を死なせるのですか。」エリヤは自分の思いと願いを、主にぶつけました。「私の神、主」に祈っています。そして、一度だけでなく、三度も、「私の神、主よ。どうか、この子のいのちをこの子のうちに返してください。」と祈りました。主はエリヤの願いを聞かれたので、子どものいのちはその子のうちに返り、その子は生き返りました。生きておられる主はエリヤの願いを聞いてくださいました。そこで、エリヤはその子を抱いて、屋上の部屋から家の中に降りて来て、その子の母親に渡しました。するとやもめはエリヤに言いました。「今、私はあなたが神の人であり、あなたの口にある主のことばが真実であることを知りました。」やもめはかめの粉が尽きず、つぼの油がなくならないことを通してエリヤが神の人であることを知っていました。しかし、やもめは息子の生き返りによってエリヤがもっと確実にエリヤが神の人であることを体験し、告白したのです。

以上で、私たちは神様がエリヤをアハブの目から隠して訓練されたことについて学びました。エリヤは烏を通してすべてを神様にゆだね、日ごとに神様と交わる日ごとの糧の訓練を受けました。ツァルパテのやもめを通しては人間的な同情や人間的な考えを乗り越えて神様の御言葉を信じ、御言葉のとおりに行なう御言葉の訓練を受けました。それらを通して生きておられる主は私の神であると確信するようになりました。彼は御言葉への従順を通して信仰を体験し、その体験を通して「私の神、主」にどんなことでも祈れるようになりました。「私の神、主」に対する信仰に燃えるようになりました。それで、彼は「死」という限界的な状況にも信仰によってチャレンジしました。三度も「私の神、主よ。私の神、主よ、私の神、主よ。」と祈りました。すると、彼は息を引き取った人が生き返ることを見ました。復活信仰を体験したのです。私たちも「私の神、主」はどんなことでもできるという信仰によって熱心に祈ると、どんなことでもできる、素晴らしい信仰の体験をすることができます。「私の神、主」に対する祈りこそ、すべての門を開くマスターキーです。何かうまくいかないことがあるでしょうか。「私の神、主よ!」と祈ってください。人間問題で悩み、葛藤しているでしょうか。経済的なことで、家庭問題や友達の問題で悩むことはないでしょうか。病気になっているでしょうか。どんな場合でも生きておられる主を信じて「私の神、主よ」と熱心に祈ってください。必ず大いなる神様の御力を体験します。大きな問題があればあるほど熱心に祈ってください。エリヤは私たちと同じような人でしたが、雨が降らないように熱心に祈ると、三年六ヶ月の間、地に雨が降りませんでした。そして、再び祈ると、天は雨を降らせ、地はその実を実らせました(ヤコブ5:17,18)。エリヤが熱心に祈ったことを覚えてください。どうか、私たち一人ひとりがエリヤのように信仰の訓練をよく受けて雨を降らせたり、止ませたりすることができるほどの神の人として成長するように祈ります。