2005年列王記第一第9講
エリヤに現れた主
御言葉:列王記第一19章
要 節:列王記第一19:18 しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。」
今日の礼拝は、礼拝の中で聖餐式がもたれます。聖餐式は、イエス様がクリスチャンに指示されたものです。今まで聖餐式に参加したことがなく、初めてご覧になる方もおられると思いますが、座ってご覧になりながら、共に聖餐の意味を味わってください。
今日メッセージのタイトルは、基礎勉強した時とは違いますが、「エリヤに現れた主」です。先週、私たちは、信仰訓練を受けたエリヤについて学びました。主なる神様からの訓練を受けたエリヤはとても強くなりました。祈りによって子どもの死に挑戦して死人を生き返らせることも体験しました。私たちが新年メッセージを通して学んだ18章を見ると、エリヤは生きておられる主を信じてバアルとアシェラの預言者たちにも挑戦しました。そして、信仰によって四百五十人のバアル預言者と四百人のアシェラの預言者、合計850人の預言者たちと対決して大勝利をしました。ところが、この大勝利の後に、エリヤは落ち込んでいます。彼は信仰の危機に処せられていました。主は、このような彼を慰め、力づけてくださいました。御言葉を与え、新しい使命を与えてくださいました。
ここで、私たちは人のところに降りて来られ、助けてくださる神様の愛と神様のカウンセリングを学ぶことができます。1-8節を見ると神様は彼を慰め、力づけてくださいます。9-14節を見ると、神様はエリヤに御声を聞かせ、御言葉を与えてくださいます。そして、15-18を見ると、神様は彼に聖なる使命を与えてくださいます。19-21節にはエリヤが立ち上がって使命を担う姿が記されています。
では落ち込んでいるエリヤに現れた主は、彼をどのように助け、彼にどんな御言葉を与えてくださいましたか。また、彼に与えられた使命とは何でしょうか。どうか、私たちも、エリヤのように、力づけられ、新たに御言葉をいただいて自分に与えられた使命を全うすることができるように祈ります。
第一:エリヤを慰め、力づけてくださる神様(1-8)
1,2節をご覧ください。アハブは、エリヤがしたすべての事と、預言者たちを剣で皆殺しにしたこととを残らずイゼベルに告げました。アハブは一国の王様でありましたが、妻に告げ口をするほどに男らしくない男だったことが分かります。彼の話を聞いたイゼベルは使者をエリヤのところに遣わして言いました。「もしも私が、あすの今ごろまでに、あなたのいのちをあの人たちのひとりのいのちのようにしなかったなら、神々がこの私を幾重にも罰せられるように。」イゼベルは「何だ、このやろう。殺してやるぞ。」というふうなことを言っています。この報復の言葉を聞いたエリヤは落胆し、恐れて逃げました。彼は国境を越えてユダのベエル・シェバに来ました。そのとき、彼は自分に仕えている若い者をそこに残し、自分はさらに荒野へ一日の道のりをはいって行きました。逃げられるところまで逃げたでしょうか。あるいは、もう疲れたでしょうか。彼は、えにしだの木を発見し、その気の陰にすわって自分の死を願って言いました。「主よ。もう十分です。私のいのちを取ってください。私は先祖たちにまさっていませんから。」本当に哀れな姿です。彼は自分の死を願っていたのです。あのカルメル山で850人と対決した勇士エリヤが死を願っています。どうしてこんなことがエリヤに起こったでしょうか。それは神様を仰ぎ見るより現実を見たからでしょう。間違いなく、エリヤが850人の異教徒の預言者たちと戦った時は、その出来事によってイスラエルの民が生きておられる主にのみ仕えることを望んだでしょう。イスラエルの民が全能の神様の力を体験すると、悔い改めて神様に帰ってくるだろうt思ったでしょう。しかし、そのような望み、期待は裏切られてしまいました。イゼベルはますます悪質な女となって自分の命を脅かしました。民は主なる神様とバアルの間でどっちつかずによろめいていました。自分はいのちをかけて戦ったのに、なんの実も結ばれませんでした。神様のために、イスラエルの民のために一生懸命に働いたのに、現実には何の変化も起こりませんでした。むしろ自分のいのちが脅かされるだけでした。そこで、彼は恐れ、落ち込んでしまったのです。すると心も、体も疲れてしまいました。もう何もやりたくない、主のために、戦うことなんかできないと思ったでしょうか。彼は横になって眠り、死ぬことを願っていました。神様はこんなエリヤをどのように助けてくださいましたか。
5-8節をご覧ください。「彼がえにしだの木の下で横になって眠っていると、ひとりの御使いが彼にさわって、「起きて、食べなさい。」と言った。彼は見た。すると、彼の頭のところに、焼け石で焼いたパン菓子一つと、水のはいったつぼがあった。彼はそれを食べ、そして飲んで、また横になった。それから、主の使いがもう一度戻って来て、彼にさわり、「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから。」と言った。」とあります。神様は一言もエリヤを責めることなく、ありままを受け入れてくださいました。今の彼にとってもっとも必要なパンと水を与えてくださいました。エリヤはどんなに疲れていたでしょうか、パン菓子を食べ、水を飲んで、また横になりました。でも、主の御使いはもう一度戻って来て彼にさわり、「起きて、食べなさい。旅はまだ遠いのだから。」と言ってくれました。主は疲れきっている子どもにおいしい料理をしてあげる母親のように、エリヤにさわり、食べさせてくださいました。彼を慰め、力づけてくださったのです。そこで、エリヤは起きて、食べ、そして飲み、この食べ物に力を得て、四十日四十夜、歩いて神の山ホレブに着きました。そこで、どんなことが起こりましたか。
第二:主の言葉を与えてくださった神様(9-14)
9節をご覧ください。「彼はそこにあるほら穴にはいり、そこで一夜を過ごした。すると、彼への主のことばがあった。主は「エリヤよ。ここで何をしているのか。」と仰せられた。」とあります。「エリヤよ。ここで何をしているのか。」この主の言葉はエリヤに自分の存在について考えさせるとともに、心の動機、モティベーションについて聞いています。エリヤが特別な熱心によって働いた動機はなんだったのか、カルメル山でバアルとアシェラの預言者たちと戦った動機はなんだったのかということです。人は疲れたり、問題にぶつかったりして落ち込んでいた時、自分がそんなに働いた動機はなんだったのかを把握する必要があります。動機がよく分かれば以外に問題の解決は早なります。特に、精神的な疲れや心の問題は言葉で表現したり、文字で書いてみたりすると、意外に簡単に解決されます。それで、カウンセリングの時、重要なポイントの一つは相手が話しやすい雰囲気をつくることです。話しやすい雰囲気の中でカウンセラーがじっくりと聞いて「うんうん」「なるほど」「そうですか」など言ったり、相手の言わんとするところを要約して「?というわけですね。」「?ということですね」と答えたりするとクライアントは自ら問題を解決して行くのです。これはカウンセリングで教えられることですが、実は神様が使っておられるカウンセリングの方法です。神様はエリヤに二度も質問を与えて二度も答えるようにしておられます。自分の問題を自分の口で言い表すようにしておられるのです。それによってエリヤが自分の問題をはっきりと把握し、自分自身を知るようにされたのです。すると、エリヤは自分の心にあったことを言い表しました。神様に訴えています。神様は彼の話を全部聞いてくださいました。カウンセリングの用語で言いますと「積極的傾聴」です。そして、神様はエリヤにエリヤ自身も御言葉を聞くことが大切であることを教えてくださいました。彼も神様のカウンセリングで人を助けなければならないからです。
11、12節をご覧ください。主はエリヤに「外に出て、山の上で主の前に立て。」と仰せられました。すると、そのとき、主が通り過ぎられ、主の前で、激しい大風が山々を裂き、岩々を砕きました。しかし、風の中に主はおられませんでした。地震の中にも主はおられませんでした。火の中にも主はおられませんでした。つまり、奇跡のような出来事の中には主がおられなかったのです。ただ、火のあとに、かすかな細い声がありました。しかし、このことを誤解してはいけません。使徒の働き2章を見ると神様は風の中におられました。出19章を見ると、地震の中におられました。出3章、?列王記18章によると、火の中でも主は働かれました。しかし、このような場合は、特別な時です。奇跡のような出来事は非常事態の時に神様が御心を示してくださる方法です。神様が用いられる一般的な方法、通常的な方法は御言葉を通して御心を伝えることです。神様はかすかな細い声によってもっと多く働いてくださいます。ですから、私たちは神様に奇跡を期待しながらも、日ごろかすかな細い御声を聞く生活にもっと励まなければなりません。エリヤは神様の御声を聞くと、すぐに外套で顔をおおい、外に出て、ほら穴の入り口に立ちました。ではかすかな細い声によってエリヤに与えられた神様の使命は何ですか。
第三:弟子を立てる使命を与えられた神様(15-18)
15-17節をご覧ください。「主は彼に仰せられた。「さあ、ダマスコの荒野へ帰って行け。そこに行き、ハザエルに油をそそいで、アラムの王とせよ。また、ニムシの子エフーに油をそそいで、イスラエルの王とせよ。また、アベル・メホラの出のシャファテの子エリシャに油をそそいで、あなたに代わる預言者とせよ。」神様はエリヤに何人かの弟子を立てる使命を与えてくださいました。神様は特にエリシャに油を注いで、彼に代わる預言者とせよという使命を与えられました。そして、彼に言われました。18節をご一緒に読んでみましょう。「しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。バアルにひざをかがめず、バアルに口づけしなかった者である。」エリヤは独りだと思っていましたが、実は主は、残された者を七千人も用意されておられました。これは、ローマ人への手紙11章でも引用されています。パウロはこれを引用してから「それと同じように、今も、恵みの選びによって残された者がいます(5)。」と言いました。パウロの時代、また今の時代も残された者たちがいます。私たちはクリスチャン人口1パーセント未満と言われている日本において、自分だけが主を信じている、という意識にとらわれてしまいがちです。それで、エリヤのように落ち込みやすくなります。自分だけで動く、というのは聖書的ではありません。主は必ず、思いを同じくする仲間を用意されています。21日は東京大学でフィッシングしようとしていますが、必ず神様が用意しておられる仲間がいることを信じます。私たちが信仰によってフィッシングに挑戦しましょう。
第四:使命を果たすエリヤ(19-21)
19-21節をご覧ください。エリヤは、主からいただいた使命を持ってエリシャのところに行きました。エリシャは、農作業に従事していました。けれども、エリヤが外套をかけました。これは明らかに、自分の預言者の職をエリシャに引き継ぐことのジェスチャーです。それをエリシャはすぐに理解したようです。それで自分の職を捨てて、エリヤに従っていきます。
以上で、私たちはエリヤに現われ、彼を助けられた主なる神様を通して人となって私たちの間に住まわれたイエス様の姿を思い出すことができます。イエス様は人類の先祖アダムの罪と自分のために落ち込んでいるし、もう、立ち上がることのできない状態になっている私たちのところに来てくださいました。私たちの間に住まわれ、私たちのをありのまま受け入れて慰め、力づけてくださいます。生ける御言葉によって私たちを助けて信仰の人、祈りの人として成長させてくださいます。信仰によっていつも勝利する人生へと導いてくださいます。そのために、イエス様はこの地に来られ、十字架の苦しみを受けてくださいました。罪深い私たちを贖い、救うために十字架にかかって死んでくださいました。そして死者の中からよみがえられた主は私たちに聖なる使命を与えてくださいました。「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」とあります。使徒パウロは神様によって癒されて使命を果たしたエリヤのように、イエス様によって救われて、力づけられてイエス様から与えられた使命を全うする人生を過ごしました。今日、皆さんとともに分かち合う聖餐式の御言葉は、このパウロがイエス様から受けたことに関する内容です。どうか、この時間、私たちも、もう一度イエス・キリストの血潮によってすべての罪が赦され、病が癒されますように。神様から御言葉を新たにいただき、与えられた使命のために立ち上がることができるように祈ります。