2005年マルコの福音書第8講   

恐れないで、ただ信じていなさい

御言葉:マルコ5:21?43
要 節:マルコ5:36イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」
 
 先週、私たちは、汚れた霊につかれた人から悪霊を追い出してくださったイエス様について学びました。イエス様は大勢の悪霊につかれている人から悪霊どもを追い出し、彼が愛する家族とともに新しい人生を生きるようにしてくださいました。主がどんなに大きなことをしてくださったのか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせる伝道者の人生にしてくださったのです。そこで、彼は自分の家族にとどまらず、広くデカポリスの地方でイエス様の恵みを言い広めました。私たちもイエス様が自分にしてくださったこと、救いの恵みを自分の家族にとどまらず、広く東京のキャンパスで言い広めることができるように祈ります。
 今日の御言葉は、病人を癒し、死人を生き返らせられたイエス様について学ぶことができます。イエス様は12年間も病気だった人が癒された時、「あなたの信仰があなたを直したのです。」と言われました。また、イエス様は不信仰の言葉を聞いて恐れるヤイロに「恐れないで、ただ信じていなさい。」と言われました。御言葉を通して信仰による癒しを学び、イエス様の御声を聞くことができるように祈ります。何よりもイエス様を信じ続ける者として生きるように祈ります。

?.あなたの信仰があなたを直したのです(21?34)
21節をご覧ください。「イエスが舟でまた向こう岸へ渡られると、大ぜいの人の群れがみもとに集まった。イエスは岸べにとどまっておられた。」とあります。また向こう岸へ渡られたということはガリラヤ湖の西側に戻って来られたことです。つまり、イエス様がガリラヤ伝道の拠点となさったカペナウムの所に戻られたのです。すると、会堂管理者のひとりでヤイロという者が来ました。会堂管理者は、単に会堂という建物を管理していたのではありません。律法学者のように、神様の御言葉を管理し、会堂で御言葉を伝える人の順番を決めたり、自分自身が御言葉を伝えたりしていました。ですから、ユダヤの地域社会では尊敬される人であり、社会的な地位もある人でした。彼はイエス様を見て、その足もとにひれ伏しました。おそらく、彼はカペナウムを伝道の拠点しておられるイエス様のことを知っていたでしょう。でも、大工出身のイエス様のみもとに来てひれ伏すようなことはしませんでした。ところが、自分の娘が病にかかり、今にも死のうとしていた時は、本当に謙遜になりました。
23節をご一緒に読んでみましょう。「いっしょうけんめい願ってこう言いました。「私の小さい娘が死にかけています。どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください。娘が直って、助かるようにしてください。」おそらく会堂管理者の身分、社会的な地位を考えてみると、人の前にひれ伏してお願いをするようなことはなかったでしょう。しかし、ヤイロは娘の病、死にかけている、厳しい状況を通して一生懸命イエス様に懇願するようになりました。イエス様は絶望的な状況の中でも懇願する人の願いを聞いてくださいます。その人とともに歩んでくださいます。
24節をご覧ください。 そこで、イエス様は彼といっしょに出かけられました。イエス様はヤイロの切実な祈りを聞いて出かけられるようになりました。ヤイロはできればイエス様と一緒に走って行きたかったでしょう。しかし、多くの群衆がイエス様について来て、イエス様に押し迫っていました。走るどころか、歩いて行くことさえ妨げられてしまいました。ところで、そのような時にますます困難ことが起こりました。
25、26節をご覧ください。「ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。」とあります。イエス様に押し迫ってくる群衆の中に十二年の間をわずらっている女がいました。彼女は十二年間も、いのちの源である血を作っては流し、作っては流しして来たのです。しかも、「ひどい痛み」が伴っていました(29)。こういう肉体的な痛みだけではありません。この長血とは、婦人の不正出血のことです。当時は、出血中の婦人は汚れる者とされていました。その女が使った寝床も、椅子も汚れるし、その女のすわった物に触れる者もみな汚れるとされていました(レビ15:25?30)。それが、12年間も続いたのです。本当に悲惨なことです。医者に行ってもきちんとした治療をしてくれませんでした。お金ばっかり取られていました。彼女は自分の持ち物をみな使い果たしてしまいましたか、何の甲斐もなく、かえって悪くなる一方でした。彼女は事実上社会的には死んでいたのです。でも、彼女がイエス様のことを耳にした時はどうしましたか。
27節をご覧ください。「彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。」とあります。彼女は絶望的な状態の中でもイエス様のことを耳にしました。福音を聞いたのです。すると、イエス様のところに出てきました。素晴らしいことです。多くの人々はイエス様のことを耳にしてもイエス様の所に出て来ようとしません。彼女も恥ずかしい病のために堂々と人の前に出てくることはできませんでした。うしろからイエス様の着物にさわりました。でも、彼女には信仰がありました。からし種ほどに小さい信仰であったかもしれませんが、信仰があったのです。
28節をご一緒に読んでみましょう。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。」彼女はイエス様の「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えていました。その信仰によってイエス様のお着物にさわりました。「きっと直る」と信仰によって手を伸ばし、イエス様のお着物にさわったのです。すると、どんなことが起こりましたか。
29節をご覧ください。「すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。」とあります。彼女はヤイロのように人々の前でイエス様にお願いすることもできませんでした。「汚れた女」というレッテルが張られた女としての弱い心がありました。でも彼女が信仰によってイエス様にお着物にさわると、すぐに血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じました。痛めとめの薬を飲まなくても痛くありませんでした。信仰による行動はからだに感じるような回復をもたらしたのです。本当に深いイエス様の哀れみの世界を見ることができます。「恥ずかしい。」と思いながらも信仰を持っているなら、イエス様の癒しを経験することができますね。12年間も痛かったひどい痛みが直った時の喜び、その感激はどんなに大きかったでしょうか。普通なら、「ハレルヤ!ハレルヤ!」と叫びながら感謝の涙を流したはずです。でも、不正出血という病だった彼女にとっては何も言えませんでした。「汚れた女」というレッテルを張られたままであっても癒しを感じたことで満足し、その場所から離れようとしました。彼女はひそかに来たように、ひそかに帰ろうとしたのです。まさにその瞬間でした。イエス様も、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向かわれました。そして、「だれがわたしの着物にさわったのですか。」と言われました。イエス様は癒しの恵みを受けた人を見回して捜されました。イエス様は癒しの恵みを受けた人がそれを告白することを願われました。イエス様は私たちが受けた恵みを告白することを願っておられます。先週、学んだ御言葉でも、イエス様はレギオンという悪霊の集団から解放されたゲラサ人にもイエス様から受けた恵みを知らせるように言われました。「あなたの家、あなたの家族のところに帰り、主があなたにどんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを知らせなさい。」と言われたのです。イエス様は長血をわずらっていた人にも信仰による素晴らしい癒しの恵みを証することを願われたのです。それによってもはや汚れた女ではなく、完全に癒されてきよく神様の娘として生きさせるためです。ところが、信仰によってイエス様のお着物にさわった人のうちに起こったことを知らない弟子たちはイエス様に何と言いましたか。
31節をご覧ください。「そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか。』とおっしゃるのですか。」とあります。大体に事情をよく知らない人は声だけが大きくなります。弟子たちはイエス様とひとりの女性の間に起こった癒しのみわざ、救いのみわざを全く知らないくせにイエス様に不満を漏らしました。しかし、救いは個人的に起こります。人々は知らなくても個人的にイエス様を「私の神、私の救い主」として信じる者は救いを得ます。イエス様を「私の癒し主」として信じる人は癒しも経験します。そして、本当にイエス様の恵みを受けている人はイエス様の御言葉に反応します。
33節をご覧ください。彼女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏しました。そして、イエス様に真実を余すところなく打ち明けました。彼女は、過去自分が長血を十二年間もわずらっていたこと、それにひどい痛みがあったこと、その時の苦しみを余すところなく打ち明けました。とても恥ずかしかった自分の過去、とてもひどかった痛みを思い出して告白するときには辛い涙を流しました。また、イエス様にお着物にさわると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを告白するときは感激の涙を流しました。では、なぜイエス様は彼女にわざと自分の起こったことを告白するように言われたでしょうか。ローマ10:9に「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」とあります。イエス様は彼女が心でイエス様の着物にさわるときっと直るという信仰を持っていたこと、その信仰によって癒されたことを知っておられました。でも彼女が口で告白することによって霊的にも救われるように助けてくださったのです。そして、彼女の信仰を確かめてくださり、これからも信仰によって安心し、ずっとずっと病気にかからず、健やかでいるように祝福してくださいます。
34節をご一緒に読んでみましょう。「そこで、イエス様は彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」多くの人はイエス様に触っていました。さわる位ではありません。イエス様に押し迫っていました。でも本当の意味で触ってはいませんでした。イエス様に対して信仰を持っていた女のみが、本当の意味で触ることができました。それは彼女がイエス様を信じたからです。イエス様はその信仰を認め、賞賛してくださいました。りっぱな信仰ではなかったとしても信仰による彼女の接触を、信仰によるイエス様との触れ合いを祝福してくださったのです。イエス様は私たちに対しても同じでしょう。私たちがこの礼拝をささげる時、ここにおられるキリストに触れるという信仰を持つことによって、はじめてイエス様の御力を体験することができます。まだりっぱな信仰ではなくてもイエス様のお着物にさわることでもできればきっと直るという信仰を持つ人は癒しを体験します。そして、イエス様はその信仰を喜ばれ、信仰の人が病気にかからず、健やかでいるように祝福してくださいます。私たちが病気にかからず、健やかでいることはイエス様の御心です。

?。恐れないでただ信じていなさい(35?43)
 ヤイロは長血をわずらっていた人が信仰によって癒された出来事を目撃しまた。それはヤイロにとって非常に良かったと思います。彼の信仰に大きな益になった訳です。それを見たときに彼は確信を持ったでしょう。ですからイエス・キリストの癒しと御言葉を通して彼の心の中に信仰が強くなったのではないかと思います。「私が今お願いしているお方は、やはり間違いのないお方だ」と思ったでしょう。ところが確信を持ったその時に、とても悲しい、絶望的な知らせがありました。
35節をご覧ください。「イエスが、まだ話しておられるときに、会堂管理者の家から人がやって来て言った。「あなたのお嬢さんはなくなりました。なぜ、このうえ先生を煩わすことがありましょう。」」とあります。娘の死を知らされました。自分の娘が死んでしまいました。人間的に考えたら、最悪の状況です。人間の理性によると、これで全てが終わりです。これほど絶望的な知らせはありません。ほんの少し前に確信を持った彼でしたが、一瞬のうちに消えてしまいそうになりました。この時、彼の信仰は試されていました。人間の理性によって考えると、絶望してイエス様につぶやくことになります。出かけられたイエス様に押し迫って来た群衆と長血をわずらっていた女の人を恨むことになります。しかし、霊的に考えると、子どもの死という現実を目の前にしながらも、なおイエス・キリストを信じ続けることができます。イエス様は彼が信じ続けるように助けてくださいます。
36節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは、その話のことばをそばで聞いて、会堂管理者に言われた。「恐れないで、ただ信じていなさい。」このみことばがなければ、ヤイロはその場で倒れていたかもしれません。ところが、イエス様は彼の信仰を助けてくださいました。もともと、彼はイエス様が自分の娘に御手が置かれたら治ると信じていました。イエス様が彼といっしょに出かけられた時はもうすぐ自分の娘が治ると信じていたでしょう。長血をわずらっていた女の人のためにさらに遅れましたが、それでも奇跡的なイエス様の癒しを経験したからますます確信するようになりました。イエス様はそれを信じ続けるように助けてくださいました。でも、娘が死んだという知らせを聞いてしまえば、なかなか信じ続けることは難しいものです。現実の状況は悪くなり、絶望的になってしまった、それでも信じ続けることは本当に難しいものです。でも、単純に信じつけるならイエス様の助けを体験します。
私は日本に来て二年目になる1989年現在勤めている東京韓国学校で時間講師として勤めるようになりました。90年から定年退職している先生がるから私が後任として教師になるということになりました。それで、私は大学院に進学する夢を捨てて、韓国学校に就職することにしました。ビザも就学ビザから就労ビザにするために新しく申請しました。4月から勤めるようになるから3月に結婚することも決まりました。ところが、結婚式の一週間前に時間講師だからビザの許可ができないという知らせが入管からありました。結婚式の案内状を送ってしまったのに結婚式を挙げることができなくなりました。学校から常勤講師として採用するということで書類を作ってくださったのでもう一度入管にビザ申請をしましたが、4月からは学校で時間講師もできなくなりました。もう絶望的になりました。状況がこのようになると信仰も弱くなりました。理性的に考えればあきらめるしかありませんでした。こんな私にイエス様は日ごとの糧の御言葉を通して「恐れないで、ただ信じていなさい」という御言葉を与えてくださいました。私は電車の中でもこの御言葉を思い出しましたが、心が熱くなり、不信仰を悔い改めてイエス様を信じるようになりました。すると、安心できるようになリましたが、結果的には神様が信仰の通りに祝福してくださいました。
私たちの生活の中で、時々、理性を選ぶか、信仰によって生きるか、そこに立たされる時があります。この世の人々からは理性的なことば、不信仰のことばが聞こえて来ます。いろいろ言われます。ヤイロに「あなたのお嬢さんはなくなりました。」というようなことを言われるのです。でも、イエス様はそのような時にも私たちに言われます。「恐れないで、ただ信じていなさい。」
では、イエス様の御言葉に対してヤイロはどうしましたか。彼はイエス・キリストの言葉を人間の理性に勝るものとして、受け取りました。『ただ信じていなさい』という御言葉を素直に受け入れました。人々の話よりイエス様の御声に耳を傾けました。ですから、彼は死んだ娘の所に、イエス様といっしょに行った訳です。イエス様が彼の家に着いた時、人々が取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になりました。そしてイエス・キリストは中に入って行かれて言われました。
39、40節をご覧ください。「中に入って彼らにこう言われた。『なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。』 人々はイエスをあざ笑った。しかしイエスは人々を外に出し、ただその子どもの父と母、それにご自分の供の者たちだけを伴って、子どものいる所へ入って行かれた。」とあります。イエス様は「子どもは死んだのではない。眠っているのだ」と希望の言葉をかけられました。けれども、人々はどう答えましたか。今まで泣いていた人たちが一転して笑いました。私たちもよく経験する事です。”死”という現実の前では、人々は取り乱し、泣き、わめきます。でも、クリスチャンが永遠の希望の事を語ると、笑うのです。人が死んでいるのに、永遠に生きるというと、人々は相手にしないのです。不思議に、人々は絶望をよく信じますが、希望に対しては中々信じようとはしません。イエス様、イエス様の言葉を信じないで笑った者を全て部屋の外に出し、信ずる者達だけで少女の部屋に入って行きました。「そして子どもの手を取って、『タリタ、クミ。』と言われました。訳して言えば、「少女よ。あなたに言う。起きなさい。」という意味です。イエス様が『タリタ、クミ』と言われると少女はすぐに起き上がり、歩き始めました。十二歳にもなっていたからです。この光景を見た人々はたちまち非常な驚きに包まれました。(41?42)
この所から私たちはイエス様が信仰のある者だけ中に入れられ、彼らに御言葉の権威を示す奇跡の業をなさったことを学ぶことができます。イエス様は信仰がある人々に素晴らしい奇跡の業が起こしてくださいます。信仰ある人たちがイエス様が起こしておられる奇跡を見ることができるのです。ではイエス様はどのような目的をもってこの奇跡を起こされたのでしょうか。ヨハネ6章40節を見ると「事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとりを終わりの日によみがえらせます。」とあります。また、ヨハネ11章25?26節を見ると「イエスは言われた。『わたしは、よみがえりです。命です。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか』」 もちろん、イエス・キリストは、病を癒してくださいます。パンを与えてくださいます。死んだ者を生き返らせてくださいます。しかし、ただそれらのためにこの世に来たのではありません。ヨハネ3:16節を見ると「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」とあります。イエス・キリストは神様であられるのに、この世に人となって来て下さった目的それは、全ての人々が神の前で罪赦され、神様と和解し、そして永遠の命を持つためです。私たちもやがて終わりの日に、イエス様の声を聞いてよみがえる時が来ます。そしてその時に永遠に死ぬことのない命の冠をイエス・キリストからいただく事になります。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない新しい天と新しい地で永遠に生きるようになります。その日こそが私たちクリスチャンにとってのゆるぎない希望の日になります。ですから私たちはどんな状況の中でも、人々の不信仰のことばより、イエス様の御言葉に耳を傾け、イエス様を信じ続けましょう。この世にはもう信じられないような現実が色々と起こってきます。クリスチャンとしてもなかなか納得できないようなことが起こります。でもその時にこそイエス・キリストが語って下さいます。『恐れないで、ただ私を信じていなさい』

結論的に、イエス様が12年間も病気だった人を癒されたのは、彼女の信仰を見たからでした。また、ヤイロはイエス様を信じ続けた時、死んだ娘が生き返る奇跡を見ることができました。私たちも信じ続けることによってイエス様の癒し、イエス様の奇跡を体験し、さらに信仰を強くしていきたいと思います。ただ、信じているなら、死んでも生きる者として永遠に生きることができます。