2005年マルコの福音書11講
神様が望んでおられることとは
御言葉:マルコの福音書7:1-23
要節:7:15「外側から人にはいって、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」
先週、私たちはイエス様が弟子たちにしばらくの休みを与えられ、五つのパンと二匹の魚で五千人を食べさせられた出来事を学びました。イエス様は私たちの霊的なことだけではなく、肉体のことまでも深くあわれんでくださる愛とあわれみに富んでおられる主です。ですから、イエス様がおられる場所には大勢の人々が集まって来ました。6:56節を見ると「イエスがはいって行かれると、村でも町でも部落でも、人々は病人たちを広場に寝かせ、そして、せめて、イエスの着物の端にでもさわらせてくださるようにと願った。そして、さわった人々はみな、いやされた」とあります。このように、イエス様の名声と人気とは、ますます高まって行きました。ところが、これらのことを喜ばず、素直に受け入れないグループがありました。昨日、パッションの映画を通してみましたが、結局イエス様を十字架につけて殺すようになった宗教指導者たちです。彼らは群衆の間に、イエス様への期待が高まり、それが実際に動きとなって表されそうになっていることを危険視しました。そこで、宗教指導者たちはエルサレムから人をイエス様の所に遣わして調べ始めました。彼らは本格的な調査に乗り出し、弾圧に着手したのです。今日の御言葉は、そのことから始まっています。ここで、私たちは神様が私たちに望んでおられることは何か、また人を汚すものは何かを学ぶことができます。どうか、御言葉を通して心から神様を愛し、きよい心で神様に仕える者になるように祈ります。
?。神様が望んでおられること(1-13)
1、2節をご覧ください。パリサイ人と律法学者たちが、エルサレムから来ていてイエス様の回りに集まりました。彼らはイエス様の弟子のうちに、汚れた手で、すなわち洗わない手でパンを食べているものがあるのを見ました。エルサレムから来ている彼らはそれを問題視しています。なぜなら、当時、人々はいつも食べる前は手を洗っていたからです。このことは、昨日、見た映画パッションでも見えました。イエス様が大工として働いていたときのことです。イエス様はありのままの姿で部屋に入ろうとされました。すると、母マリヤは「手を洗ってきなさい。」と言いました。母が子どもに、このように言うことは今でもよく見える光景です。でも、その言葉が意味することは違います。今のお母さんは衛生上の問題から子どもたちに、食べる前は汚(ヨゴ)れた手を洗うように言うでしょう。でも、マリヤがイエス様に「手を洗いなさい」という時は汚(ケガ)れた手を洗うことを意味しました。このことを説明するために、マルコは当時のパリサイ人とユダヤ人が行なっていたことを説明しています。
3、4節をご覧ください。「・・パリサイ人をはじめユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守って、手をよく洗わないでは食事をせず、また、市場から帰ったときには、からだをきよめてからでないと食事をしない。まだこのほかにも、杯、水差し、銅器を洗うことなど、堅く守るように伝えられた、しきたりがたくさんある。・・」とあります。パリサイ人やユダヤ人はみな、昔の人たちの言い伝えを堅く守っていました。規則を堅く守っている人々の特徴の一つは規則を守らない人たちをさばくことです。優等生の優越感を持って規則をよく守らない人を無視し、さばきます。彼らの話し方は冷たいものです。何でもかんでも「決まりがあるでしょう」と言って人のことを判断し、裁きます。もちろん、イエス様は律法を全うされる方ですけれども人の事情や状況を配慮してくださる方です。五千人を食べさせられた出来事を通しても分かるように、イエス様は羊飼いのいない羊のような群衆を深くあわれんでくださいました。もう時刻が遅くなったのに、なぜ解散しないのかと言われませんでした。もう時刻が遅くなると解散することが世の中の決まりですが、イエス様は彼らがすぐに食べられない状況を配慮して五千人を食べさせられたのです。しかし、当時霊的指導者と言われているパリサイ人や律法学者たちは自分たちが言い伝えを堅く守っているという優越感を持って人々を裁いていました。特に彼らはイエス様に対しては排他的であり、敵対的でした。ですから、少しでもイエス様の弟子たちが自分たちの言い伝えを破った時は、直ちに攻撃しました。
5節をご覧ください。「パリサイ人と律法学者たちは、イエスに尋ねた。「なぜ、あなたの弟子たちは、昔の人たちの言い伝えに従って歩まないで、汚れた手でパンを食べるのですか。」」とあります。彼らが持ち出した訴えは、イエス様の弟子たちが「昔の人たちの言い伝え」に従っていないということでした。神様の戒めではありません。ただ昔の人たちの言い伝えです。その一例として彼らが持ち出したのが、「洗わない手でパンを食べ」ていることでした。弟子たちは多くの人々に仕えるために手を洗うほどの時間さえ取ることができなかったかも知れません。あるいはとても自由な生活をしていたかも知りません。ヨハネの福音書8:32を見ると、イエス様は「あなたがたは真理を知り、真理はあなたがたを自由にします。」と言われました。その通りに、弟子たちは真理であるイエス様によって本当に自由な生活ができていたのです。しかし、言い伝えに縛られているパリサイ人と律法学者たちは敬虔な姿をしていても心には自由も愛もありませんでした。口先で言っている言葉は正しいですが、心には喜びも、平安もなく、神様を敬うこともなかったのです。ただ、人間の言い伝えに縛られていました。そんな彼らに、イエス様は何と言われましたか。
6-8節をご一緒に読んで見ましょう。「イエスは彼らに言われた。「イザヤはあなたがた偽善者について預言をして、こう書いているが、まさにそのとおりです。『この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らが、わたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから。』あなたがたは、神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを堅く守っている。」
イエス様は、彼らが口先では神様を敬っていますが、自分たちの言い伝えによって、神様の戒めをないがしろにしていることを指摘されました。言い伝えを堅く守っている結果、彼らの心は神様から遠く離れていました。神様を拝み、敬っても口先だけのものになりました。ですから、彼らのささげる礼拝は、神様にとっては意味のないものでした。すなわち、形式主義に陥り、その結果、礼拝はマンネリズムになってしまいました。決まりがあるから守る、ただ安息日だから会堂に行って御言葉を聞くようなものになってしまいました。言葉は敬虔なことを行っていましたが、心は異邦人と同じくなっていました。神様との関係より人間関係、自分の体面、宗教的な権威をもっと重要視していました。もともと、神様の戒めは私たちの心に関わるものです。戒め、とか、おきてという言葉を聞くとき、私たちは一つの規則のように捉えてしまいがちです。規定があるから、決まりがあるから、とにかくそれは守らなければいけないもの、守らないと罰を受けるものだと考えるのです。もっとひどいことはそういう戒めや決まりによって人をさばくことです。しかし、神様の戒めは人をさばくためのものではありません。それは、私たちの心に関するものです。言い換えれば、それは、私たちが生きておられる神様と人格的な交わりを可能にするための手段なのです。私たちは人と交わる時、お互いの決まり、約束を良く守ることによって信頼関係が形成されます。同様に戒めや言い伝え、そのものより神様との関係こそが大切です。私たちは神様の戒めを心から聞くときに、生きておられる神様と関係性がもって深くなります。神様の御言葉を聞いてもただ、耳で聞いて口先だけで伝えるなら人格のないもの、無味なものに過ぎません。私たちの心の中に神様のあわれみも愛も入ってきません。だから、神様を礼拝していると言っても、むだなことになってしまいます。
私たちはどうでしょうか。毎日、日ごとの糧を通して神様の御言葉をいただいていますが、本当に心から神様の御声を聞いているでしょうか。毎週、神様の御言葉を聞いていますが心から聞いているでしょうか。今日もSing-alone からを始め、賛美の歌を歌いましたが、心から神様をほめ讃えているでしょうか。聖書を読んでいますが、心から神様の御声を聞いているでしょうか。毎日祈っていますが、心から神様に語りかけているでしょうか。
神様は私たちの心をご覧になる方です。もちろん、食事の前に手を洗う必要があります。寝る前は足も洗いましょう。お風呂にはいって全身を洗うことも素晴らしいことです。しかし、神様は手を洗ったからどうか、ということより人の心をご覧になります。聖書に「人はうわべを見るが、主は心を見る」とあります。そして、神様の戒めは、私たちの心を神様ご自身に近づけるために存在するものです。ところが、パリサイ人・律法学者は自分たちがよく知っている言い伝えによって人を裁き、神様の戒めをないがしろにしました。神様の戒めをないがしろにしただけではなく、偽善者の生活によって神様の戒めに違反するようなことをしていました。イエス様はその例を、持ち出しておられます。
9-13節をご一緒に読んでみましょう。「また言われた。「あなたがたは、自分たちの言い伝えを守るために、よくも神の戒めをないがしろにしたものです。モーセは、『あなたの父と母を敬え。』また『父や母をののしる者は、死刑に処せられる。』と言っています。それなのに、あなたがたは、もし人が父や母に向かって、私からあなたのために上げられる物は、コルバン(すなわち、ささげ物)になりました、と言えば、その人には、父や母のために、もはや何もさせないようにしています。こうしてあなたがたは、自分たちが受け継いだ言い伝えによって、神のことばを空文にしています。そして、これと同じようなことを、たくさんしているのです。」
イエス様は、モーセの律法から、父や母を敬う義務について語っておられます。十戒の五番目は「あなたの父と母を敬え」です (出20:12)。この戒めを守ることは長生きする秘訣であり、幸いになる秘訣であります。申命記5:16節を見ると「あなたの神、主が命じられたように、あなたの父と母とを敬え。あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く命を保ち、さいわいを得ることのできるためである。」とあります。私たちは父と敬う時、長くいのちを保ち、幸いを得ることができるのです。何よりも私たちはイエス様に見習って父と母を敬わなければなりません。イエス様は父と母を愛し、敬っておられました。30歳になるまで父ヨセフの仕事を手伝って大工の仕事をなさいました。あの残酷な十字架にかけられたその時も母マリヤのことを覚えて愛する弟子ヨハネに委ねました。ところが、当時のユダヤ人の言い伝えの中には、自分の持っている物は神へのささげ物にすれば、父母に支払うお金がなくてもいい、というものがありました。今風に言えば、「私は教会で神様に献金しているから」と言って、親の面倒をみないことのようなものです。ですから、言い伝えを守ることによって、結果的に神の戒めを破っています。それがゴルバン信仰というものです。彼らは、人の言い伝えによって、神様のみことばをないがしろにしていました。つまり、神様の言われることに人の言い伝え、自分なりの解釈を入れてしまうと、神様の言われていることを守らなくなってしまいます。それをゴルバン信仰と言います。本当は神様にも心から全幅的にささげていないくせに、外見上は神様に仕えていることを言い訳にして父と母を敬うこともしないような信仰です。私はこの間、弟の葬式に参加して来る時、自分もパリサイ人と同じくゴルバン信仰を持っていたことを悟りました。
私は祖父がなくなった時は、国に帰りませんでした。弟たちの結婚式も、ある時はマリヤ宣教師を送り、ある時は私が参加しました。この間、弟が事故でなくなった時も、自分ひとりで言ってこようとしていました。神様に仕えているからと思いました。しかし、御言葉を通して自分の思い込みによって神様の戒めを破っていたことを悟りました。神様は私もイエス様のように家族を大切にすることを願っておられます。私たちみなんが心から父と母を敬い、家族を大切にして愛することができるように祈ります。
?。人を汚すもの(14-23)
14、15節をご一緒に読んで見ましょう。「イエスは再び群衆を呼び寄せて言われた。「みな、わたしの言うことを聞いて、悟るようになりなさい。外側から人にはいって、人を汚すことのできる物は何もありません。人から出て来るものが、人を汚すものなのです。」
イエスは、再び人を汚すものの話に戻られています。そして、新改訳聖書の下の欄にある、15節の説明のところを見てください。16節には、「聞く耳のある者は聞きなさい。」とあります。イエスは、聞きなさい、悟る者になりなさい、と言われました。私たちは、ある人の行動を見ると、その人が何を聞いているのかがわかります。聞きていることが、行ないに現れるからです。パリサイ人と律法学者は、昔の人の言うことを聞いていたために、神の戒めを台無しにしていました。ですから、パウロは、「よく聞いてください」と勧めています(ガラテヤ5:2)。「信仰は、聞くことからはじまり、聞くことは、キリストについてのみことばによります。(ローマ10:17)」そして、「私たちがこの世に生きているのは・・・みことばによります(ローマ10:17)」したがって、私たちは聞くことによって生きています。何を聞きながら生きるかということはとても大切なことです。私が努めている学校である学生はよく汚い言葉を言います。自分もそういう口癖を直したいと言いながらもなかなか変わりません。それで、ある日、私は彼にその原因がどこにあるか聞いて見ました。すると、彼は前の工業高校では友達同士でだれがもっと汚い言葉で話せるかと競争するほどに話していたのでそういうことばかり聞いていたと言いました。汚い言葉を聞いているうちに自分の口からもそう言葉が出てくるのです。イエス様の言葉を聞いているとイエス様の言葉が口から出てくるでしょう。また、どのような心で聞くかということも大切です。学校で教えてみると、授業を姿勢によって成績が違うような気がします。よく吸収している学生はやはり成績もよくなります。私たちが御言葉を聞くときも同じです。謙虚な心でよく聞くと、御言葉の力が自分の生活の中で実を結ぶようになります。私たちの思いと生活は、日々、聞くことによって実が結ばれるのです。
17-19節をご覧ください。「イエスが群衆を離れて、家にはいられると、弟子たちは、このたとえについて尋ねた。イエスは言われた。「あなたがたまで、そんなにわからないのですか。外側から人にはいって来る物は人を汚すことができない、ということがわからないのですか。そのような物は、人の心には、はいらないで、腹にはいり、そして、かわやに出されてしまうのです。」イエスは、このように、すべての食物をきよいとされた。」とあります。
イエス様は、弟子たちが聞く耳を持っていなかったことを責めておられます。彼らは、イエスが数々の奇蹟を行われるのを見ました。イエス様の教えられることを聞きました。最も近い所でイエス様に接していた人々です。それなのに、まだイエス様のたとえを悟ることができていません。その理由は心が閉じられていたからです。6:52節で「というのは、彼らはまだパンのことから悟ることがなく、その心はまだ堅く閉じていたからである。」とありました。心が堅いので、聞いてはいるけど悟ることができなかったのです。イエス様はそんな彼らをあわれんでくださり、もう一度説明してくださいました。
人々は、食物を自分の体内に入れると、それで神様から汚れた者とみなされると考えていました。しかし、イエス様は、体内に入れるものはあくまでも体に関することで、それが神様と私たちとの関係を決定するものではないことを話されています。良くないものを食べると、たしかに体をこわすこともあるでしょう。タバコやお酒を飲みすぎることによってからだを壊してはなりません。けれども、それらが私たちのたましいを汚すことはできません。食べ物によって私たちが神の御前で汚れた者となったり、きよい者になったりしないのです。では、私たちを汚すものは何ですか。
20-23節を読んでみましょう。「また言われた。「人から出るもの、これが、人を汚すのです。内側から、すなわち、人の心から出て来るものは、悪い考え、不品行、盗み、殺人、姦淫、貪欲、よこしま、欺き、好色、ねたみ、そしり、高ぶり、愚かさであり、これらの悪はみな、内側から出て、人を汚すのです。」」
皆さんはどう思いますか。私は全くその通りだと思います。人を汚すものは、心にある悪い考えであります。私は、子どものとき、カトリックの神父とか、有名な牧師は本当に何の罪のない人だと思いました。しかし、大人になってみると違いました。ある牧者は自分の心は下水道の水よりも汚いと言っているのを聞きました。確かにそういう面があるでしょう。平常なときは、私たちは透き通った水のようにきれいに見えます。しかし、何か事が起こると、水がかき回されて、底の泥によって全体が濁ってしまいます。先週、高校生が私製の爆発物を投げて50人以上が汚した事件がありました。何でそんなことを考えるだろうか、と思われます。大人たちの性的暴力事件も多くあります。人は何でこんなに醜くなれるのだろうか、と思われます。しかし、全く同じような悪が実は自分の心の奥に潜んでいるのです。必要な条件がそろったら、自分も同じことをする可能性は十分にあるのです。マスコミでは聖職者たちの性犯罪も数多く報道しています。私たちは自分を汚す心をきよく保つために励まなければできません。ではどうやって心をきよくすることができるでしょうか。参禅とヨガをすると、体も心も鍛え、きよくすることができるでしょうか。いいえ。人の力では醜い心から救われる道がありません。しかし、私たちを造られた神様は私たちをきよくすることができます。マルコ10:27を見ると「それは人にはできないことですが、神は、そうではありません。どんなことでも、神にはできるのです。」とあります。神様はどうやって私たちをきよくしてくださいますか。
第一に御言葉によってきよくしてくださいます。詩編の記者は言いました。「どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるのでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。(119:9)」私たちが御言葉を聞いて守る時、神様は私たちをきよくしてくださいます。第二に、キリストの流された血によって、私たちの心や良心が完全にきよめられます。ヘブル人へ手紙9:14節はこう言っています。「キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。(9:14)」ですから、神のみことばを見つめて、そしてキリストの十字架にすがるときに、私たちの心はきよめられます。聖歌453番を歌ってみましょう。2節に「・・・われのつみはあとなく主の血にてあらわれきよくなれり・・・」とあります。
聖書は「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。(イザヤ1:18)」と言います。なぜなら、イエス様が私たちのために十字架にかけられて御血を流されたからです。イエス様は私たちが悔い改めを持って神様を受け入れ、きよく正しく生きることが出来るように、十字架の上で死んでくださったのです。何よりも死で終わったのではなく、死者の中からよみがえられました。ですからあんなにも、重苦しく、苦難に満ちた映画なのに『パッション』はハッピーエンドなのです。それは、そのテーマがイエス様の苦しみであるのに、それが逆説的に私たちをきよくしてくださるので、私たち人間には喜びとなるからです。聖書は私たちがイエス様の血によって正しい者とされ、死によって神と和解させていただいたのだと言っています。救われる余地のない罪人、汚れた者を救い、きよくするために十字架の上で血を流し、死んでくださったイエス・キリストの犠牲と愛を心から感謝します。
結論的に、イエス様は私たちを罪から救ってきよくするために十字架の上で体が裂かれ、血を流してくださいました。イエス様は私たちの罪を赦すために尊い血を流されました。誰でもイエス様が自分の罪のために十字架につけられて御血を流されたことを信じるならキリストの血によってきよめられます。神様は私たちがイエス・キリストによってきよめられて心から神様を愛し、心から神様の戒め、神様の御言葉を守ることを望んでおられます。どうか、私たちがいつも心を神様に向けて生きることができるように祈ります。