2005年 マルコの福音書第15講

主の栄光と信仰

御言葉:マルコ9:2?29
要 節:マルコ9:23「するとイエスは言われた。『できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。』」

 先週、私たちはイエス様がキリスト、メシヤであることを学びました。本当にイエス様はキリストです。ユダヤ人たちが期待していた政治、経済的なメシヤではなく、私たちを罪から救ってくださるキリストです。イエス様は私たちを罪から救うために多くの苦しみを受け、殺されることだけではなく、よみがえられなければならないことも教えられました。そして、イエス様は旧約に預言されたとおりに、またご自分が預言されたとおりに十字架の死と復活によりまことのキリストとなられました。ですから、今はだれでもイエス様をキリストとして受け入れて心から信じ、口で告白するなら、その人は救われて永遠のいのちを受けます。その人は朽ちることも、汚れることもなく、消えていくこともない永遠の天国の市民として生きるようになります。その生ける望みがあるからこそ、イエス様の弟子として自分を捨て、自分の十字架を負って行くことができます。ところが、弟子たち復活に対する希望より、現実的に多くの苦しみを受ける十字架の道だけを考えていたようです。
 今日の御言葉は、そんな彼らに、イエス様が見せられた栄光の世界、信仰の世界に関することです。イエス様は3人の弟子を連れて高い山に導いて行かれ、将来私たちに啓示されようとしている栄光の世界をちょっとだけ見せてくださいました。そこで、ペテロは口出ししてイエス様に「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。」と言いました。しかし、イエス様は弟子たちがいつまでも高い山に留まっていることを許されませんでした。山を降りて来られました。山から降りてくると、そこは祈りより、論じ合う世界であり、悪霊につかれた子どもから霊を追い出すことができない不信仰な世でした。そこで、イエス様は信仰と祈りの力について教えてくださいました。
この不信仰な世の中で生きている私たちクリスチャンに求められることは信仰と祈りです。この時間、本文の御言葉を通して輝かしいイエス様の御姿を見、信仰と祈りを学ぶことができるように祈ります。

?.高い山で(1-4)
 1節をご覧ください。イエス様は弟子達に言われました。「まことに、あなたがたに告げます。ここに立っている人々の中には、神の国が力をもって到来しているのを見るまでは、決して死を味わわない者がいます。」この御言葉はイエス様がキリストとして受ける苦難と死、復活に対して教えられたところ、それを負担に思っていた弟子達に与えてくださったものです。自分の捨て、自分の十字架を負って、キリストに従うほどの人なら、現世的評価ではなく、霊的・永遠的な評価基準を持つべきです。それは、キリストが父の栄光を帯びて御使いたちとともに来臨される時に置かれるべきです。そこで、イエス様は「神の国が力を持って到来しているのを弟子達に見せられます。
2節をご覧ください。イエス様は、ペテロとヤコブとヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれました。この3人はヤイロの娘のよみがえりの現場にも、ゲツセマネの祈りのときにも居合わせることを許されています。なぜ、この3人だけを連れて行かれたでしょうか。その理由はよく分かりません。考えられることは彼らが格別主に信託されていたことです。この人たちなら、約束が守られる、秘密が守られる人、何をしても一緒にやりたいと思われる人たちだったでしょう。また、12弟子の中でもこの三人は弟子の使命を忠実に担うことができる人として信頼されていたのでしょう。実際に、ペテロは初代教会の代表的な人物として働きました。ヤコブは生まれたばかりのエルサレム教会のリーダーとして、また最初の殉教者として自分の使命を全うしました。ヨハネは12弟子の中で一番長生きしながらヨハネの福音書、ヨハネの手紙、ヨハネの黙示録を書き残しました。12弟子の中では最期の殉教者として自分与えられた使命を忠実に担いました。私たちも彼らのようにイエス様に信頼される者、格別に信頼される者になりたいものです。「何で彼らだけなのか」「何で私は認めてくれないのか」とつぶやく者ではなく、イエス様にも、人々にも信託される者になることです。イエス様に信託される、愛されるから人生が楽になることではありません。彼らも山に登る時に特別な経験をすることができます。汗をかきながら山に登った弟子たちが栄光に輝くイエス様の御姿を見ることができました。
高い山に登ることは大変ですが、祈るために山に登ってイエス様と交わることはすばらしいです。栄光の神様に出会うことができます。アブラハムはイサクを連れて行ったモリヤの山で神様の御声を聞き、アドナイ・イルエ(主の山には備えがある)を体験しました。モーセはシナイ山で神様と交わり、不滅の律法をいただきました。エリヤはカルメル山で神様に祈って四百五十人のバアルの預言者、四百人のアシェラの預言者たちとの対決において大勝利をしました。イエス様も習慣的にオリーブ山に登って祈っておられました。私たちもたまに、にぎやかで、複雑な日常生活、山の下にある世界から離れて高いに山に登って祈るなら、神様と交わり、神様から御言葉も、力もいただくことができます。それで、私たちは今年も高い山である富士山の近くにある東山荘に行って神様と交わる修養会を行ないます。期待してください。
では、イエス様は何のために山に登られたでしょうか。ルカによると「祈るために、山に登られた」(9:28)とあります。イエス様はいつも祈られた方です。でも、何か特別に重要な時には、人々から離れて寂しい所や山で祈られました。日ごろ祈っている人が特別に祈る時には特別なことも経験できます。イエス様が3人の弟子たちを連れて高い山に登って祈っておられると、弟子たちの目の前で御姿が変わりました。その御衣は、非常に白く光り、世のさらし屋では、とてもできないほどの白さでありました(3)。イエス様が本来持っておられる栄光の姿に変わると、その輝きは人間の力ではとてもできないほどの白さでした。実際に、イエス様は天地万物を創造された神様として力と栄光に満ちた方です。やがてイエス様が再び来られる時には、私たちも目の前で輝かしいイエス様の御姿を見ることができます。また、その姿はイエス様を信じて従うクリスチャンたちが、将来イエス様が来られるその時に変えられる栄光の姿です(?コリント15:49)。
 弟子達はイエス様の姿が変わられるのを見て驚いていました。その時、さらに彼らを驚かせることが起こりました。4節をご覧ください。エリヤが、モーセとともに現われ、彼らはイエス様と語り合っていました。旧約の多くの預言者達の中でモーセとエリヤが現われたのにはどういう意味があったでしょうか。
第一に、主のために苦難を受けた人には天の御国で輝かしい栄光の姿が与えられるということです。一般的に苦しみは避けたいもの、死はすべての終わりであり、敗北であり、失敗として思われています。しかし、モーセやエリヤの生涯を通してみると、神様のために受ける苦難は決して無意味なものでありません。また、死がすべての終わりではありません。モーセはイスラエルの民を出エジプトさせて、荒野で導くために多くの苦しみを受けました。エリヤも、当時のバアルの預言者たち、アシェラの預言者たちと戦いながら民の信仰を守らせるために多くの苦しみを受けました。しかし、今は神の御国で栄光の座に着いているのです。弟子たちが目の前で見ている栄光の姿であります。彼らは栄光のうちに現われました。彼らは死で終わったのではなく、今なお生きていたのです。ですから、彼らは主と福音のために苦難を受ける人がどんな栄光を受けるかを見せてくれた証人です。確かに、キリストの弟子として自分を捨て、自分の十字架を負って行く道は苦難の道です。しかし、「今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないもの」です。イエス様はこの出来事を通して弟子達が苦難を受ける姿勢を変えて積極的に十字架を負ってイエス様に従うように助けてくださいました。
第二、信仰によって生きる人に与えられる神様の報いです。モーセも、エリヤも信仰の人でした。信仰によってモーセは成人した時、パロの娘の子として呼ばれることを拒み、はかない罪の楽しみを受けるよりは、むしろ神の民とともに苦しむことを選び取りました。(ヘブル11:24,25)。エリヤも信仰の勇士でした。あるときは信仰によってバアルの預言者450人、アシェラの預言者400人、合計850人と戦いました。そのように信仰によって生きた人々が神の国では栄光に輝く姿に変わっているのです。つまり、モーセとエリヤの登場は信仰の人はこの世でも数々の力と恵みを体験しますが、神の国での報いも大きいことを見せてくださったのです。
 ところが、この驚くべき光景を見たペテロはどんな提案をしましたか。5節をご覧ください。「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。私たちが、幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」ペテロは霊的な意味を悟ろうとしないで、自分の気持ちで反応しました。6節は「実のところ、ペテロは言うべきことがわからなかったのである。彼らは恐怖に打たれたのであった。」と言っています。彼は恐怖に打たれたので自分も知らないうちに本音を言ってしまいました。今までペテロはイエス様に従いながら多くの苦労があったでしょう。時には群衆のために食事する暇もありませんでした。ある時にはとてもお腹がすいていたので安息日に麦の穂をつんで食べました。ですから、彼の心の中では潜在的にこれ以上は苦労したくないという思いがあったかも知れません。ペテロは山の上に家を建て、そこでイエス様やエリヤ、モーセとともにすばらしい生活をしたいと思いました。しかし、神様はこのようなペテロと弟子たちに何と言われましたか。
7節をご覧ください。 そのとき雲がわき起こってその人々をおおい、雲の中から、「これは、わたしの愛する子である。彼の言うことを聞きなさい。」という声がしました。イエス様は弟子たちに十字架の道を言われました。ところが、彼らは苦難、十字架、使命に関する御言葉を聞こうとしませんでした。しかし、神様は弟子たちにイエス様の言うことを聞きなさいと言われたのです。考えてみれば人生自体が苦難の道です。松井選手とか、イチロ選手は世界的な選手になりました。では彼らは毎日が休みで楽な生活をしているでしょうか。今でも彼らは他の選手たちより練習していると言われています。私達は栄光の後ろにはいつも苦難が伴うことを覚えなければなりません。怠け、快楽は人を滅びに至らせますが、十字架は人をいのちの道に至らせます。十字架の言葉は救いに至らせる言葉です。ですから、神様は弟子たちがイエス様の言うことをよく聞いて毎日自分の十字架を負ってイエス様に従うに助けられました。その十字架の道こそ、栄光ある人生、偉大な人生に導く近道だからです。
 8節をご覧ください。弟子達が急いであたりを見回すと、自分たちといっしょにいるのはイエス様だけで、そこにはもはやだれも見えませんでした。イエス様は山から降りられる時、弟子たちに、「人の子が死人の中からよみがえるときまでは、いま見たことをだれにも話してはならない」と命じられました。そこで彼らは、そのおことばを心に堅く留めました。やはり、彼らはイエス様に信託されている人たちですね。何と言われても心に留めることなく、何でもかんでも言いふらす人は信頼されません。イエス様から信頼されたこの三人はイエス様から言われるお言葉を心に留める人たちだったのです。彼らはイエス様の御言葉がよく理解できませんでしたが、心に堅く留めて考え始めるようになりました。そして、彼らは疑問に思っていたことをイエス様に尋ねて言いました。「律法学者たちは、まずエリヤが来るはずだと言っていますが、それはなぜでしょうか。」イエス様はこのような弟子たちに、人の子についての記録が何であることを教えてくれますか。12節をご覧ください。「エリヤがまず来て、すべてのことを立て直します。では、人の子について、多くの苦しみを受け、さげすまれると書いてあるのは、どうしてなのですか。」イエス様はまた、メシヤは栄光を受ける前に必ず多くの苦しみを受け、さげすまれる十字架のことを言われました。イエス様はその十字架を負うために山から降りていかれます。では山の下ではどんなことが起こっていましたか。

?。信じる者にはどんなこともできるのです(14ー29)
 14節をご覧ください。イエス様がペテロ、ヤコブ、ヨハネを連れて変貌山から降りて来られると他の弟子達は回りに大勢の人の群れがいる中で律法学者達と論じ合っていました。そこで、イエス様は彼らに、「あなたがたは弟子達と何を議論しているのですか。」と聞かれました。すると群衆の一人がイエス様に事情を話しました。「先生。おしの霊につかれた私の息子を、先生のところに連れてまいりました。その霊が息子に取りつきますと、所かまわず彼を押し倒します。そして彼はあわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせてしまいます。それでお弟子達に、霊を追い出してくださるようにお願いしたのですが、お弟子達にはできませんでした。」(17,18)。子どもの父親は事情とともに無力な弟子達について告げました。子どもの父親から事情を聞かれたイエス様は何と言われましたか。
19節をご一緒に読んで見ましょう。「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」イエス様は「ああ、不信仰な世だ。」と嘆かれました。イエス様は不信仰な世を悲しまれました。弟子たちが悪霊を追い出せなかったのは、不信仰が原因だったのです。弟子だけではありません。父親も、弟子も、世の人々も「あなたがた」ということばに含まれています。イエス様は私たちの不信仰に嘆かれます。
 20節をご覧ください。そこで、人々はイエス様のところにその子を連れて来ました。人々がその子を連れて来たことを考えてみると、彼らはイエス様の嘆きのことばを聞いて自分たちの不信仰に気づかれたようです。それはサタンが一番嫌がることです。サタンはどうしても私たちが信仰を持たないようにしかけます。人々が夏修養会に参加すると、信仰を持つようになり、信仰がますます篤くなるから、サタンは修養会に行けない状況を作り出そうとするのです。サタンは人々がイエス様のところに子どもをつれて来ると、信仰のみわざが起こることを恐れたでしょう。悪霊はすぐに子どもをひきつけさせたので、彼は地面に倒れ、あわを吹きながら、転げ回りました。悪霊は子供の状態をもっと悪化させることによって人々が信仰を持たないようにしました。悪霊は人々がこの光景を見てあきらめて、信仰を捨てるようにしたのです。特に、父親があきらめるようにしかけているのです。しかし、イエス様はその父親にどんな質問をされましたか。21節をご覧ください。イエス様はそのこの父親に「この子がこんなになってから、どのくらいになりますか。」と尋ねられました。イエス様は話をかけて父親を助けておられます。父親は言いました。「幼い時からです。この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私達をあわれんで、お助け下さい。」
この父親は、はじめイエス様に「もし、おできになるものなら」と言っております。けれども、問題の焦点は「イエスさまにはできるかどうか」ではありません。「彼自信がイエスさまにはできるということを信じるかどうか」ということです。イエス様は天におられる父なる神様のひとり子であられ、全知全能の神様です。ですからイエス様に出来ないことは何一つありません。イエス様にとってはどんなことでも出来るのです。
 そして、イエスさまにはできるということを信じる人には、あらゆる可能性が開けます。だからといって私たちが万能になるというわけではありません。しかし、イエス様に対する信仰によって、このお方が私たちの味方になってくださるのです。私たちがするのではなく、全能の神様が、私たちの信じる信仰に応じて事を成してくださるのです。ですから、私たちに求められるのは信仰です。
23節をご一緒に読んで見ましょう。「するとイエスは言われた。『できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。』」イエス様は彼を同情するところか彼の不信仰を叱られました。そして、「信じる者にはどんなことでもできる」と言われました。この御言葉から見ると信仰の人には不可能がないことがわかります。高い山に現われたモーセとエリヤのことを考えて見てもそれが分かります。
モーセは大人の男だけで60万3550人、つまり何百万人の人を連れて出エジプトしました。十戒という映画を見ると、よく分かりますが、彼らがエジプトを脱出して荒野に入った時、そこには何も食べ物がありませんでした。農業もできなかったし、パン屋もお菓子屋もありませんでした。西濃運送会社から宅急便で送られることもありませんでした。
人間の計算によると、数学的に計算ができません。たとえば、二百万人×パン三個=600万個、解決できません。それで、人々はつぶやきました。
不信仰の人たちは「カナンに行くことはできない、もうあきらめましょう、エジプトに戻りましょう」とつぶやきました。しかし、モーセには信仰がありました。彼の数学は一般数学ではなく、創造数学です。目には見えないけれども、神様は数百万人だけではなく、何千万人も食べさせられると信じたのです。だから、彼はつぶやくことなく、大胆に信仰によって民を導くことができました。信仰によって神様に祈ると、神様は彼らに朝ごとにマナを与えてくださいました。お肉が食べたいというと、ウズラを送ってくださいました。鶏肉はおいしいものですが、飽きるほど食べることができました。水がないときには岩から水を出させてくださいました。このように私たちに信仰があれば、神様の奇跡を体験することができます。
エリヤ時代も人々は偶像崇拝者になって行きました。彼らは信仰がないからバアルに仕えたり、神様に仕えたりしていました。彼らは神様につぶやき、自分勝手な生活をしました。すると三年六ヶ月間も雨が降りませんでした。すると、人々はますますつぶやきました。しかし、信仰に祈りをしていたエリヤはつぶやきませんでした。彼は神様を信じました。神様からカラスが運んでくれるものを食べなさいと言われても御言葉を信じました。すると、毎日カラスが運んでくれるものを食べて生きることができました。当時、飢饉の中でも一番貧しい人のように思われるやもめの家に行って世話になることはやさしくありません。でも彼は信仰によってそこに行きました。やはり、彼女の家にはかめの中に一握りの粉と、つぼにほんの少しの油があるだけでした。でも、エリヤは信仰によって彼女にエリヤ自分のためにまず小さいパン菓子を作るようにしました。すると、奇跡が起こりました。エリヤを通して言われた主のことばのとおり、かめの粉は尽きず、つぼの油はなくならなかったのです。人々に信仰があれば、荒野でも、飢饉の中でも神様の力を体験し、食べ物も、着物も解決されたのです。ですから、私たちに信仰さえあればどこに行っても勝利の人生、力ある人生を過ごすことができます。信仰によって福音のみわざにも勝利を体験することができます。全日本リバイバルミッションの下條(しもじょう) 末(すえ)紀子(のりこ)先生はこういう証をしています。
「私は、今から39年前に名古屋の地から、兵庫県西宮市に開拓伝道のため遣わされました。ある日、西宮市が見渡せる甲山という山の頂に登り、「この町には、あの有名な甲子園球場がある。今、私は小さな6畳のアパートから伝道を開始したばかりだけれど、いつかこの甲子園球場で福音を伝えることができれば、どんなに素晴らしいことだろう・・・・」と夢のようなことを考えたのでした。その日からずっと祈るようになりました。途中でいったんその祈りが途絶えてしまった期間もあったのですが、愛知県民の森で開かれていた日本リバイバルクルセード主催の「教職ゼミナール」で、このことを証ししたところ、それがきっかけとなって、滝元明先生が信仰をもって立ち上がってくださり、1993年11月に「全日本リバイバル甲子園ミッション」が開かれたのでした。」ということです。下條先生の信仰のビジョンはそのとおりになったのです。
私たちUBFは日本に来て東京外国語大学で伝道していましたが、1990年度から早稲田大学を開拓し始めるようになりました。そのころ、私は大隈講堂で宣教大会が開かれるビジョンを持って祈り始めました。何年間続きました。ところが、最近は祈らなくなっていました。悔い改めてこれから信仰の祈りをして行きます。私の信仰のために祈ってください。
24節をご覧ください。イエス様に叱られたその子の父親はすぐに、叫んで言いました。「信じます。不信仰な私をお助け下さい。」彼は自分の弱さと不信仰と疑いを真実に主に告白しました。そして信仰を持つように助けを求めました。それが祈りです。どうか、神様が不信仰な私を助けてくださるように祈ります。
 25節をご覧ください。イエス様は彼の祈りを聞かれその子をいやしてくださいました。イエス様は、汚れた霊をしかって言われました。「おしとつんぼの霊。わたしが、おまえに命じる。この子から出て行きなさい。二度と、はいってはいけない。」するとその霊は、叫び声をあげ、その子を激しくひきつけさせて、出て行きました。するとその子が死人のようになったので、多くの人々は、「この子は死んでしまった。」と言いました。しかし、イエス様は、彼の手を取って起こされました。するとその子は立ち上がりました。イエス様は悪霊を追い出せる権威を持っておられる方です。
 イエス様が家にはいられると、弟子達がそっとイエス様に尋ねました。「どうしてでしょう。私達には追い出せなかったのですが。」弟子達はイエス様が悪霊を追い出した秘訣が何であるのかを知りたいと思いました。すると、イエス様は言われました。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」イエス様が信仰の力について言われた後、祈りについて言われました。それ祈りは信仰の表現だからです。信仰があると言いながら祈らない人、その人は信仰がない人です。
 イエス様は祈りによらなければ、悪霊を追い出すことができないと言われました。信仰は祈りです。祈りと信仰、力は一つです。祈る人に信仰があります。信仰の人は祈ります。そして、信仰と祈りのあるところに神様の大いなる力が働きます。力は祈りによって得ることができます。祈る時に上からの神様の力をいただき、自立的なしもべ、力ある人生を送ることができます。

 結論、イエス様は、今の時代をご覧になるとどういわれるでしょうか。「ああ、不信仰な世だ。」と嘆かれるのではないでしょうか。私たちをご覧になって何と言われるでしょうか。「ああ、不信仰な東京UBFだ。」とは言われないでしょうか。どうか、不信仰な私たちを助けてくださるように祈ります。何よりも信じる者にどんなことでもできるという信仰を持つように祈ります。信仰によって、祈りによって病が癒され、悪霊が出て行くことを体験する生活ができるように祈ります。弟子養成は、私たちが「ああすれば」「こうすれば」と方策をめぐらせて起こるものではなく、主がなさることをただ「信じる」ことに尽きるのではないでしょうか。私たちにどんことでもできるという信仰が与えられるように祈ります。