2005年マルコの福音書第16講                             
だれが一番偉いのか

御言葉:マルコの福音書9:30?50
要 節:マルコの福音書9:35「イエスはおすわりになり、十二弟子を呼んで、言われた。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」」

先週、私たちは「主の栄光と信仰」ついて学びました。ペテロたちは高い山で変わられたイエス様の御姿を拝見し、本当にすばらしいことを経験しました。しかし、山から降りてくると、山の下はすばらしいところではありませんでした。高い山で受けた恵みが消えてしまいそうな雰囲気でした。悪霊につかれた子ども、彼を連れて来た父親、子どものために何もできなかった弟子たち、それを見て攻撃する律法学者たち、ただ見ている人々がいました。まさに不信仰な世でした。そこで、イエス様は「信じる者にはどんなことでもできる」ということを教えてくださいました。また、力あるわざは祈りによらなければならないことも教えてくださいました。本当に信仰は祈りを生み出し、祈りは信仰を生み出します。そして祈りと信仰のあるところに大いなる神様の力が働きます。ですから、私たちはキリストに対する信仰と祈りによって力ある人生、偉大な人生を生きることができます。
ところが、弟子たちは、まだ、そのことが理解できなかったようです。彼らは信仰によって生きることより「だれが一番偉いのか」ということに関心がありました。弟子の内面性よりも外見上の姿、地位と名誉、権力などを考えていたのです。そんな彼らに、イエス様は二度目の受難の予告をし、「だれが一番偉いのか」ということについて教えてくださいます。
この時間、私たちがイエス様の教えを良く学び、まことに偉い人として成長することができるように祈ります。

?.偉い人はみなに仕える者です(30?37)
 30,31節をご一緒に読んでみましょう。「さて、一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。イエスは、人に知られたくないと思われた。それは、イエスは弟子たちを教えて、「人の子は人々の手に引き渡され、彼らはこれを殺す。しかし、殺されて、3日の後に、人の子はよみがえる。」と話しておられたからである。」
イエス様は仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためにこの地に来られました。そのために、イエス様は人々の手に引き渡されて受難の道を歩みます。ついに、十字架につけられて殺されます。しかし、殺されて三日の後に、イエス様はよみがえります。弟子たちはこのことを理解する必要がありました。イエス様の弟子なら、イエス様に見習ってみなに仕える者として生きなければならなかったのです。しかし、弟子たちの状態は、どうでしたか。
32節をご覧ください。「しかし、弟子たちは、このみことばが理解できなかった。また、イエスに尋ねるのを恐れていた。」とあります。 彼らは十字架の受難に関する御言葉が理解できませんでした。理解できなければ、イエス様に尋ねる必要がありますが、それもできませんでした。それは、人のことを言ってイエス様に叱られたペテロのことが思い出されたからでしょう。イエス様が始めてご自分の受難の予告をされた時、ペテロは、イエス様をわきにお連れして、いさめ始めました。すると、イエス様は「下がれ。サタン。」と言われました。今回もそのように言われることを恐れていたでしょう。
33,34節をご覧ください。「カペナウムに着いた。イエスは、家にはいった後、弟子たちに質問された。「道で何を論じ合っていたのですか。」彼らは黙っていた。道々、だれが一番偉いかと論じ合っていたからである。」
弟子たちは、イエス様の御心を占めている十字架のことには全く関心を示しませんでした。そればかりか、「道々、だれが一番偉いか」と論じ合っていました。これはイエス様の言われることが理解できないはずです。その上、ご自分の受難の予告を繰り返しておられるイエス様を悲しませることです。でも、イエス様はもっぱら弟子たちに十字架の真理を悟らせようとなさいました。そこで、イエス様は「道で何を論じ合っていたのですか。」と質問されました。しかし、彼らは黙っていました。彼らが夢中になって論じ合っていたのは、世俗的な恥かしい事がらだったので、とてもイエス様に申し上げることができなかったようです。彼らは、だれが一番偉いか、という不信仰な世の人々に価値観についてはとても熱心でした。彼らはイエス・キリストがローマ帝国を倒して、ユダヤ人による神の国を立てられる、と思っていました。そこでは、キリストが総理大臣になることもみんなが認めていました。問題は、だれが、副総理大臣なるか、だれが外務大臣になるかということです。弟子たちはそのことで論じ合っていました。彼らは、イエス様の弟子として生きていました。しかし、イエス様の教えに従い、イエス様に見習って生きることより、イエス様によって与えられる自分の地位、権力を求めたのです。神様に栄光になることではなく、自分たちに栄光を与えられることを求めました。
こうした世俗性は、現代の弟子たちにもしばしば見られるものです。私たちの教会はまだ小さいですが、大きい教会では高いポストにつくことをねらって心をすりへらしている人は数知れないほどであると言われます。全く愚かなことです。弟子たちは、イエス様の質問に黙って答えなかった分だけまだ恥じる心がありましたが、現代のクリスチャンはその恥じらいすら失っているのではないでしょうか。
多くの人々が教会に通いながらも、イエス様の十字架の受難、自己犠牲などには関心がありません。人々は教会で奉仕し、隣人に仕えることより、自分の生活を楽しみながら、主の恵みによって祝福され、偉くなることを願います。キリストの弟子として生きることを決断した人でも、イエス様の恵みによって恵まれ、祝福されて名誉も、地位も自分のものにしたいと思っているのです。
そんな弟子たちに、イエス様は何と言われますか。
35節をご一緒に読んでみましょう。「イエスはおすわりになり、十二弟子を呼んで、言われた。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者となりなさい。」」
 これを聞いているのは、弟子たちです。しかも、宣教の中心的な役割を担う12人です。彼らは人の先に立つ者にならなければなりません。人々を導くリーダーとして人々の模範となり、本当に偉い人にならなければなりません。偉くなりたいという意欲と希望がなければ、人は怠け者になってしまいます。「どうでもいいよ。」という言い方は、本当に謙虚な人の言い方のように聞こえます。しかし、それはいい加減な言い方でもあります。学生たちを見る、一等になりたいという意欲がない人は、あまり努力もしません。努力しない人が実力ある人、偉い人、世の中に影響を及ぼすような人になることは無理でしょう。キリストの弟子は常に、人の先に立って良い影響を及ぼす人にならなければなりません。ですから、イエス様は弟子たちに「偉くなりたいと思うな」と言いませんでした。偉くなりたいと思うその気持ちを無視されなかったのです。私たちは一番偉くなりたいと思って闘争する必要があります。人々の上に君臨するためではなく、人々に仕えられるためではなく、みなに仕えるために闘争するのです。
自ら自分を低くしてしんがりとなり、みなに仕えることはやさしくありません。頭なの中では知っていても実際に人に仕えることは難しいでしょう。それは自分を捨てることであり、自分の欲と意思を十字架に釘つけることです。特に気に入らない人に仕えることは本当に難しいです。それはイエス様を学びたいという切なる願いとともに霊的に闘争すること、何よりも聖霊の助けがなければできないことです。偉くなることはやさしくないのです。しかし、常に偉くなりたいと思って祈りながら聖霊の助けを受けてイエス様を学んで行く時に、まことにキリストの弟子らしい弟子として成長し、偉大な人生を生きることができます。高ぶる者は滅びに向かって行きます。へりくだって仕える者として生きるなら、豊かな実を結び、本当にすばらしい人生を生きるようになるのです。ですから、イエス様は言われます。「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、みなに仕える者になりなさい。」イエス様は言葉だけで言われたのではありません。みなに仕え、すべての人のために十字架にかかろうとしておられたイエス様ご自身の生き方です。ピリピ2章6?8節は言います。「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」このようにみなのしんがりとなり、みなに仕えておられたイエス様にまことの平安と喜び、まことの自由がありました。イエス様の力を借りて偉くなろうとしていた弟子たちのような考えや生き方では心に平安も喜びもありません。何で人々は自分を認めくれないんだと思っている人の心は高慢と欲張りによる内的苦痛は悲惨なものでしょう。神様は高ぶる者を敵対し、へりくだる者に恵みを施してくださいます。私たちがイエス様の生涯を覚えて、自分の高慢と情欲を悔い改め、へりくだってみなに仕えようとする時にまことの自由があり、喜びと平和を所有することができます。また、神様がその人の名を高く上げてまことに偉い人にならせてくださいます。ピリピ2:9を見ると「それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。」とあります。
36、37節をご覧ください。「それから、イエスは、ひとりの子どもを連れて来て、彼らの真中に立たせ、腕に抱き寄せて、彼らに言われた。「だれでも、このような幼子たちのひとりを、わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。また、だれでも、わたしを受け入れるならば、わたしを受け入れるのではなく、わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」
 イエス様は、人に仕えることの大切さを、ひとりの幼子を通して視聴覚教育をなさいました。「幼子のように」とは純粋で、単純で、感受性豊かで、とも言えます。子どもたちを育てながら感じてきましたが、まだ幼いときは親にゆだねきって、頼り切っています。弱く無力で、そして弱く無力なのを知っているので、何かあればすぐに親のもとに逃げ込む。すぐに親にゆだねきる。何もかも初めてで何も分からないので何でも聞く。つまり、自分を低くしている、と言う状態です。
 特に、イエス様の当時のユダヤで幼児は、一人前の人間とは数えられなかったようです。イエス様のパンの奇跡の時も、そこにいた人は、「女性や子どもたちを除いて5千人」と言う風に、記されています。子どもたちは数えなかったのです。つまり、幼児とは、無力で無価値な者ということを意味していたと言うことです。イエス様は、そのような人を受け入れなさい、それに仕えなさい、と言われます。そして、大事なのは、その小さな者を受け入れることは、イエス様ご自身を受け入れることであり、イエスを受け入れることは、神ご自身を受け入れることなのです。つまり、神様にとって、このような小さな者がとても大切なのです。私たちの奉仕や善行は、この真理に基づきます。
本当に偉い人はみなに仕える人です。自分より偉い人に、自分の気に入る人に仕えるだけではなく、子どものように小さいもの、弱い者、病んでいる者を大切にして仕える人なのです。

?。偉い人は心の広い人です(38?50)
38節をご覧ください。「ヨハネがイエスに言った。「先生。先生の名を唱えて悪霊を追い出している者を見ましたが、私たちの仲間ではないので、やめさせました。」」とあります。ヨハネは「私たちの仲間」という言葉を使っています。自分たちの仲間は正統派で、他はみな異端である、という立場です。セクト主義、分派主義です。自分たちといっしょに行動しない者たちを無視したり、排除したりする立場です。同じ地元ではないから、国が違うから、育ちが違うから、やはり、一緒になれないというふうに考えることです。そのように考えている人はたとえ神の国を求めていると言っても、実は自分自身を求めているのです。
 39,40節をご覧ください。「しかし、イエスは言われた。「やめさせることはありません。わたしの名を唱えて、力あるわざを行ないながら、すぐあとで、わたしを悪く言える者はいないのです。わたしに反対しない者は、わたしたちの味方です。」とあります。イエス様は「わたしに反対しない者は、わたしたちの味方です。」と言われました。本当に広いお心です。何と寛容な考え方でしょうか。もちろん、皆さんは私の味方です。私も皆さんの味方でしょう。神様は私たちの味方、私たちの仲間をどんな愛してくださいますか。
 41節をご覧ください。 「あなたがたがキリストのものであるという名目で、あなたがたに水一杯でも飲ませてくれる人は、決して報いを失うことはありません。これは確かなことです。」(欄外注神様は私たちに良くしてくださるすべての味方に報いを与えてくださいます。私は皆さんにいつも良くしていただいておりますが、お返しができなくてすまないときもあります。ところが、神様が報いてくださいます。また、私が少しでもキリストのゆえに人々に良くするなら、神様が私に報いてくださいます。
私は今まで、クリスチャンであることだけに、多くの人が私たちに親切にしてくれることを体験しました。私も知らなかった人であってもクリスチャンであることだけに仕えたりしました。これが人々に仕えることです。本当に偉い人はどんな人でもキリストの名のゆえに受け入れて仕えることができるほどに心が広いです。ところが、心を広くして生きると、自分らしさを失ってしまいがちです。何でもかんでもいいような人になりがちです。そこで、イエス様は自己管理について教えておられます。
 42節をご覧ください。「また、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、むしろ大きい石臼を首にゆわえつけられて、海に投げ込まれたほうがましです。」
 イエス様は、私たちが人からつまずきを受けることは、特に問題にされていません。私たちは自分がつまずきを与えることは問題にしないで、自分がつまずきを受けたことばかり問題にします。しかし、私たちクリスチャンはそれより自分が人につまずきを与えることに注しなければなりません。なぜなら、兄弟の目にちりが入っているのを見ているとき、実は、自分自身の目に材木が入っているからです。
 43節をご覧ください。「もし、あなたがたの手があなたがたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。不具の身でいのちにはいるほうが、両手そろっていてゲヘナの消えぬ火の中に落ち込むよりは、あなたにとってよいことです。」「ゲヘナ」はもともと、「ベン・ヒノムの谷」というヘブル語から来ています。そこでは、イスラエルの王が、忌みきらうべき異邦の民のならわしをまねて、香をたき、子どもたちを火の中にくぐらせたりしました。そこで、宗教改革に踏み切ったヨシヤ王は、そこをゴミ捨て場にしました。そこにうじがわき、ゴミを燃やす火が絶えず消えないでいました。永遠の地獄は、そのような恐ろしいところです。ですから、私たちは、自分を主イエス様から離してしまうような罪を、きっぱり断ち切ってしまう闘争をしなければなりません。
 45節をご覧ください。「もし、あなたの足があなたのつまずきとなるなら、それを切り捨てなさい。片足でいのちにはいるほうが、両足そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいのです。」とあります。先ほどは手が私たちのつまずきの原因としてあげられましたが、ここでは足が罪を犯す体の器官になることを警告されています。これは、手を切ってしまいなさい、足を切ってしまいなさい、とうのは、もちろん文字通りではありません。オリゲネスという神学者は、情欲の問題があったので去勢しました。ところが、それでも解決できませんでした。まだ情欲があったのです。だから、と言って霊的闘争をする必要がないのではありません。私たちは、何かの罪を手放すことによって、痛みをともなうでしょう。大きな損害を受けるときもあるでしょう。けれども、それは、永遠のいのちに入ることには代えることができません。
 47、48節をご覧ください。「もし、あなたの目があなたのつまずきを引き起こすのなら、それをえぐり出しなさい。片目で神の国にはいるほうが、両目そろっていてゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。そこでは、彼らを食ううじは、尽きることがなく、火は消えることがありません。」 手と足の次は、目です。つまずきを与えるようなものに対して、手や足を動かさなくても、目を動かすことがあります。特に、今の時代はインターネットの普及によって目で罪を犯し、それが行動に移っていく場合が多くあります。私たちをそれを注意しなければなりません。
私たちが手足、目による罪を犯さないように自己管理することによって塩気を保たなければなりません。49節をご覧ください。「すべては、火によって、塩けをつけられるのです。」旧約聖書では、全焼のいけにえとしてささげられる動物は、塩につけられていました。当時は冷蔵庫がなかったので、塩によって保存したのです。塩は肉が腐るのを防ぐものです。つまり、きよめの働きをします。また、火もきよめの働きをします。溶けた金属の浮きかすを燃やすことによって、金や銀から不純物を取り除きます。ペテロは言いました。「信仰の試練は、火を通して精錬されてもなお朽ちていく金よりも尊い(1ペテロ1:7)」したがって、イエス様は、きよめがクリスチャンにとって最重要課題であることを話されています。
50節をご一緒に読んでみましょう。「塩は、ききめのあるものです。しかし、もし塩に塩けがなくなったら、何によってそれに味をつけるのですか。あなたがたは、自分自身のうちに塩けを保ちなさい。」イエス様は私たちクリスチャンに世がさらに腐敗するのを防ぐ働きをしなさい、と命じておられます。そのためには、まず、自分自身に注意することです。自分自身に塩けがあるか、随時、確かめることです。最後に、イエス様は、「そして、互いに和合しなさい。」と言われました。自己管理をして塩気を保ちながら互いに和合しなさいということでしょう。塩気を失ったまま和合しても問題です。私たちはキリストの弟子としてみなに仕える生活、きよめられた生活を通して塩気を保ち、その上、互いに和合しなければなりません。

結論的に、私たちは、「だれが一番偉いのか」について学びました。私たちが常に偉くなりたいと思うことは大切です。今よりもっと偉い牧者、もっと偉い宣教師、もっと偉い父親、もっと偉い母親になりましょう。自分の国で偉い人ではなく、神の国で神様に認められる偉い人になることです。そのためにもっと多くの人々に仕え、もっと多くの時間と心を尽くして仕えることができるように祈ります。キリストの弟子としての塩気を失うことなく、どんな人でも愛することができますように祈ります。私たちがそのように生きる時こそが一番偉い人になります。