2005年マルコの福音書25講
                     
あなたのみこころのままを、なさってください

御言葉:マルコの福音書14:32?72
要 節:マルコの福音書14:36「またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」

ハレルヤ!主の御名を賛美します。今年、マルコの福音書の御言葉を通してイエス様のご生涯を学ぶようにしてくださった神様の恵みを心から感謝します。皆さんの心にはどんなイエス様の姿が残されたでしょうか。あるいはどの御言葉が深く心に残っているでしょうか。私の心にはいつも神様のみこころを考え、人々に仕える生涯を過ごされたイエス様の姿が残っています。イエス様の関心はひたすら神様のみこころにありました。人は自分のことに関心が強いものです。自分が愛されること、仕えられることを願っています。電話してくれることを願うし、誰かが自分の誕生日を覚えてくれるとうれしく思います。しかし、イエス様はいつも多くの人々に仕えておられました。贖いの代価として、過越の小羊として十字架にかかり、御血を流されるまで人々に仕えてくださいました。多くの人に仕えることはやさしくありません。自分の体が砕かれ、血を流されるまでに仕えることはなおさらのことです。イエス様もご自分の死が近づいてきた時は深く恐れもだえ始めました。では、イエス様はどうやって人に仕える生涯を過ごし、最後はご自分のいのちまでもお与えになったほどに人々に仕えることができたでしょうか。どうやって、多くの人のために御血を流されることができたでしょうか。
本文の御言葉には、イエス様がゲツセマネというところで祈られたことが記されています。マルコの福音書に記されたイエス様の生涯を考えると、人々に仕えるために常に祈っておられたことが分かりますが、ご自分の十字架の死が迫ってきた時はゲツセマネで汗が血のしずくのように地に落ちたほどに切に祈られました。ご生涯の中でも最も悲しく、苦しい時、サタンの誘惑に試されやすいその時にイエス様は祈りによって試練を乗り越え、神様の御心に従うことができました。
この時間、御言葉を通して多くの人のために御血を流される十字架の死を目前にして神様にささげられたイエス様の祈りを学ぶことができるように祈ります。そうして私たちもイエス様を見習い、自分の願いではなく、父なる神様の御心に従う生涯を過ごすことができるように祈ります。

?.ゲツセマネというところで祈られたイエス様(32?42)
  先週、私たちはイエス様と弟子たちが食事ののち、賛美の歌を歌ってから、みなでオリーブ山へ出かけて行ったことを学びました。イエス様の一行が目指すところは「ゲツセマネ」でした。
32、33節をご覧ください。イエス様の一行はゲツセマネ(油しぼりの意味)というところに来ました。イエス様と弟子たちは、よくここに来て祈っておられたと思います。他の福音書によると、そこは「いつもの場所」(ルカ22:40)であったと言われています。また、「イエスを裏切ろうとしていたユダもその場所を知っていた」(ヨハネ18:2)とも書かれています。
先週、兄弟牧者、宣教師たちは雲取山の山頂で山岳祈祷会を行ないました。雲取山が一時的に私たちの祈りの山になりました。しかし、いつものように祈る場所ではありません。しかし、イエス様は習慣的に祈られるいつもの場所としてゲツセマネという所があったのです。そこで、イエス様は、祈りによって苦しみと十字架の死を準備することを願われました。祈りの場所ゲツセマネの入り口の所で、イエス様は弟子たちに「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。」と言われました。そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人だけを連れて、さらに奥に進まれました。その時、イエス様の御心はどうでしたか。「深く恐れもだえ始められた」とあります。イエス様は今まで弟子たちに何度もご自分が受ける苦しみと死について予告し、教えられました。しかし、一度も深く恐れたり、悲しんだりするような顔色を見ませんでした。むしろ、イエス様は十字架の死を恐れている弟子たちに信仰を植え、十字架の道こそいのちの道であり、真の勝利と栄光の道であることを教えてくださいました。そして、実際にイエス様は十字架の道を歩み、多くの人々に仕えて来られました。最後の最後まで弟子たちを御言葉によって仕え、祈りと愛によって仕えてくださいました。ところが、この地上での使命を終えて目前の十字架の死を準備しようとされたとき、イエス様は言い表せない恐れと悲しみに圧倒されました。イエス様は深く恐れもだえ始めました。なぜでしょうか。弱い平凡な人間の姿を見せるためだったでしょうか。そうではありません。イエス様の死は一般の人々の死と違います。勇敢なサムライの死とは違います。イエス様が背負う苦しみと十字架の死は、何の罪もない神の御子として全人類の罪を背負った死です。贖いの代価として神様に捨てられる苦しみを経験する死です。その苦しみと十字架の死はイエス様でさえ深く恐れもだえられたほどに恐ろしく、すさまじいものでした。私たちの想像を超えた私たちの罪の重さのために、イエス様は悲しみのあまり死ぬほどになったのです。
34節をご覧ください。「そして彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。」」とあります。イエス様は愛する弟子たちにご自分の心境を正直に言い表しました。彼らの協力を求められました。霊的に見ると、まだ幼い弟子たちですが、彼らにご自分の弱さを見せられました。離れないでイエス様の悲しみ、苦しみを共にしてくれるように頼まれました。本当に悲しいときは誰かが一緒にいてくれることだけでも励ましになります。イエス様は耐えがたい悲しみのゆえに弟子たちが一緒にいてほしいと願われたのです。そして、ご自分は何をなさいましたか。
35節をご覧ください。「それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るように祈り」とあります。イエス様は祈るために少し進んで行かれました。また、地面にひれ伏して祈られました。どうしても神様に頼ろうとする姿がうかがえます。私たち人間はいつも自己中心的になりがちなものです。特に悲しみの時、苦しみの時はどうでしょうか。イエス様を信じている私たちにも悲しみと苦しみが襲って来る時があります。仕事のことや、家族のこと、自分の病、人間関係などで非常に悲しくなるときもあるでしょう。それで、ある人はとても暗い顔をしています。自分の弱さをだれにも言わないで、我慢強く生きている人もいます。その人は全世界の重荷を全部背負っているような顔をしています。ある人はあの人、この人に話しかけて理解され、同情されることを願います。人々に不平不満を言い漏らして自分のストレスを解消していく人もいます。お酒やタバコ、ゲームやパチンコなどの娯楽を通して悲しみも苦しみも忘れようとする人たちもいます。しかし、イエス様はどうなさいましたか。イエス様はご自分の悲しみを弱い弟子たちに告白し、協力を求められました。イエス様は神様だけにご自分の気持ちを告白したのではなく、弟子たちにも率直な気持ちを告白して協力も求め、ご自分は神様の御前でひれ伏して祈られたのです。では、イエス様は祈りの所、ゲツセマネで何を祈りましたか。
36節をご一緒に読んでみましょう。「またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」イエス様は神様に「アバ、父よ。」と呼びかけておられます。イエス様は耐えられないような悲しみと苦しみの中でも父なる神様の愛を少しも疑いませんでした。父なる神様の愛に対する深い信頼と確信の中で祈られたのです。父なる神様は私たちが心から喜んで受け入れ、従うことができる仕事や使命を与えてくださいますが、時にはとても従いにくい十字架を与えてくださいます。すると、悲しみと苦しみの十字架を受け入れることができず葛藤しますが、その時にサタンは私たちの心に疑いと不信仰を植えつけます。神様に対する信頼を損なわせます。それで、神様に対する信仰が弱くなると祈りに力がなくなり、祈れなくなる場合もあります。しかし、イエス様は耐え難い苦しみ、十字架の死の前でも父なる神様の愛を少しも疑いませんでした。「アバ、父」の愛に対する揺るがない確信を持って祈られたのです。
イエス様は確信の中で何を求められましたか。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。」とあります。これはイエス様の率直な気持ちでした。最後の晩餐のとき、イエス様はパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに言われました。「取りなさい、これはわたしのからだです。」・・・これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです(14:22?24)。イエス様はご自分が十字架につけられて御血を流しながら死なれることを知っておられたのです。十字架の苦しみと死はイエス様が飲むべき杯でした。でも、人となられて私たちと同じ感情を持っておられたイエス様の願いはできなることなら苦い十字架の杯は避けたいものでした。イエス様だって他人の罪の代価として十字架を背負ってゴルゴタの丘を上ることは避けたいものでした。人々に嘲られ、ツバキをかけられることだけではなく、十字架にかかって死ななければならないその道を歩みたくありませんでした。すべての人に注がれる神様の怒りを、一身に引き受ける十字架の死はあまりにもひどくてその時が過ぎ去ることのために祈られたのです。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。」しかし、イエス様の祈りはご自分の気持ちを告白することに留まりませんでした。イエス様のゲツセマネの祈りはそこからさらに進んで神様も御心を求めました。
もう一度36bをご覧ください。「しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」とあります。イエス様にはご自分の願いがありましたが、根本的に神様の御心のままになることを願われました。もちろん、初めからイエス様は神様の御心を知り、御心に従って生きて来られました。イエス様にはいつも神様の御心を求め、御心に従おうとする方向と決断がありました。でも、全人類の罪を背負って行く十字架はあまりにも重くて悲しみのあまり死ぬほどになった時、苦難の杯、使命の杯、死の杯を避けたくなりました。しかし、イエス様の祈りには大転換があったのです。最後まで自分の願いを貫く祈りをささげたのではなく、神様の御心のままになることを願い求められたのです。イエス様が「しかし、・・・」と祈られたこの祈りの瞬間、人類歴史はBSからADに変わりました。キリストによる新しい歴史が始まったのです。
私たちが神様の御心を知ることもやさしくありませんが、それを実践することはさらに難しいことです。しかも、それが苦難の杯、十字架の杯を飲むことなら、避けたいものです。それで、人々はイエス様の生涯を知り、自分が負うべき十字架を知っていながらも十字架の道に歩むことは避けようとしています。しかし、イエス様は十字架を担うためにゲツセマネで祈り、祈りを通して神様の御心に従う決断をなさいました。聖書には詳しく書いてありませんが、おそらく、イエス様が「しかし、・・・」と祈り始めるまではかなりの時間がかかったでしょう。ヘブル2:9節を見ると「キリストは、人としてこの世におられたとき、自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、そしてその敬虔のゆえに聞き入れられました。」とあります。イエス様は大きな叫び声と涙とを持って祈り続ける中で「しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」と祈られたのです。イエス様はこの祈りを通して神様の御心のとおりに行なえる確信と力を得られました。ここで、私たちも神様の御心に従う確信と力を得るためにはイエス様のゲツセマネの祈りが必要であることを学ぶことができます。弱い私たちがゲツセマネの祈りをしないで神様の御心を成し遂げることは不可能なことです。しかし、私たちがどんなに弱い体を持っているとしてもイエス様に見習ってゲツセマネの祈りをささげるとき、さまざまな悲しみと苦しみの問題を乗り越える力を得ることができます。神様の御心に自分のいのち、自分の人生を委ねる確信を持つことができます。御心のままに生きられる力を得ることもできます。私たちもイエス様のゲツセマネの祈りができる成熟したクリスチャンになりましょう。私たちの祈りが自分のことばかり求めることに留まらず、神様の御心を求め、御心のままになることにすべてを委ねることができる祈りになります。
37、38節をご覧ください。「それから、イエスは戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「シモン。眠っているのか。一時間でも目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」
 イエス様が弟子たちに「祈り続けなさい」と言われた理由は、彼らが「誘惑に陥らない」ためでした。この時の誘惑とは眠りに誘われる誘惑のことかも知れません。イエス様は彼らの眠っているのを見つけ、「眠っているのか」と言われたからです。
 39?41節をご覧ください。イエス様は再び離れて行き、前と同じことばで祈られました。そして、また戻って来て、ご覧になると、弟子たちは眠っていました。ひどく眠けがさしていたのです。イエス様は三度目に来て、彼らに言われました。「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。」
 イエス様は三回も弟子たちが眠っていることを指摘しておられます。なぜ、弟子たちはイエス様が三度も祈られる非常事態の時に、眠ってしまったのでしょうか。夜が遅かったから眠ってしまったのでしょうか。彼らは魚をとるためなら、徹夜をいとわない男たちでした。では肉体の弱さのためでしょうか。確かに、イエス様は彼らを同情して「心は燃えていても、肉体は弱いのです。」と言われました。でも、彼らはガリラヤ湖で嵐の中でも舟を漕ぎ続けるだけの健康な肉体の持ち主でした。ですから、彼らの問題は肉体の状態ではなく、心が眠っていたことでしょう。もちろん、初めから「祈らないぞ」と決めているクリスチャンはいないでしょう。初めから土曜日の夜は遅く寝て、「礼拝の時に眠ればいいや」と持っているクリスチャンもいないことでしょう。彼らも、はじめは祈っていたのですが、途中で眠ってしまったのではないでしょうか。そうです。祈ろうと思っていても長続きしないのです。三十年間も牧師をやっているある先生は信仰生活の中で一番難しいことは祈りだと言いました。子どもの時から毎日夜明けの祈りをささげてきたにもかかわらず祈り続けることは難しいと告白しました。選ばれた十二弟子、そのうちでも特に期待されていた3人にしてもそうだったようです。私たちもゲツセマネの弟子たちではないとは言えないでしょう。弟子たちに何で情けないことをやっただろうかとは言えないはずです。だからと言って私たちは祈り続けることをやめていいでしょうか。いいえ。むしろ、私たちは弟子たちのことを鏡にして祈ることを休んで神様に罪を犯すようなことをしないように気をつけなければなりません。その理由は誘惑に陥らないためです。
イエス様は主の祈りでも「私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください(マタイ6:13)。」とあります。ところが、弟子たちは祈らなかったために一時間でも目を覚ましていることができませんでした。しかし、祈られたイエス様はどうでしたか。
41、42をご覧ください。「イエスは三度目に来て、彼らに言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」とあります。恐れ悲しみもだえてイエス様の姿は祈りによって変わりました。回りの環境は変わっていません。人間的な考えの中で悲しみ、眠っている弟子たちの弱い姿も変わりませんでした。イエス様を十字架につけようとしている宗教指導者たちの心も変わりませんでした。裏切り者ユダも変わりませんでした。ゲツセマネの草木も、夜空に輝く月も星も変わりませんでした。しかし、三度も祈られたイエス様の御心には大きな変化が起こりました。今や、堂々と十字架に向かって足を踏みだす勇気と従順を得ておられたのです。
祈りは私たちの心とたましいを変化させます。祈りは私たちのたましいに聖なる力を注いでくれます。祈りは私たちの前にあるどのような十字架も担える恵みを施してくれます。祈りこそ悲しみも苦しみも乗り越えさせる力です。祈りこそ弱い肉体の限界を乗り越える力です。祈りこそ誘惑に陥ることなく、神様に喜ばれる道を歩むことができるようにしてくれます。

?.逮捕され、尋問されるイエス様(43?72)
43?52節をご覧ください。イエス様がまだ話しておられるうちに,十二弟子のひとりのユダが現われました。剣や棒を手にした群衆も一緒にいました。ユダはすでに彼らと合図を決めておいてイエス様に口づけしました。裏切りの口付けでした。すると、人々はイエス様に手をかけて捕えました。そこで、イエス様は群衆に向かって言われました。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕えに来たのですか。わたしは毎日、宮であなたがたといっしょにいて、教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕えなかったのです。しかし、こうなったのは聖書のことばが実現するためです。」ここで、イエス様はご自分の潔白と、彼らの罪について語っておられます。イエス様が毎日、宮で教えておられるとき、彼らはイエス様の誤りを指摘することもできませんでした。イエス様の教えには何の罪も見当たらなかったからです。それにもかかわらず、彼らは「まるで、強盗にでも向かうよう」なやり方でイエス様を捕まえに来ました。なんと悪質で罪深い行動だったことでしょうか。しかし、イエス様はそれもこれも、「こうなったのは聖書のことばが実現するため」であると言われました。
 53?65節をご覧ください。彼らがイエス様を大祭司のところに連れて行くと、祭司長、長老、律法学者たちがみな、集まって来ました。彼らは全議会を召集してイエス様を死刑にするために、イエス様を訴える証拠をつかもうと努めました。しかし、イエス様は黙ったままで、何もお答えになりませんでした。イエス様はご自分のために何も弁護しようとされませんでした。イエス様は沈黙で貫かれました。
その時、大祭司は、さらにイエス様に尋ねて言いました。「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」イエス様はご自分に対する偽証に対しては沈黙を守られました。しかし、ご自分のアイデンティティを尋ねる質問に対してははっきりと答えられました。62節をご一緒に読んでみましょう。「そこでイエスは言われた。「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」イエス様は今敵たちに囲まれて尋問を受けておられます。罪人の扱いを受けておられました。また、イエス様は十字架の苦しみと死が迫っていることを知っておられました。しかし、イエス様はその死の後に復活の栄光をご覧になりました。栄光の主として再臨されることをご覧になりました。イエス様は羞恥と嘲りの十字架、恥辱に満ちている現実を見ないで神様の約束の御言葉を確信、やがてご自分に臨まれる栄光を考えながら十字架の道を堂々と歩んで行かれました。すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言いました。「これでもまだ、証人が必要でしょうか。あなたがたは、神をけがすこのことばを聞いたのです。どう考えますか。」すると、彼らは全員で、イエスには死刑に当たる罪があると決めました。
65?72節をご覧ください。議会の宗教裁判でのイエス様の姿とは対照的なペテロの失敗が記されています。ペテロは遠くからイエス様のあとをつけながら、大祭司の庭の中まではいって行きました。そして、役人たちと一緒にすわって、火に当たっていました。彼はイエス様が弟子たちに「あなたがたはみな、つまずきます。」と予告されると、「たとい、全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」と言った人です。それに対してイエス様は「あなたは、きょう、今夜鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います」と、予告的な警告を言われました。しかし、ペテロは「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私はあなたを知らないなどとは決して申しません。」と力を込めて言い張りました。イエス様は「誘惑に陥らないように祈り続けなさい」と言われましたが、彼は自信満々で警戒心も緊張感も欠けていたのです。その結果、彼は自分の救い主イエス様を三度も否認してしまいました。でも、ペテロは悔い改め、立ち直り、恐れずにキリストを証するりっぱな働きをする大使徒になりました。その出発点はどこにあったのでしょうか。
72節をご一緒に読んでみましょう。「するとすぐに、鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います。」というイエスのおことばを思い出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。」ペテロの立ち直りにきっかけを与えたのは、あらかじめ警告しておられたイエス様のおことばでした。ペテロは「主のおことばを思いだした」のです。そして、御言葉に思い当たったとき、彼は泣き出しました。御言葉を思い出し、御言葉に思い当たって泣き出して悔い改めることは本当に素晴らしいことです。御言葉を思い出して泣いたり、悔い改めたりすることは素直な心でなければできないでしょう。でも、彼がイエス様のように祈っていたなら、イエス様を三度も否認してしまう罪を犯さなかったはずです。
 
結論的に、私たちが人間的な意思と決断だけでは神様の御心に従うことができません。危機の時、誘惑に陥ってしまいます。イエス様の危機の時、非常状態のときに祈りの所、ゲツセマネで祈られました。切実に祈られました。そのときイエス様は天からの力をいただいて十字架を担われ、結局、ご自分の使命を全うする勝利の人生を過ごされました。私たちも、日々イエス様に見習って祈ることができるように祈ります。私は雲取山に祈って祈る時、一つの祈りの課題は「夜明けに主の宮で一時間祈れる12人の祈りの勇士」立てられることでした。そのためにまず私が毎日一時間以上忠実に祈ることのために励もうとしております。どうか、私たちが祈りによって神様の御心に従い、御心が成し遂げられるみわざに用いられる勝利の人生を生きることができるように祈ります。