2005年ガラテヤ人への手紙第4講
もはや奴隷ではなく、神の子である
御言葉:ガラテヤ4:1?31
要 節:ガラテヤ4:7「ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。」
神様が弟子修養会を祝福し、豊かな恵みを施してくださり感謝します。私たちはキリストとともに十字架に付けられました。もはや、私が生きているのではありません。私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった、神の御子を信じる信仰によって生きています。そして、信仰によって生きる人生こそほんとうに祝福された人生となります。アブラハムから、今日まで、祝福は、信仰だけによるのです。どうか、私たちがただ、信仰によってアブラハムと共にあらゆる面で祝福された人生を生きるように祈ります。
今日の御言葉でパウロは私たちに律法の奴隷としてではなく、キリストにあって神様の子、約束の子、自由の子としての人生を生きるように勧めています。正常的に信仰生活をしている人は皇太子よりも強いアイデンティティを持って本当の自由と喜びを味わいながら生きています。また、喜びの中で忠実に神様のために献身します。しかし、そうでない人々は神様に熱心に仕えながらも内面に自由がありません。心に余裕を持たずに、クリスチャンとしてのプライドより、堅苦しい宗教人の一人として生きています。その人は主のみわざのために働いても喜びながら仕えることが出来ません。それは誤った信仰生活です。本文の御言葉を通して神様の皇太子としての自由を味わいながら神様のために、兄弟姉妹たちの献身するキリスト者になることができるように祈ります。
?.もはや奴隷ではなく、子です(1?11)
1,2節をご覧ください。「ところが、相続人というものは、全財産の持ち主なのに、子どものうちは、奴隷と少しも違わず、父の定めた日までは、後見人や管理者の下にあります。」この御言葉は一世紀のローマ社会を背景にしています。当時は父親の全財産が子どもに相続されました。しかし、相続人が、未成年である間は、全財産の所有者であっても、しもべと変わるところがありませんでした。父親が死んだとしても、父親が定めた日までは後見人や管理者の監督の下にいました。その時までは子どもであっても奴隷と少しも違わない生活をしなければならなかったのです。パウロは「私たちもそれと同じで、まだ小さかった時には、この世の幼稚な教えの下に奴隷となっていたことを言っています(3)。ここで「この世の幼稚な教え〈ギ〉ストイケイア」とは、アルファベットのような初歩,自然界の基礎物質、いわゆる「四大元素」(the four elements)と呼ばれる(火、水、土、空気)と関わる諸霊を意味します。哲学では「諸原理」と言われます。自然科学、天文学などが諸原理に、諸霊に支配されているということは、とても深い学問のように考えられます。世の人々が考えると、決して幼稚な教えだとは言えないでしょう。人々はそういう哲学や、自然科学などに興味を持ち、それらの学問から生活の原理を見出そうとします。しかし、パウロはそれらが幼稚な教えだと言っています。なぜなら、信仰による義の福音が分かると、それらは幼稚なものにすぎないからです。ところが、このような幼稚な教えが私たちの周りにもあります。人々は血液型によって性格も人生も変わるかのように教えています。また、祖先の良し悪しによって自分の人生が決まると教えています。そんな幼稚な教えに騙されると、遊び半分でお守りを買い、お金を無駄遣いしてしまいます。また、詐欺的な霊感商法で知られている統一協会の壺や文教祖の本などを数百万でも買ってしまうこともします。実際に、この日本では占い師による詐欺、霊感商法による詐欺が頻繁に起こっています。
ところがそのような、きわめて幼稚な教えだけではなく、教育機関で学ぶ基礎的なことも意味しています。ユダヤの会堂や昔日本の寺小屋のようなところで教えていたことです。日本には長男は親の家業を受け継がなければならないという言い伝えとか、しきたりなどがあります。それらが悪いとは言えないでしょう。律法に対してもそうです。律法は神様の御言葉です。聖書のことです。この中に真理があります。ですから、この世のどの教えよりも優れています。だから、簡単に幼稚な教えだとは言えないのです。しかし、パウロはその律法も幼稚な教えだと言っています。なぜでしょうか。
もともと、シナイ山で神様がイスラエルに与えられた律法には何の問題もありませんでした。ところが、ユダヤ人が律法の行ないを救いの条件にみなしてしまいました。そのような考えの中で自分たちが作り出した数多い律法を付け加えてしまったのです。それによって律法は彼らの暴君となり、彼らは律法の奴隷になってしまいました。使徒パウロも律法の下に奴隷になっていて支配されていました。律法をよく守ることによって救われることを望みましたが、それはできませんでした。むしろ、「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか(ロマ7:24)」と嘆息せざるを得ませんでした。
実際に、今日も人々は福音信仰の上に堅く立つまでさまざまな律法の奴隷になっている場合が多くあります。クリスチャンになっても法治国家で法律と決まりを大事にしすぎる癖が残っている場合もあります。そういう人は神様の御言葉や福音の真理も律法的に考えます。例えば「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」と聞いても神様の愛に感激しません。むしろ、律法の下に奴隷になっているから、神様の愛がこんなにも大きいものなのに、私は神様のために何をしたのかと考えます。自虐して心が暗くなります。ですから、素晴らしい律法であっても律法が人を救うことは出来ません。つまり、パウロは、ユダヤ人も異邦人も全員が、キリストの御霊を宿して「自由にされる」以前は、旧約の宗教や異邦世界の諸宗教によって束縛された奴隷状態にあったと指摘するのです。しかし、人がこの世を支配する諸霊の束縛、罪の奴隷状態から救い出されて自由になる唯一の道があります。それはイエス・キリストだけにあります。
4,5節をご覧ください。「しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。」とあります。歴史的な時が来ました。奴隷ではなく子どもとして自由に生きる時が来ました。救済史における一大転換期が到来しました。地上のすべての国民・民族に祝福が及ぶ新しい世界が来たのです。その歴史的な出来事は神様が、ご自分の御子を、お遣わしになったことです。どのように遣われたのでしょうか。第一に、女から生まれた者となさいました。キリストは完全な人間性を持って遣わされたのです。第二に、律法の下にある者となさいました。キリストは罪人の一人に数えられ、のろいを受ける者として遣われたのです。その歴史的な目的は何ですか。それは律法の下にあるものを贖いだすためです。つまり、十字架の死です。その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。ユダヤ人も、ギリシャ人もなく、奴隷も、自由人もありません。男も女もありません。みなキリストにあって、キリストの家族、キリストの相続人になりました。つまり、神様の養子たちになったのです。では、神様の子どもとなった者の祝福と特権は何でしょうか。
6,7節をご一緒に読んでみましょう。「そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。」
キリストにあって神様の養子になった私たちは神様を「アバ、父。」と呼ぶ祝福を受けました。神様は御子の御霊を私たちの心に遣わしてくださいました。それで、心から聖なる神様を「アバ、父。」と呼ぶことが出来るようになりました。「アバ、父」、アバとは、小さな子どもが自分の父親のことを、親しみを込めて呼ぶときに使ったとされる新約時代のアラム語の表現です。「パパ」とか「お父さん」とか「お父ちゃん」と呼ぶ子どもの言葉なのです。これは、ユダヤ教にはなかった習慣です。「父」どころか、「神」とも呼びませんでした。神様の御名前として『エホバ』とか「ヤハウエ」とが知られていますが、実は聖書に出てくるヘブル語の「神」という単語は、あまりに口に出さないものです。それで、何と読んでいいかわからなくなってしまうほどでした。それなのに、イエス様は、神様のことを「アバ、父」、「パパ、お父ちゃん」と呼んだのですから、もう大変なことになっていました。あれは神様を冒涜して嫌悪されていました。結局、それもイエス様を十字架につける一つの口実になりました。それほど、ユダヤ人たちと神様の間には隔たりが大きかったのです。しかし、キリストを信じることによって神様の子どもとなった私たちは違います。聖なる神様、主なる神様が私たちの父となられました。子どもにとって自分を愛し、自分を支えてくれる父親がいるということは幸せです。〇〇牧者はお父さんと同じ会社で働いてみてから、父親の苦労が分かるようになったと言いました。父親は厳しい会社生活、時にとても辛くて辞めたい時があっても子どものために、家族のために働きます。そして、自分を犠牲にして子どもの面倒を見、家族を支えてくださる父親のいる子どもは幸せな者です。私の父は昼も夜も働きながら、私の兄弟たちのために頑張ってくれましたが、いつも感謝しています。でも、この世の父親には限界があります。いつの間にか、私も四人子どもの父親になりましたが、子どもたちにすまないと思う時がよくあるものです。しかし、天の父なる神様には限界がありません。いつも私たちを愛し、必要なすべてを満たしてくださる方です。ご自分のひとり子さえ惜しまずにお与えになったほどに私たちを愛してくださいます。人が大人になると、この世の父とは交わることもどんどん経ていきますが父なる神様と交わることは、どこでも、いつでもできます。神様は「アバ、父」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださったからです。ですから、神様を「アバ、父。」と呼べるようになったことは本当に大いなる祝福です。主はいま、生きておられます。わがうちにおられます。どんなに辛いことがあってもその場で「お父さん!」と呼ぶことが出来ます。そして、神様は「パパ、お父ちゃん」と親しみを込めて呼ぶ私たちの祈りに答えてくださいます。
ところが、クリスチャンになっても律法的な信仰生活をしている方たちは「アバ、父。」と呼ぶことより、昔ユダヤ人たちのように恐れる方として考えています。そういう方たちは熱心に教会に通いながらも自由がなく、律法的な考えの奴隷として生きています。奴隷は自分の仕事の成果によって評価されるから、よく人と比較して優越感を持ったり、劣等感に陥ったりします。その心に喜びも平安もありません。生まれながらの恐れを持っているだけです。しかし、私たちクリスチャンはイエス・キリストの十字架を信じることによって神様の子どもとなりました。もはや、律法の下の奴隷であった時のような恐れを持って生きる必要はありません。今は、幼い子どもが父親に「パパ。お父ちゃん」と呼びながら抱かれるような安らぎと喜びを持って生きる存在になっているからです。私たちの身分は神の国の皇族です。実は、日本の皇太子よりも私たちの身分がはるかに高く、権威あるものです。(皆さん。胸を張って私は「神様の皇太子だ」と言ってみましょう)私たちは父なる神様に愛されている皇太子だから必要に応じて祈り求める特権が与えられています。私たちが祈り求めると、父なる神様は私たちにどうなさいますか。マタイ7:7?11節をご覧ください。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。 あなたがたも、自分の子がパンを下さいと言うときに、だれが石を与えるでしょう。また、子が魚を下さいと言うのに、だれが蛇を与えるでしょう。してみると、あなたがたは、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天におられるあなたがたの父が、どうして、求める者たちに良いものを下さらないことがありましょう。」父なる神様は私たちが祈り求めるものを祝福してくださいます。それだけではありません。神様による相続人として、朽ちることも、汚れることもなく、消えていくこともない神の国を相続されるようになります。この地では神様の救いのみわざに用いられる尊い人生を過ごし、やがて神様の相続人として天国を受け継ぐようになるのです。
8,9節をご覧ください。「しかし、神を知らなかった当時、あなたがたは、本来は神でない神々の奴隷でした。ところが、今では神を知っているのに、いや、むしろ神に知られているのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのですか。」とあります。この御言葉に「あなたがたは本来」ということばがあるし、「ところが、今では」という言葉があります。つまり、「過去のあなた」と「現在のあなた」が区別されているのです。どれくらいの歳月が流れていたのでしょうか。3年くらいか、5年くらいか。パウロはそれに関しては何も書いてありません。確かなことは「過去のあなた」と「現在のあなた」とでは、明らかに違いがあるということです。過去のガラテヤ人は神様を知らずに生きていました。偶像崇拝者として、この世の罪悪ともろもろの霊力に支配されていました。罪の奴隷として惨めに生きていました。しかし、現在のガラテヤの聖徒たちは神様を知っています。いや、むしろ神様に知られています。神様は彼らのすべてを知っておられる彼らの必要を満たしてくださる父親になっておられました。神様は彼らの天国の皇太子として尊く思って愛し、助けてくださいます。それは本当に恵みです。それなのに、どうしてあの無力、無価値の幼稚な教えに逆戻りして、再び新たにその奴隷になろうとするのか、パウロにとって理解しがたいものでした。本当に心を痛めることでありました。彼らがユダの律法に従って各種の日と月と季節と年とを守っていたからです(10)。今日、日本でもクリスチャンになってからも神々を祭る祭り、「友引(葬式を避ける)」、「大安(結婚式が混雑)」などの暦を気にしている人たちがいます。彼らはしきたりや言い伝えからを守り、未信者の時代に逆戻りしている人たちがいるのです。彼らはイエス・キリストを信じて信仰によって生きる信仰生活ではなく、戒律を守る宗教生活をしています。そこで、パウロは「あなたがたのために私の労したことは、むだだったのではないか、と私はあなたがたのことを案じています。」と言っています(11)。「あなたがたのために苦労したのは、無駄になったのではないかと、あなたがたのことが心配です。」ということです。パウロは信徒宣教師です。おそらく宣教師ならばだれでも、教会から離れようとしている人がいるとか、信仰を捨てようとしている人がいるとか、そしてもちろん神様から離れようとしている人がいるなら、間違いなく、心配するでしょう。宣教師や牧者だけではなく、教会全体が心配します。その心配の中心にあるものは、神様の愛から離れて生きようとする人生の行く末です。「無力で頼りないもの」へと逆戻りすることは、その人にとって何の益にもならない、ということを心配しているのです。では、パウロはガラテヤ教会のためにどうしましたか。
?。再び産みの苦しみをするパウロ(12?31)
12節をご覧ください。「お願いです。兄弟たち。私のようになってください。私もあなたがたのようになったのですから。あなたがたは私に何一つ悪いことをしていません。」とあります。パウロはヘブル人の中のヘブル人です。でも、彼は救われて律法の束縛から出て、異邦人のようになりました。ですから、異邦人であるガラテヤ人が、救われて、律法の束縛に入り、ユダヤ人のようになるのはおかしいのではないか、ということです。そこで、パウロは「お願いです。兄弟たち。私のようになってください。」と言っているのです。本当に、パウロはヘブル人の中のヘブル人でしたが、異邦人の救うために異邦人のようになりました。彼らとともに焼肉を食べ、お寿司を食べました。律法が禁じている豚肉やイカなども食べたのです。彼らといっしょになるためには納豆を食べることも、梅干も食べることも、辛いキムチを食べることも問題になりませんでした。自由に食べることができました。それは「彼らに福音を伝える」という目的があったからです。それで、パウロは彼らが偽教師たちの幼稚な教えを捨てて、パウロ自身のように律法に束縛されず、イエス・キリストにあって自由と救いの喜びの中で生きることを望んだのです。そのために、パウロは彼らとの愛の関係性に思い起こしています。
13,14節をご覧ください。「ご承知のとおり、私が最初あなたがたに福音を伝えたのは、私の肉体が弱かったためでした。そして私の肉体には、あなたがたにとって試練となるものがあったのに、あなたがたは軽蔑したり、きらったりしないで、かえって神の御使いのように、またキリスト・イエスご自身であるかのように、私を迎えてくれました。」
パウロは、目がよくなかったようです。なぜなら、15節に「あなたがたは、もしできれば自分の目をえぐり出して私に与えたいとさえ思ったではありませんか。」とあるからです。ある学者はマラリヤの高熱による癲癇にかかっていたとも言っています。どっちにしても、当時、そういう病気があると、あれは神様から祝福を失っている、何か罰を受けている、そういう目で見られたものでした。異邦人の所で福音を宣べ伝える人にとっては致命的な弱点になりました。しかし、ガラテヤ人はパウロを蔑むどころか、かえって神様の御使いのように、またキリスト・イエスご自身であるかのように、迎えてくれました。パウロの伝える福音に感激して、もしできれば自分の目をえぐり出してパウロに与えたいとさえ思うほどでした。パウロは、その日、その時の、ガラテヤ教会の人々の優しさ、温かさを忘れていません。こういう愛の関係の中でガラテヤの教会は誕生しました。ところが、今、敵対関係になったのでしょうか
16,17節をご覧ください。「それでは、私は、あなたがたに真理を語ったために、あなたがたの敵になったのでしょうか。あなたがたに対するあの人々の熱心は正しいものではありません。彼らはあなたがたを自分たちに熱心にならせようとして、あなたがたを福音の恵みから締め出そうとしているのです。」とあります。ガラテヤ教会の人々の心は、パウロが去った後、パウロから離れて行きました。今や、逆戻りして、その律法主義に陥ってしまっています。愛と自由の福音の恵みから締め出されようとしているのです。本当に悲しいことです。パウロはどんなに心を痛めていたでしょうか。恩知らずの彼らの行動を考えると、悲しみが憎しみに変わり関係性を切ってしまいたくなるものだったでしょう。しかし、パウロの悲しみは単なる感傷ではありません。パウロはガラテヤ教会が「信仰による義の福音」から離れていることを悲しんだのです。
19、20節をご一緒に読んでみましょう。「私の子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、私は再びあなたがたのために産みの苦しみをしています。それで、今あなたがたといっしょにいることができたら、そしてこんな語調でなく話せたらと思います。あなたがたのことをどうしたらよいかと困っているのです。」パウロは、ここに、大変印象的な言葉を記しています。口語訳聖書によると、19節は「ああ、わたしの幼な子たちよ。あなたがたの内にキリストの形ができるまでは、わたしは、またもや、あなたがたのために産みの苦しみをする。」と訳されています。この御言葉からパウロの慈しみ深い心、母親のような愛が伝わってきます。ここに、羊のために自分のいのちを捨てる良き牧者の心があります。パウロはガラテヤ教会の聖徒たちのうちにキリストが形造られるまで、産みの苦しみをしていました。現在進行形です。産みの苦しみを持ってこの手紙を書いています。産みの苦しみというものを感じることが出来るのは、産む人だけです。産んだことがない人、産まない人が、産みの苦しみを感じることはありません。パウロがガラテヤ教会の存在の内側に「キリストのかたち」を産むのです。そのためにパウロは彼らが正しいキリスト信仰を持つまで、正しい福音理解を持つまでに産みの苦しみをしています。彼らが「栄光から栄光へ。主の御姿に変えられるまで」、献身的に取り組んでいます。パウロはガラテヤ教会の聖徒たちのために、喜んで自分自身を使い尽くそう、という祈りを込めて「ガラテヤ人への手紙」を書いているのです。本当にパウロの牧者の心は深いものです。牧会者、霊の父親としての心情が伝わって来ます。自分が養育した教会の聖徒たちに対する彼の責任感にも感動します。実はイエス・キリストは私たちのために産みの苦しみをしてくださいました。多くの先輩たちと同労者たちが私たちのために産みの苦しみをしています。私たちもパウロのような牧者の心を持つことができるように祈ります。あきらめないで再び産みの苦しみをすると覚悟して兄弟姉妹たちに仕えることができるように祈ります。
21?31節はパウロが、アブラハムの女奴隷ハガルが産んだ息子、イシュマエルと、サラが産んだ息子、イサクのことを通して律法と福音を比較して説明した内容です。イシュマエルは、アブラハムが約束の神様への信仰を持って歩まず、自分の力で道を切り開こうとした、悲しい結果として生まれた子どもでした。律法主義も律法を与えられた神様への正しい信仰によって生きることをしないで、世俗的、ご利益的、形式的な考えに動かされ、自分の力で道をつけようとする、痛ましい結果です。恵みや約束の祝福のカナンからはかけ離れた、かえって異邦人的な世界になってしまったことなのです。そんなところに自由はありません。
しかし、イサクは、信仰の子、約束の子、自由の子です。そんなイサクを産んだサラは、自由の女、信仰と約束で生きる人として教会の母です。恵みと信仰だけによって出発し、信仰によって生きる教会の母なのです。
パウロは、この比喩的な解釈を持って、律法主義は、やがて、滅びること、悲しい結果を予告しました。年上のイシュマエルがイサクをいじめ、人間的な工作のハガルが、約束と信仰とのサラをいじめました。そのように、律法主義的な世界は、恵みと約束と信仰に立つ教会の世界を迫害するものです。宗教的な戒律を重んじる人々は、ただ、信仰によって生きるという人に対してだらしない人間だといいます。しかし、アブラハムのように神様の約束を信じて信仰によって生きる自由の子だけが神様の相続人です。
結論的に、28?31節をご一緒に読んでみましょう。「兄弟たちよ。あなたがたはイサクのように約束の子どもです。しかし、かつて肉によって生まれた者が、御霊によって生まれた者を迫害したように、今もそのとおりです。しかし、聖書は何と言っていますか。「奴隷の女とその子どもを追い出せ。奴隷の女の子どもは決して自由の女の子どもとともに相続人になってはならない。」こういうわけで、兄弟たちよ。私たちは奴隷の女の子どもではなく、自由の女の子どもです。」
実は、パウロこそ、もともと律法主義者の一人、律法の奴隷でした。イシュマエルとは、まさにパウロ自身のことでもありました。しかし、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」と言われたこと、あのダマスコ途上の出来事を通して、教会迫害者サウロから、キリストの使徒パウロへ変わりました。彼が復活のイエス・キリストに出会ったとき、律法の奴隷から、福音による自由人へと変えられたのです。キリストこそ、律法による奴隷から福音による自由への橋渡してくださったのです。私たちもイエス・キリストの十字架によって神様の子どもとなりました。もはや罪の奴隷、律法の奴隷ではなく、神様の子どもです。自由人です。私たちが神様の皇太子としての特権と祝福を受けるようになったのはイエス・キリストが十字架の血潮によるものです。十字架の血潮によって私たちの身分が変わりました。どうか、私たちの心にいつもイエス様の十字架の血潮による恵みと神様の子どもとして感謝と喜びが満ち溢れるように祈ります。その恵みのゆえに、私たちもパウロの牧者心情を持って兄弟姉妹たちのために産みの苦しみをすることができるように祈ります。