2005年ルカの福音書第5講

すばらしい喜びの知らせ

御言葉:ルカの福音書2:1?20
要 節:ルカの福音書2:10「御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。」

Merry Christmas! 皆さんと御家族の上に私たちの主イエス・キリストによる平和と恵みが豊かにありますように祈ります。
今年を顧みると、悲しい知らせが数多くありました。最近のことだけでも、国内では姉歯元一級建築士によるマンションなどの耐震偽装、小学生女児殺害や高校一年生の凶悪犯罪などの知らせがありました。世界ニュースを見てもそうです。ロンドンなど世界各地で同時爆弾テロが相次ぎ、多数の犠牲者が出ました。超大型ハリケーン「カトリーナ」がジャズの街ニューオーリンズなどアメリカの南部を襲い、1300人を越える死者が出ました。パキスタンでは大地震が発生して死者が7万人を超える大災害となりました。ほんとうに悲しい知らせばかりです。こういう知らせは私たちにショックを与え、不安と恐れに陥れます。しかし、この時間、私は皆さんに喜びの知らせをお伝えします。しかも、ここにいる私たちだけではなく、全世界の人々に喜びとなる素晴らしい喜びの知らせです。それは私たちのために救い主イエス・キリストがお生まれになったことです。今年も世界中の人々がイエス・キリストの誕生を喜んでいます。
二日前の23日は天皇誕生日でしたが、昭和時代に今の天皇が生まれた時、日本国民にとっては喜びの知らせだったでしょう。しかし、イエス様がお生まれになったクリスマスは全世界の人々が喜んでいるのです。どうして、世界中の人々が喜んでいるでしょうか。また、どうすれば、私たちも素晴らしい喜びに満たされるでしょうか。どうか、聖霊が私たちの心に素晴らしい喜びを知らせ、その意味も悟らせてくださるように祈ります。そして、私たちも羊飼いたちのようにイエス・キリストに出会って素晴らしい喜びに満たされた人生を生きることができるように祈ります。

 ?。飼葉おけに寝かされたエス様(1-7)。
1節をご覧下さい。「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。」とあります。イエス様の誕生によって人類の歴史は紀元前(B.C.)と紀元後(A.D. )に分かれましたが、紀元前後の世界はローマが支配していました。当時のローマは、今のアメリカとは比べられないほどの権力を持っていました。皇帝アウグストの命令に逆らうことは考えられない時代だったのです。「全世界の住民登録をせよ」という勅令がアウグストから出た以上、人々は住民登録をしなければなりませんでした。委任状を与えて代理人を行かせることはできません。もちろん、インターネットを使って登録することもできませんでした。人々はみな、それぞれ自分の町に向かって行かなければなりませんでした。3節を見ると「人々はみな、登録のために、それぞれ自分の街に向かって行った」とあります。身重になっている妊婦さえも行かなければなりませんでした。
4,5節をご覧ください。「ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。彼は、ダビデの家系であり血筋でもあったので、身重になっているいいなずけの妻マリヤもいっしょに登録するためであった。」とあります。愛する人と一緒に旅をすることは楽しいでしょう。たまに私は妻のマリヤ宣教師と一緒に歩きますが、「ゆっくり歩きましょう。話し合いながら歩きましょうよ。」と言われます。すると、私は妻の歩きに合わせてゆっくり歩きます。私も愛する妻と一緒に歩くことが楽しいからです。しかし、ヨセフとマリヤの場合はゆっくり話し合いながら歩けるような状況ではありませんでした。ふたりは愛し合っていたけれども、身重になっているマリヤは今でも赤ちゃんを産みそうな状態であったからです。そういう状態の体を持って五日間も歩くことは、ほんとうに辛くて大変なことであったでしょう。特に、自分たちのためではなく、皇帝アウグストの勅令のために行かなければならないと思う時の精神的な苦しみも平和の時代に生きている私たちの想像を超えていたに違いありません。
ところが、ちょうどその時に住民登録の勅令があったため、ナザレでお生まれになるはずのイエス様がユダヤの町ベツレヘムでお生まれになりました。こうして、聖書の御言葉が成就されました。ミカ書5章2節に「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのためにイスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。」とあります。「イスラエルの支配者」とはメシヤ、イエス・キリストを指しています。イエス様はユダヤのベツレヘムで生まれることが聖書に預言されていました。そして、その預言は、皇帝アウグストの勅令によってベツレヘムに行ったヨセフとマリヤによって成就されたのです。
ここで私たちは、目に見えない神様が人間世界を支配しておられることが分かります。世界は「住民登録」のために騒いでいましたが、神様は聖書に示してくださった預言のとおりに世界を動かしておられたのです。つまり、すべてのことは全世界、全宇宙を支配しておられる神様のみこころのとおりに、神様のみこころが記された聖書のとおりに動いていたのです。今日も世界は政治、経済、社会の問題、テロ、地震、地球温暖化、爆発的な大雪などの問題で騒いでいます。そして、ブッシュ大統領や小泉総理大臣のような政治家によって世界が動かされているような思いがします。しかし、彼らを支配し、目に見えるものも、目に見えないものも支配しておられる方は聖書の神様です。旧約聖書の創世記からマラキまで何度も、何度も預言されているとおりにイエス様はお生まれになりました。旧約聖書だけではなく、イエス様が預言しておられたとおりに、イエス様は私たちを罪から救うために十字架につけられて死なれました。また、聖書に示されているとおりに死者の中からよみがえられました。
ですから、私たちは聖書勉強を通して神様のみこころを知る必要があります。また、聖書のみことばに従って生きることこそ賢い生き方です。私たちUBFは世界の大学生、若者たちとともに聖書勉強を通して神様の御心を知り、それを実践する教会です。現在、83カ国のキャンパスで1:1聖書勉強をしています。それはすべてのことが神様のみこころのとおりになりますし、そのみこころが聖書に記されているからです。また、神様は聖書の御言葉を知り、神様を信じている人々を歴史の主役として用いてくださるからです。実際に、世界歴史の中で最も多くの人々が聖書を読んで来ました。特に、聖書の国イスラエルは人口600万人の小さな国ですが、世界歴史の中心になっています。そこで起こったことは世界に伝えられています。
今年、ローマ法王ヨハネ・パウロ2世が死去しましたが、彼は聖書を誤りのない神の言葉として信じて世界約130カ国を訪問し、聖書の御言葉を伝えた方です。彼のお葬式には今日の世界を動かしているような人々がみな集まりました。つまり、神様は、ローマ帝国の皇帝アウグストを支配しておられますが世界の歴史はイエス・キリストの誕生に焦点が合わせられていたのです。実に神様はすべてのすべてを支配しておられるお方なのです。同時に細かいところまで支配し、導いておられます。この世のすべてが神様の御手の中にあるのです。
そういうわけで、聖書の神様を知り、神様を信じている人々は歴史の主役として生きることができます。ヨセフとマリヤがナザレの田舎者に過ぎませんでした。しかし、神様は彼らを選んで人類の救い主イエス様の父と母として用いられました。同様に、神様は私たちにも働いておられます。皆さんがこの素晴らしいクリスマスの礼拝に参加できて事も神様の働きによるものです。神様は私たちのためにすべてのことを働かせて益としてくださいます。このことは、ここにいるすべてのクリスチャンが体験していることです。私自身も数多く体験してきました。ですから、すべてのことを神様に委ね、神様に祈り求めながら生きる人は幸いです。神様は私達の生活の只中に来てくださり、その中に御業を表してくださるからです。私たちが全ての全ては神様の御手の中にあるという確信を持って具体的に神様の主権と導きを体験できる信仰生活をするように祈ります。 
 6,7節を読んでみましょう。「ところが、彼らがそこにいる間に、マリヤは月が満ちて、男子の初子を産んだ。それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた。宿屋には彼らのいる場所がなかったからである。」マリヤはベツレヘムにいる間に月が満ちて、男子の初子を産みました。男子の初子はミカ書に預言されているとおりに「イスラエルの支配者」です。イザヤは「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。」と預言しました(9;6)。イエス様は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれるお方なのです。それなのにイエス様がお生まれになった場所はローマの皇室ではありませんでした。そこここに糞尿が散乱する、不衛生で汚い家畜小屋でした。そして牛や馬の唾液が染み込んでいる飼葉おけに寝かせられました。なぜなら、宿屋には彼らのいる場所がなかったからです。「宿屋」とは今日の「ホテル」に当たるでしょう。クリスマスシーズンになると、昔も今も多くの人々がホテルに泊まろうとします。今年も東京のホテルは満席でしょう。そこにはイエス様がはいられる場所がありませんでした。にぎやかな所、イルミネーションが輝く街の宿屋にはイエス様のはいられる場所がなかったのです。
イエス様は静かな夜、小さな家畜小屋でお生まれになりました。そうです。今も、イエス様はこの小さな教会に来てくださいます。自分の弱さ、自分の未熟さ、自分の罪のために心細くなっている人の小さな心にイエス様が来てくださるのです。そして、イエス様がはいって来られた所は聖なる所、聖地となります。そこは聖なる所なのです。決して高慢な人の心にはイエス様がはいられる場所がありません。「僕は正しい、俺が偉いぞ」と思っている人はイエス様に出会うことができません。イエス様は正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来られたからです。イエス様は、まさしく罪と汚れにまみれた、この私を受け入れるために天から地へ、この地の家畜小屋にまで低くなられたのです。これに対してパウロはこう言いました。「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。」(?コリント8章9節)。そうです。イエス様は私たちを富む者とするためにご自分を低くされました。私たちが心を謙らせてイエス様を受け入れるなら、私たちのたましいは救われて富む者となります。イエス様とともに歩む生活ができるようになります。それは素晴らしい生活です。クリスチャンの少ない日本でも結婚式は教会でやる人が多いです。お葬式はお寺でやっても結婚式はキリスト教式でやろうとするのです。なぜでしょうか。それはお寺が死をイメージするなら、キリスト教の教会は愛と希望、平和といのちなどをイメージしているからでしょう。実際に謙遜になってキリストを受け入れる人はキリストとともに愛と希望、平和といのちに満ちた人生を生きることができます。キリストによって私たちのたましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるようになるのです。
ですから、イスラエルの人々は聖書を通して示されたキリストが来られるその日を待ち望んでいました。70年間バビロン捕虜生活をしていた時も、現在ローマの植民地として虐げられているその時にもキリストに対する希望は捨てることができませんでした。さらに強くキリストの出現を待ち望んでいました。ところが、待ちに待ったキリストがお生まれになったのです。これこそ素晴らしい知らせです。御使いは素晴らしい知らせをだれに伝えたでしょうか。

?。御使いが伝えたクリスマス(8-20)
8,9節をご覧ください。イエス様がお生まれになるその夜、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていました。すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れました。天使は恐れている彼らに驚くべき知らせを伝えてくださいました。
10,11節をご一緒に読んでみましょう。「御使いは彼らに言った。「恐れる事はありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。」」御使いは羊飼いたちに「素晴らしい喜びを知らせに来たのです」と言いました。すばらしい喜び!Great Joy!큰 기쁨! それは「救い主がお生まれになった」ということです。
イエス様は私たちの救い主、救世主です。イエス様は私たちを救うためにお生まれになりました。マタイ1:21節は言います。「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」
イエス様は私たちをその罪から救うために来られた救い主なのです。人が不幸であることはお金のためではありません。この間、韓国第一の金持ちの娘が26歳の若い年に自殺しました。彼女が所有している株だけでも200億円もありました。しかし、お金が彼女の人生の問題を解決してくれることはできませんでした。ある人はゲームセンターで11時間もゲームを続きながら死にました。お金があって、楽しめれば人生が幸いになるのではありません。楽しむことができても罪の問題が解決されなければ不幸な人生を過ごさざるを得ないのです。ローマ3:23を見ると「 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、」とあります。また、ローマ6:23節は言います。「罪から来る報酬は死です。」そうです。人間は罪のために死の力に支配されているのです。そして人生は死ですべてが終わるのではありません。ヘブル9:27節は言います。「そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、」さらに黙示録21:8節には「しかし、おくびょう者、不信仰の者、憎むべき者、人を殺す者、不品行の者、魔術を行なう者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者どもの受ける分は、火と硫黄との燃える池の中にある。これが第二の死である。」とあります。人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているのです。その時、罪の問題が解決されていなければ、火と硫黄との燃える池の中に投げ込まれます。皆さん、想像してみてください。少しだけ火傷してもその痛みは耐えがたいものです。ところが火と硫黄との燃える池の中に投げ込まれるのです。しかもそこで永遠に苦しまなければなりません。人間は潜在意識の中でそれを知っているようです。お金があっても、権力を握っていても知らず、知らず恐れと不安を感じながら生きているからです。ですから私たち人間はひとりも例外なく、恐ろしい罪の勢力から救われなければなりません。そんな私たちを救うためにイエス様がお生まれになりました。
 皆さん映画「タイタニック」を知っているでしょう。これは実話です。一九一二年四月十日、この豪華巨船「タイタニック」号が二千二百二十三人を乗せ、イギリスのサウサンプトンからニューヨークへ向かう洋上で氷山にぶつかって沈没しました。その時、千五百十七人が命を失いました。この悲劇の後に掲示板には乗客名簿が二列に分かれていたそうです。救われた人の列と救われなかった人の列です。人間が死後にさばきを受けた時も同じです。神様の名簿は単純です。救われた人と救われなかった人が分かれるのです。神様は救われた人を多くするために、ひとりも救われず滅んでしまうことがないようにするためにイエス様を遣わしてくださいました。救われない人がひとりもいないようにするためにイエス様がお生まれになったのです。
そして、イエス様はこの地で生きている間に数多い病人を救ってくださいました。姦淫の現場で捕まえられた女性を救ってくださいました。6000匹の悪霊につかれた人を救ってくださいました。夫を五人も変えたほどに渇いていたサマリヤの女も救ってくださいました。ほんとうに、数多い人々がイエス様の救いによって新しい人生を生きるようになったのです。それにもかかわらず、人々は自分たちの期待のとおりにならないと、イエス様を捨ててしまいました。イエス様を残酷なローマ兵士たちに渡して「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫びました。結局、イエス様は人々から捨てられてあの残酷な十字架刑を受けるようになりました。茨の冠をかぶり、十字架を背負ってゴルゴタの丘を上られました。その時、何度も何度も鞭に打たれてお体は血だらけになりました。兵士たちは血だらけのイエス様を十字架につけてイエス様のわき腹を槍で突き刺した。すると、ただちに血と水が出て来ました。イエス様は言い尽くせない苦しみの中で叫ばれました。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。(わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。)」と大声で叫ばれたのです。
何の罪もないイエス様が、なぜ、なぜこんなに苦しみながら死ななければならなかったでしょうか。まさに、私と皆さんのためです。イエス様は私が自分の罪のために受けるべき呪いと審判を受けられました。私たちの身代わりになって罪を贖い、病を癒して救うためにイエス様は罰せられ、神様に打たれ、苦しめられたのです。かつてイザヤ預言者は言いました。「まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。」(イザヤ53:4?6)。
十字架につけられて死なれたイエス様は死者の中からよみがえられて死に打ち勝ち、救い主、全能の神様であられることをあきらかしてくださいました。ですから、だれでもこのイエス様を信じる者は救われます。救い主イエス様は私たちを悪霊と悪しき霊から救ってくださいます。救い主イエス様は私たちを神様への不従順と高慢の罪、情欲の罪、憎しみとねたみの罪、あらゆる罪から救ってくださいます。病から救ってくださいます。死と審判の恐怖から救ってくださいます。救ってくださることだけではありません。栄光から栄光へ、イエス様の御姿にまで変えられるように助けてくださいます。心を広げて世界万民のために祈る祭司の王国、聖なる国民として生きるようにしてくださいます。それで、私たちは今の世で天国の喜びと平安を味わいながら幸せに過ごし、やがて新しい天、新しい地の天国で生きるようになります。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない神の国でイエス様とともに永遠にきるようになるのです。これらのすべてのみわざは救い主イエス様の十字架による救いによってできます。イエス様はその救いのためにお生まれになりました。このイエス様の誕生こそ、民全体のための素晴らしい喜びの知らせです。きょう私たちのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。今日がその日なのです。今日、私たちを救うためにひとりのみどりごとしてお生まれになったイエス様を賛美します。では羊飼いたちはどうやってきょう私たちのために救い主がお生まれになったことが分かるでしょうか。
12節をご覧ください。「あなたがは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」とあります。布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごがしるしです。イエス様は飼葉おけに寝ておられるみどりごの姿で来られました。それほどにイエス様はご自分を低くされました。キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。ここにほんとうの謙遜があります。自己犠牲があります。実にイエス様は謙遜と犠牲の一生を過ごされました。飼葉おけの精神です。このイエス様の謙遜と犠牲を見習って生きる者にはいつも心に平安と喜びがあります。
「私に傷つけた人を許せない。私に悪いことはない。何でも損することをしてはいけない。」と思っている人の心に平安と喜びはありえましょうか。競争心、嫉み、高慢のために心苦しい人生を生きるしかありません。しかし、救い主イエス様を受け入れて信じるなら、自分の罪が赦されて人の罪を赦すことができます。さらにイエス様の謙遜と犠牲を見習う生活によって天国の喜びと平安を味わう幸せな人生を生きるようになります。どうか、きょう、この素晴らしいクリスマスにイエス様を受け入れて信じましょう。イエス様を信じて救われている方はイエス様の謙遜と犠牲を見習いましょう。そこにクリスマスの素晴らしい喜びと平安が臨まれます。
13,14節をご覧ください。“すると、たちまち、その御使いといっしょに多くの天の軍勢が現われて、神を賛美して言った。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」” 御使いのクリスマスメッセージが終わると、その御使いといっしょに多くの天の軍勢が現れて大合唱をしました。「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」
 この素晴らしい光景を目撃した羊飼いたちは互いに話し合いました。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごとを捜し当てました。それを見たとき、羊飼いたちは、この幼子について告げられたことを知らせました。それを聞いた人たちはみな、羊飼いの話したことに驚きました。しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていました。羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神様をあがめ、賛美しながら帰って行きました。彼らは御使いから素晴らしい喜びの知らせを聞いたのですが、すべてがそのとおりになっていることを体験したのです。それで、彼らは喜びに満たされて神様をあがめ、賛美しながら帰って行ったのです。

 結論的に、神様は今も聖書に示されたとおりに世のすべてを支配し、ご自分の計画とおりに導いておられます。ご計画の中で幼子イエス様を私たちの救い主としてこの地に送ってくださいました。この救い主の誕生こそ、最も素晴らしい喜びの知らせです。イエス様は私たちを罪と死から救われる救い主です。この時間、へりくだってみどりごイエス様を受けいれ、素晴らしい喜びに満たされるように祈ります。イエス様が家畜小屋でお生まれになったとき、あの家畜小屋は聖なる都、神の国の宮殿になりました。イエス様が私の心におられる時、もはや私は罪人ではありません。私のからだは聖なる神殿であり、私は聖なる国民、王である祭司です。神様に尊ばれる存在、愛されるために生まれた神様の子どもになるのです。この素晴らしい祝福を与えるためにイエス様はお生まれになりました。どうか、心の高慢の罪を悔い改め、謙遜にイエス様を受け入れて心の中が喜びと平安に満ちあふれる神様の子どもとしての祝福をいただけるように祈ります。