主日礼拝メッセージ:金ヨハネ宣教師
2005年マルコの福音書第5講
良い実を結ぶ秘訣
御言葉:マルコの福音書4:1?20
要 節:マルコの福音書4:20 「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」
今週はJR西日本電車脱線事故によって107人が尊い命を失いました。彼らの死は残された家族に深い悲しみを与えました。私は遺族達の悲しいインタビューを聞きながら涙を流しました。ある女性の方は初めての海外旅行に行くために空港に行く途中事故に遭い、なくなりました。彼女の旅行先は韓国でしたが、彼女が出かける前に家族に残した手紙にはお土産をいっぱい買って来ると書いてありました。どんなに初めての海外旅行を楽しみにして出かけたことでしょう。ところが、全く予想もしなかった事故に合い、いのちを失いました。鄭ダニエル宣教師の弟さんが先週木曜日に交通事故でなくなりました。ダニエル宣教師は兄弟たちの中で一番苦労が多かったその弟がなくなったことで悲しみました。私はこれらの事件を通して死は自分と無縁のものではなく、いつも近くにあると思いました。いくら権力がある人も、金持ちも、優れた知識を持っている学者もいつかは皆この世を去ります。そして、神様の御前に立つようになります。「私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。」(?コリント5:10)。神様はその人が結んだ実によって裁かれます。ですから、私達がこの世でどんな実を結ぶかは大切なことです。
今日学ぶ御言葉はイエス様が言われた「種を蒔く人のたとえ」です。このたとえは多くの実を結ぶ秘訣について教えてくれます。私達が主の御言葉を良く聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶことができるように祈ります。
1節をご覧ください。イエス様は涼しい湖のほとりで御言葉を教え始められました。するとおびただしい数の群衆がみもとに集まりました。それでイエス様は湖の上の舟に乗り、そこに腰をおろされ、群衆はみな岸べの陸地にいました。
2節をご覧ください。イエス様はたとえによって多くのことを教えられました。たとえは、人に自分で意味を考えさせます。彼自身に推理させ、彼のために真理を発見させるのです。イエス様は人々に考えさせたいと望まれました。
3節をご覧ください。イエス様はたとえを教え始めながら聞く者の注意を向けさせました。「よく聞きなさい。」人の話をよく聞くことは大切なことです。同じ場所で同じことを聞いても聞く人の姿勢によって全く違う結果が出ます。先生の言うことをよく聞く学生は勉強がよくできます。授業中他のことばかり考えていて先生の言うことをよく聞かない学生はテストの結果がよくありません。イエス様は9節でも「聞く耳のある者は聞きなさい。」と言われました。信仰は聞くことから始まります。罪の赦しや永遠のいのちや神の国も御言葉を聞くことから始まります。真の平安も真の喜びも御言葉を聞くことから始まります。神様の御言葉をよく聞く人は何をしても栄えます。ですから、神様の御言葉をよく聞くことは大切なことです。皆さんは神様の御言葉をよく聞いていますか。神様の御言葉を聞く耳を持っていますか。神様の御言葉を聞く耳を持っている人は幸いな人です。昨日、ぶどうの木フェローシップの聖書勉強をしましたが、その時、私は一人一人に「あなたは神様の御言葉をよく聞いていますか。どんな時に神様の御言葉をよく聞きますか。」と聞いてみました。寺崎アブラハム牧者は所感を書く時に主の御言葉をよく聞くことができると言いました。所感を書く時には御言葉が自分に与える意味について考えます。ですから、所感を書くことは主の御言葉を聞く良い方法の一つだと思います。金仁斗牧者は生活の中で御言葉を体験した時に御言葉を聞くと言いました。実生活の中での出来事を通して主の御言葉を聞くことも大切なことです。金サラ宣教師は1:1で聖書を教える準備をしながら御言葉を聞くと言いました。先週日曜日には金サンヒ奥様と李ギョンオク奥様と1:1で聖書勉強をしましたが、そのおかげでサラ宣教師は生き生きしていました。これからもサラ宣教師が神様の御言葉を聞いて生き生きとした生活をするために多くの方に1:1で聖書を教えることができるように祈ります。寺崎マリヤ宣教師はフェローシップの聖書勉強をする時に御言葉をよく聞くと言いました。マリヤ宣教師が神様の御言葉を聞いて恵みある信仰生活ができるようにぶどうの木フェローシップの聖書勉強が恵みある聖書勉強となるように祈ります。私は朝祈る時に御言葉を聞くと言いました。ヨハネ君は幼い時から喘息やアレルギー鼻炎によって苦しんでいます。私は毎朝彼の健康のために祈って来ました。ところが、なかなかよくなりませんでした。ある日の朝、私はそのようなヨハネ君のことで腹が立ったまま祈り室に入りました。すると、主はマルコの福音書9:23 の御言葉を聞かせてくださいました。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」私は主の御言葉を聞いた時、自分の不信仰に気づかされました。それで「信じます。不信仰な私をお助けください。」と自分の不信仰を悔い改める祈りを捧げました。そして、後の日にヤコブ5:15「信仰による祈りは、病む人を回復させます。」という御言葉に基づいてヨハネ君の頭の上に手を置いて祈ってあげました。神様はきっとその御言葉とおりにヨハネ君の病気を癒してくださることを信じます。このように祈る時間に主は私に御言葉を聞かせてくださいます。主の御言葉を聞くと自分の罪を知ることができ、悔い改めるようになります。主の御言葉は力があり、私を励まし、私を照らします。主の御言葉は私を生かし、疲れた私を力つけます。人それぞれ主の御言葉を聞く方法は違いますが、大切なことはどんな方法であれ、主の御言葉を聞くことです。主の御言葉を聞くと暗い心に光が照らされます。息苦しかった心が最近の天気のようにさわやかになります。進むべき道が見えなかった人に進むべき道が見えるようになります。ですから、主の御言葉を聞く耳を持っている人は幸いな人です。いくら有名人であっても、主の御言葉を聞く耳がなければ不幸な人です。そういう面で〇〇東京都知事より〇〇牧者のほうが幸いな人です。なぜなら、〇〇牧者は主の御言葉を聞いて受け入れ、真の神様を知るようになり、信じて救われたからです。私達に主の御言葉を聞かせてくださる主に感謝します。また、私達に主の御言葉を聞く耳を与えてくださった主に感謝します。
それではイエス様の種を蒔く人のたとえに耳を傾けて見ましょう。3b?8節をご覧ください。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」最近のように暖かい春、種を蒔く人が種蒔きに出かけました。蒔いているとき、種が道端に落ちました。すると、鳥が来て食べてしまいました。また、別の種が土の薄い岩地に落ちました。岩地に落ちた種は問題なく芽を出しましたが、土が浅いので養分と水分とをたくわえることができず、太陽の熱が、芽を出した種をすぐに枯らしてしまいました。また、別の種がいばらの中に落ちました。いばらの成長はとても早く、生命力が強いです。それで種は栄養分をいばらに奪われてしまいました。また、別の種が良い地に落ちました。すると芽生え、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になりました。このように種が実を結ぶためにはどんな地に落ちるかが大切なことです。
10節をご覧ください。「さて、イエスだけになったとき、いつもつき従っている人たちが、十二弟子とともに、これらのたとえのことを尋ねた。」イエス様のたとえ話が終わるとほとんどの人々はそのまま家に帰りました。ところが、授業が終わっても知らないことを質問するために先生を待っている学生達のようにイエス様を待っている人々がいました。彼らはいつもイエス様につき従っている人たちと十二弟子達でした。彼らは平凡な種を蒔く人のたとえの中に隠されている奥義を知りたくてイエス様に尋ねました。そこで、イエス様は言われました。「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため。』です。」(11,12)。「奥義」は大切なことです。隠れているものです。神の国は隠れている宝のようなものです。この神の国は神のことばを慕い求める人が所有することができます。ほかの人達とは霊的なことに無関心な人です。高慢な人です。パリサイ人や律法学者達のように心がかたい人々です。このような人々は神の国を所有することができません。見るには見るが分からず、聞くには聞くが悟りません。罪の赦しがありません。
また、イエス様は言われました。13、14節をご覧ください。「このたとえがわからないのですか。そんなことで、いったいどうしてたとえの理解ができましょう。種蒔く人は、みことばを蒔くのです。」イエス様は種が蒔かれた四つの地についてどのように説明してくださいますか。
第一に、道端のような心畑です。15節をご覧ください。「みことばが道ばたに蒔かれるとは、こういう人たちのことです・・みことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです。」道端のような心畑に蒔かれた御言葉の種はすぐサタンが来て、持ち去ってしまいます。このような人はどんな人でしょうか。御言葉を聞いても一言も受け入れない人です。キリスト教に無関心だからです。イエス様の御言葉が自分の人生には関係がないし、それがなくても十分やって行けると考えている人です。世の哲学や思想によって、主の御言葉を排斥する人です。サタンはこのような人の心に蒔かれた御言葉をすぐ持ち去ってしまいます。
第二に、岩地のような心畑です。16,17節をご覧ください。「同じように、岩地に蒔かれるとは、こういう人たちのことです・・みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。」岩地のような心畑の良い点は御言葉を聞くと、すぐに喜んで受けることです。それで良い地のように見えます。しかし、弱点は心の中に岩があるので御言葉が根を張ることができないことです。それで、御言葉のために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。御言葉を守り、神様に従おうとするとこのような困難や迫害があります。友達からばかにされます。今までの自分のスケジュールが合わなくなります。親が迫害します。これらのものは信仰生活に役に立つ物です。神の国に望みを持つようにしてくれます。信仰が大きく成長するようにしてくれます。問題は根があるか、どうかです。根がないと成長できず、つまずいてしまいます。
それでは根とは何でしょうか。創造主である神様を信じる信仰とイエス様の十字架と復活の福音を信じる信仰です。福音を信じて罪の赦しと救いを受けた体験、あるいは救いの体験です。いくら多くの聖書勉強をしても根を張らなければ御言葉のために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。イエス様は困難や迫害を太陽にたとえられました。太陽は炭素同化作用を起こし、植物に養分を供給して丈夫に育つようにします。実を結ぶようにします。太陽に多く照らされた果物が色も味もいいです。ですから植物の成長と実を結ぶことにおいてこの太陽は絶対に必要なものです。同じく困難や迫害は私達の信仰の成長と実を結ぶのに必要なものです。困難によって信仰は金のように練られ、迫害によって心が強くなります。器が大きくなり、すばらしい人格に変わります。
第三に、いばらのような心畑です。18、19節をご覧ください。「もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです。・・みことばを聞いてはいるが、世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望がはいり込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。」この人は御言葉を謙遜に受けて根を張り、成長します。ところが、実を結ぶことができません。それは世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望がはいり込んで、御言葉をふさぐからです。「世の心づかい」には何を食べるか、何を着るか、何を飲むかなどの心配があります。将来に対する心配、結婚に対する心配、弟子養成に対する心配など様々な心配事があります。このような心配の共通点はまだ起こってないことに対してすることです。イエス様は心配する弟子達に言われました。「そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。」(マタイ6:31,32)。すべての心配の原因は不信仰です。ですから、私達のうちに心配が生じると不信仰を悔い改めて私達の父なる神様を信じなければなりません。「富の惑わし」は欲のため生じます。私達は富の管理者です。富は神様が祝福として与えて下さったものです。この富が惑わしにならないように祈らなければなりません。多くの「欲望」があります。その中で特に若者に多いのが情欲です。また、快楽のいばら、安逸を愛するいばらもあります。このようないばらが成長すると実を結ぶことができません。
第四に、良い地のような心畑です。20節をご一緒に読んでみましょう。「良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」良い地のような心畑を持っている人は切なる心を持って御言葉聞いて受け入れます。このような人は水路の傍に植わった木のようによく成長し、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶようになります。神様が私達を御自分のかたちに似せて造られたのは実を結ばせるためです。私達が実を結ぶ時、神様は喜ばれます。また、私達も真に幸せな人生となります。
皆さんは実を結んでいますか。どんな実を結んでいますか。良い実を結んでいますか。それとも悪い実を結んでいますか。金サラ宣教師は気が短くてよく怒る人でした。そして、怒ると物を投げました。それでも気が済みませんでした。しかし、イエス様を信じるようになってからは柔和な人になりました。怒っても物を投げることがなくなりました。もし、そのような実を結んでいなかったならここにいる私の顔は傷だらけになっていたでしょう。私は結婚して15年になりますが、サラ宣教師が物を投げることを見たことがありません。気が短いサラ宣教師がイエス様を信じて柔和な人に変わったことは私にとっても幸いなことです。主の御言葉を受け入れる人は良い実を結びます。人を愛することを知らなかった人が人を愛するようになります。いつもつぶやき、暗い顔をしている人の顔が明るくなり、喜びの人になります。その他にも平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制などの実を結ぶようになります(ガラ5:22,23)。何よりも罪によって虚しい人生を送り、死後には神様に厳しい裁きを受けて永遠に滅びるしかない者がこの世で意味ある人生を送り、死後には永遠の神の国に入る実を結ぶようになります。イエス様を自分の救い主として信じている皆さんはすでにこのようなすばらしい実を結んでいます。こんなにすばらしい実を結ばせてくださった主に感謝します。
結論、神様は私達に命の御言葉を与えてくださいました。今も神様は様々な方法によって私達の心畑に御言葉の種を蒔いておられます。私達が自分の心畑を良い地に耕し、神様の御言葉を聞いて受け入れ良い実を結ぶことができるように祈ります。私達の心に神の国が臨まれ、聖霊の実を結び、伝導の実を結ぶことができるように祈ります。道端、岩地、いばらの地も耕すと良い地になります。自分の心畑を省みて、もし実を結ぶことをふさぐものがあればそれを取り除き、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶことができるように祈ります。