2005年収穫感謝祭
そのすべてのめぐみを心にとめよ
御言葉:詩篇103:1-22
要 節:詩篇103:2「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを
何一つ忘れるな。」
神様が今年も私たちを見守り、祝福してくださり感謝します。今日まで来たのはすべてが主の恵みです。この時間、御言葉を通してそのすべての恵みを心にとめたいと思います。聖書は「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」と言っています。神様の恵みを忘れず、心にとめている人は幸せな人です。神様への感謝があるからです。神様への感謝があるところに、さらに神様からの恵みが満ち溢れるようになります。ですから、私たちの信仰生活において非常に大切な事の一つは感謝することです。
私たちは生きていくうちに試みに会うときもあります。平坦な道を歩むような平安の時もありますが、疲れ果てて生きる意欲さえ失ってしまうような時もあります。何もかもうまくいかないような、つらくて苦しい時もあるのです。はなはだしくは「神様が生きておられるのか、果たして、神様は私に良くしてくださっているのか」と思われるときもあるでしょう。このような時に、私たちはどうするべきでしょうか。それはただ一つ、神様の恵みを覚えて心にとめることです。今までの人生の中で主の良くしてくださったことを忘れないで一つずつ数えてみるのです。聖歌604番の歌詞を見ると「のぞみも消え行くまでに世の嵐に悩むとき、数えてみよ、主のめぐみ、ながこころはやすきをえん。数えてみよ、主の恵み、数えてみよ、主の恵み、数えよ、一つずつ、数えてみよ、主のめぐみ」とあります。事実、私たちが主の恵みを数えてみると、主の良くしてくださった恵みがいかに深く広いかを悟ることができます。どうか、そのすべての恵みを心にとめましょう。
この時間、御言葉を通して私たちに良くしてくださった主のすべての恵みを覚えて感謝し、主の御名をほめたたえたいと思います。どうか、御言葉を通して、主の良くしてくださったことが思い出されて私たちのたましいに主への感謝と賛美が満ち溢れるように祈ります。
?.主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな(1?5)
主への感謝の心を込めて1,2節を読んでみましょう。「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」聖書は自分のたましいに向かって「わがたましいよ。主をほめたたえよ。」と命じています。「あなたのたましいよ、主をたたえよ」とか、「全ての人のたましいよ、主をたたえよ」と言ったのではありません。「わがたましいよ」と言っています。私たちは自分のことを感謝しないで、人のことを言う場合がよくあります。「あなたは恵まれていいね。」「あなたの旦那さんに恵まれているね」「恵まれているなら、感謝してよ。」と言います。しかし、聖書は『わがたましいよ。主をほめたたえよ』と言っているのです。勧められているのは「私のたましいが神様を讃美する」ということなのです。ここでは『たましいよ』という言葉が、使われています。日本的に考えると、『魂』とは肉体とは別物で、肉体の内側に存在し、死んだ後、身体を離れ去っていくものである、と考えられています。たまに、テレビ番組を見ると、占い師が死んだ方の魂と会話をしているような表情をしています。そして、死んだ人の魂が残って幽霊として現われるとか、心霊写真が写るとか、と言っています。「たましい」と「肉体」を分離しているのです。ところが、聖書が語る『たましい』とは別物です。ヘブライ語では「ネフェシュ」ですが、肉体と同様に死ぬ時に滅びてしまうものです。つまり、『たましい』(ネフェシュ)とは肉体を持った人間の存在そのものです。聖書の言う『たましい』とは、人間の全存在なのです。ですから、聖書は『私のうちにあるすべてのもので、主をたたえよ』と言っているのです。私のうちにあるすべてのものが神様の偉大さ、神様の恵みを覚えて感謝するとき、私たちの生活に喜びと幸せがあります。ですから、ダビデは「わがたましいよ。主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ。聖なる御名をほめたたえよ。わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」と言っているのです。では私たちが忘れてはならない主の恵みは具体的に何でしょうか。
3-5節を読んでみましょう。「主は、あなたのすべての咎を赦し、あなたのすべての病をいやし、あなたのいのちを穴から贖い、あなたに、恵みとあわれみとの冠をかぶらせ、あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。」ここで、私たちは主の良くしてくださった恵みの中でもいつもこころにとめるべき四つの恵みを発見することができます。
一つ目は、私のすべての咎と罪を赦してくださった恵みです。
主の良くしてくださったことというと、まず外的な祝福を考えます。良い会社に就職ができたこと、子どもが生まれたこと、希望した学校に合格したこと、良い論文が書けたこと、昇進したこと、収入が増えたことなどを考えるのです。もちろん、それらも神様がくださった祝福です。一つ一つ数えて神様に感謝するべきです。しかし、それらよりも尊く大きな恵みは罪が赦されていることです。私たちの罪が赦されていなかった時はどうでしたか。神様との関係性が壊れているために不安と恐れの中で生きるしかありませんでした。自分の存在意味を知らず、さまよっていました。罪の重荷を背負って疲れた生活をしていました。何だから虚しい生活をしていました。一生懸命にがんばっていても心の中では、喜びも幸せも感じることができない生活であったのです。ところが、イエス・キリストの十字架の血潮によって私たちのすべての罪が赦されました。罪の赦しによって心に平安を持つようになりました。罪の赦しによって私たちの心は暗闇から驚くべき光の世界に移されました。過去、罪のために、なんだか苦しく、虚しかった生活、不自由だった生活から解放されて自由と平安の生活に変りました。神様はイエス・キリストの血潮によって私たちのすべての咎と罪を赦して、平安と喜び、感謝に溢れる新しい人生を生きるようにしてくださったのです。これこそ、救われた聖徒たちがいつも感謝すべき事実です。私たちのすべての罪と咎が赦して、新しい人生を生きるようにしてくださった主の御名をほめたたえます。
二つ目は、私のすべての病を癒してくださった恵みです。2節を見ると「あなたのすべての病を癒し」とあります。まことに、イエス様は十字架の死によって私たちの病を負い、私たちの痛みを担ってくださいました(イザヤ53:4)。イエス様は肉体の病だけではなく、心の病までも担ってくださいました。神様は私たちのすべての病をイエス様に担わせてくださり、私たちのすべての病を癒してくださったのです。ですから、今日も私たちの健康が守られていることは神様の恵みです。私たちが病にかかったときは癒していただけることも神様の恵みです。今病んでいる方がいらっしゃるでしょうか。主の癒しを信じて祈ってください。神様は私たちのどんな病も癒してくださることを信じます。マラキ4:2を見ると「しかし、わたしの名を恐れるあなたがたには、義の太陽が上り、その翼には、癒しがある。あなたがたは外に出て、牛舎の子牛のようにはね回る。」とあります。そうです。神様を信じて神様の御名を恐れる者には癒しがあるのです。主の癒しによっていつも健やかに、牛舎の子牛が外に出てはね回るような、元気な生活ができます。主の癒しがあるからこそ、私たちは心配や恐れから解放されてすべてを主に委ねて生きることができます。まさに、これも私たちが忘れてはならない神様の恵みです。
三つ目は、私のいのちを穴から贖ってくださった恵みです。2節をみると「あなたのいのちを穴から贖い」とあります。今日、私たちが生きている世界は、私たちの命を破滅の穴に引っ張る世界になってしまいました。今年も、地震、津波、台風などの自然災害によって数多い人々がいのちを失いました。地球温暖化によってこのような災害がますます増えると言われています。戦争や事故によっていのちを失った人々も数多くいます。災いや事故だけではなく、さまざまな誘惑が私たちを破滅の穴に落としいれようとしています。子どもたちを誘惑して破滅の穴に落としいれようとしています。それで、私たちは自身の力だけでは災いや事故、さまざまな誘惑から自分を守ることができません。子どもを守ることもできません。神様のお守りが必要です。ところが、神様は私のいのちを穴から贖ってくださるのです。今年も、私たちと子どもたちを守ってくださいました。いつまでも私たちは神様に守られています。私たちのいのちを穴から贖ってくださる神様の御名をほめたたえます。
四つ目は、恵みとあわれみとの冠をかぶらせてくださった恵みです。神様は私たちのいのちを穴から贖ってくださることだけではなく、恵みとあわれみとの冠をかぶらせてくださいます。「恵みとあわれみとの冠をかぶらせ」とはRSVという英語聖書では「steadfast love and mercy」と訳されています。つまり、神様は変らない、不動の、確実な愛と慈しみによって私たちを導いてくださるということです。私たちは時々過ちを犯してしまう軟弱な者ですが、変らない神様の愛と慈しみのゆえに安心して心強く生きることができます。すると、神様は私たちの一生を良いもので満たしてくださいます。
もう一度5節をご覧ください。「あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように、新しくなる。」とあります。何とすばらしい恵みでしょうか。
私たち人間は何かで満たされることを望んでいる存在です。それである人は自分の空しさを満たすために異性の愛を求めます。人々の人気と賞賛の水を飲もうとする人もいます。快楽と権力の水を飲もうとする人もいます。そういう水は一時的に人の心を満たし、喜びも与えてくれるでしょう。でも、良くない罪悪の水を飲み続けるなら、その水によって滅んでしまう場合もあります。何よりもこの世の水は飲んでも、飲んでも渇くものです。私たちのたましいに本当の満足を与えてくれません。ところが、神様は私たちの一生を良いもので満たされるのです。イザヤ預言者は言いました。「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのか。わたしに聞き従い、良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう。(55:1,2)」ここで、「良い物」とは「神様のいのちの御言葉」です。私たちはいのちの御言葉を食べる時に、まことの満足を得て元気付けられ、力強くなります。神様は御言葉によって私たちが生ける水の川のように生命力にあふれた人生を生きるようにしてくださいます。ですから、いのちの御言葉を食べる者の若さは、わしのように、毎日新しくなります。イザヤ40:30、31節を開いてみましょう。「若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。」とあります。
もし、神様が私たちに良くしてくださらなかったら若者も疲れ、たゆみます。「お疲れ様です」「お疲れ様でした」と挨拶を交わさざるを得ない人生です。また、誘惑の穴に落ちてつまずき倒れます。もし、私に神様の恵みがなく、神様の御言葉を食べることができなかったら、この世の調子に合わせ、世の流れに流される腐った魚のように生きていたはずです。職場で嫌なことがあったら、嫌だからいっぱい飲もうとし、良いことがあったら、良かったからいっぱい飲もうといって居酒屋に通っていたでしょう。また、安逸と情欲、無気力の中で無意味な人生を生きていたはずです。ところが、神様は私の人生を良い物で満たしてくださいました。御言葉によって毎週、毎日私たちの若さは、わしのように、新しくなるようにしてくださいました。私だけではないでしょう。神様は四十代のおじちゃん、おばちゃんたちも二十代の若者のように新しくなるようにしてくださいました。三十代の方は十代の青少年のように新しくなるようにしてくださいました。私たちのすべての罪と咎を赦し、すべての病を癒してくださいました。私たちのいのちを破滅から贖って、恵みとあわれみの冠をかぶらせ、良い物で満たしてくださり、私たちの若さがわしのように、新しくなるようにしてくださいました。
ダビデは、このような主の恵みを深く悟った時、黙っていられませんでした。彼は自分のたましいに向かって「わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」と命じています。では神様はダビデだけを愛される方なのでしょうか。この間、○○兄弟は神様の恵みによって癒されてきたと告白しました。では、ダビデと○○兄弟だけが神様に愛されているでしょうか。そうではありません。神様は昨日も、今日も変らない愛によってすべての人を愛しておられます。ここにいらっしゃる皆さんも同じく愛しておられることを信じます。いや、皆さんは誰よりも神様に愛しているという事実を悟ることができるように祈ります。本当に、神様は私たちみんなに良くしてくださいました。今年も神様は御言葉によって私たちの心が新しくされて若者たちを助けることができるようにしてくださった主の恵みに感謝します。日本の若者たちを世界キャンパスの若者たちを助けるリーダーとして育てようとするビジョンを持って生きるようにしてくださる神様の恵みを心から賛美します。
?.主の恵みは、とこしえから、とこしえまで、主を恐れる者の上にある(6?22)
ダビデは自分に施された主の恵みを賛美してからすべての民に施される神様の恵みを覚えて賛美します。
6-12節を読んでみましょう。「主はすべてしいたげられている人々のために、正義とさばきを行なわれる。主は、ご自身の道をモーセに、そのみわざをイスラエルの子らに知らされた。主は、あわれみ深く、情け深い。怒るのにおそく、恵み豊かである。主は、絶えず争ってはおられない。いつまでも、怒ってはおられない。私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもない。天が地上はるかに高いように、御恵みは、主を恐れる者の上に大きい。東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。」とあります。
神様は私たちの罪や咎を責め立てられる方ではありません。私たちは神様を自分の親や先生のように考えてしまいがちです。絶えず「頑張れ、頑張れ」といつも背中から叩かれているイメージを持ってしまう面があるのです。でも神様は本当にそんな方ではありません。ここにある様に、主は、あわれみ深く、情け深いお方です。怒るのにおそく、恵み豊かであるお方なのです。ですから、主はいつまでも怒ってはおられません。私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず、私たちの咎にしたがって私たちに報いることもありません。もし私たちが自分達のしている事に従って扱われたならどんな目にあうでしょうか。私のような者はまともにここに生きている事さえ出来ないかもしれません。しかし、主はあわれみ深く、情け深いお方であられるのです。主のあわれみによって私たちは赦されています。私たちは自分が主のあわれみによって赦されている事を忘れて、人を赦す事が出来ません。しかし、私たちは主のあわれみによって多くの罪が赦されたということが分かれば「心から主よ。感謝します」という事が出来ると思います。神様は私たちを叱って「お前はダメだ。」というのではありません。本当に「赦そう。赦そう」としておられます。どうか、このことを覚えて私たちもあわれみによって人の過ちを赦しましょう。では、主は私たちをどのようにあわれますか。
13-16節を読んでみましょう。「父がその子をあわれむように、主は、ご自分を恐れる者をあわれまれる。主は、私たちの成り立ちを知り、私たちがちりにすぎないことを心に留めておられる。人の日は、草のよう。野の花のように咲く。風がそこを過ぎると、それは、もはやない。その場所すら、それを、知らない。」
ここに書かれているように、私たちは本当に小さなものです。神様に与えられたもの以外は、何も持たず、ほんのわずかな期間この地上に存在し、消え去っていくものにすぎません。私はこのことを今年弟の死を通してしみじみに悟りました。私の弟は「自分はちりのような存在だ」とよく言っていましたが、本当にちりに過ぎない存在としてこの世から過ぎ去っていきました。私たちは本当に小さなものなのです。ところが、このように小さな私たち一人一人に神様は常に関心を持って下さいます。この世に生きている私たちを見守り、愛して下さっておられます。そして現在私たちがもっているもので、神様が与えて下さらなかったものは一つもありません。この世にあるすべてのものを今与えて下さっているのも、神様なのです。ですから、私たちが続けて神様を恐れる者として生きるなら、主の恵みは、とこしえから、とこしえまで私たちの上にあります。では「主を恐れる」とは、どういう事でしょうか。ただ怖がるということではありません。真夜中白い衣を着た幽霊を怖がるようなことではないのです。「主を恐れる」ということは神様がどんなに偉大なお方かをはっきりと認めるという事です。神様は天も、地も全てのものも治めますし、私たちの命をとる事も、生かす事も出来るお方です。このことを心から認めて全ての権限を持っておられる神様に委ねるということが主を恐れるということです。そうすれば主を恐れる者の上に神様の恵みが注がれるのです(17)。その恵みによって主を恐れる者は主の契約を守り、その戒めを心に留めて行なう者になります。すると、その人はすべてを統べ治める主の統治を受けるようになります。主の統治を受けるとは何とすばらしいことでしょうか。主は天にその王座を堅く立て、その王国はすべてを統べ治めます。全世界、全宇宙のすべてを統べ治める主の統治を受ける時、私たちは安全と平和の中で永遠に幸せな者として生きることができます。主は主の御言葉に聞き従う者たちを御言葉によって治め、天国まで導いてくださいます。
それで、ダビデは結論的に主をほめたたえています。私たちもダビデのような心を持って20?22節をご一緒に読んでみましょう。「主をほめたたえよ。御使いたちよ。みことばの声に聞き従い、みことばを行なう力ある勇士たちよ。主をほめたたえよ。主のすべての軍勢よ。みこころを行ない、主に仕える者たちよ。主をほめたたえよ。すべて造られたものたちよ。主の治められるすべての所で。わがたましいよ。主をほめたたえよ。」
全てを持っておられ、すべてを統治しておられる神様は、私たちがもっている全てを与えて下さいました。すべての咎を赦し、いのちの病を癒してくださいました。今年も、神様は日本だけではなく、世界中で起こったさまざまな災害や事故から私たちを守り、恵みとあわれみの冠をかぶらせてくださいました。こんなにも私たちを愛して下さっている神様に私たちは何ができるでしょうか。私たち一人一人が感謝と喜びをもって『わたしのたましいよ、主をたたえよ』と告白していきたいと思います。何よりも私たちみんなが、主が良くして下さった一つ一つを思い起こして主の恵みを心にとめましょう。すべてのことについて感謝を捧げ、主を恐れて、主の御言葉に聞く者になっていくことができるように祈ります。