2005年イースターメッセージ
あの方はよみがえられました
御言葉:マルコ16:1-20
要 節:マルコ16:6「青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。」
イースターおめでとうございます。この間、私たちは映画「パッション」を見ました。イエス・キリスト最後の12時間に関する内容です。世界中で最も有名なキリストの最後、イバラの冠をかぶらされ、重い十字架の横木を背負い、ゴルゴダの丘で両手両足を釘打ちされた十字架刑の事実を忠実に再現していました。私は映画を見ながらイエス・キリストの受難、十字架の死がいかに残酷なものであったかを深く悟りました。イエス様が経験なさった想像を絶する痛み、苦しみ、そして復活のゆえに、罪深い私のような者も救われました。イエス様は全人類の罪を贖うために、あの残酷な十字架刑を受けられたのです。でも、十字架の死は、当時、イエス様を愛して最後の最後まで忠実であった人々にとって嘆き悲しんで泣かざるを得ない悲劇でありました。十字架の死だけを考えていたからです。しかし、イエス様はよみがえられました。墓にはおられません。悲劇は喜劇に変わりました。イエス様は死に打ち勝ち、よみがえられたからです。よみがえられたイエス様は悲しんでいる女たちを復活の証人として立ててくださいました。弱い弟子たちに現われ、彼らに復活信仰を植え付けて、彼らも復活の証人として立ててくださいました。
この時間、御言葉を通して私たちもよみがえられたイエス様に出会い、復活信仰を新たにすることができるように祈ります。今年のイースターを通して本当に生きた復活信仰を持ち、いつもイエス様とともに歩む生活ができるように祈ります。
1,2節をご覧ください。「さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。」とあります。イエス様が十字架にかかって死なれたのは、金曜日の午後3時すぎのことでした。サンヘドリンの議員の一人であるヨセフが、イエス様の下げ渡しを願って墓に葬ったときは、もう日没に近づいていました。安息日が始まり、何の仕事もできなくなりました。二人のマリヤとサロメはユダヤの習慣に従って死なれたイエス様の香油を塗ることによって最後までイエス様に忠実でありたいと思っていたでしょう。でも安息日である土曜日の日没までは何もできませんでした。律法に安息日には何もしてはいけないことになっていたからです。それで、彼女たちは安息日が終わって週の初めの日がはじまる土曜日の日没になってから、お店に行って香料を買いました。でも、何も見えない夜、からだに油を塗ることはできません。それで、彼女たちは朝方早く、日が上ったときに合わせて、墓に向かったのです。
イエス様がまだ死なれなかった時、数多くの人々がイエス様に従っていました。イエス様と一緒にエルサレムに上って来た女たちがたくさんいました(15:41b)。しかし、彼らはイエス様が逮捕され、苦しみを受けられると、イエス様から離れて行きました。イエス様の弟子たちでさえ、離れて行ってしまいました。だれも、墓参りをしていません。しかし、この三人の女性はイエス様を捨てませんでした。イエス様から何も得ることができず、愛されることもできませんが、それでも、彼女たちは最後までイエス様に仕えています。最後の最後までイエス様にお仕えして、お世話をしたいと強く願っていたのです。ところが、当時の墓は、入り口を石で閉じていました。その石は大きくて非常に重く、力強いペテロやヨハネたちが転がそうとしても、びくともしないようなものでした。それで、彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか。」とみなで話し合っていました。ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてありました。しかも、墓の中にはいったところ、真白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えました。彼女たちは驚きました。本当は墓の中に傷だらけのイエス様の死体があるべきところに青年が座っていたからです。この青年は、間違いなく御使いです。御使いは彼女たちに何といましたか。
6、7節をご一緒に読んで見ましょう。「青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』とそう言いなさい。」」
ここで、青年は、イエス様の復活の事実を伝えています。「あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ごらんなさい、ここに納められたのに、そら、いないではありませんか、」と言っています。御使いは十字架につけられたナザレのイエス様を捜しているマリヤたちに喜びの知らせを伝えました。「あの方はよみがえられました。」「ワー!」なんと素晴らしい知らせでしょうか。本当に生きた喜びの知らせです。イエス様は、墓にはおられませんでした。イエス様はよみがえられました。死者の中からよみがえられました。女たちは十字架につけられて死なれたイエス様を捜していました。しかし、御使いはイエス様がよみがえられたと伝えました。
そして、彼は、「前に言われたとおり」と言いました。イエス様は、ご自分はよみがえり、弟子たちよりも先にガリラヤに行かれることを話されていました。当時の彼らにとっては、十字架につけられることも、復活も、将来の話でした。そして、それは、弟子たちにとっても、女たちにとっても、とうてい受け入れることのできない言葉でした。イエス様から言われても、そのとおりになるとは思っていなかったのです。しかし、青年は、イエスが言われたことはそのとおりになっているのだから、これからのこともそのとおりになります、ということを言っています。イエス様が言われたことはすべてが言われたとおりになります。御使いはこの事実をお弟子たちとペテロに伝えるように命じられました。しかし、彼女たちは、墓を出て、そこから逃げ去りました。すっかり震え上がって、気も転倒していたからです。そしてだれにも何も言いませんでした。恐ろしかったからです。
ではよみがえられたイエス様は、まずだれにご自分の姿を見せられましたか。9節をご覧ください。「さて、週の初めの日の朝早くによみがえったイエスは、まずマグダラのマリヤにご自分を現わされた。イエスは、以前に、この女から七つの悪霊を追い出されたのであった。」とあります。よみがえられたイエス様は、まず最初に、マグダラのマリヤにお現われになりました。マルコは、彼女が7つの悪霊につかれていたことを記しています。お花のように美しく、純潔であるべき女性に一つ、二つでもなく、7つの悪霊につかれていたのです。彼女は、まともな生活を歩むことができなかったでしょう。日々、悪霊によって苦しまれる生活をしていたに違いありません。昼も夜も淫乱な考えを植えつける情欲の悪霊、自分より愛されているような人を妬ませる嫉妬の悪霊、インターネットを通して無駄な情報、淫乱な情報などに誘惑する悪霊、何もかもつぶやかせる不平・不満の悪霊、毎日お酒を飲ませるアルコール中毒の悪霊などによって一日もまともな生活ができませんでした。そんな彼女を人々は無視しました。彼女は悪霊のために「ばかな女だ、汚れた女だ、死んでしまえ」と言われるばかりの人生になってしまったのです。ところが、イエス様は彼女をとても大切な神様の娘として受け入れてくださいました。「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。」「あなたは愛されるために生まれたんだ。」と言われました。そして、七つの悪霊を追い出してくださいました。彼女は苦しめていた七つの悪霊から解放されると、彼女は生まれ変わりました。まともな生活ができる、「しっかりした女」になりました。何よりも、イエス様を愛して、謙遜に主のみわざに仕える敬虔な女性になりました。人々はイエス様に愛されることだけを求めていましたが、彼女はいつもどうすればイエス様を愛することができるかと思う人生になりました。死なれたイエス様の御体にもイエス様に対する愛を表現したいと思うほどに愛する人になりました。最後の最後まで情熱的にイエス様を愛したのです。このように、マリヤが心を尽くしてイエス様を愛した時、だれよりも早くよみがえられたイエス様に出会うことができました。イエス様は哀れみ深く、だれでも愛してくださいますが、マグダラのマリヤのように積極的に愛する人はだれよりも先によみがえられたイエス様に出会うことができます。愛されることだけを求めるのではなく、自分の方から進んで愛する者には特別な恵みが与えられるのです。マリヤは復活の最初の目撃者としての特別な恵みをいただきました。
一方、復活の朝、弟子たちは何をしていましたか。10節をご覧ください。「マリヤはイエスといっしょにいた人たちが嘆き悲しんで泣いているところに行き、そのことを知らせた。」とあります。過去、弟子たちがイエス様とともにいた時、彼らに恐れることはありませんでした。悲しむ必要もありませんでした。しかし、イエス様が十字架につけられて死なれたことで彼らは嘆き悲しんで泣いていました。なぜ、男たちが泣いているでしょうか。彼らがイエス様を純粋に愛していたということより自分の理想と夢を愛していたからです。彼らがイエス様にかけていた自分の夢が実現できなくなった時、泣かざるを得なくなりました。マグダラのマリヤは弟子たちが涙の集いをしているところに行き、イエス様の復活を知らせました。「ペテロ牧者!喜んでください。イエス様はよみがえられました。私はイエス様に会ったわ。」ところが、彼らは、イエス様が生きておられ、お姿をよく見た、と聞いても、それを信じようとはしませんでした。
12、13節をご覧ください。その後、彼らのうちのふたりがいなかのほうへ歩いていたおりに、イエス様は別の姿でご自分を現わされました。そこでこのふたりも、残りの人たちのところへ行ってこれを知らせました。「イエス様はよみがえられましたよ。僕たちが会って来たんだ。」でも、彼らはふたりの話も信じませんでした。イエス様はこのような彼らをどのように助けられましたか。
14節をご覧ください。「しかしそれから後になって、イエスは、その十一人が食卓に着いているところに現われて、彼らの不信仰とかたくなな心をお責めになった。それは、彼らが、よみがえられたイエスを見た人たちの言うところを信じなかったからである。」とあります。イエス様は、弟子たちに現われました。そのとき、彼らに何と言われましたか。「何で私を見捨てたとか、ペテロ!お前は3度も、私を知らないと言ったでしょう」と責めるようなことをなさいませんでした。そうではなく、彼らの不信仰とかたくなな心をお責めになりました。よみがえりの証人たちがキリストの復活を伝えてもかたくなな心で信じなかった不信仰を責めておられるのです。なぜなら、復活という事実があっても、それを信じなければ、その人は何も変わることができないからです。イエス様がよみがえられたにもかかわらず、弟子たちがそれを信じなかった時は、嘆き悲しんで泣くことしかできませんでした。よみがえられたことを信じるのは、イエス様が生きて働かれるように、この方を自分の生活に迎え入れることです。すると、私たちは、神様の願っておられるような生き方をしていくことができます。キリストの力によって生きることができるようになるのです。ですから、私たちは罪が赦されて救われるためにも信仰がなければならないし、復活の証人として生きるために信仰がなければなりません。ですから、イエス様は私たちが何をしても信仰によって生きることを願っておられます。神様は、私たちが罪を犯すことで、さばかれることはありません。御子がその罰をすべて受けてくださったからです。けれども、もし私たちが、キリストを死者の中からよみがえらせた神の力を信じなければ、そのような閉ざされたかたくなな心の中で、神様は働くことはできません。ですから、神様がさばかれる唯一の罪は、イエス様を信じない不信仰です。ですから、イエス様はよみがえられました、という復活が事実であった、ということを信じることはとても大切です。イエス様の復活が事実だと言われても、自分が見たことではないので、信しられないかもしれません。けれども、信じないからと言って、イエス様がよみがえられたことが変わるわけではありません。変わるのは、その人の人生と運命です。信じるのと、信じないのでは、全く違った人生をもたらします。信じない者は、嘆き悲しんでいた弟子たちのように悲しく、暗い運命に処せられています。しかし、信じる者は全世界に出て行き、福音を宣べ伝える人生に変わります。むなしい人生を悲しく、暗く生きている人々を救いに導き、新しい人生を生きるようにする素晴らしい人生に変わるのです。
15、16節を読んでみましょう。「それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。」
イエス様は、ご自分がよみがえられたことを「福音」と呼ばれました。福音とは、「良い知らせ」という意味です。人々が求めていた救い、豊かないのち、平和、正義など、あらゆる良いものが、イエス・キリストをとおして与えられるようになりました。福音によって全く新しい人生を生きることができるようになったのです。使徒ペテロは、こう宣言しています。「神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、いける望みを持つようにしてくださいました。(1ペテロ1:3)」そして、イエス様はこの福音を、全世界の人々に告げるように命じておられます。使徒たちは、マリヤとふたりの弟子からイエス様の復活の証言を聞きましたが、今度は、自分たちがイエス様の復活の証人となるのです。
ではイエス様が弟子たちを復活の証人として立てられた目的は何でしょうか。一言で、全世界の人々が信じて救われることです。イエス様は「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。」と言われました。ここで、バプテスマとは、自分がクリスチャンであることを公に告白する儀式です。バプテスマの水は墓を意味しています。水の中に入るとき、私たちは葬られました。キリストが罪を背負って、墓に葬られたように、罪に支配されていた私たちが死んで、葬られます。そして水から出てくるとき、私たちは新たに生まれることを象徴します。キリストがよみがえられたように、私たちも御霊に支配された、新たな生活を歩むようにされたのです。この事実を信じる者は救われます。だれでも信じるなら救われます。イエス様は全世界の人々がイエス様の十字架と復活を信じて救われることを願っておられます。そのために、福音を伝える弟子たちがまず信仰の上に堅く立っていなければなりません。ですから、イエス様は弟子たちの不信仰を叱られ、彼らが信仰を持つように助けられました。この16章に「信仰」ということばが七回も繰り返されています。信仰こそ救いであり、信仰こそ力だからです。ヨハネの福音書20章27節を見ると、イエス様は疑い深いトマスに言われました。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」。イエス様は2005年イースター礼拝に参加している私たちにも言われます。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(一緒に行って見ましょう。「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」)ここで聖書に記された信仰について考えてみたいと思います。信仰にもいろいろあります。
一つ目は「弱い信仰」です。ローマ14:1-2節を見ると「あなたがたは信仰の弱い人を受け入れなさい。その意見をさばいてはいけません。何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。」とあります。ローマ教会には弱い信仰のためにさばかれている聖徒たちがいました。子どものような純粋さを持っていますが、またその弱さのために人々から言われるとよく傷つけられる信仰です。幼い信仰ともいえるでしょう。
二つ目は破船する信仰です。?テモテ1:19、20節を「ある人たちは、正しい良心を捨てて、信仰の破船に会いました。その中には、ヒメナオとアレキサンデルがいます。私は、彼らをサタンに引き渡しました。それは、神をけがしてはならないことを、彼らに学ばせるためです。」とあります。ヒメナオとアレキサンデルのような人々はパウロとともに信仰生活をしていましたが、正しい良心を捨てて信仰の破船に会ったのです。今日も多くの人々がイエス様を信じて救われています。日本でも毎年バプテスマを受けてクリスチャンになる人が多くいます。ところが、さまざまな試練や誘惑に打ち勝つことができず、信仰の破船に会いました。それで、なかなかクリスチャン人口1%という壁を崩すことができない状態であります。
三つ目はりっぱな信仰です。全くイエス様を信じて信頼する信仰です。マタイ8:8-10節を見ると、百人隊長はイエス様に「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。」と言いました。彼はイエス様が見えなくても、ただお言葉をいただければ、死に掛かっている自分のしもべが直ると信じきっていたのです。そこで、イエス様は百人隊長の信仰についてこう言われました。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。」また、マタイ15:25-28節を見ると、カナン人の女はイエス様から子犬のような存在として扱われました。それでも、彼女はイエス様を信頼して、犬が食べるパンくずでもいただこうとしました。するとイエス様は彼女に答えて言われました。「ああ、あなたの信仰はりっぱです。その願いどおりになるように。」すると、彼女の娘はその時からなおりました。
2005年のイースター礼拝をささげている私たちに、主が願っておられることは何でしょうか。イエス様を全く信頼する信仰、キリストの復活を疑いなく信じる信仰、りっぱな信仰ではないでしょうか。どうか、今年のイースターを契機に私たちみんながりっぱな信仰の人として生まれ変わるように祈ります。私たちが何かのビジョンを成し遂げるためには信仰が必要です。生きた信仰、大きな信仰、りっぱな信仰を持つことが大切です。私たちに信仰さえあれば何でもできます。信じる者にはどんなことでもできるのです。神様は信じる者に大いなる力を与えてくださいます。
17-18節をご一緒に読んでみましょう。「信じる人々には次のようなしるしが伴います。すなわち、わたしの名によって悪霊を追い出し、新しいことばを語り、蛇をもつかみ、たとい毒を飲んでも決して害を受けず、また、病人に手を置けば病人はいやされます。」イエス様は天の王権に私たちを守ってくださいます。私たちに大いなる力を与えてくださいます。マタイの福音書28章をみると、天においても、地においてもいっさいの権威が与えられているイエス様が世の終わりまでいつもに私たちとともにいてくださることを約束してくださいました。皆さん、これらのことを信じますか。弟子たちは信じました。20節をご覧ください。「そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた。」とあります。ここで見ると「主は彼らとともに働き」とあります。弟子たちはよみがえられたイエス様の御言葉を信じて出て行って、至る所で福音を宣べ伝えました。全世界の人々を弟子とする遠大なビジョンを持って出て行って福音を宣べ伝えたのです。すると、主は彼らとともに働き、御言葉に伴うしるしをもって、御言葉を確かなものとされました。弟子たちが信仰によって出て行った時、よみがえられたイエス・キリストが彼らとともに働き、彼らの生活の中で御言葉に伴うしるしを持って、御言葉を確かなものとされたのです。弟子たちは、信仰によって御言葉に従い、出て行って大いなるイエス・キリストの力と愛を体験したのです。
イエス様は今日も私たちの人生の中で、生活の現場でいつもともに働いておられます。だれとともに働くか、ということはとても大切なことです。イエス様が私たちとともに働いてくださいます。私は天においても、地においてもいっさいの権威を持っておられるイエス様がともにいてくださることを信じています。主は本当に小さなことでもよく助けてくださいます。主とともに歩む生活は幸せです。信仰生活は理論ではありません。瞬間、瞬間、よみがえられたイエス様がともにいてくださることを感じ、体験する生活です。「主は今、生きておられる。わがうちにおられる。すべては主の御手にあり、あすも生きよう、主がおられる」と歌えるし、それを体験する感動的な生活なのです。
結論的に、イエス様はよみがえられました。墓にはおられません。すでに、私たちのところに来ておられます。そして、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」と言われます。弱い信仰を持っている人たちに強い信仰を持つことを願っておられます。正しい良心を捨てて、信仰の破船に会うことなく、りっぱな信仰を持って生きるように願っておられます。どうか、今年イースターを通して信仰を回復し、信仰を強くしてりっぱな信仰を持つことができるように祈ります。いつもともにおられるイエス様、大いなる力を持って働いておられるイエス様に出会う感動的な信仰生活が続けられるように祈ります。生きた復活の証人として出て行って主が私たちに与えてくださったキャンパス伝道にますます励むことができるように祈ります。