2006年マタイの福音書第4講

わたしについて来なさい

御言葉:マタイの福音書4:12-25
要 節:マタイの福音書4:19 イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」

 先週、私たちはイエス様が悪魔の試みを受けられた出来事を学びました。イエス様は旧約聖書に書いてある御言葉によって悪魔の挑戦や試みに完勝されました。まずは勝負があったのです。一度勝利を経験すると後は怖くないものです。いよいよイエス様は力強く公の行動を始められます。神様はアブラハム以来二千年近くにわたって、キリストの誕生の時まで色々と準備をされてきました。またバプテスマのヨハネによってキリストの道をまっすぐにする備えをされました。イエス様ご自身も40日間の荒野生活、悪魔の試みに打ち勝つことによってキリストとしての公生涯の備えをされました。そして今ついに、人類の救いの完成のために公の生涯を始められます。
 4章の後半部は、イエス様が人類の救う宣教を始められる時、何から始められたかを教えてくれます。まず、イエス様は荒野からガリラヤに帰って宣教の拠点を定められます。次に人材育成、弟子養成のために4人の弟子を招かれます。そして、ガリラヤから総合的な宣教活動をなさいます。この時間は、四人の弟子を招かれた出来事を中心に学びたいと思います。では、イエス様はどんな人々を招かれたでしょうか。彼らに置かれたイエス様の望みと約束は何でしょうか。そして、招かれた人々の反応はどうだったでしょうか。イエス様の招きの御言葉、私たちに置かれたイエス様の望みと約束を深く学ぶことができるように祈ります。

 1.宣教の拠点を定める(12?16)
 12節をご覧ください。「ヨハネが捕えられたと聞いてイエスは、ガリラヤへ立ちのかれた。」とあります。先々週、学んだのですが、ヨハネは人を恐れることなく大胆に悔い改めのメッセージを伝えた預言者です。彼は宗教指導者たちに対しても、政治家に対しても恐れることなく、悔い改めのメッセージを伝えました。当時、ガリラヤの国主ヘロデ・アンテパスに対してもそうでした。ヘロデが、彼の異母兄弟ヘロデ・ピリポの妻ヘロデヤを横取りしてしまったことに対して、厳しい批判をしました。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい」と言うようなことをいっていたのです。しかし、彼は悔い改めませんでした。むしろ、ヨハネを捕らえて牢に投獄してしまいました。このようなことを聞かれたイエス様の御心はどうだったでしょうか。私だったらこの悪質なヘロデ政権打倒のために、ヨハネの釈放のために戦わなければならないような気がします。しかし、イエス様はヨハネが捕らえられたと聞いてガリラヤへ立ち退かれました。ルカの福音書によると、イエス様はガリラヤのナザレに行かれました。そして、いつものとおり安息日には会堂にはいり、御言葉を教えられました。人々はイエス様の恵みのことばに驚きました。しかし、彼らはイエス様が大工ヨセフの子だということが分かると、イエス様を無視しました。さらに彼らの先祖の罪が指摘されるメッセージを聞くと、彼らはひどく怒り、イエス様を町の外に追い出しました。町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこから投げ落とそうとしました。イエス様はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかったのです。しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになります。(ヨハネ1:10、11)。イエス様はご自分を受け入れないナザレの人々から離れてカペナウムに行かれました。
13?16節をご覧ください。「そしてナザレを去って、カペナウムに来て住まわれた。ゼブルンとナフタリとの境にある、湖のほとりの町である。これは、預言者イザヤを通して言われた事が、成就するためであった。すなわち、「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った。」とあります。ここで、イエス様はガリラヤ地域の中でもカペナウムを伝道の拠点にされたことが分かります。ガリラヤは「異邦人のガリラヤ」として言われています。ユダヤ人にとって「異邦人」と言う言葉は差別用語です。今日でも「外人には部屋を貸さない」と言われると、外国人は軽蔑される気分になりますが、ユダヤ人にとって「異邦人」として言われることは屈辱的なことでありました。歴史的に見ると、ガリラヤ地方は紀元前8世紀にアッシリヤに侵略されました。ガリラヤ人には異邦人の血が混じるようになったのです。しかも、アッシリヤ人から偶像崇拝を教えられて偶像崇拝者が多くなり、宗教的には汚れていました。それで、同じユダヤ人でありながらもガリラヤの人々は、純粋なユダヤ人から「異邦人のガリラヤ」と言われて軽蔑されていたのです。彼らの心は傷つけられて「暗やみの中に座っている民」、「死の地と死の陰に座っていた人々」になっていたのです。イエス様はそのようなガリラヤを宣教の拠点にされました。最も、光と希望の福音が必要なところを宣教の拠点にされたのです。
ガリラヤ地域の中でもカペナウムは宣教において戦略的によい所でした。当時エジプトからダマスコへ通じる国際的な交易路である「海の道」が通っていて貿易が盛んなところでした。またローマの軍隊が駐留していたので、異邦人の出入りが多いところでした。異邦人に福音が伝えられる世界宣教にもつながるところであったのです。イエス様は、このように、交通の便のよい所、ユダヤ人だけではなく異邦人も多くいる所を伝道の拠点にされたことが分かります。こういう点から考えてみると東京も伝道の拠点としてはよい所だと思います。東京は交通の便のよい所であり、外国人の出入りが多いところです。実際に、東京からPNGの原住民の宣教ができてマタイバイ宣教師を派遣することができました。
そういう意味では日本宣教の拠点にした東京UBFの役割は大きいと思います。ここに、いらっしゃる牧者や兄弟姉妹たちは、ペテロとアンデレ、ヨハネとヤコブのように日本宣教においてとても大切な存在なのです。イエス様が宣教の拠点にしたカペナウムで招かれた弟子たちは世界宣教の中心的な働きをしました。彼らは弱かったけれども、彼らの上に聖霊が臨まれた時、彼らは力あるキリストの証人として初代教会を築き上げることができたのです。そういう点では、私たちが日本宣教の拠点である東京UBF教会のメンバーとして召されていることは大きな恵みです。私たちは足りなくても、私たちを召してくださった神様が私たちに聖霊を送ってくださり、日本と世界宣教のために用いてくださるからです。もちろん初期のメンバーとして経験しなければならない十字架も大きいと思いますが、今の苦しみは将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば取るに足りないものです。どうか、東京UBFがカペナウムのように日本宣教の拠点として貴く用いられるように祈ります。
もう一度、14節をご覧ください。「これは、預言者イザヤを通して言われた事が成就するためであった。すなわち、」とあります。イエス様がガリラヤのカペナウムを宣教の拠点に定めたことは、預言の御言葉が成就するためであったのです。イエス様は悪魔の試みを受けられた時、聖書に書いてある御言葉によって悪魔に打ち勝たれましたが、ご自分の活動も聖書に書いてある御言葉に従われました。イザヤ9:1,2節を見ると「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる。先にはゼブルンの地とナフタリの地は、はずかしめを受けたが、後には海沿いの道、ヨルダン川のかなた、異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」とあります。イエス様は預言の御言葉に従って「異邦人のガリラヤ」と呼ばれている所を宣教の拠点にされたのです。では、宣教の拠点を定めてから宣教を開始して言われたメッセージは何ですか。
17節を読んでみましょう。「この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」これは3:2節のヨハネの宣教の言葉と、まったく同じです。天国はすでに到来しました。人々は偉大な光として来られたイエス様を見たのです。これは、2006年の今日においても同じです。すでに天国は到来しているのです。天国の完成はまだですが、偉大な光であるキリストによって天国は到来したし、私たちのうちに実現され、やがてキリストの再臨によって完成されます。私たちは天国の到来と完成の間の中に信仰で生きるのです。マタイが「天の御国」と書いた同じ内容をルカは「神の国」と書いています。そして新約聖書全体では、「天の御国」(神の国)という言葉は100回(33、67回)も出てきます。つまり、天国の到来!神の国の到来!これこそイエス様の宣教の言葉であったのです。イエス様はすべての人々が天国を受け入れて、その人のうちに天国が実現されることを望んでおられました。それは悔い改めることによってできます。
アダムの子孫である人間はイエス様を信じて悔い改めることがなければ、いろいろな欲情と快楽の奴隷になり、悪意とねたみの中に生活しながら死に向かって行きます(テトス3:3)。死後にはさばきを受け、恐ろしい地獄を経験するようになります。ですから、イエス様は今日も私たちに向かって「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから。」と言っておられます。悔い改めることは今までの生活を悔いて心を改めることです。暗やみの世の中で欲情と快楽の奴隷になっていた生活を悔いて心を改めるのです。欲情と快楽の奴隷のなっている考え方を変えること、生き方を変えることが悔い改めです。自分の罪を認め、罪を捨て去ることです。そして、悔い改めにふさわしい生活のためには御言葉に生きることです。そうすると、その人に天の御国が臨まれます。天国の喜び、天国の平安が与えられます。暗い心には偉大な光が照らされて明るくなります。そして偉大な光には癒しがあります。悔い改める人にはあらゆる面で天国の祝福が与えられるのです。イエス様はこの素晴らしい天国の拡張のために何をなさいましたか。
 
 ?.最初の弟子たちを招く(18?22)
18節をご覧ください。「イエスがガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、ふたりの兄弟、ペテロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレをご覧になった。彼らは湖で網を打っていた。漁師だったからである。」とあります。イエス様は漁師である二人の兄弟ペテロとアンデレをご覧になりました。漁師としての彼らの生活はどうだったでしょうか。
私は漁師の子どもですが、うちの子どもたちは、私に「お祖父さんが漁師だからお父さん魚をたくさん食べたでしょう。お寿司もたくさん食べたんですね。」と言います。狭くて複雑な都市の人は、広い世界で余裕のありそうな漁師の生活を憧れるかも知れません。しかし、漁師の生活はそんなに浪漫的なものではありません。特に小船で漁をしている漁師の生活は大変なものです。皆さん海に行って見れば分かるでしょうが、海水が満ちてくる満ち潮、水が下がっていく引き潮の時があります。この満ち潮と引き潮の時は、毎日少しずつ変わります。そして漁師はその時に合わせて漁に行くわけですから、夜中に漁に行って来る時もあります。私が子どもの時、父が夜中に帰って来る日は、時々母が寝ている私を起こして迎えに行きました。風の日とか、霧が多い日は船の到着が遅れますが、子どもの私は待ち切れず、眠ってしまいました。すると、母は上着を脱いで私を被って寝かせました。大人になって思い出してみると、暴雨や風、霧のために船が遅れた時、母はどんなに父を心配していただろうかと思われます。子どもの時、村では海で死んだ人も何人かいましたが、だからこそ母の心配は大きかっただろうと思います。また、海辺の冷たい風の中で眠る子どもを見みながら母はどんなに心を痛めていただろうかと思われます。だから、私の父は絶対に子どもには漁師の仕事をやらせないつもりで6人兄弟を育てました。それほど大変な仕事が小さな舟で漁をすることなのです。しかも、まじめに働いても金持ちになるとか、出世するような希望がありません。ただ、子どもに期待をかけて無理にしても勉強させますが、子どもが親の思いのとおりにならない場合も多いものです。それで、私の故郷の人々を見ると、何の希望も持つことができず、酔っ払いの生活を続けている人も少なくありませんでした。ところが、イエス様はそんな漁師たちに何と言われましたか。
19節をご一緒に読んでみましょう。「イエスは彼らに言われた。「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」 イエス様は「わたしについて来なさい」と呼ばれました。イエス様について行くことがイエス様の弟子になることです。イエス様はあの漁師たちをご自分の弟子として召してくださいました。イエス様の弟子になることはほんとうに光栄なことです。イエス様とともに歩みながらイエス様の生活、イエス様の高潔な人格を学ぶことができるからです。何よりもイエス様について行くうちに、魚のにおいがする人生からイエス・キリストの香りを放つ人生に変わります。自分の人生が変わることだけではありません。多くの人々がイエス様について行くようにする偉大な使命を果たすこともできるようになります。
 イエス様は「わたしについて来なさい」と呼びながら「あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげようと」と約束されました。ペテロたちは漁師として自分の仕事をまじめにしていたとしても人々を助けることができる知識も、能力もなかったはずです。人を助け、人をカウンセリングする教育も受けていませんでした。彼らは魚がたくさん取れた日はいっぱい取れたことでお酒を飲み、取れなかった時は取れなかったからいっぱい飲んでいくような生活をしていたでしょう。ところが、イエス様は彼らに人間をとる漁師、人のたましいを救う漁師としてあげると約束してくださったのです。この約束の中にはイエス様の偉大な希望が含まれています。だれも、魚をとる漁師たちが人間をとる漁師になるとは思わなかったでしょう。彼らが暗やみの世の海の中で死んでいく人々を取り上げて救う人生を生きるとは思わなかったはずです。実は彼ら自身も暗やみの中にすわっている民であり、死の陰にすわっているガリラヤの人でした。だから彼ら自身も人間をとる漁師になるとは考えもしなかったはずです。ところが、イエス様は彼らが人間をとる漁師、人類の歴史をBCからADに変える歴史の主役になる希望を持っておられたのです。「?してあげよう」いる言葉の中に彼らに対するイエス様の希望、それを成し遂げられるイエス様の強い意志がよく現われています。彼らが人間をとる漁師になるのではなく、イエス様が彼らを人間をとる漁師にしてあげるのです。イエス様が主権的に働いてくださいます。彼らに資格があるとか、能力と実力があって人間をとる漁師になるのではなく、イエス様の希望とご計画によってできます。彼らはただイエス様についていけばいいです。イエス様について行くうちに、りっぱなキリストの弟子になり、人間をとることもできるようになるのです。これが恵みの世界です。私たちは足りなく、弱くても、イエス様について行けば、私たちの人格が変わります。栄光から栄光へと変えられていきます。そして、そのうちに人間をとる漁師として用いられる祝福も受けるのです。
私人身のことを考えてみると、漁師の子どもとして、知識も、能力もなく、怠け者でした。私の後輩のひとりは、フェローシップのメッセージを伝える私を見て「あの田舎ものが牧者なのか?と思った。」といいました。私自身も私のような田舎者にだれが結婚してくれるかと思っていました。だから一度もプロポーズすることができなかったのです。でも、イエス様について行くうちに、変えられてきました。自分のことで凝縮ですが、今は「あなたの顔も見るだけで恵みがあるよ」と言われる時もあります。いつの間にか、私のような人間を通しても多くの方たちがイエス様に出会って救われています。それは私のような人でも人間をとる漁師にしてあげると約束してくださったイエス様がなさったことです。私はGWの間に「하나님이 하셨어요! (God did it.)」という本を読んだのですが、ほんとうにすべてのことは神様がなさいます。では、ペテロたちはイエス様に呼ばれた時、どのように反応しましたか。
20節をご覧ください。「彼らはすぐに網を捨てて従った。」とあります。彼らはすぐに従いました。私の父が若い時、何度も漁師の仕事を捨てて都会に出て行こうとしていたことを考えてみると、ペテロたちも漁師の仕事がつらかっただけに、すぐに従うことができたかも知れません。同時に、私の父が捨てようとしながらもなかなか捨てることができず、70歳を越えた今でもやっていることを考えると、すぐに従うこともやさしくなかったと思います。でも、ペテロたちはすぐに網を捨てて従いました。イエス様について行くためには何かを捨てて行かなければならない時があります。タバコを吸っている方の話を聞いてみると、やめるべき時、捨てるべきときに捨てなかったことを後悔しています。今はやめたくてもなかなかやめられないと言っています。同様に、捨てるべき時に捨てることができなければ、イエス様について行くことにおいて苦労します。しかし、すぐに網を捨てたペテロたちのように捨てる決断をして従う人はりっぱなキリストの弟子になることができます。健全で良いものでも、捨てるべきものを捨てなければなりません。いくら素晴らしいものでも「キリストには変えられません。世の宝も、また富も、このお方が私に代わって死んだゆえです。(世のたのしみよ去れ、世のほまれよ行け。キリストには変えられません。世の何ものもー)」(聖歌521)。
21,22節をご覧ください。「そこからなお行かれると、イエスは、別のふたりの兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父ゼベダイといっしょに舟の中で網を繕っているのをご覧になり、ふたりをお呼びになった。彼らはすぐに舟も父も残してイエスに従った。」 イエス様は別のふたりの兄弟ヤコブとヨハネも呼ばれました。彼らは舟の中で網を繕っていましたが、イエス様に呼ばれると、すぐに従いました。母も父も残してイエス様に従ったのです。それは彼らの希望が人間をとる漁師に変わったからでしょう。また、父も母も神様が導いてくださることを信じたからでしょう。 こうして、イエス様は神の御国を拡張するために最初の弟子たちを招かれました。特に、イエス様は彼らを「人間をとる漁師」にしてあげる約束を持って招かれました。イエス様は約束を必ず守られます。弟子たちはイエス様について行くうちに人間をとる漁師、霊的な指導者として成長していくことができるのです。では、弟子たちを招かれたイエス様はどこで何をなさいましたか。

?.総合的な宣教活動を始められる(23?25)
 23節をご一緒に読んで見ましょう。「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された。」この御言葉からイエス様の活動を学ぶことができます。一つ目はガリラヤ全土を巡られたことです。町や村を巡回し、訪問していたのです。つまり、教会堂の外に出てキャンパスに行って伝道し、フィッシングする活動をなさいました。後で見るとイエス様はザアカイやマタイ、ペテロのしゅうとめの家などに訪問しますが、そのような活動もなさったのです。二つ目は会堂で教えたことです。路傍伝道、キャンパスのフィッシングだけではなく、兄弟姉妹たちを教会に招いて教えたのです。私たちの言葉で言うなら、教会でグループ聖書勉強や1:1聖書勉強を通して御言葉を教えたことです。三つ目は御国の福音を宣べ伝えたことです。これは伝道集会、夏修養会、世界宣教報告大会などを通して福音を宣べ伝えることです。今月28日韓国ソウルで行なわれる世界宣教報告大会は御国の福音を宣べ伝えられる大事な行事です。四つ目はあらゆる病気、あらゆるわずらいを直されたことです。心とからだの癒しも大切なイエス様の活動です。このようなイエス様の総合的な宣教活動の結果はどうですか。
24、25節をご覧ください。「イエスのうわさはシリヤ全体に広まった。それで、人々は、さまざまの病気と痛みに苦しむ病人、悪霊につかれた人、てんかん持ちや、中風の者などをみな、みもとに連れて来た。イエスは彼らをお直しになった。こうしてガリラヤ、デカポリス、エルサレム、ユダヤおよびヨルダンの向こう岸から大ぜいの群衆がイエスにつき従った。」ここでイエス様の宣教活動に対する人々の反応を見ることができます。イエス様がガリラヤ全土を巡って御言葉を教え、福音を宣べ伝えると、ガリラヤ地域だけではなく、シリヤ全体に広まりました。そして、さまざまの病気の人々がイエス様のところに来て癒されました。何よりもこれらの活動を通して大ぜいの群衆がイエス様につき従いました。

  結論的に、イエス様は天の御国を広げるために宣教の拠点を定めて弟子たちを招き、宣教活動をなさったことが分かります。イエス様は弟子たちもイエス様のように行なうことを望んでおられます。ガリラヤを始め、ユダヤ、世界を巡って神の御国を広げることです。つまり、弟子たちが会堂で御言葉を教え、御国の福音を宣べ伝えること、癒しの活動をすることです。それらの活動は、主が私たちにも望んでおられることです。私たちが巡るところは東京にあるキャンパスです。そして、日本と世界です。私たちがまず、キャンパスを巡って伝道して1:1で教え、修養会や宣教大会を通して福音を宣べ伝えることができるように祈ります。また、心と体の癒しのために積極的に祈り、癒しのみわざにも用いられるように祈ります。そのために私たちに求められることはイエス様に従うことです。20節を見ると「彼らはすぐに網を捨てて従った」とあり、22節に「舟も父も残してイエスに従った。」25節に「大ぜいの群衆がイエスにつき従った。」とあります。「従った」はすべて同じ言葉です。弟子として召された人も、病気の癒しを経験した大勢の群衆もイエス様に従いました。つまり、牧者も、宣教師も、兄弟姉妹たちもイエス様に従うことが同じです。個人も群衆も死に至るまでキリスト信仰を持ってイエス様に従うことです。私たちがイエス様に従って行くなら、主が私たちを人間をとる漁師にしてくださいます。魚のにおいがする漁師のような人でも、イエス・キリストの香りを放つ立派な弟子の人生を生きるようにしてくださる主の御名を賛美します。