2006年マタイの福音書第5講

心の貧しい者

御言葉:マタイの福音書5:1?16
要 節:マタイの福音書5:3 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。

今日は、母の日です。皆さん!お母さんが幸いであることを願っているでしょう。私たちの母の愛と恵みに感謝し、いつも幸いであるように祈ります。私たちは母の日を迎えて電話をかけたり、プレゼントを贈ったりしますが、母は毎日自分の子どもたちが幸いであるように願い、祈っていると思います。もちろん、父も子どもを愛し、子どもが幸いであるように願うものです。言うまでもなく、父なる神様は私たちがすべての点で幸いであるように願っておられます。?ヨハネ1:2を見ると「愛する者よ。あなたが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるように祈ります。」とあります。たましいに幸いを得ているということは救われていることです。つまり、悔い改めてイエス様を信じることによって天の御国の市民になっていることです。険しい世の中で罪の奴隷として滅び行く者が救われて天の御国の市民になり、たましいに幸いを得ていることは、それだけでも大きな恵みです。しかし、全世界を手に入れてもたましいに幸いを得ていないなら、それは悲しく惨めなことです。ですから、数多い殉教者たちはたましいに幸いを得ていることに満足し、感謝して殉教の道を歩んでいきました。今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと考えたからです。事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。ほんとうに素晴らしい生き方をされたと思います。では、神様は私たちのたましいに幸いを得ていれば、この世では不幸せに、病弱な人生を生きて良いと思っておられるでしょうか。いいえ、?ヨハネ1:2節にあるように、神様は私たちがすべての点でも幸いを得、また健康であるように願っておられます。悔い改めて天国の市民になった人々が今の世でも幸せに生きることを願っておられるのです。実は「幸い」こそが、クリスチャンの特徴です。初めも終わりも、まん中も、幸い一色です。この世での戦いは厳しいです。試練に泣かざるを得ないときもあります。信仰さえ揺さぶられる時もあります。しかし、天の御国の国民であるクリスチャンの人生は幸いです。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています(ローマ8:28)。
イエス様は「天国の大憲章」と呼ばわれる山上の垂訓を通して天国の市民としての生き方を教えてくださいます。ここで、私たちは本当に幸いな人生を送る方法を学ぶことができます。つまり、本当のクリスチャンの特徴である幸いな人生を学ぶことができるのです。
イエス様が神の御子としての活動をなさる時のユダヤ人たちはローマの支配を受けていました。植民地であり、自由と幸せがもうずいぶん前に消えたと思われる状態でありました。民族的にも、個人的にも喜びと望みが見えませんでした。でも、イエス様は山に登られ、弟子たちがみもとに来た時、こんな人々が幸いであると教えてくださいました。この教えの中に私たちがつねにあこがれている幸福への道があります。では、どんな人が幸いであるでしょうか。

1.心の貧しい者は幸いです
 3節をご一緒に読んでみましょう。「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」原語を見ると「Μακριοι οι πτωκοι τω πνευματι οτι(マカリオイ オイ プトーコイ トー プヌューマ ホティ 幸いかな 貧しい人たち 霊において というのは-岸義紘-)」となっています。つまり、イエス様は「幸いかな」という言葉から説教を始めておられます。昔も今も人々は幸いを求めていると思います。たまに渋谷駅とか、新宿駅西口の前ではある人々が白い衣を着て「あなたは幸せですか」と言っている声を聞きます。全然、幸せそうに見えない人々から「あなたは幸せですか。」と言われると、はっきり言って気持ち悪いです。ただ、彼らが人を集めるためにそんなに熱心に言っているのは、それほど幸せを求めている人が多いということだと思います。しかし、イエス様が山に登って宣言された幸いの御言葉には権威があり、力がありました。「幸いかな」と言われると、人々は思わず身を乗り出してイエス様の御言葉に耳を傾けたでしょう。彼らがあきらめていた幸いへの希望を呼び起こすような権威と力がイエス様の御言葉にあったからです。事実、神様はすべての人々が幸いになることを望んでおられます。
 ところが、イエス様は「幸いかな」という言葉の次に「貧しい人たち」と言われました。常識的に考えると納得できない不思議なことを語られたのです。貧しい人が幸いであるはずがないでしょう。皆さん、そう思われないでしょうか。貧乏な人が幸いであるとは言えないでしょう。ところが、イエス様は「幸いかな 貧しい人たち」と言われました。なかなか納得できない御言葉です。しかし、言葉の意味が分かれば理解できると思います。聖書講解シリーズ「マタイの福音書」によれば「貧しい」と訳されたことばは、物乞いをするという意味のことばから来ているそうです。何かを食べなければならない状態の人が物乞いをするという意味の言葉から来ているのです。ではいったいだれに物乞いをするのでしょうか。金持ちに物乞いをすることでしょうか。自分を霊的に助けてくれる宗教指導者に物乞いをすることでしょうか。ではだれに誰に対してでしょうか。神様に対して物乞いをすることです。先ほど原語を直訳した文章を紹介しましたが、そこに「貧しい人たち、霊において」とあります。霊において物乞いをするのです。つまり、神様との関係において、一日も自力では生きられないと思って神様にすがりつくことです。霊的に満たされなければならない、助けてもらわなければならないと思って神様に頼り、神様の助けを求める人が幸いなのです。
 私たちはみな自尊心を持っています。特に私は日本に来て日本の方は先進国の民としてプライドを持っていることが分かりました。「いまさら神に頼らなくても、自分の自力で生きていける」と考えている人が多いのです。実際に日本は自分が無宗教だという人が70%もいるし、聖書の神様を信じる人々は1%にもならないけれども先進国、経済大国になっています。だから、多くの人々は「神を信じるのは弱い人のすることだ。努力さえすれば神など必要ではない。もし必要なら年に一度ぐらいお寺や神社に行って厄払いをすればいいのだ」と思っているようです。しかし、そんなプライド、自尊心を持っている人が幸いではないのです。そうだったら、先進国であればあるほど幸せな人が多いはずです。しかし、日本では最近毎年3万人も越える人々が自殺している現状です。ものの豊かさの中で人々は心が満腹していて神様に頼らず、自力で生きようとするから限界にぶつかった時は自殺してしまう場合が多いのではないでしょうか。金持ちになっても、心の貧しい者は神様にすがりついて神様に頼って生きるから幸いです。ところが、人が金持ちになると、心の金持ちになってしまうことが問題です。金持ちになると、心が高慢になり、神様に頼らない、神様に対して物乞いをするような気持ちにならないから天国に入ることが難しいです。ですからイエス様は「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」と言われました。金持ちだけではありません。スポーツにも、芸術にも才能がある人もそうです。名誉や地位のある人もそうです。人はちっぽけなものでも人々に誇れるもの、頼れるものがあれば、神様に頼ろうとしません。
人類の先祖アダムもそうでした。彼に美しいエバが与えられ、エデンの園で豊かに暮らすことができると、神様に頼ることより、妻の話に耳を傾け、自力で生きようとしました。すると彼はサタンに誘惑されて神様に罪を犯し、幸福のエデンから追放されてしまいました。この間、勉強しましたがラオデキヤ教会は富んでいました。幸いな教会ではありませんでした。イエス様は「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない(3:17)。」と言われました。簡単に言えば、自分に対して偉そうに思っている人は幸いではないのです。しかし、霊的な貧困と惨めさを深く悟って謙遜になっている人は幸いです。自分の無能さ、足りなさを悟って神様にすがりつく人、謙遜にひざまずいて神様に頼って祈る人は心の貧しい人です。その人は幸いなのです。なぜなら、天の御国はその人のものだからです。天の御国とは神様が統治し、治めておられる国です。心の貧しい人は神様が治めておられる天国の自由と平安、喜びを所有することができます。険しい世の中でも大いなる神様の愛、キリストの力、聖霊の導きを悟りながら平安に生きることができます。つねに、自分が愛されていること、自分の力を超えている神様の力、聖霊に導かれていることを悟りながら生きることは、本当に幸せです。世界一の金持ちになっても、その人の心に天国がなければその人は幸いであると言えないでしょう。総理大臣になってもその心に天国がなければかわいそうな人生を生きるしかありません。しかし、心の貧しい人は幸いです。天国はその人のものだからです。その人は、この世で天国の祝福を味わい、経験することだけではなく、やがてイエス様の再臨の時、永遠の天国に入ります。永遠のパラダイスで主とともに永遠に生きるようになるのです。ですから、心の貧しい者は真に幸福な者です。
では、私たちはどうすれば心の貧しい者になれるでしょうか。それは神様の御前で自分を発見することです。私たちは、神様と出会うことによって心が貧しくなります。預言者イザヤは、王座に座しておられる主を見て、「ああ、私はもうだめだ。私はくちびるの汚れた者である。(イザヤ6:5)」と言いました。ダニエルは主にお会いして、「私の尊厳は破壊に向き、力を失った。(ダニエル10:8)」と言いました。イエス様の弟子ペテロは、「主よ、私のようなものから離れて下さい。私は罪深い人間ですから。(ルカ5:8)」と言っています。自分にプライドや高慢があるのは、まだ主を見ていないからです。人に対して好き嫌いがあることも、人の前で自分を考えるからです。しかし、御言葉を通して私たちが主の御前で自分を発見すると、私たちの心に貧しさが訪れます。私は心の狭い者で職場生活の中で心苦しい時がよくあります。自分が他の人よりまじめに、忠実に働いてきたのだと思う時もあります。学校や教師に対する批判の声を聞いたり、生徒たちのつぶやきを聞いたりすると、教師としての自分の無能さのために絶望する時もあります。人の前でいろいろを考えると、心が複雑になります。心の中に平安がありません。しかし、御言葉を黙想しながら日ごとの糧を書くとき、神様の御前にひざまずいて祈るときに、自分の高慢と、不信仰、偏狭な心を悟って悔い改めることができます。時には怠けている姿を悟って悔い改めることができます。すると心が貧しくなります。今日まで来たのはすべて主の恵みであることが分かるようになります。その時、私は神様の愛と聖霊に導きに感激し、再びキリストに力に頼ることができます。何よりも心に言い尽くせない平安を経験することができます。そして、心が貧しくなると、罪に対して悲しむ心も生まれます。

2.悲しむ者は幸いです。
4節をご覧ください。「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです。」とあります。心が貧しくなって神様に物乞いをする気持ちになると、悲しむ心も生じます。自分の罪深い姿が発見できて心が貧しくなると、涙を流すようになるのです。心が砕かれるからです。砕かれた心に神様の慰めがあります。詩篇51:17を見るとダビデは「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ、あなたはそれをさげすまれません。」と言いました。そうです。砕かれた、悔いた心になると、すべてのことを働かせて益としてくださる神様の導きも悟るようになります。自分の心を騒がせる必要がなくなるから柔和な者になります。

3.柔和な者は幸いです
 5節をご覧ください。「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するからです。」とあります。心が貧しくなり、すべてのことにおいて神様の主権を認めると、柔和な者になりますが、すると、その人は地を相続するようになります。気が短くてよく怒ると、人々がその人から離れて行きますが、柔和な人は人々に好かれる人になります。すると、当然な結果としてこの地上の生活の中でも祝福されるようになります。地を相続するようになるのです。

4.義に飢え渇いている者は幸いです。
6節をご覧ください。「義に飢え渇いている者は幸いです。その人は満ち足りるからです。」高慢な人は今のままの自分が正しいと思っています。人と比べれば自分は正しく、まじめに生きていると思う人は、それ以上成長できません。しかし、心が貧しく義に飢え渇いている人はさらに神の義を追い求めるから日々成長します。その人は栄光から栄光へと変えられてキリストの御姿にまで成長するようになります。成長が途中止まってしまうのではなく、キリストの御姿にまで満ち足りる人生になるのです。

5.あわれみ深い者は幸いです。
7節をご覧ください。「あわれみ深い者は幸いです。その人はあわれみを受けるからです。」 あわれむとは、人を赦し、さばかない態度です。なかなか人の誤りを赦せず、あわれむことができない人がいますが、その人は不幸せな人です。自分も赦されないし、哀れみを受けることができないから苦しい人生を過ごします。しかし、人を赦し、哀れむ人は、幸いです。自分も赦され、哀れみを受けるからです。私たちは、心が貧しくなって神様が自分を赦されたことを悟ると、私たちも他人を赦し、哀れむことができます。すると、私たちは神様のあわれみを受けます。ですから、他人を赦すことは、直接私たちの益につながります。

6.心のきよい者は幸いです。
8節をご覧ください。「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」 ここの「心がきよい」とは、神様の御前できよい、という事です。この世の欲望、人々に対する憎しみ、不平不満などで心が汚れていると神様を見ることができません。しかし、罪を告白して悔い改めると心がきよくなります。その人は神様を見ることがあります。つまり、神様との交わりができるようになるのです。

7.平和をつくる者は幸いです。
9節をご覧ください。「平和をつくる者は幸いです。その人は神の子どもと呼ばれるからです。」クリスチャンがノンクリスチャンに対して自分の義だけを主張するなら平和をつくることはできません。クリスチャンとして世の快楽、淫乱、不正、陰謀などから離れて生活すると、ノンクリスチャンに対して相対的に正しく生きていると思ってしまいがちです。そうすると、平和をつくることはできません。正しく行なうべきですが、正しい言葉だけを言うなら、トラブルメーカになってしまうのです。ですから、私たちは正しい言葉は少なくし、愛と赦し、哀れみの心を話し合わなければなりません。その人が平和をつくることができるし、神様の子どもと呼ばれるようにないrます。

8.義のために迫害されている者は幸いです。
10節をご覧ください。「義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。」「幸いな者」の最後の定義は、「義のために迫害される者」です。不思議なことに、世の中では心の貧しい者、悲しむ者、柔和な者、義に飢えている者たちを無視します。勝ち組と負け組みの中で負け組みに属している人として無視します。もちろん、神様の御言葉のとおりに生きる人は天国の市民として幸いな人生を生きることができます。ところが、その人の人生を理解することができない人々から迫害も受けるのです。しかし、あくまでも、義のために、キリストのために迫害されることを恐れる必要がありません。自分の罪のために、悪い癖のために迫害されるなら恐れ、悲しむべきでしょう。しかし、義のために迫害されている者は幸いなのです。天の御国はその人のものだからです。
12節をご覧ください。「喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。」とあります。義のために迫害されている者は天の御国を所有することだけではなく、報いが大きいのです。
以上で、私たちはどんな人が幸いであるかを学びました。イエス様はこのようにして幸いな人がこの世でどんな役割を果たすべきかも教えてくださいます。
13節をご覧ください。「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」
 塩は当時、食物が腐るのを防ぐ防腐剤の役目を果たしていました。現在は魚を冷凍室に保管すると、腐敗しませんが、私の子ども時は魚に塩をつけて保管しました。そして、塩気をなくしたら魚は腐敗してしまい、匂いがします。小学生の時、いたずらで塩気をなくした魚を教室に持ち込んだ友だちがいました。魚をビンの中に入れてきて彼の好きな女の子の前でふたを開けましたが、臭い匂いのために教室の人は皆外に出たことがあります。塩気をなくした魚は腐敗してしまい、ものすごく臭い匂いがするのです。もし、海の海水に3%の塩気をなくしたら腐敗した魚の匂いが全世界の隅々に広がるはずです。しかし、3%の塩は海が腐るのを防いでいます。同様にこの世が腐敗し続けていると言われますが、それでも塩気を保っているクリスチャンがいるから現状維持ができているのではないでしょうか。しかし、クリスチャンさえ塩気をなくしていくなら、この世はどんどん、腐敗してしまいます。教会も、学校も、会社も、国も、塩気を保つ人がいなければ腐敗し、腐ってしまいます。どうか、私たち一人ひとりが自分のことによって、世の腐敗を防ぐ塩の役割を果たすことができるように祈ります。私たちは地の塩です。イエス様は私たちに「あなたがたは塩になれ!」と言われませんでした。「あなたがたは、地の塩です。」と言われたのです。イエス様を信じてイエス様の御言葉を信じている人々はこの地の塩なのです。ですから、私たちはその信仰さえ保っていればこの世の腐敗を防ぐことができます。この世の堕落と滅亡から守ることもできます。どうか、私たちが塩気のあるクリスチャンとして生きるように祈ります。
 14、15節をご覧ください。「あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。また、あかりをつけて、それを枡の下に置く者はありません。燭台の上に置きます。そうすれば、家にいる人々全部を照らします。」とあります。光は広がるものです。他のものに影響を及ぼすのです。地球の生き物は太陽の光がなければ生きられません。光は殺菌の力もありますが生き物に栄養分を与えて成長させる力もあります。光は太陽のエネルギーをこの地球まで伝達してくれる役割も果たしています。光ファイバーは人の声も、画像も伝達してくれます。私たちクリスチャンには世界の光としてこの世界に神の御国を伝達する使命が与えられているのではないでしょうか。神の御国が自分に来て止まるのではなく、ADSLより速い光のようにすばやく伝達するのです。すると、暗やみと死の陰にすわっている人々を偉大な光に照らされて新しい人生を生きるようになります。結局、私たちは塩として世の腐敗を防ぐことだけではなく、世界の光として全世界に影響力を及ぼす者として生きなければなりません。ですから、イエス様は言われます。

結論的に16節をご一緒に読んでみましょう。「このように、あなたがたの光を人々の前で輝かせ、人々があなたがたの良い行ないを見て、天におられるあなたがたの父をあがめるようにしなさい。」私たちが世界の光として輝くと、人々が私たちの良い行ないを見るでしょう。もちろん、私たちが幸いであり、私たちのうちに住まわれるキリストの光を輝かせる時に、人々が私たちの良い行ない見ます。教会に通っていると言いながらも、夫婦喧嘩が止まらなく、不幸せに生きているなら、人々が私たちの良い行ないを見ることができません。心が貧しくなるところか、自分は教会に通っているから偶像崇拝者より正しい生き方をしているんだという高慢な心で生きるなら、彼自身も天国の平安と喜びを経験することができません。しかし、心の貧しい者として謙遜になって天国の市民らしく生きるなら、その人は本当に幸いな人生を生きるようになります。険しい世の中でも砂漠のオアシスのような天国を所有して体験するからです。そして、神様は常に私たちが幸せに生きることを望んでおられます。ところが、人々は私たちが幸いな人生を見て、「やはりあなたは日ごろの行ないがいいからね」と言います。クリスチャン夫婦が互いに謙遜になって仲良く過ごすと「奥さんもいい人でほんとうにすばらしいですね。」とか「旦那さんもやさしい人でいいですね。」と言われるようになるのです。ところが、そのような時にこそ謙遜にならなければなりません。私たちは、自分の人柄とか、行ないによるのではなく、私たちのうちにおられるキリストの力、聖霊の導きであることをあかししなければなりません。事実、心の貧しい人に天国が臨まれて神様がその人を支配し、導いてくださるからです。心の貧しい者は大いなる神様の愛、偉大なキリストの力、繊細な聖霊の導きを体験しながら幸いな人生を生きることができます。すると、地の塩として世の腐敗を防ぎ、世界の光としてキリストの光を輝かせて人々が父なる神様をあがめるようにすることもできます。どうか、毎日御言葉を通して神様の御前で自分を発見して悔い改め、心の貧しい者として幸せな人生を生きることができるように祈ります。