2006年ヨハネの黙示録第3講  

悔い改めて、初めの行いをしなさい

御言葉:黙示録2:1?7
要 節:黙示録2:5 「 それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。」

 私たちはヨハネの黙示録1章の御言葉を通してイエス・キリストの黙示について、ヨハネが黙示を受けるようになった背景について、そして、ヨハネに現われた栄光の御姿について学びました。その中で、ヨハネは七つの教会をあて先にして「忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。」と挨拶しています。
 そして、ヨハネは2、3章にイエス様が七つの教会に送られた手紙を書き記しています。その内容はイエス様が各々の教会に語られた賞賛と叱責、主の再臨、一般信徒への警告、勝利者への約束などについてです。パウロも七つの教会に手紙を送りましたがそれぞれが違う書物になっていました。しかし、ヨハネが七つの教会に送られたイエス様の手紙を一つの書物に書き記しています。と言うのは、七つの教会の聖徒たちが自分の教会に送られた手紙だけではなく、他の教会に送られた手紙も読んでほしいと言う著者の狙いがあったと思われます。つまり、エペソ教会に語られたイエス様の御言葉はエペソ教会の聖徒たちだけではなく、スルミナにある教会も、ペルガモにある教会も読んでほしいということです。さらに当時の小アジアにあるすべての教会、時代を超えて全世界にある教会の聖徒たちが読んでほしいという著者の狙いがあったのです。
ですから、今日のすべての信者も、この七つの教会への主の手紙から教訓と警告を受けなければなりません。ある教会は賞賛されるだけですが、ほとんどの教会は賞賛と叱責の両方を受けています。イエス様はほめるべき事はほめられ、叱るべき事は叱られました。これから七週間、私たちは七つの教会に送られた手紙を学びます。どうか、聖霊の助けによってこの各教会への主の御姿、賞賛や叱責、警告や約束を一つ一つ深く味わうことができるように祈ります。謙遜な態度を持って聖霊の導きを祈りつつ、熱心に、この預言の言葉を朗読し、その中に書かれていることを心に留め、守り行なう者は幸いです。皆さん。幸いな者になりましょう。

今日の御言葉は主がエペソにある教会へ書き送られた手紙です。でも、これはイエス様が私たちの教会を見て、そのわざを調べ、評価されているところであるとも言えます。どうか、御言葉を通して自分の愛と信仰、そして自分の行ないについて深く考えて悔い改め、新しく出発することができるように祈ります。

1節をご覧ください。「エペソにある教会の御使いに書き送れ。『右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方が言われる。』とあります。エペソは、東のアジヤと西のローマを結ぶ貿易中継都市であり、商業が盛んな都市でした。宗教も盛んな都市であってアルテミスの壮大な神殿は、世界の七不思議の一つになっていました。神殿娼婦などの宗教的な不道徳や魔術も盛んなところでした。パウロが第二次伝道旅行をする時、プリスキラとアクラも同行しましたが、彼らがエペソに着くと、二人はそこに残されました。紀元後52年頃のことです。そこにアポロが来ましたが、彼は霊に燃えてイエス様のことを正確に語り、また教えました。ただ、ヨハネのバプテスマを知らなかったので、プリスキラとアクラ牧者が彼を自分の家に招き入れて神の道をもっと正確に彼に説明したこともありました(使徒18:19?21、25)。そして、パウロは第三次伝道旅行の時も、エペソにより、三年の間、夜も昼も、涙とともに聖徒たちひとりひとりを訓戒し続けました。涙とともに一人ひとりと1:1聖書勉強をしながら弟子養成のみわざに励んだのです。このように、初期のエペソ教会は霊に燃えている入るアポロの熱心さ、主のしもべを招き入れて御言葉を説明するプリスキラとアクラ牧者の優しさ、夜も昼も、涙とともに兄弟姉妹たちに仕えるパウロの福音信仰によってとても素晴らしい教会になっていました。使徒の働き2章に記されている初代教会、御言葉の教え、祈りと熱い愛の交わりに満ちていた素晴らしい教会がエペソ教会であったのです。時は紀元後57年頃でした。
ところが、この黙示録が書かれている時は、先週も話したように紀元後96年頃です。つまり、イエス・キリストが「エペソにある教会の御使いに書き送れ。」と言われた時は、エペソ教会が設立されてから40周年を超えているころだったのです。私たちのUBF教会も設立してから40年を超えましたが、教会の歴史によると、設立してから40年目の頃が危機の時であると言われます。私たちもちょうど40周年を迎えた2001年に大きな試練を経験しました。おそらく、エペソ教会も設立してから40年を超えると、設立当時の熱烈な熱意、キリストとの初恋に陥っていた初めの愛と感動が冷めていたのではないでしょうか。初期開拓者たちが持っていた情熱も、福音伝道と弟子養成に対する使命感も弱くなっていたようです。霊に燃えていたアポロの使命感も、兄弟姉妹たちを招き入れてもてなし、御言葉を教えていた平信徒プリスキラとアクラの親しき愛の交わりもがだんだん見えなくなっていたのです。涙とともに一人ひとりを訓戒していたパウロのような姿も見えなくなっていました。
そこで、イエス様は、右手に七つの星を持つ方、七つの金の燭台の間を歩く方としてエペソ教会の聖徒たちに言われます。「右手に七つの星を持つ方」とは、イエス様が主の民を完全に守るための御使いを備えておられることを示唆してくれます。「七つの金の燭台の間を歩く方」とはそれぞれの教会の間を歩いておられる主の性質を語られています。では、この守りの御使いを備えて、教会の間を歩き回っているイエス様が、エペソ教会に対し、何を言われましたか。
2?3節をご一緒に読んで見ましょう。「わたしは、あなたの行ないとあなたの労苦と忍耐を知っている。また、あなたが、悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。あなたはよく忍耐して、わたしの名のために耐え忍び、疲れたことがなかった。」
すべてをご存知であられる主は、エペソのクリスチャンの行ない、労苦、忍耐を知っていると切り出されました。私たちは、イエス様から隠せるものは何一つありません。ヘブル人への手紙には、「造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。(4:13)」とあります。そうです。神様は私たちのすべてを知っておられます。もし、隠れたところで、淫乱な雑誌やインターネットの成人サイトなどを見ても神様は知っておられます。ビデオカメラに写されなくても、私たちの行ないはさらけ出されています。それは必ずしも悪いことだけがさらけ出されているのではありません。人の目に隠れている、良い行ないもさらけだされているということです。愛による行ない、福音のために、人のために尽くした労苦と忍耐も神様の目には見られています。毎週キャンパスに行って伝道してもなかなか伝道の実が結ばれないと、私たちは落胆しやすいです。しかし、神様は私たちに目に見える実がなくても日本宣教のために、フィッシングのためにささげて祈りと労苦を知っておられます。弟子養成のためにあきらめないで祈り続け、伝道し続けている忍耐を神様は知っておられます。この間、私は金南帝牧者の息子を見て祈るために埼玉の家に行ってきましたが、南帝牧者の家族が毎週教会まで来ることは簡単ではないことがよく分かりました。「車もなかった時は大変だったんだなあ」と思いついた時、私は、南帝牧者とハンギョル宣教師の信仰が大きく見えました。ほんとうに、神様は毎週の主日礼拝のために朝早く起きて遠いところから来ている方たちの労苦を知っておられます。イエス様は私たちが隣人を愛し、助けるために行なったすべての労苦も知っておられます。マタイ25章を見ると、人が旅をしている時に、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げること、また、人の病気や人が牢にいるのを見てたずねることはイエス様ご自身にしたことだと言われました。イエス様は私たちが最も小さい者たちにしたことも知っておられ、その行ないを御自分にしたこととして受け止めてくださるのです。 
エペソの教会は、40年の歴史の中で神様のために、人のために本当に多くの働きをしてきました。もちろん、その中には教会を通い始めたばかりの人もいたでしょうし、クリスチャンになったばかりの人もいたでしょう。イエス様は、そのエペソの人たちの「労苦と忍耐」をほめておられます。
 また、彼らが、「悪い者たちをがまんすることができず、使徒と自称しているが実はそうでない者たちをためして、その偽りを見抜いたことも知っている。」と言われました。当時エペソの教会には、巡回する使徒や預言者がいましたが、しばしば偽りの奉仕者が出没していました。それを見分けることができたことも、イエス様は知っておられます。
 イエス様はエペソの聖徒たちがよく忍耐して、キリストの名のために耐え忍び、疲れたことも賞賛してくださいました。りっぱなことに、この労苦と忍耐をエペソの聖徒たちは、疲れに感じたことがありませんでした。本当に素晴らしいことです。この間、パウロチームの聖書勉強の時、ステパノ宣教師は「すごいなあ!」と驚いていましたが、よく体の疲れを感じている私も感心するところです。主のための労苦と忍耐、誤った教えと偽りを見抜いていたことは、本当に素晴らしいことでしょう。ところが、そこには、落とし穴、罠がありました。主への奉仕と愛の行ないが、いつしか、「主の愛から、当然なすべきことをしただけ」ではなく、「自分たちの誉れ、誇り」となって行きました。主の愛から離れると、同時に隣人への愛もなくなっていきます。使徒と自称している悪い働き人に警戒するあまりに、兄弟愛もなくしていく罠に陥っていきました。周りの人々の行ないや言葉を気にしているうちに、自分の方から進んで愛するキリストの愛を失っていきました。正しいことを主張しながら愛と哀れみの心を失っていたのです。もちろん、正しい教理の正当性も必要ですが、それよりも、大切なのは愛です。すべての律法を全うすることは愛であるからです。神様を愛し、隣人を愛することこそ律法を全うすることです。ところが、エペソにある教会の人たちは、しっかりと主のために働いていましたが、いつの間にか「愛」を置き忘れていました。教会としてはきちんと機能して、教理的にも健全としていました。けれども、主に対する愛、また兄弟姉妹に対する愛がいつの間にかなくなっていたのです。エペソ教会は宣教事業部、日ごとの糧部、賛美部、レクレーション部などがよく活動しているけれども、心をともなわない教会となってしまいました。皆まじめに教会に通っているし、間違っていない正しい教会なのですが、愛がなかったのです。そこで、イエス様は彼らに何と言われましたか。
4節をご覧ください。「しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。」 イエス様は彼らには非難すべきことがあると言われました。それは「初めの愛」から離れてしまったことです。「初めの愛」とは救われた当初の愛、十字架の愛のことです。救われているクリスチャンなら、だれでもイエス・キリストに出会い、十字架の愛によってすべての罪が赦された時の感激は忘れられないと思います。私たちもイエス様に対する初恋、初めの愛に感動して情熱的に福音を伝え、純粋な心で主のみわざに仕えたでしょう。事実、イエス様に対する初めの愛が心に燃えている時はいくら苦労しても疲れを感じませんでした。その時に多くの兄弟姉妹たちに福音を伝え、多くの伝道の実も結びました。何よりも心にキリストへの愛が燃えている時は、いつも喜びに満たされ、情熱的に生きることができました。そして、苦労しても、それに対して自分が苦労したと思うのではなく、救われた者、キリストの弟子になった者の特権として思いました。エペソ教会の聖徒たちも「初めの愛」熱く、熱く燃えていました。ところが、今はその初めの愛から離れてしまったのです。それこそ非難されるべきことでした。実は私たちが非難される時も「初めの愛」から離れている時です。私に愛がなければ、他のものは存在意味を失ってしまうからです。パウロはコリント?の13章でこう言っています。「たとい、私が人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」そのとおりです。コリント教会に限らず、すべての聖徒たちには愛がなければなりません。エペソ教会もそうです。実は、初めのエペソ教会の聖徒たちは愛に根ざし、愛に基礎を置いていました。パウロが書いたエペソ人への手紙を見ると、こういう祈りをしています。「愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力をもつようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。(3:17?18)」と祈っているのです。ところが、ヨハネがイエス・キリストの黙示を受けている時のエペソ教会は人知をはるかに越えたキリストの愛が知ることができたのではなく、むしろ「初めの愛」から離れていたのです。そこで、イエス様は彼らの労苦と忍耐、霊的な分別力をほめながらも彼らが「初めの愛」から離れてしまったことに対しては非難されたのです。ではどうすれば私たちは「初めの愛」を回復することができるでしょうか。
5節をご一緒に読んでみましょう。「それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。」
ここに、私たちは「初めの愛」を回復するためになすべき三つのことが勧告されています。第一に、どこから落ちたかを思い出すことです。第二に、悔い改めることです。第三に、初めの愛に基づいた行ないをすることです。そして、このような勧告をしたにもかかわらず、悔い改めることをしなければ、あなたのところに行って、「あなたの燭台をその置かれた所から取り外してしまおう」と言われました。つまり、教会が、世の光としての機能を果たさなくなる、神様の栄光を現せなくなるということです。光り輝けなくなった教会は、形だけであっていのちのなくなったぬけがらの教会です。今、世の中は暗くなっています。姉歯元建築士による耐震偽装事件、逮捕されたライブドアの堀江貴文容疑者による虚偽発表などは、この世の中がどんなに腐敗し、暗くなっているかを示唆してくれます。それなのに教会さえ、世の光としての役割を果たせなくなると、世の中は、どんなに荒れ果てることでしょうか。主は教会が世の光としてきちんと光り輝くことを願っておられます。私たちの燭台をその置かれた所から取り外してしまうさばきを主が望まれているはずがありません。ですから、主が「わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取り外してしまおう。」と言われたのは、それほどエペソ教会の聖徒たちが悔い改めてくれることを願っておられることです。彼らが悔い改めてくれるはずだと、主は期待しておられるのです。
ではエペソ教会の聖徒たちは、どこから落ちたでしょうか。私は彼らが交わりから落ちたと思います。使徒の働き2章に記されている初代教会の姿を見ると交わりがよくできていました。一つのところに集まって祈る祈りの交わり、いっさいの物を共有する生活の交わり、食事の交わりなどがありました。人間にとってこういう愛の交わりはとても大切です。
愛の神様は人を神様と交わる存在として創造されたからです。神様はアダムが「ひとりでいるのは良くない」と思われ、彼のあばら骨の一つを取ってエバを作り上げ、助け手にくださいました。ですから、神様はわれわれ人間が互いに助け合い、愛し合って交わることを望んでおられます。そして、もし、私たちが完全に、変わらずに愛されて交わりができるなら私たちの心理的、霊的な必要が満たされて満足する生活ができるはずです。そうなると、ストレスが解消され、悩みと苦しみも解決されるでしょう。カウンセリングに関する本を読んでみると、子どもの時から親との交わり、友だちとの交わりができている人は大人になっても精神的に健康な生活ができるそうです。ところが、現代社会は少子化のために子どもの時から交わりの機会が少なくなっています。人の交わりができなくても神様との交わりができれば、心が安定的になりますが、多くの人々は自分が神様に愛されていると感じていません。その理由は神様が私たち人間を愛されることをおやめられたからではありません。人間が神様の愛を素直に受け入れていないからです。どんなに熱心に働いても、どんなに正しく生きていても愛されていないなら、空しいものです。人間は愛されないと、幸せも、喜びも自分のものにすることができません。平安と喜び、幸せをもたらすのは愛です。親密に交わる愛です。
「From Stress To Well-Being」の著者Craeg Ellisonはこの親密な愛の交わりを三つの種類に分けています。霊的な交わり(霊)、情緒的な交わり(魂)、性的な交わりがそれです。霊的な交わりは永遠を慕い求める心を持って神様と交わり、そのような霊的な体験を証しすることです。情緒的な交わりとは互いに顧みて関心を注ぎ、親しく交わる中で共通の価値観と夢、目標、経験などを分かち合うことです。そして、性的な交わりとは霊的な交わりと情緒的な交わりに基づいて夫と妻が愛の中で肉体的に一つになることです。私たちはこのような交わりを保つ時に心の奥底から平安と喜び、幸せを感じるようになります。こういう交わりは人の心に目的意識を高めてくれるし、成就動機と楽天的な態度を与えてくれます。しかし、こういう交わりができていなければ、自ら自分の存在感を高めるために無理してさまざまな方法を探します。たとえば、競争し、欲張って嫉み、人を無視します。酷いときは犯罪にもつながります。人との交わりがよくできていない人ほど競争心が強く、劣等感も大きいものです。ところが、こんな態度によって自分の存在感、アイデンティティが得られるのではありません。むしろ、ストレスがたまるだけです。あるいは、人々の関心を引っ張ることができなければ、まるで自分には何の意味も価値もなさそうに感じられて落胆し、あきらめてしまいます。ただ、まじめに、熱心に働いても心の中には喜びと満足を得ることができません。
信仰生活もそうです。神様と霊的な交わり、教会の聖徒たちとの情緒的な交わり、夫婦の交わりがよくできなければストレスがたまります。特にクリスチャンにとって聖霊との親しき交わりが必要です。エペソ教会も「初めの愛」を回復するためには神様と交わり、聖徒同士の交わりをすることから始めなければなりません。悔い改めるとは、自分のあり方を変えることです。初めの行ないに戻ることです。それは初代教会のように、また、初期のエペソ教会のアポロやプリスキラとアクラ牧者たちのように神様と交わり、人と交わることを行なうことです。そこに幸せがあります。喜びがあります。神様はエペソ教会が労苦と忍耐によって主のみわざのために励むことを賞賛されましたが、それだけではなく、互いに愛し合うこと、交わることを切に願っておられます。それは私たち東京UBF教会にも同じでしょう。皆さん平信徒として自分の仕事をしながら、主のみわざのためにも苦労し、忍耐しながら忠実に主のみわざに仕えています。神様が賞賛しておられるしょう。でも、神様は私たちが、「初めの愛」から離れると、非難されます。もし、「初めの愛」から離れているなら、どこから落ちたか思い出す必要があります。それは神様との交わりによってできます。神様との交わりは信仰がなくてはできません。信仰は神様との交わりの土台です。神様を信じる信仰がるなら、互い合うことが難しくても、人と交わることが難しくても、人々に関心を示し、愛することができます。貧しくても信仰によって人を招き入れることができます。人に対する信頼も大切です。私が神様を信じ、人を信頼するなら、私自身が愛されている確信を持つようになるし、人々から愛されることもできるようになります。そこで霊的な交わり、情緒的な交わり、性的な交わりがうまくできるようになります。特に、個人的に神様の御前に出て行って祈り、交わることは霊的な交わりの礎石となります。どうか、神様と交わりながらいつまでも「初めの愛」によって生きることができるように祈ります。
6節をご覧ください。「しかし、あなたにはこのことがある。あなたはニコライ派の人々の行ないを憎んでいる。わたしもそれを憎んでいる。」とあります。「ニコライ派」がどのような教派であったかは、不明ですが、教会に悪い教えの影響を与えた教派でありました。避けるように定められていた偶像崇拝の供え物を食べさせ、不品行を行なわせていた「バラムの教え」(2:14,15)に似た教えをしていたようです。私たちはそういう教えを憎まなければなりません。先週、京大生の集団性暴力事件がありましたが、私たちはそのような不品行を憎まなければなりません。イエス様もそれを憎んでおられるからです。
 7節をご一緒に読んでみましょう。「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。勝利を得る者に、わたしは神のパラダイスにあるいのちの木の実を食べさせよう。」ここで「諸教会」に言われることでありますから、このメッセージはエペソにある教会だけではなく、すべての教会に対する聖霊のメッセージであることがわかります。私たちも聖霊によって、イエス様のことばを聞きます。「勝利を得る者」とは、だれのことでしょうか。同じヨハネが手紙の中で、勝利者の定義をしています。「私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。世に打ち勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。(1ヨハネ5:4?5)」イエス様を神の御子と信じる信仰が、勝利者です。何か特別なことをする人が勝利するのではなく、キリストを信じて、そのうちにとどまっている人が勝利者です。そして、その人は、「神のパラダイスにあるいのちの木の実」を食べます。エデンの園に、いのちの木が中央にありました。そして、黙示録22章に天のエルサレムの情景が書かれていますが、その都の中央にいのちの川が流れていて、川の両岸に、いのちの木があり、実がなっていると書かれています(2節)。勝利者は、永遠の都で永遠のいのちの実を食べることができます。

 結論的に、神様はシャロ?ム (安定、完成、完全、調和、健康、健全な人間関係、平安な状態) であるように願っておられます。ところが、このシャロームは労苦と忍耐によって得られるものではありません。神様のみわざに忠実であることも大切ですが、最も大切なのは愛です。シャロームは神様との愛の交わりによって得られるものです。どうか、悔い改めて初めの愛を回復し、初めの行ないをすることによって私たちの生活がいつもシャロームでありますように祈ります。