2006年ヨハネの黙示録第7講

目をさましなさい

御言葉:ヨハネの黙示録3:1?6
要 節:ヨハネの黙示録3:2A 「目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。」

先週、私たちは「近ごろの行ないが初めの行ないにまさっている教会」テアテラ教会のことを学びました。皆さん、先週の行いが先々週の行ないにまさっていたでしょうか。どうか、今週の行ないは先週の行ないにまさるものとなるように祈ります。
今日学ぶサルデスは、先週に学んだテアテラの町の南西に位置していました。現在のトルコのサリヒリという都市の西に位置しています。かつて毛織物(Wool Making)と染色技術が盛んで、大変栄えていた町でした。特にここは、平野より400mほど高い位置にあり、古代ギリシヤの城砦の町として、難攻不落の町として知られていました。実際にそこに入るには一つの道しかなかったのでサルデスの住民は「だれも自分たちの町によじ登ることができない」という高慢と自負心を持っていました。平和の都市としてあり続けるだろうと思っていたのです。しかし、難攻不落の町であったにもかかわらず、紀元前549年と218年に敵軍によって占領されました。一度目は敵軍のペルシヤ軍がサルデスの町にやって来た夜、ひとりの兵士はかぶとが絶壁を転がり落ちる音を聞きました。そこで彼らは城壁を護っている兵士がうたた寝をしていることに気づいて城壁をよじ登りましたが、やはり見張りの兵士も、町の人々も寝ていました。結局サルデスの住民も、見張りをしている人さえも目を覚ましていなかった時に敵軍によって陥落されてしまったのです。二度目もほとんど同じでした。また、この町は、AD17年にあった大きな地震によって町の一部が破壊されました。つまり、この手紙が送られたAD90年代の人々は、町の歴史を通して「盗人のように来る」敵や予期しなかった災いによって町が破壊され、滅びることもありうることがよく分かっていたのです。ですから、サルデスにある人々にとって「目を覚ましなさい」と言われるイエス・キリストの御言葉は身にしみる言葉であったに違いないと思います。平和に過ごしている私たちにとっても身にしみる御言葉であります。
どうか、本文の御言葉を通して目を覚ますように。主の恵みを思い出して感謝し、御言葉を堅く守る生活、悔い改める生活によって白い衣を着て、イエス・キリストとともに歩む者となりますように祈ります。

?.イエス様の自己紹介
 1節をご覧ください。「また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。」イエス様はサルデス教会に対してご自分を「神の七つの御霊、および七つの星を持つ方として紹介しておられます。「神の七つの御霊」とはこの世と教会に影響を及ぼし、働いておられる聖霊を指しています。聖霊はアダムの子孫として死ぬべき人間を生かす働きをなさいます。?コリント15:45節を見ると「聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。」とあります。聖霊は生かす御霊なのです。サルデス教会は、生きているとされていますが、実は死んでいる状態でした。死んでいる状態の聖徒を生かす方が神の七つの御霊に表現されたイエス様です。イエス様は彼らを御言葉によって生かします。イエス様はご自分を「七つの星」として紹介しておられますが、「星」とは神様の御言葉を伝え、迷っている人々を真理のイエス様へと導く役割をします。マタイの福音書2:9を見ると、星が東方の博士たちを先導して幼子イエス様の所まで導きました。星によって東方の博士たちは救い主イエス・キリストに出会い、この上もなく喜びました。星は博士として生きていましたが、実は死んでいた東方の博士たちのたましいを生かす働きをしたのです。このように、人は星のような御言葉によって正しく導かれ、いのちが生かされます。ヨハネ5:25を見ると「まことに、まことに、あなたがたに告げます。死人が神の子の声を聞く時が来ます。今がその時です。そして、聞く者は生きるのです。」とあります。御言葉を聞く者は生きるのです。
ですから、神の七つの御霊、及び七つの星を持つ方として表現されているイエス様は聖霊と御言葉によって死んでいるサルデス教会を生かす働きをなさいます。それで、私たちが私たちのうちに働いておられる聖霊、御言葉の権威を信じて御言葉を聞くなら、生きる者となるのです。生きていますが、実は死んでいる状態の人であっても、御言葉を聞くなら、正しい道を知り、いのちが生かされることを経験するようになります。では、サルデス教会の状態はどうでしたか。
もう一度1bをご覧ください。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。」とあります。厳しい言葉です。サルデス教会はイエス様を信じてクリスチャンになっていたから「生きている」とされていました。イエス様も彼らがイエス様を信じているクリスチャンであると言うことを知っておられます。ところが、彼らは「クリスチャン」として呼ばれているだけであって、実は死んでいる状態でした。決してイエス様は否定的な思考で物事を考える方ではありません。あわれみ深く、寛容な方です。今まで四つの教会を学んできましたが、やはりイエス様はできる限り、教会全般について良いことを語りたいと思っておられる方です。でも、イエス様が七つの御霊として七つの教会を行き巡る中でサルデス教会について言わざるを得ないことがありました。それは「大多数の聖徒が死にかけている、つまり、彼らは霊的に眠りかけているような状態である」ということです。まさに「もう死んだ」とも言える状態でありました。
「死んでいる」ということは成長もなく、変化もないということです。実を結ぶこともできません。サルデス教会の聖徒たちは、当時の先進国リュディア首都の市民として、その中でも聖なる国民としてのプライドを持っていました。礼儀正しく、親切であり、聖書勉強や礼拝にもまじめに参加していました。日曜日になると多くの人が朝寝坊をし、遊びに行きますが、サルデス教会の聖徒たちはまじめに教会に通い、いろんな活動をしていました。それで、周りの人々から「あなたがたこそ生きている」とされていました。しかし、イエス様がご覧になると、彼らは死んでいました。親切でまじめな生活がマンネリ化されているだけであって、本当は死んでいたのです。穏やかな教会であって何の問題もなさそうに見えましたが、実は問題がありました。それは問題がないことが問題でした。人は問題があるとその問題の解決を求めて必死に祈り、神様に頼ります。そして、そのような取り組みの中で、聖霊の働き、御言葉の力を体験していきます。
私は日本に来てビザ問題、子どもの問題、職場の問題があった時に、叫びの祈り、涙の祈りをささげざるを得ませんでした。時にはとてもつらかったし、さびしく、悲しかったときもありました。でもそれらを通して霊的にいろんなことを悟り、学びました。問題の中で神様のあわれみ、神様の恵みとは何なのか、自分がいかにちっぽけなもので、愚かなものであるかも悟りながら神様の大いなる恵みを経験しました。私だけではなく、多くのクリスチャンが問題を通して心が貧しくなって神様に祈り、神様に頼って大いなる神様の恵みを体験してきたでしょう。問題を通して生きている者らしく生きることができるし、また、問題を通して霊的に成長し、実を結んでいくのです。ですから、パウロはこう言いました。「そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです(ローマ5:3?5)。」パウロがさまざまな問題だけではなく、患難さえも喜んだのは、それを通して聖霊によって神様の愛が自分の心に注がれていることだったからなのです。
私たちは何の問題もなく、平和に暮らすことを願いますが、不思議なことに何の問題もない日が続くと、人間は神様に必死に目を向けなくなるのです。すると、使徒たちによって示された熱心も情熱も冷えていきます。結局、霊的な感覚が鈍くなって神様との交わりも失われていきます。うたた寝(正式に床に入らず、しばらく寝ること、眠り)の状態になり、サタンに征服されてしまいます。結局、死んでいる状態になってしまうのです。それがサルデス教会の状態でした。
ところが、この状態はサルデス教会だけではなく、私たちの教会、私の状態でもあるのではないでしょうか。かつて早稲田大学も、東京大学もサークル活動をしていました。でも、今はキャンパスミッションを使命としていながらもサークル登録さえできない状態になっています。天幕生活、共同生活をしながらUBFで弟子訓練を受けて牧者や宣教師になったことをプライドにしていたのに、今はそういう活動が死んでいます。私個人的にも、さまざまな問題が解決され、先週は私以外の家族全員も永住権を取りましたが、霊的な熱心と情熱は冷えている自分を告白せざるを得ません。「あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。」と言われる主の御言葉は、まさに私に言われる御言葉です。私は御言葉を通して悔い改めていますが、挫折の中でも希望を見ることができました。一つは東京UBFのアブラハム、アブラハム牧者の変化です。今年初めにアブラハム牧者は自ら進んで兄弟牧者チームをヨシュアチームに名づけ、四つの祈り課題も提示しました。また、先々週は新学期のみわざの準備のために牧者たちの集まりをしたいと提案してくれました。牧者たちが日本宣教のために主体的に積極的に取り組んでいこうとしているのです。本当に素晴らしいことです。もちろん、祈りの課題のとおりに、牧者たちが毎週所感を書いて発表する中で受けた恵みを分かち合い、心を合わせて祈り、御言葉を口ずさむ生活をすることはやさしくないだろうと思います。特に牧者たちが会社生活をしながらキャンパスに行ってフィッシングし、弟子養成することはなかなか難しいでしょう。しかし、そのような状況の中でさまざまな問題にぶつかり、その問題のために神様に切実に祈りながら、聖霊と御言葉の力を体験するでしょう。そのうち、私たち自身が生かされて霊的に成長するでしょう。成長だけではなく、豊かな実も豊かに結ぶこともできます。そうなると、日本UBF開拓20周年記念事業として祈っている教会堂建築も神様の助けによってできます。教会堂建築を始めると、さまざまな問題にぶつかることもあるでしょうが、それによって私たちはますます生きた信仰を持つようになることを信じます。
 では、「生きているとされているが、実は死んでいる」教会に与えられたイエス様の方向は何ですか。

?。イエス様の方向
2、3節をご一緒に読んで見ましょう。「目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。」
第一の方向は「目をさまし、死にかけているほかの人たちを力づける」ことです。「目を覚ましなさい」というのは、英語で「Wake up!」です。「起きなさい」と言われます。何よりもイエス様は霊的な眠りから目を覚ましなさい」と言われます。「快楽の眠りから目を覚ましなさい」「怠けている状態から目を覚まさない。」と言われているのです。居眠りしているクリスチャンにとって必要なのは目を覚ますことです。「ああしていない、こうしていない」と言うことよりも、自分の方から目を覚ますことです。私が目を覚ますと隣の人も目を覚まします。私は学校で教えながら、教会でメッセージを伝えながらよく感じていることがあります。それはひとりが居眠りし始めると、その周りの人たちも居眠りをするようになるということです。また、ひとりがちゃんとした姿勢で聞いていると、その周りの人たちも目を覚ましているということです。サルデス教会にも、そういう聖徒たちがいました。4節を見ると「サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。」とあります。残念ながら皆ではありませんでしたが幾人かがいたのです。東京UBF教会でも幾人かがいます。聞くのに忍耐が必要なメッセージであっても目を覚ましてよく聞いている方たちがいるのです。でも、私の願いが皆が目を覚ましていることです。礼拝の時間だけではありません。いつもの霊的な状態が目を覚ましている状態であることです。目を覚ましてからはどうしますか。「そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい」と言われています。私たちは力づけられること、励まされること、愛されることを願いますが、主は私のほうから目を覚まし、死に掛けている人たちを力づけるように命じておられます。霊的に死にかけている人、怠けている人を非難するものではありません。あきらめるものでもありません。むしろ彼らの弱さを理解して愛し、励まして力づけなさいということです。私たちクリスチャンはいつも、もらうことより、与えること、力づけられることより力づけることのために励まなければなりません。それは神様の御前に全うされるまで続けなければならないことです。ところが、本能的に自己中心的になりがちな私たちにとって神様の御前に全うされるまでいつも目を覚まし、死に掛けている人々を力づけることはやさしくありません。ではどうすればそれができるでしょうか。
イエス様は第二の方向として「だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。」と言われました。私たちはイエス・キリストによって多くの恵みを受けてきました。霊的に死んでいたのに、イエス・キリストによって救われ、生かされる恵みを受けました。罪とサタンの奴隷から救われて神様の皇太子になりました。それだけではありません。今まで私たちは私たちに必要なすべてを神様から受けました。私たちはいつもその恵みを思い出さなければなりません。「おどろくばかりのめぐみなりきこのーみのけがーれをしれるわれに(聖歌229)」また、私たちは神様の御言葉を聞いてきました。その御言葉を思い出してそれを堅く守り、悔い改める生活をすることです。御言葉を思い出して口ずさみ、御言葉から離れていることが気づかされた時にはすなおに悔い改めなければなりません。毎週聞いている御言葉によって自分の罪、霊的に死に掛けている状態が気づかされたら、悔い改めて御言葉を堅く守らなければならないのです。悔い改める生活によって罪悪の生活、怠けた生活を捨てて聖なる国民として善を行なう生活をすることです。自分に対して悔い改めがなければ目を覚ますことも、人を力づけることもできません。イエス・キリストの十字架の血潮に頼って悔い改め、赦された人たちがほかの人たちを力づけることもできます。では、そのように生きる人々に与えられるイエス様の祝福の約束は何ですか。

?.イエス様の祝福の約束
4?6節をご一緒に読んでみましょう。「しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』
 サルデス教会には、目を覚まして、ほかの人たちを力づけている人たちがいました。彼らは自分たちが受けた恵みと御言葉を思い出して罪を悔い改める生活もしていました。イエス・キリストの血潮によって着させてくださった義の衣を汚さない人が幾人かいたのです。彼らは「クリスチャンであるくせに何だ」と言われませんでした。むしろ、彼らによってイエス・キリストの義が表わされ、キリストの御名があがめられていました。彼らはイエス・キリストとともに歩むことができます。たとえ、この世の快楽や不道徳的な生活、なかなか直らない自分の性格のために汚されたとしても、それが気づかされたときには、すぐにキリストの血潮に頼って悔い改めている人は白い衣を着てキリストと歩む生活ができます。すると、この世の貪欲、快楽から得られない喜び、この上もなく喜びに満たされることができます。キリストは私たちの罪を赦し、きよくしてくださるからです。イザヤ1:18節は言います。「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」私たちはキリストによって私たちの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなり、紅のように赤くても羊の毛のようになるのです。それで私たちはこの世で白い衣を着てキリストとともに歩みながらキリストによって力づけられてほかの人を力づける人生を生きることができます。それだけではありません。イエス様は「わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。」と約束してくださいました。キリストによって罪が赦され、きよめられて白い衣を着ている人々は、いのちの書に記されていて、やがて天国で輝かしい栄光を受けるようになります。イエス・キリストによって救われて白い衣を着るようになったにもかかわらず、罪と世の快楽、貪欲などによって再び衣を汚してしまうなら、多くの疑い、苦悩、嘆き、罪意識の中で生きるしかありません。そしてその人たちはやがて第二の死を迎えるようになります。しかし、白い衣を汚さない人々は、この世で喜びと幸せの衣を身にまとって生きることができるし、第二の死を迎えることなく、永遠にイエス・キリストと父なる神様と幸せに生きることができるのです。

結論的に、私たち一人ひとりが目を覚ますように祈ります。サルデス教会には、白い衣を着てキリストと歩むことになる人は幾人しかいませんでした。今の教会にも幾人しかいないかも知れません。でも、私たちがその幾人かのひとりになりましょう。私だけでも、情熱的に、忠実に主の御言葉を堅く守り、悔い改める生活をして、幾人しかいなくても、その少人数のグループに属する者となろうと決断することができるように祈ります。