2006年ヨハネの黙示録9講
熱心になって、悔い改めなさい
御言葉:ヨハネの黙示録3:14?22
要 節:ヨハネの黙示録3:19「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」
聖書を指して「神様の熱い愛の手紙である」という人もいます。適切な表現であると思います。本当に、神様は私たちを熱く、熱く愛しておられます。ご自分のひとり子をお与えになったほどに私たちを愛しておられます。神様の愛のゆえにこの地上に来られたイエス様も私たちを熱く、熱く愛してくださいました。イエス様は私たち人間を本当に熱心に愛する生涯を過ごされました。ご自分のいのちをお与えになったほどに私たちを愛してくださいました。私たちの罪を贖うために十字架にかかって貴い御血を流し、死なれたほどに私たちを愛してくださいました。そして、死者の中からよみがえられたイエス様は今もなお、私たちを熱心に愛しておられます。そして、主が私たちを愛したように、私たちも、熱く主を愛することを望んでおられます。愛の交わりを望んでおられます。
今日の御言葉はラオデキヤ教会を熱く愛しておられるイエス様が彼らを叱り、懲らしめられたことです。先週、学んだフィラデルフィヤ教会は叱られるところがなかったのですが、ラオデキヤ教会は褒められるところがありません。でも、イエス様はこの教会を愛して、熱心に愛して叱ったり懲らしめたりしておられます。そして、現代の教会は小アジアにある七つの教会の中でこのラオデキヤ教会に一番近いと言われています。ラオデキヤ教会は今の私たちの教会であるといえるほどに似ているということです。では、イエス様がラオデキヤ教会に送られたメッセージは何でしょうか。どうか、私たち一人ひとりがイエス様の懲らしめをないがしろにしないように祈ります。熱心になって悔い改めるように祈ります。それこそ、終末に生きている私たちが主との親密な交わりを保ち、目を覚ましている近道であるからです。
14節を読んでみましょう。「また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。』とあります。ここで、ラオデキヤにある教会にいわれるイエス様はどんな方ですか。イエス様はご自分を「アーメンである方」として紹介しておられます。「アーメン」というのは「そのすべてが良しとされ、そのとおりである」という意味です。イエス様は神様のすべての御言葉に対して「そのとおりです。」と答えて従いました。王の王であり、全宇宙の統治者であられるキリストですが、神様の御旨に従って卑しいこの地に下りてこられました。キリストは神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです(ピリピ2:6?8)。イエス様は神に造られたものの根源である方なのに、ご自分を卑しくしてこの地に来られ、実に十字架にかかって死なれるまでに「アーメン」と従われたのです。本当に忠実で、真実な証人です。ですから、イエス様のニックネームの人は「アーメン」であるのです。「アーメン、イエス!」と言われる方なのです。私たちも神様の御言葉に対していつも「アーメン」と答える者でありますように祈ります。世の中では目立つような発言をする人が認められるかもしれません。しかし、神様はイエス様のようにいつも「アーメン」と従う人を認め、祝福してくださいます。神様のみわざでは「アーメン」と従う従順の人が用いられます。私たち一人ひとりが「アーメン、ダニエル」「アーメン、○○○」と呼ばれるほどに神様に従う者でありますように祈ります。では、アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がご覧になったラオデキヤ教会の状態はどうでしたか。
15,16節を読んでみましょう。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」とあります。ラオデキヤは地理的に交通が便利なところでした。昔も今も交通が便利なところは発達しやすいですが、ラオデキヤの町も、とても発達していました。皆さん去年、12月、東京に来られた韓国の朴ダビデ牧者のことを覚えているでしょうか。ダビデ牧者は勉強会の時、ヨーロッパ国際修養会の後、聖地巡礼として行ってきたラオデキヤのことを教えてくれました。行って見ると、本当に聖書の御言葉がよく理解できたと言いました。なまぬるく、熱くも冷たくもない状態も理解できたそうです。
ラオデキヤの町は、あの昔も配水管が通っているところでしたが、それは温泉からのものだったそうです。彼の話によると、ラオデキヤの住民はヒエラポリスの温泉から配水管を通して水を運んでいるそうです。ところが、その水は途中冷えてしまい、生ぬるくなるそうです。それをおいしく飲める水にするためには、もっと冷やすか、再び熱くしなければなりませんでした。そして、もう一つの水路がありますが、それはババ山にある雪と氷が溶けて流れる冷たい水が流れていました。この冷たい水は清水であって目の治療にも役立っていたそうです。ところが、温泉地のヒエラポリスは羊毛の染色業が発達していて染色の工場からのほこりが多かったために眼病にかかっている人も多かったそうです。ラオデキヤの人々は彼らのために清い水で「コロウリオン(Kolourionn)」という目薬を作って売りましたが、とても儲かっていたそうです。それで、ラオデキヤは非常に繁栄し、栄えていました。先週、AD17に大地震のためにはフィラデルフィヤの住民は乏しくなり、自分の故郷を離れて行った人々が多かったことを教えられましたが、ラオデキヤの住民は大地震による莫大な被害があってにもかかわらず富んでいたのです。豊かになり、乏しいものは何もないと言えるほどになっていました。
しかし、イエス様は彼らに言われます。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」とあります。
皆さんはどんな水が好むでしょうか。なまぬるい水というものほど、おいしくない水はありません。私たちは何かを飲むときに、冷たいか、熱いかどちらかの飲み物を選ぶでしょう。なまぬるいのは欲しくありません。自動販売機を見ると、冷たいか、熱いと書いてあります。「なまぬるい」と書いてあるものは見たことがありません。だれもほしがらないからでしょう。なまぬるいものを飲んだ場合は吐き出してしまいます。ところが、このラオデキヤ教会は、その町にある水のようになまぬるくなっていました。そこで、イエス様は、彼らに「わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。」と言われました。では、皆さんの心はどうでしょうか。隣の方に互いに聞いてみましょう。「あなたの心は冷たいでしょうか、熱いでしょうか。」イエス様は私たちにもこう言われるでしょう。わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。」イエス様は私たちに「わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。」と言われるのです。このように言われるイエス様は、ほんとうに私たちを愛しておられる方です。私たちを熱く愛するために、富んでおられる方なのに貧しくなられました。愚かで弱い者を癒し、強くするためにご自分は卑しくなられました。どうしても罪に溺れている人間を救おうとする熱意のために、ご自分の全生涯を燃やされました。滅びに至る人々を救うために十字架にかかって死なれたほどに私たち人間を熱く、熱く愛されたのです。そして、イエス様は、この熱い愛がイエス様の片思いに留まってしまうことなく、私たちの心にも伝わり、私たちも熱くなることを願っておられます。私たちがイエス様を熱く愛するなら、イエス様も私たちをますます熱く愛してくださいます。イエス様は「わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます(ヨハネ10:17)。」と言われました。ここに、私たちがもっともっと神様に愛される秘訣があります。神様は私たちを一方的に愛しておられる方です。でも、イエス様は「わたしが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。」と言っておられます。この言葉から私たちが自分のいのちを再び得るために自分のいのちを捨てるほど主を愛するなら、その犠牲、その熱い愛のゆえに、神様が私たちを愛してくださることを示唆してくれます。つまり、イエス様は私たちが今の生活に満足せず、もっともっと熱く愛してほしい、と願っておられるのです。また、その愛のゆえに、私たちを忠告し、懲らしめられます。
17,18節をご覧ください。「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金(純潔の信仰)をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」
「自分が富んでいる、豊かになって、乏しいものは何もない」というのは、いまの自分の生活に満足している姿です。もちろん主にあって満足する心は大事です。使徒パウロは「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです(?テサロニケ5:18)。」と言いました。すべての事について感謝することは、キリスト・イエスにあって神様が私たちに望んでおられることなのです。しかし、ラオデキヤ教会の聖徒たちは神様の恵みと祝福に対する感謝ではなく、自分の力によって自分が富んでいる、豊かになって、乏しいものは何もない。」と高ぶっていました。どんなに神様に熱く愛されていたのかを忘れていました。どんなに神様の恵みを受けたのかを忘れていました。彼らも乏しかった時は、心も貧しくなって切実に主を求めていました。さまざまな問題を感じた時、涙の祈りをしていました。目薬が売れなくて生活が困っていた時にも切実に祈りました。ところが、いつの間にか、彼らが涙によって祈り求めたことは思い出になってしまいました。「ああ、あの時は熱かった。僕の心も燃えていたのだ。」と思い出話をしているけれども、今の心はなまぬるくなっていたのです。目薬がよく売れて自分の生活が安定的になると「自分が富んでいる、豊かになって、乏しいものは何もない。」と言いながら主を求めませんでした。クリスチャンなのか、ノンクリスチャンなのか、分からない状態になっていました。自分の霊的な状態がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知りませんでした。自分の霊性がどんなに地に落ちているのか、神様の御言葉に対してどんなに無感覚になっているのかを知りませんでした。自分の生活がどんなに汚染されているのか、どんなに汚れているのかを知りませんでした。最近、偽装したことで恥を受けている人たちのことがテレビや新聞に報道されていますが、人の罪は現わされるものです。罪を悔い改めず、汚れた生活を続けると、いつかは現わされるのです。主がラオデキヤ教会をご覧になると、すぐにも彼らの裸の恥が現わされる状態になっていました。なのに、彼らはそれを知りませんでした。まさに、彼らはみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者でありました。主がご覧になると、実はみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸のものであったのです。私たちは主の目で自分を見る必要があります。私たちは人と比較して、「自分はそんなに悪くない」と思ってしまいますが、神様の御前で自分がどんな者として評価されているかを考える必要があります。イエス様の評価こそ、正しい評価であるからです。
イエス様は私たちを正しく評価し、対策も教えてくださいます。もう一度、18節をご覧ください。「わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」とあります。「火で精錬された金」とは、試練によって練り清められた純潔の信仰のことです。1ペテロ1:7をみると「信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。」とあります。私たちは試練を避けないでそれを通して金より尊い信仰を深める必要があるのです。そして、「白い衣」は、先週も話しましたが、キリストの義であり、罪の赦しによるきよめです。私たちの罪はイエス・キリストの赦しによって白くなります。「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」とあります。ここで「論じ合う」ということは主の御前に罪を言い表すことです。罪を言い表して悔い改めることによって私たちは雪のように白くなります。?ヨハネ1:9にも「 もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。とあります。悔い改めによって白くなり、きよめられると、そこに聖霊を迎え入れなければなりません。「目薬」とは、御霊によって目が開かれることを意味しています。霊的に盲目になっている目が開かれるためには聖霊の働きが必要です。聖霊と交わる時、私たちは正しい価値観を持って主を熱く愛し、再び来られるイエス様を待ち望みながら目を覚ましていることができます。 ですから、私たちにとって大切なことはイエス様の忠告を素直に受け入れて悔い改めることです。
19節を読んでみましょう。「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」ここで、「懲らしめ」という言葉が出てきましたが、イエス様は「愛する者」に対してそれを行なわれます。ヘブル人への手紙12:5,6節には「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」とあります。
イエス様はラオデキヤ教会を懲らしめておられますが、それはイエス様が彼らを熱く愛しておられるからなのです。彼らはイエス様の愛する聖徒たちであるからこそ、熱心になって、悔い改めてほしい。」ということです。「反省しなさい。悔い改めなさい。」と叱ったり懲らしめたりすることばはとても厳しい表現です。だから、だれでも言えることばではありません。親とか先生、とても親しい友人でなければなかなか言えないことばでしょう。
私は父親から殴られたことは、ただ一度あります。小学校二年生時、父が店に行ってタバコを買って来るように言われましたが、私は途中友だちに会って遊んでしまいました。父は戻って来ない子どもが心配になったでしょうか、私を探しに出てきて見つかると家に連れて行きました。そして、家の門に入るやいなや殴りました。おばあさんが来て助かったのですが、もう歩けなくなるかと思うほどに殴られました。でも、そのように懲らしめられたからこそ、その後は父の話をよく聞き従って非行に走ることなく青少年期を過ごしたと思います。私たちを愛する人は、本気になって私たちの過ちを叱ったり懲らしめたりします。そして、その懲らしめをないがしろにしないで、悔い改める人を暖かく迎えてくれます。私の父も私が殴られて反省しえて謝ると、すべての罪を赦し、暖かく迎えてくれました。ましてあわれみ深いイエス様が私たちを迎え入れてくれないはずがありません。イエス様は私たちが悔い改めてイエス様を迎え入れることを待っておられます。
20節をご一緒に読んでみましょう。「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」
ここに、悔い改める者を待っておられるイエス様の愛がよく表われています。この御言葉は、しばしば、伝道集会のときに用いられるし、伝道用紙に書かれている場合も多くあります。皆さんの耳にも慣れているでしょう。W.H.Huntという画家は「戸の外に立ってたたく」イエス様の姿を描きました。その絵を見ると、戸の外からは開くことができないようになっています。中にいる人だけが門を開くことができるようになっているのです。王の王、主の主、神の御姿であられるイエス様が卑しい私たちのところまで来てくださり戸の外に立っておられます。私たちが心の扉を開くことを待っておられます。主はあなたの心の扉をノックしておられます。そして、あなたのところにはいって、あなたとともに食事をすることを待ち望んでおられるのです。ともに食事をするということは、とても親しい交わりです。今日でもともに食事ができるということは深い交わりができるという意味を持っていますが、当時の食事は、現在のものより、もっと深い意味があります。「食べている人と一つになる」という意味があります。ユダヤ人は丸型の大きなパンとスープを食卓の真中に置いて食べていたそうです。同じパンから食べ、同じスープから飲むことによって、互いが一つになっていることを確かめていたのです。そのために、当時のユダヤ人は異邦人と食事をすることを避けました。イエス様は、御霊によって私たちと一つになることを求めておられます。親密な交わりに招いておられます。
この親密な交わりのために私たちの心もノックしておられます。どうか、私たち皆が心の扉を開いてイエス様を迎え入れることができるように祈ります。偽りの教えや、作り話に引き寄せられてなかなかイエス様に心が燃えない方はいないでしょうか。新学期を迎えて準備として新しいチラシ、伝道用紙も作られていますが、まだ心が冷たくも、熱くもない状態である方はいないでしょうか。
私たちを熱く、熱く愛しておられる主の愛を覚えてなまぬるくなっている心を熱心に悔い改めましょう。そして、戸の外に立ってたたいておられるイエス様を迎え入れましょう。他でもなく、私たち自身のためです。なまぬるい状態が続くなら、主は私たちを吐き出してしまいます。その日が近づいています。イエス様が来られると、何をなさいますか。
21、22節をご覧ください。「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』」
イエス様が再び来られるその日、悔い改めてイエス様を迎え入れた人たちは、イエス様の座に着かせていただきます。イエス様が勝利を得て、父なる神様の御座に着いたのと同じです。私たちはキリストとの共同統治をする者となり、主と同じように、神の国を治めるところに着つくのです。
以上で、イエス様がラオデキヤの教会に言われた御ことばを学びました。どうか、聖霊によってへりくだって熱心に悔い改めて主のあわれみを求めることができるようにしていただきましょう。「悔い改めなさい」と言われると、厳しく聞こえると思いますが、それこそ、イエス様との関係性を回復する道です。「悔い改めなさい」というのは、「イエス様との関係性を回復しなさい。」ということなのです。今日まで七つの教会に言われた主の御言葉を学びましたが、自分に言われた主の御言葉として受け入れる方は幸いな方です。懲らしめられるとき、悔い改め、異物を取り除くとき、戸の外に立ってたたいておられる主に出会うことができます。熱心に悔い改めてますます親密な主との交わりができるように祈ります。