2006年列列王記第二 第6講

主の勝利の矢

御言葉:列王記第二11?13章
要 節:列王記第二13:19「神の人は彼に向かい怒って言った。「あなたは、五回、六回、打つべきだった。そうすれば、あなたはアラムを打って、絶ち滅ぼしたことだろう。しかし、今は三度だけアラムを打つことになろう。」」

先週、私たちは収穫感謝祭の礼拝を通して感謝する信仰を学びました。クリスチャンライフというのは感動、感激して感謝する生活です。私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことだけを思っても感動して感謝せざるを得ません。そして、主の愛と恵みを覚えて感謝する心に喜びと平安があります。感謝する人に癒しもあります。何よりも神様が感謝する人を喜ばれ、大いに祝福してくださいます。私たち一人一人がまず第一に神様に感謝し、人々の間でも自分の方から先に感謝する生活ができるように祈ります。
今日は列王記の御言葉に戻り、「主の勝利の矢」について学びたいと思います。11章ではユダに聖なる種を残してくださった神様の摂理の働きを学ぶことができます。悪女アタルヤによって王の一族が滅ぼされる時にも、神様はエホシェバと祭司エホヤダを用いてダビデの子孫ヨアシュを守ってくださいました。そして、祭司によって守られたヨアシュが7歳に王になって活動したことが12章に記されてあります。13章ではイスラエルの王ヨアシュのことと神の人エリシャの最後のメッセージを学ぶことができます。この時間、御言葉を通して霊的な真理を深く悟って私たちも神の人エリシャのように圧倒的な勝利者の人生を送ることが出来るように祈ります。

?.神様の摂理の働き(11、12章)
11:1節をご覧ください。「アハズヤの母アタルヤは、自分の子が死んだと知ると、ただちに王の一族をことごとく滅ぼした。」とあります。先々週、私たちはエフーがアハブ家を滅ぼす神様の器として用いられたことを学びました。エフーはイスラエルの王とアハブ家の者たち、またバアル信仰者を滅ぼしました。その時に南ユダの王アハズヤも殺されました。彼が殺された理由はユダの王でありながらもアハブの道に歩み、バアル信仰を自分の国に持ち込んでいたからです。ところが、アハズヤの母アタルヤは、自分の子が死んだと知ると、ただちに王の一族をことごとく滅ぼしました。彼女はアハブの娘で、母イゼベルの性質を受け継いでいます。彼女はアハズヤの息子たち、すなわち自分の孫たちをことごとく滅ぼしていったのです。ヨラムはアハブの娘を妻にしたのですが、これがそもそもの失敗でした。ヨラム自身が悪影響を受けたことだけではなく、ユダ王国が滅んでいくようになりました。
しかし、神様はダビデの末裔を完全に抹殺させてしまうことはなさいませんでした。もし、ダビデの子孫であるヨラムの子たちが一人も残されなかったら、ダビデの子孫から生まれるはずのメシヤの出現の紐も絶たれることになるでしょう。神様がそんなことを許すはずがありません。
2?3節をご覧ください。ヨラム王の娘で、アハズヤの姉妹のエホシェバが、大胆にも殺される王の子たちの中から、アハズヤの子ヨアシュを盗み出しました。そして、彼女はヨアシュを神殿に隠してこれを養育しました。彼女はアハズヤの妹でありながら祭司エホヤダの妻です(?歴代誌22:11)が、彼女の働きによってダビデ王の血統は断絶せずにすんだのです。また、祭司エホヤダはヨラムとは違って信仰あるエホシェバを妻にしたために自分の使命を果たすことが出来ました。彼は主の宮に六年間、身を隠していたヨアシュを教育し、王として立てる準備をすることが出来たのです。
4?12節には祭司エホヤダがカリ人、近衛兵によって幼いヨアシュを守り、彼に油を注いで王としたことが記されてあります。12節をご覧ください。「こうしてエホヤダは、王の子を連れ出し、彼に王冠をかぶらせ、さとしの書を渡した。彼らは彼を王と宣言した。そして、彼に油をそそぎ、手をたたいて、「王さま。ばんざい。」と叫んだ。」とあります。エホヤダはヨアシュに王冠をかぶらせ、モーセ五書を手渡しました。こうしてヨアシュは正式にユダ王国の王となりました。
13?18節にはアタルヤが殺されるようになったこと、19?21節にはヨシュア王の即位式のことが記されてあります。ヨアシュが王として王座に着くと、一般の人々はみな喜び、この町は平穏でありました。バアルに仕えていたアタルヤ女王の時代に人々はいつ殺されるか知らないような恐れの中で生きていました。しかし、ヨアシュが祭司の教育を受けてから王座に着くと、ただ七歳の王であっても人々は喜び、その町は平穏であったのです。
ここで、私たちは神様の摂理の働きを見ることができます。もし、悪女アタルヤによってヨアシュも殺されたなら、ダビデ王の子孫は全く絶えてしまったでしょう。しかし、ダビデの子孫を通してキリストが生まれるようになるという神様の約束は守られるようになりました。このような神様の摂理の働きのゆえに、ヨアシュは保護されて王となりました。そして、神様の摂理の働きの中で保護されたヨアシュが王になった時、国民は喜び、国は平穏であるようになりました。神様の摂理の働きに委ねられたヨアシュ王の支配が始まると、人々は喜び、平安に生きるようになったのです。
私たちがアタルヤのように自分の野心と手腕によって生きるなら、自分にも自分の周りの人々にも喜びと平安がなくなってしまいます。しかし、神様の摂理の働きを悟り、すべてを神様の導きに委ねる喜びと平安な生活ができます。また、神様の摂理を信じる人は祭司エホヤダ夫婦のように勇気を持って大胆に行動し、悪の勢力と戦うことができます。そして、神様はそのような人々を保護し、人類救いのみわざのために用いてくださいます。
12章はユダの王になったヨアシュの活動が記されてあります。
1?3節をご覧ください。ヨアシュはエフーの第七年に王となり、エルサレムで四十年間、王でありました。そして、彼は、祭司エホヤダが彼を教えた間はいつも、主の目にかなうことを行ないました。霊的な牧者の大切さを学ぶことができます。ヨアシュ王がエホヤダ牧者と1:1聖書勉強をしている間はいつも、主の目にかなうことを行なうことができたのです。ただし、ヨアシュ王はへりくだっている羊ではなかったようです。高き所は取り除いていなかったからです。高き所でいけにえをささげたり、香をたいたりすることはバアル信仰のような偶像崇拝ではありませんでした。高き所とは神様に礼拝するために作った所です。ただ、この高き所は律法に定められた所ではありませんでした。律法にはエルサレム神殿におけるいけにえのみが命じられていました。ところが、ソロモンの子どもの世代に北イスラエル、南ユダに分かれると、北イスラエルはエルサレムに行くことを禁じ、高き所で礼拝するようにしました。ところが、ユダの王がアタルヤのような北イスラエルの女を妻にしたためにユダにも高き所で礼拝する風習が出来てしまいました。ヨアシュはこの高き所を取り除くことはしなかったのです。
それで、彼はエホヤダ牧者の教えを受けている間はいつも、主の目にかなうことを行ない、主の宮の修理もしましたが、牧者がいなくなると主の宮に対する敬虔な姿勢も失いました。彼は主の宮と高き所との区別が出来なくなったのか、主の宮に聖別されてあった物をアラム軍に送ってしまいました。そして、自分も殺されてしまいました。このことが12章の後半部に記されてあります。
4?8節は主の宮の修理に関して祭司たちに与えた王の命令です。祭司たちは王の命令に同意しました。9?16節には祭司エホヤダが献金を集め、主の宮の修理に着手したことが記されてあります。ここまで読むと、ヨアシュ王は素晴らしい王のように見えます。彼は主のみこころにかなう行ないをしました。しかし、彼の人生の後半部は霊的に堕落してしまいました。17、18節をご覧ください。この間の学びで、ハザエルがアラムの王となったことが分かりましたが、彼はエルサレムを目指して攻め上ってきました。ユダの王ヨアシュは神様の助けを求めるべきでした。また、祭司エホヤダが緻密な計画を立てて自分を守り、神様の摂理の中で働いたように、ユダ王国を守り、民のために戦うべきでした。しかし、彼は神様に祈り求めるのではなく、主の宮にある金をかすめ奪い、それをアラムの王ハザエルに送りました。主の目にかなうことを行なっていたヨアシュ王でしたが、完全に堕落してしまったことが分かります。なぜ、こんなに信仰を失ってしまったのでしょうか。彼は幼い時から神様の摂理の働きの中で守られ、良い牧者エホヤダの教育を受けて育ち、王になってからは霊的な改革も行なっていたのに、どうしてでしょうか。その理由がここには具体的に記されていませんが?歴代誌24章に書かれている内容を並行して考えてみると二つのことが言えます。
一つ目は自立信仰を持っていなかったからです。?歴代誌24:2節を見ると「ヨアシュは、祭司エホヤダの生きている間は、主の目にかなうことを行なった。」とあります。先ほど12:2では「?祭司エホヤダが彼を教えた間は、いつも主の目にかなうことを行なった」とありました。しかし、祭司エホヤダが死んでから、ユダのつかさたちの言うことを聞き入れました。霊的な牧者がいなくなると、牧者から学んだとおりに神様の御声を聞き入れるべきでしたが、部下の言うことを聞き入れていたのです。それはエホヤダがいる時の霊的環境に満足して自立信仰を育てなかったからです。結局、彼は自立信仰がなかったために、主の宮を捨て、アシェラと偶像に仕えました。また、自分の牧者エホヤダの息子ゼカリヤを打ち殺すほどの悪事までも行いました(?歴代誌24:18‐22)。私たちは尊敬する牧者がいなくなっても、周りが霊的な環境ではなくて、ただ神様の摂理を信じて主の御言葉に頼って生きる自立信仰を持たなければなりません。私が宣教師として遣わされる時、スタッフ牧者から「UBF宣教師は聖書一冊を持って行けばどこに行っても自立しなければならない。荒野であっても自分で働いて飯を食い、異邦人に聖書を教えるのだ。」と言われました。厳しい言葉でしたが、そうするつもりで宣教師生活を始めた時、今まで神様は繊細に導いてくださいました。私たち一人ひとりがどんな環境の中でも「主こそ、私の受ける分です(哀歌3:24)。」と告白できる自立信仰を持って生きることが出来るように祈ります。
二つ目の理由は高ぶりです。この高ぶりはヨアシュだけではなく、他の王たちもよく陥った過ちです。最初のころは、王に立てられたこと感謝し、主に対して熱心ですが、神様が国を繁栄させてくださると、いつの間にか、すべては自分の功績であるかのように思ってしまうのです。ヨアシュも人生の前半部は主の目にかなうことを行ないました。主の宮に対して熱心があって宮の破損を修理しました。しかし、彼が年取って行くと、高慢になって主のしもべを無視するようになりました。?歴代誌24:19節を見ると「主は、彼らを主に立ち返らせようと預言者たちを彼らの中に遣わし、預言者たちは彼らを戒めたが、彼らは耳を貸さなかった。」とあります。また、彼は自分に良くしてくださった牧者の恵みを忘れてしまいました。同24:22節を見ると「ヨアシュ王は、ゼカリヤの父エホヤダが自分に尽くしてくれたまことを心に留めず、かえってその子を殺した。その子は死ぬとき、「主がご覧になり、言い開きを求められるように。」と言った。」とあります。このような高ぶりのゆえに、彼は殺されるようになります。19?21節にヨアシュ王が自分の家来たちによって打ち殺されたことが記されてあります。
?.主の勝利の矢(13章)
13章での話はユダからイスラエルに変わります。1節をご覧ください。ユダの王アハズヤの子ヨアシュの第二十三年に、エフーの子エホアハズがサマリヤでイスラエルの王となりました。十七年間、王でありましたが、彼に対する評価がどうですか。
2、3節をご一緒に読んでみましょう。「彼は主の目の前に悪を行ない、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの罪を犯し続けて、それをやめなかった。それで、主の怒りがイスラエルに向かって燃え上がり、主は彼らをアラムの王ハザエル、および、ハザエルの子ベン・ハダデの手にいつまでも渡しておられた。」エホアハズは主の目の前に悪を行ない、ヤロブアムの罪を犯し続けたので、主の怒りが燃え上がってイスラエルをアラムの王の手に渡しておられました。しかし、その怒りの中でも主はエホアハズが主に願うと、主はそれを聞き入れてくださいました(4)。ほんとうに主はあわれみ深い方であることが分かります。神様はイスラエルを懲らしめるためにアラムに渡されましたが、彼らの祈りを聞き入れられてイスラエルの人々をアラムから救ってくださいました。
それにもかかわらず、彼らはイスラエルに罪を犯させたヤロブアム家の罪を離れず、なおそれを行ない続け、アシェラ像もサマリヤに立ったままでした。そこで、神様は再びアラムの王によってイスラエルを滅ぼして、打穀のときのちりのようにしました。それでエホアハズには騎兵五十、戦車十台、歩兵一万だけの軍隊しか残されていませんでした。結局、エホアハズは彼の先祖たちとともに眠り、人々は彼をサマリヤに葬られました。そして、彼の子ヨアシュが代わって王となりました。
ここで、私たちはひたすら神様に頼り、祈り続けることの大切さを学ぶことができます。特に一度神様の救いを体験したら、それに基づいて信仰を維持し続けなければなりません。私たちは自分の罪のために危機に陥る時がありますが、それでも祈り求めるなら神様の憐れみによって助けられます。すると、私たちは神様との人格的関係性を結んで行くべきです。そのためには、先週の御言葉で学んだように、主の恵みに感謝する信仰を持たなければなりません。感謝する人はいつまでも神様との関係性を保つことができます。十人のらい病人が癒されましたが、九人はイエス様の所に戻って感謝しなかったためにイエス様との関係性を結ぶことは出来ませんでした。しかし、サマリヤ人ひとりだけイエス様のみもとに戻って来て感謝することによってイエス様との関係性を結び、体の癒しだけではなく信仰による救いの恵みを受けました。恐らく、サマリヤ人は継続的にイエス様の救いを体験する生活が出来たでしょう。神様の救いは一回、二回体験したら、終わってもいいようなものではありません。五回も六回も続き、一生の間に体験していくものです。私たちが救いと勝利を体験するために持続的な信仰生活が求められるのです。クリスチャンライフに感動と感激がありますが、疲れてしまう時もあるでしょう。そのような時にもあきらめないことが大切なのです。せっかく主が自分に良くしてくださったのにもかかわらず、なおも罪から離れることをしなかったらその人はエホアハズのように滅んで行きます。私たちは、主のあわれみがあるときに、それを感謝して罪から離れ、継続的な信仰生活をしなければならないのです。
10?13節にはイスラエルの王ヨアシュのことが短く記されています。彼は十六年間、王でありましたがイスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムのすべての罪から離れず、なおそれを行ない続けました。14?25節にもヨアシュ王のが記されていますが、彼の生前の姿です。
14節をご一緒に読んでみましょう。「エリシャが死の病をわずらっていたときのことである。イスラエルの王ヨアシュは、彼のところに下って行き、彼の上に泣き伏して、「わが父。わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち。」と叫んだ。」
エリシャが死の病をわずらっていたときのことです。PPTを見ると分かるようにエリシャは預言者生活だけでも50年を超えているので、80才近くになっていたと思われます。今までの彼の活動を考えてみると、ほとんど病気をしたことがないと思われますが、彼も死の病をわずらっていました。この危篤の知らせを受けてヨアシュが駆けつけ、泣きながら「わが父。わが父。イスラエルの戦車と騎兵たち。」と叫びました。この叫びを通して私たちはエリシャがいかに影響力のある預言者であったのか分かります。今日ビリー・グラハム牧師のようにイスラエルに影響を及ぼしてきたでしょう。アメリカでもっとも有名なプロテスタントの牧師で、いわば、アメリカの「国家の牧師」であるビリー・グラハム牧師は、ほとんどの歴代大統領の就任式に招待され、祈祷をおこなってきました。エリシャも歴代イスラエルの王たちの就任式に招待され、按手して来たことでしょう。彼はイスラエル国家にとって重鎮だったし、歴代の王の相談役をして来たのです。UBFでもエリシャのように勝利大臣の相談役をする牧者が現れることを期待します。では、エリシャがヨアシュ王に残した最後のメッセージは何でしょうか。
15?6節をご覧ください。エリシャは王にいくつかのことを命じました。「弓と矢を取りなさい」、「弓に手をかけなさい。」と命じています。弓に手をかけた王の手にエリシャが自分の手を乗せましたが、それは、王への祝福だったのでしょう。祝福してから何と言われましたか。
17節をご一緒に読んでみましょう。「東側の窓をあけなさい。」と言ったので、彼がそれをあけると、エリシャはさらに言った。「矢を射なさい。」彼が矢を射ると、エリシャは言った。「主の勝利の矢。アラムに対する勝利の矢。あなたはアフェクでアラムを打ち、これを絶ち滅ぼす。」
王が矢を射ると、エリシャは言いました。「主の勝利の矢。アラムに対する勝利の矢。あなたはアフェクでアラムを打ち、これを絶ち滅ぼす」と約束してくださいました。エリシャは、神様がヨルダン川東岸地域に占拠しているアラムに打ち勝つことができる約束を与えられたのです。
ついでエリシャは、「矢を取りなさい。」と言いました。彼が取ると、エリシャはイスラエルの王に、「それで地面を打ちなさい。」と言いました。年寄りのエリシャですが、何度もいい続けているその言葉には威厳と力が感じます。何とかして王に勝利への確信を与えようとしています。エリシャは神様の助けがアラムの力、また、他のどんな力をも上回ると、王に覚えて欲しかったのでしょう。しかし、王は躊躇っていたのです。そこで、エリシャは何と言われましたか。
19節をご一緒に読んでみましょう。「神の人は彼に向かい怒って言った。「あなたは、五回、六回、打つべきだった。そうすれば、あなたはアラムを打って、絶ち滅ぼしたことだろう。しかし、今は三度だけアラムを打つことになろう。」
エリシャの怒りは、ヨアシュの不信仰への怒りです。神様はアラムに対する徹底的に勝利することがきるのに、ヨアシュには勝利への確信がなかったからです。ヨアシュは勝利へのビジョンに完全に応答しませんでした。矢を三回打ったところで、「もうこれで十分だ」と思ったでしょうか。あるいは「アラムには勝つことができない」と思ったのでしょうか。どっちにしてもそれは神様への不信仰でした。その不信仰にエリシャは怒ったのです。
ここで、私たちはエリシャがヨアシュ王に求めている信仰を学ぶことができます。それは預言者を失っても、神様に目を向け続けて欲しいということです。神様に目を向け続けると神様が勝利を与えてくださる、あなたは前進するだけだということがエリシャの願いだったのではないでしょうか。
神様は私たちにも同じように願っておられるでしょう。どんな時に神様に目を向けて前進することを願っておられます。私たちはある程度やってみては、その道をどんどん前進するのではなく現状維持を保とうと思ってしまいがちです。
今年始める時も私たちには祈りに関して、伝道に関して、聖書通読などに関して目標がありました。ところがどれだけ前進してきたでしょうか。私は徹底的に勝利したと言えるでしょうか。神様は私たちが途中でやめたり、現状維持だけで満足したりしないで前進し続けることを願っておられます。神様は私たちに勝利の矢として信仰を与えられました。私たちは信仰によって前進し続けると圧倒的な勝利を受け取ることができます。聖歌514番にもあるように「信仰は勝利です。」
ところが、ヨアシュ王が途中であきらめたためにイスラエルは略奪隊に侵入されるようになりました。ヨアシュは、その父エホアハズの手からハザエルが戦い取った町々を、ハザエルの子ベン・ハダデの手から取り返しました。すなわち、ヨアシュは三度彼を打ち破って、イスラエルの町々を取り返したのです。そして、エリシャからわずか100年ほど後、北イスラエルは滅亡の時を迎えます。

以上をまとめますと、神様は私たちがご自分の摂理の働きと勝利への確信を持って謙遜に祈りながら信仰によって前進し続けることを期待しておられることが分かります。エリシャはまさにそのような人生を全うしました。どうか、私たち一人ひとりも自立信仰を持って神様に祈り求め、信仰によって前進し続ける勝利者の人生を生きることが出来るように祈ります。