2006年12月3日洗礼式及び聖餐式の御言葉

聖餐と新しい契約

御言葉:Ⅰコリント11:17-34
要 節:Ⅰコリント11: 25「夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」」

今日は神様が洗礼式と聖餐式を行なうようにしてくださり感謝します。この聖なる儀式は聖霊のご臨在の中で行なわれますが、皆さんがそのことを堅く信じて参加してくださるようにお願いします。イエス様は「見ずに信じる者は幸いです」と言われました。今、目に見えないけれどもイエス様がここに来ておられるのです。
洗礼式とは、イエス・キリストを自分の救い主として信じた者がその信仰を神様と人との前で公にするものです。この儀式は聖書に基づくものであるため、今もなお重要なものとして受け継がれています。これは信仰の終わり、あるいは完成となるものでありません。信仰の始まりにほかありません。なぜならバプテスマは、クリスチャンであることを他の信徒に告白し、神様へ誓うことであり、その誓いを全うできたか否かは人生の終結を待つべきものだからです。信仰告白して救われた人たちは自分の生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許されます(ルカ1:75)。私は今日バプテスマを受ける方たちが生涯のすべての日に許された主の恵みを堅く保ち、主の御前に仕えることが出来るように祈っております。
それから、聖餐式は私たちがモデルにしている初代教会から始まっています。使徒の働き2章に記された初代教会は聖霊に満たされていたし、多くの不思議なわざとあかしの奇跡が行なわれていました。聖徒たちの間には愛と喜びが満ち溢れて神様を賛美し、すべての民に好意を持たれました。主も毎日救われる人々を仲間に加えてくださいました。この初代教会が持っている美しい伝統の一つは各自食物を教会に持って来て食事を共にすることでした。私たちも毎週礼拝の後に食事会を行なっていますが、このようなクリスチャンの会食を愛餐と言います。初代教会においてはこの愛餐と併せて聖餐式も行なわれていました。それによってクリスチャンは兄弟愛を促進し、またキリストの犠牲の死を覚え、信仰を励まし合っていました。そして、この素晴らしい伝統は今日の教会にも受け継げられています。世界中のどの教会でも聖餐式が行なわれているのです。毎週行なわれている教会もあるし、年に一度、二度行なわれている教会もあります。私たちの教会では年に二度行なっています。
今日は今年二度目の聖餐式になりますが、神様の導きによってバプテスマを受ける方もいるので洗礼式も行ないます。どうか、洗礼式と聖餐式を通してイエス・キリストの血潮による救いの恵みを覚えることが出来るように祈ります。

17?19節をご一緒に読んでみましょう。「ところで、聞いていただくことがあります。私はあなたがたをほめません。あなたがたの集まりが益にならないで、かえって害になっているからです。まず第一に、あなたがたが教会の集まりをするとき、あなたがたの間には分裂があると聞いています。ある程度は、それを信じます。というのは、あなたがたの中でほんとうの信者が明らかにされるためには、分派が起こるのもやむをえないからです。」とあります。 クリスチャンが集まることは良いことです。主日礼拝の時だけではなく、毎日集まってもいいでしょう。使徒の働き2章を見ると、生まれたばかりの初代教会の聖徒たちは毎日、心を一つにして宮に集まり、家でパンを裂き、喜びと真心をもって食事をともにしていました(2:46)。今でもほとんどの韓国の教会は夜明けに集まって祈り会を行なっています。コリント教会も毎日集まって聖書を読み、祈り、賛美をする生活をしていたようです。このように聖徒たちが教会に集まることは教会の益のためにも、互いの益のためにも良いことです。ところが、パウロが耳にしているコリント教会の集まりは益にならないで、かえって害になっていました。それは彼らの間に分裂があったからです。もちろん、生まれ育ちが違う人々が集まると、ある程度の分裂は避けざるを得ないでしょう。また、分裂によってほんとうの信者が明らかにされる場合もあります。分裂が起こった時にほんとうに神様中心の信仰を持っているかどうかが明らかにされます。神様よりも教会のメンバーの人柄と教会のプログラムなどが優先になっている人は試練の時にほんねが現われます。分裂を言い訳にして教会から離れていきます。ですから、パウロは分裂に対してある程度避けられないものだ、と容認しています。しかし、それは感情的な意味での対立であってはなりません。金持ちと貧乏と言うような差別による分裂もいけないことです。ところが、コリント教会は貧しい人たちを無視するような分裂がありました。その分裂は聖餐式にも悪影響を及ぼしていました。その様子が20節から22節に述べられています。
「しかし、そういうわけで、あなたがたはいっしょに集まっても、それは主の晩餐を食べるためではありません。食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませるので、空腹な者もおれば、酔っている者もいるというしまつです。飲食のためなら、自分の家があるでしょう。それとも、あなたがたは、神の教会を軽んじ、貧しい人たちをはずかしめたいのですか。私はあなたがたに何と言ったらよいでしょう。ほめるべきでしょうか。このことに関しては、ほめるわけにはいきません。」とあります。コリント教会には食事のとき、めいめい我先にと自分の食事を済ませる人たちがいました。主の晩餐を食べるために集まった時にも備えられたものを全て食べてしまう人たちがいたのです。ふだん、家で取っている食事も、主に感謝をささげて取ります。皆さんもクリスチャンになっている方は食事の祈りをしてから食べているでしょう。聖なる教会の中で「主の晩餐」を食べる時は言うまでもありません。イエス様が主としておられるから目に見えない主のご臨在を意識して心から感謝しながら、厳粛な思いで食事をするべきです。さらに、教会ではイエス様の御心を覚えて貧しい人たちを配慮しなければなりません。ところが、コリント教会の中であるグループの人々は主のことを忘れていただけではなく、貧しい人たちを忘れていました。当時、貧しい人たちとは労働者階級の人たち、奴隷の身分の人です。彼らは食事の用意のために、ずっと仕事をしていて食事の時間に間に合わなかったかもしれません。教会でしか十分な食事が取れないほど貧しいのにも関わらず、先に席についた人々がとってしまったので残されていないのです。それは神の教会を軽んじ、貧しい人たちをはずかしめることでした。そこで、パウロはこのようなことがあってはならない、と叱ってから聖餐式の本当の目的について語っております。
23?26節をご一緒に読んでみましょう。「私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」とあります。この御言葉から聖餐式が意味するところを三つにまとめてみます。
第一番目にキリストの死を覚えることです。イエス様「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」と言われました。聖餐式が制定されたのは、まさにイエス様が引き渡される夜でした。人間は自分たちのたくらみでイエス様を捕らえるつもりでいました。ところが、イエス様はすべてご存知の上で自らご自身の体を差し出されたのです。つまり、イエス様のお体はむちに打たれてずたずたにされました。イエス様の手足は釘が打たれました。イエス様は私たちの背きの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれました。そして、イエス様のうち傷によって私たちは癒されました。イエス様は私たちの罪の赦しのためにご自分の体を差し出されたのです。イエス様は私たちがご自分の死を覚えてご自分に寄りすがることを願っておられます。私たちは、私たちのことを片時もお忘れにならないイエス様を忘れてしまいがちです。ですから、私たちは聖餐式に参加して、パンを食べ、ぶどう酒を飲むことによって主を覚えて、自分のような罪人のために十字架にかかられたことを確信するのです。また、ここで大切なのは2千年前に起こったことを思い出すだけではなく、聖霊によって主がここにおられること、お体に傷跡が残され、手足に釘穴の跡がある主がおられて「これはあなたがたのための、わたしのからだです。」おっしゃっていることを信じることです。信仰に先立ち、イエス・キリストがこのようにして聖餐の場に臨在してくださることが、聖餐式の恵みの源泉であり、聖餐式の目的です。
第二番目に新しい契約を再確認するという意味があります。もう一度25節をご覧ください。「夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」とあります。旧い契約はモーセに与えられたものでした。それは文字に書かれた律法ですが、それを守り行なうことによって救われ、いのちを得る、という契約でした。ところが、人間はそれを守り行なうことが出来ず滅びるしかありませんでした。しかし、あわれみ深い神様は罪深い人間を滅ぼさないで新しい契約を結んでくださいました。この新しい契約は旧約のエレミヤ31:31-33節から来ていますが、律法が心の板に書き記されて、神様は私たちの神となり、私たちは神様の民になるということです。そして、イエス様は、ご自分の流す血によって、神様とご自分を信じる者との間に新しい契約を立て、彼らを救おうとされました。つまり、心でイエス様が十字架と復活を信じることによって救われるという新しい契約を立ててくださったのです。それでローマ10:9節にも「なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。」とあります。私たちがイエス・キリストが十字架にかかって流された御血によって救われる、と信じるなら、その信仰によって私たちは救われて新しいいのちを得ます。それによって人格も変わり、品格も変わります。そして神様を喜ぶ生活に入ることができます。そのためにイエス様はご自分の血を私たちの罪の代価としてくださいました。血はいのちです。新しい契約が敗れることなく、私たちが救われるようにイエス様はご自分のいのちをささげてくださったのです。私たちはいつもこのキリストの血による救いの恵みを覚えるべきですが、聖餐式の時にぶどう酒を飲むたびに、イエス様を覚えて、これを行なわなければなりません。イエス・キリストの血による新しい契約を覚えて私たちのために十字架上で流された血潮の恵み、イエス様の犠牲を感謝しなければならないのです。
三番目には、イエス・キリストの再臨を待ち望み、その日まで主の死を告げ知らせる意味があります。26節をもう一度ご一緒に読んでみましょう。「ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。」とあります。この御言葉から聖餐式は過去を顧みて十字架の血による恵みを覚えるともに、やがて再び来られるイエス・キリストの再臨を待ち望む式であることが分かります。ですから、私たちは十字架の恵みを覚えて感謝することとともにイエス様の再臨を信じてその希望を新たにしつつ「アーメン。主イエスよ、来てください。」と祈りながら聖餐式に臨むのです。そして、イエス様が再び来られるその日まで聖餐式を行なうことによってイエス・キリストの死を告げ知らせます。もし、この聖餐式に未信者の方がおられたならば、イエス様の十字架の死とはこんなにすばらしいものですよ、ということを多くの方に告げ知らせることができます。聖餐式に参加する人は目で見、手でさわり、舌で味わうことによって、キリストの十字架を思い起こし、この素晴らしいキリストの死を告げ知らせることを決断することもできます。主はそのことも私たちに願っておられることでしょう。
以上で私たちは聖餐式に沢山の意味があることを知りました。すでに知っている方もいらっしゃるでしょうが、ここでもう一度心に覚えていただきたいと思います。
27-34節には聖餐式に参加する人々が持つべき正しい態度について語られています。
まずパウロは28節で、「ですから、ひとりひとりが自分を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。」と語っています。何を吟味するでしょうか。?コリント13:5aには、「あなたがたは、信仰に立っているかどうか、自分自身をためし、また吟味しなさい。」とあります。あたりまえではないか、私は信仰に立っていますとおっしゃられるかもしれません。しかし、ここで、私たちは生活の中で本当に信仰に立っているか吟味をしなければなりません。ところが、自己吟味をしてもなかなか自分だけでは本当のことはなかなか分かりにくいものです。先週、私はパスポートのために写真を取りましたが、写真も見ると自分も思った以上に中年の顔になっているような気がしました。そこで、もう一度鏡で確かめてみると、やはり中年になっていました。自分の姿を吟味するためには鏡が必要だったのです。同様に私たちが信仰に立っているかどうかを吟味するためには「御ことばのかがみ」というものが必要です。御ことばをとおして、私達は自分達の心を吟味していただくことができます。?テモテ3:16には「聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練とのために有益です。」と書かれていますように、聖書は私達の心を正していただくために益があるのです。どうか、この時間自分を吟味する時、御言葉を思い出して心を照らしてみることができるように祈ります。そして、自分を吟味するうちに自分の罪に気づかされた時は神様から裁きをいただく前に自分で自分を裁いてしまう必要があります。罪を認めてごめんなさいをしてしまうのです。そうすれは神様が罰を与えようにも与えようが無いということです。しかも、私たちがさばかれるのは、主によって懲らしめられるのであって、それは、私たちが、この世とともに罪に定められることのないためです。そういうわけで、パウロはコリント教会がキリストのからだであることを認識せず、分裂を起こしていたこと、貧しい人たちを軽蔑しているようなことなどを悔い改めて聖餐式に臨むように語っていたのです。つまり、聖餐は完全な人間だけのためにあるのではありません。むしろ聖餐式は罪人たちが自分を吟味して悔い改め、自分のためにイエス様のお体が砕かれたこと、十字架の上で血を流されことを覚えて感謝する儀式です。また、34節を見ると「空腹な人は家で食べなさい。」とありますが、空腹を満たすための食事と聖餐式とを一緒にしないように注意しています。

以上をまとめますと、パウロはコリント教会に対して聖餐式の原点に帰ろうと薦めたことが分かりますが、私たちも今日もう一度原点に帰りたいと思います。特に、クリスマスが間近になっている今、イエス様の誕生とともに主が私のために死んでくださったということを覚えて行きたいと思います。私たちを救うために天から降りて来られ、十字架にかかって死んでくださったイエス様の愛を受け取ったとき、私たちはこれまでと同じではいられません。私たちも愛を分かち合う者となるのです。それはただ、食べ物だけではないでしょう。親切な言葉であり、交わりの時間であり、とりなしの祈りです。時に自分の命を削ってそれらを分かち合うことにより、私たちはますますひとつの食卓を囲む神様の家族としてふさわしい姿に変えられていくのです。そうして、再び帰って来られる主を待ち望む者でありたいと思います。