2006年聖誕の御言葉 第4講

インマヌエル

御言葉:マタイ1:1?25
要 節:マタイ1:23「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

 神様が先週行なわれたクリスマス礼拝を大きく祝福してくださり感謝します。私たちは王の王であられるイエス様のお誕生を祝い、イエス様に出会ってイエス様に治められる人生の素晴らしさを学びました。私たちが本当に謙遜になって王の王であるイエス様を受け入れ、イエス様に治められるなら安心して力強く生きるようになります。なぜならいつもイエス様が私たちともにおられ、私たちを親切に導いてくださるからです。
 次のようなたとえ話を聞いたことがあります。ある人が高田馬場の駅で「東京UBFがどこにあるか」を尋ねました。儒教を始めた人として,のち日本にも大きな影響をあたえた孔子(紀元前551ころ?前479ころ中国,春秋時代の思想家)は丁寧に教えてくれました。「早稲田通りの道を歩いて行くと明治通りが見えてくるからそこでもう一度聞いてみてください。」と言ってくれたのです。次は仏教の創始者であるブッダ(釈迦、紀元前566?486)に聞きました。彼もとてもやさしい方で親切に教えてくれました。彼は何かを悟ったようで「あ!・・・。UBFはUniversity Bible Fellowshipですね」と言って略図まで描いてくれました。でも、地図だけではよく分からないから迷っているところ、ある方が近くに来て言いました。「私と一緒に行きましょう。あなたとともに行きますよ。」と言ってくださったのです。まさにその方がインマヌエルのイエス様です。「いつもあなたとともにいる。」と約束し、いつもともにいてくださるお方がインマヌエルのイエス様なのです。
 クリスマスの喜びは、救い主が生まれたということ、そして「インマヌエル、神様が私たちとともに生き、ともに歩んでくださる。」ということにあります。今日はこのインマヌエルを中心にして私たちともにおられるために人となってくださったイエス様のルーツを学び、ヨセフとマリヤの姿も学びます。どうか、今日の御言葉を通してインマヌエルのイエス様による豊かな恵みが皆さんに与えられるように祈ります。

?.アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図(1?17)
 ギデオン協会から非売品として配っている聖書はほとんど新約聖書だけです。無料だからか手に入れやすいですが、読んでみようとページを開くと、最初に出てくるのがマタイの福音書です。ところが、このマタイの福音書は、長い名前の羅列から始まります。カタカナだらけで、うんざりしてしまうかもしれません。「誰々が生まれ、誰々生まれ・・・」となっているのであきてしまうこともあるでしょう。しかし、決して、この個所を無益なものとして思ってはなりません。聖書に無益な部分は一つもありません。聖書はすべて、神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です(?テモテ3:16)。ですから、イエス・キリストの系図に関しても注意深く調べるならば、確実に間違いなく有益になる教えを学び取ることができるでしょう。では、この名前の羅列から学べることは何でしょうか。
第一に、神様は約束を守られるお方であるということです。神様はアブラハムの子孫によってユダヤ人をはじめとして全世界を祝福する約束をされました。創世記12章1節から3節を読んでみると「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたのちちの家を出て、私が示す地に行きなさい。そうすれば、私はあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。あなたを祝福するものをわたしは祝福し、あなたをのろうものを私はのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」とあります。そしてガラテヤ人への手紙3章16節で 「ところで、約束は、アブラハムとその子孫に告げられました。神は、「子孫たちに」と言って、多数をさす事をせず、ひとりをさして、「あなたの子孫に」といっておられます。その方はキリストです。」とあります。つまり、アブラハムの子孫であるイエス・キリストが誕生されたことはアブラハムの子孫によって祝福されるという約束が確実に守られたことです。
また、ダビデにも、神様は世界をゆさぶるような約束を与えられています。?サムエルの7:12、13節をみると「あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」とあります。この約束のとおりにイエス様は、ダビデの子孫としてお生まれになりました。すなわち、神様の約束は間違いなく成就したのです。
第二に、イエス様は万民の救い主であるということです。ユダヤ人の系図に女性が現われることは例外的であると言われています。ところが、この系図の中に四人の女性が出ます。しかも、信仰の母、サラとかリベカ、ハンナのような女性ではありません。ユダヤ人が嫌い憎んでいる外国人の婦人でした。恥ずべき、悲しい歴史を思い出させる名前なのです。2節のタマルはユダの長男の嫁です。ところが、彼女はベールをかぶって売春婦の格好をして自分の義理の父ユダと寝ました。その後に、彼女は妊娠しましたが、ユダはタマルが妊娠していることを聞いて「あの女を焼き殺せ(創世記38:24。」と言いました。つまり焼き殺されてしまうほどの罪を犯した女がイエス様の先祖として加えられています。5節に出てくるラハブも同じく売春婦でした。ルツは、モアブ人でしたがモアブ人は、神様から呪われた民とされていました。そして、パテ・シェバはご存じのとおり、ダビデと姦淫の罪を犯した女です。
 これは何を意味しているのでしょうか。それは、救い主イエス様によって、いかなる罪人も、いかなる民族の者も救われるということです。 神様は旧約の時代から世界万民を救いのために働いておられました。救いのみわざにユダヤ人だけではなく、罪深い異邦人も用いられました。結局、イエス様は人種、老若、男女、貧富などなどには一切関わりなく、どんな罪人でも救うために来られた方なのです。
 第三に神様の憐れみの大きさを学ぶことができます。系図によれば、イエス様の家系は決して誇れるようなものではありません。もちろん、アブラハムは信仰の先祖として、ダビデはイスラエル王国の創始者で、国民の誇りと尊敬の的となった王です。しかし、彼らも私たちのような人間の弱さ、罪深さを持っていました。そしてこの系図には恥ずかしくて、悲しくて誰にも言えないような人々の名前が記されています。彼らのことを考えてみると、人間性がどれほど腐敗し、どれほど汚れきっているかを理解することができます。神様はそんな人間を見捨てになりませんでした。むしろ、救い主イエス様をそんな人間の間に住まわせてくださいました。それは私たち人間を深く憐れんでくださったからです。罪深い人間をあわれんくださり、まったく罪のない方が同じ人間の姿をとってこの世に来られるようにしてくださったのです。そこで、イエス様は王の王であり永遠の神様であられるにもかかわらず、罪人を救うためにご自分を卑しくして人間となられました。「主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです」(?コリント8:9)と記されているとおりです。
 ですから、誰でも、自分の弱さ、自分の貧しさ、何よりも自分の罪を認めて、イエス様の救いを望むなら、その人は神様のあわれみを受けます。神様の子どもとされる特権を受けるのです。今まで不敬虔な生活をしてきたことは問題になりません。何も誇れるものがなく、汚れていたとしても、それは問題になりません。私たちはマタイが名前を挙げたある人々のように恥ずかしい罪を犯してきたかも知れません。しかし、今謙遜になって自分の弱さと罪を認めて悔い改めるなら、決してさばかれることはないのです。イエス様が恥ずべき女性たちの名前がご自分の系図に書かれていることを恥となさらなかった以上、私たちのことも恥とすることはないでしょう。むしろ、私たちは神様の憐れみによってイエス様の系図に記された4人の女性のように、天のいのちの書に名前が記されて人類の救いのみわざに用いられるようになります。自分の家系や身分によってではなく、神様の憐れみによって用いられるのです。しかも、私たちのことを恥としないイエス様はいつも私たちとともにいてくださいます。神様の大きな憐れみのゆえに、イエス様は人となって私たちの間に住まわれるからです(ヨハネ1:14)。
 私たちがどんな時にもこの神様の哀れみを覚えて生きることが出来るように祈ります。もし、私たちが、「信仰」が分からなくなってしまったような時にも、人生の壁にぶち当たってしまったようなときにも、神様の哀れみを思い起こしていただきましょう。そして、イエス様の系図に書かれている人物を探し当てて、どのような人物だったかを見てみましょう。すると、その人物が、人間的に見て、良い人である場合もあるでしょう。弱くてもアブラハムのように信仰によって生きてきたんだなあと思われるかも知れません。一方では罪深い生涯を送った人物である場合もあるでしょう。何度も情欲や貪欲、怠けの罪を繰り返してしまったんだなあと思われるかも知れません。その時、ぜひイエス様がそのような人々の系図の中に組み込まれたことを覚えてください。さらに、イエス様が十字架上で私たちの身代わりになって私の恥を受け取ってくださったことも覚えてください。イエス様は本当に憐れみ深いお方です。イエス様に頼るなら、憐れみ深い主はすべての罪を赦してきよいクリスマスを迎えるようにしてくださいます。

?.インマヌエル(18?25)
 18節をご覧ください。「イエス・キリストの誕生は次のようであった。その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になったことがわかった。」とあります。マリヤはヨセフの妻と決まっていたというのは婚約していたことです。当時、ユダヤでは結婚式の一年ほど前に婚約しましたが、結婚式の前に一緒になることはありませんでした。いわゆる出来ちゃった結婚はありませんでした。ところが、これは何と言うことでしょうか。ある日からマリヤのお腹が段々大きくなっているのではありませんか。マリヤは聖霊によって身重になっていたのです。マリヤは聖霊によって身重になったことが分かりました。ヨセフがマリヤの妊娠を聞いた時はどうだったでしょうか。彼は「そんなはずがない。」と思ったでしょう。しかし、マリヤのお腹が段々大きくなり、妊娠したことは明らかになりました。お互いにきよい生活を保つために努力してきただけにショックも大きかっただろうと思われます。もし、ヨセフが感情的な人だったならマリヤをさらし者にしたでしょう。しかし、ヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めました(19)。ではそのような彼にどんなことが起こりましたか。
 20節をご覧ください。ヨセフがこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現われて言いました。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。」とあります。神様は御使いを通してヨセフにマリヤがみごもったのは聖霊によるのだと教えてくださいました。ここで、私たちはイエス様が聖霊によってマリヤに宿られるようになったことを知ることができます。常識的に考えて見るとそれは信じられないことです。聖霊によって処女がみごもることは人間の理性では理解できない神秘的なことです。イエス様をみごもるようになったマリヤもそれが理解できなかったので御使いに言いました。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」(ルカ1:34)。すると御使いは答えて言いました。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。神にとって不可能なことはありません。」(ルカ1:35、37)。聖霊は神様の創造の力であり、天地創造のわざをなされました(創1:2、詩33:6)。この創造の働きによってメシヤはマリヤの内に宿ります。旧約にも、神様の介入によって誕生したイサクやサムエルなどの例があります。バプテスマのヨハネの誕生も神の働きによるものでした。不妊の女と言われていたエリサベツからバプテスマのヨハネが生まれたのです。しかし、イエス様の誕生には人間の父親が存在しません。これは神様が人となるために起こった出来事で奇蹟の中の奇蹟です。このような出来事は以前にもこれからもない唯一の出来事です。これらは、私たちには、測り知ることが出来ないほどの深いものです。私たちには、なかなか理解出来ない真理です。ですからこそ、私たちは、自分の儚い(はかな)理性を越えた事柄を解明しようなどと思わないようにしたいと思います。ただ敬虔に信ずるだけで良いとして、理解できない事柄について、思いつきで何かを言うことを避けたいと思います。世界を造られた御方に不可能なことはないと知るだけで十分だと思います。私たちは使徒信条のこの言葉に安心して受け入れて良いと思います。「イエス・キリスト……は聖霊によって宿り、処女マリヤより生まれ」なさいました。
 聖霊によって宿り、処女マリヤより生まれなさったイエス様はどんな方ですか。ここで、私は私たちの主イエスさまに与えられた二つの名前に注目したいと思います。一つは「イエス」、もう一つは「インマヌエル」です。1つは主イエスさまの「職務」を述べ、もう一つは、主イエスさまの「ご性質」を述べています。両方とも非常に深い意味があります。
 一つ目は「イエス」という名前です。 21節をご覧ください。「マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」とあります。この御言葉から私たちはイエス様の職務、イエス様の働きは「ご自分の民をその罪から救うこと」であることが分かります。「罪」は「的をはずす」という意味です。つまり、人間が本来定められた道に歩まず、神様の法則にはずれた生活をすることが罪です。もちろん、飲酒運転をすることも交通違反の罪を犯したことになります。嘘つき、不品行などは人間相互間の関係性を破壊することで道徳的な罪になります。でも、そのような罪だけが罪なのではありません。神様が定められたモーセの十戒、律法の御言葉からはずれた生き方も罪です。人々は内面の貪欲を罪として思っていません。心から何百人を殺しても、いくら心の中で姦淫の罪を犯してもそれを罪として扱いません。しかし十戒は貪欲に対して罪であると明らかにしています。御言葉によると女の人を見て情欲を抱くこともすでに姦淫の罪を犯したことになります。兄弟を心から憎む人や悪口を言う人も殺人の罪を犯したと言われています。そして、このような罪は人間の人格とたましいを破壊し、家庭を破壊し、社会を破壊する恐ろしい力を持っています。罪はよく癌にたとえられています。癌の細胞は体の秩序とバランスを崩して結局その人を死なせます。癌の細胞は統制ができません。静かな湖に石を投げると波が出来て段々広がるように罪も回りに段々広がり影響を及ぼすようになります。影響力が大きい人であればあるほど罪の影響力も大きくなります。人は大人になればなるほど影響力も大きくなるから罪を犯さないように気をつけなければなりません。特に指導者、宗教指導者が罪を犯すとその影響力は大きいのです。アダム一人の罪はカインに及ぼされ、ついに全人類に及ぼされました。そして、人間は一度罪を犯すと二度、三度繰り返して罪を犯すようになり、結局その罪の奴隷となってしまいます。それで、人々は罪から逃れることが出来ず、恥を受け、苦しみを受けながらも罪を繰り返します。そして、最後には罪の代価である死を迎えるようになります。死後にはさばきを受け、火と硫黄との燃える池の中で永遠に苦しむ第二の死も経験するようになっています。人間は罪を犯すことによって永遠に滅びるようになったのです。このような惨めな人間を誰が救ってくれるのでしょうか。人々は罪意識、罪悪感から解放されるためにさまざまな努力をしてきました。先祖や自分の罪を償うために供養したり、慈善事業をしたりする人もいます。罪を忘れようと髪の毛を剃ってお寺の中に入る人もいます。しかし、このようなあらゆる人間の努力にも関らず罪の問題は少しも解決できませんでした。人間は罪のゆえに絶えず煩悩する人生を暮らしています。イエス様はこのような私たち人間を救うために来られたのです。そして、私たちの罪のために十字架につけられ死なれました。ご自分の血潮で私たちの汚れを洗うことによって、私たちの罪と咎を救ってくださいました。私たちを罪の支配から救ってくださいました。そして、誰でもイエス様を自分の救い主、王の王として信じるなら、救われます。この救いの働きがイエス様の職務であり、喜びなのです。ですから、私たちがイエス様の憐れみに、ぼんやりと頼るのではなく、イエス様の救いの働きを確信してイエス様に頼ることは幸いなことです。イエス様を信じきるとい、イエス様が救ってくださるからです。
二つ目は「インマヌエル」という名前です。22、23節をご一緒に読んでみましょう。「このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。『見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』(訳すと、神は私達とともにおられる、という意味である。)」この御言葉から私たちはイエス様の人格、ご性質を知ることができます。イエス様がインマヌエルと呼ばれるのは、イエス様が神様の性質を持っておられ、同時に人としての性質を持っておられるからです。つまり、イエス様は神様としての性質を持っておられるだけではなく、まったく人となられたからこそ私たちとともにおられることができます。イエス様は罪こそ犯されませんでしたが、すべての点において、私たちと同じ人間としての性質を持っておられました。人間としてのさまざまな弱さも持っておられました。福音書を読んでみると、私たちは、しばしば、私たちの救い主が、私たちと同じような経験をなさったことが分かります。私たちと同じように、肉体の疲れ、飢え、渇きを覚え、涙を流し、うめき、痛みを感じられたのです。これらのこと、すべてにおいて、私たちは、「人」であるキリスト・イエスを見るのです。私たちが生まれた時、母親に抱かれたように、イエス様も処女マリヤの胸に抱かれたみどりごです。ですから、イエス様は人の心を知っておられる御方です。私たちの弱さに同情できるお方です。ご自身、サタンの誘惑を経験されたお方であり、飢えを忍ばれました。涙をも流されました。痛みを感じられました。その方が私たちとともにおられるのです。だからこそ、私たちは、どのような悲しみの中にあるときも、無制限に、この御方イエス・キリストに信頼することができるのです。この御方は、私たちを蔑(さげす)むことはなさいません。祈りにおいて私たちは、ありのままの自分を、大胆に、この御方の御前に注ぎ出すことができるのです。この御方は、ご自分の民に同情できる方だからです。同情してくださることだけではなく、私たちとともに生きてくださいます。何と幸いなことでしょうか。
 今年も、インマヌエルのイエス様はご自分の民である私たちとともにおられました。私たちのすべての弱さに同情し、私たちを慰め、励ましてくださいました。日ごとの糧、主日礼拝の御言葉を通して私たちのうちに働いてくださいました。水野兄弟は受験生として勉強しながらも牧者の使命を受け入れ、牧者としての人生を出発するように助けてくださいました。酒本姉妹が洗礼を受けて神の家族に加えられるようにしてくださいました。新しい家族を加えてくださいました。インマヌエルの主はいつも私たちとともにいてくださり、勉強や仕事、生活を助けてくださいました。ヨシュア宣教師が奇跡的に50代に新入社員として就職し、エズラ宣教師は日本学術振興会から奨学金をもらうようにしてくださいました。金ヨハネ君も希望したキリスト教独立学園高等学校に合格できました。私たちは弱かったけれどもいつも私たちとともにおられ、私たちを助けてくださった主の恵みは数え切れません。私が個人的に体験したインマヌエルの恵みも数え切れません。ともにおられる主は私が疲れた時に励まし、迷っている時は歩むべき道を示してくださいました。すべての主の恵みを心から感謝し、賛美いたします。
「インマヌエル」、「神がわたしたちと共におられる」「神様が私とともに生きて下さる。私とともに歩んで下さる。」ということは何と素晴らしいことでしょうか。人としてお生まれになったイエス様のご誕生は、そのことをはっきりと私たちに示してくれます。これこそが、ほんとうのクリスマスの喜びではないでしょうか。聖書を読んでみると、神様は「わたしは、あなたと共にいる。だから恐れるな。わたしを信じよ。」と常に語り続けました。アブラハム、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ヨシュア、ダビデ、エリヤ、エリシャ、イザヤなどの神様を信じる人々に語られたのです。そして彼らはみな、このことばに励まされてきました。イザヤ41:10節を見ると「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。」とあります。このみことばによって、どれほど多くの人々が勇気を与えられたでしょうか。また、どんなに多くの人生を変えられたことでしょうか。本当に多くのこどもたちも感動したみことばです。イエス様は今も、明日も私たちとともにおられます。
マタイ28:20を見ると「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」と約束してくださいました。私たちの罪のために十字架にかかって死なれましたが、死者の中から三日目に復活されたイエス様は、今も、いつも私たちと共にいて下さるのです。そして、恵みを自分のものにするためにはどうするべきかをヨセフから学ぶことができます。それは御言葉への従順です。24,25節をご覧ください。「ヨセフは眠りからさめ、主の使いに命じられたとおりにして、その妻を迎え入れ、1:25 そして、子どもが生まれるまで彼女を知ることがなく、その子どもの名をイエスとつけた。」とあります。ヨセフは主の使いに命じられたとおりにしたのです。それによって彼は人類の救いのイエス様の地上での父親としての名誉をいただきました。主の命じられたとおりに従うことが救いとインマヌエルの恵みと祝福をいただける秘訣なのです。

以上で私たちはイエス・キリストの系図と誕生に関して学ぶことができました。そこから、神様の働きを学び、その系図を持ってお生まれになったイエス・キリストはどんな方なのかについても学びました。そこで私たちはイエス様に自分を罪から救ってくださる望みを持つことができます。また、救われた私たちはインマヌエルイエス様とともに生きることもできます。どうか、キリストを信じる信仰によって一歩一歩イエス様とともに歩み進むことによって、この祝福とあわれみ、救いを体験することができるように祈ります。ヨセフのように、主の告げられたとおりに従う時、私たちは恵みを体験することだけではなく、それによって世に対してキリストの証しをすることになります。イエス様の系図に記された人々のように、またマリヤとヨセフのように救いのみわざに用いられるようになるのです。今年のクリスマスにはここにいらっしゃる皆さんと皆さんのご家族の上にインマヌエルの恵みがさらに豊かにありますように祈ります。