2007年新年の御言葉第1講

すべてのものが生きる

御言葉:エゼキエル47:1?12
要 節:エゼキエル47:9この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。

新年のお喜びを申し上げます。私は、新年にあたって、まず、神様と皆様に心から感謝いたします。というのも、神様の恵みに生かされて、尊い皆さんとともに神様のビジョンを見ることができるからです。私は去年弟子修養会が終わると、例年と同じく、2007年はどのような方向を持ち、何を優先的にするべきかということで祈り求めていました。そのうち、エゼキエル書47章を通して霊的には死海のように死んだような日本にもいのちの水が流れるビジョンを見ました。このいのちの水が流れる所ではすべてのものが生きます。しかも、神様ご自身が人にいのちの水を与え、癒されるということです。聖霊の働きによって人のいのちが良くなるのです。そこで、私は11月18日にあった関東地区支部長勉強会の時に話し、東京UBFの同労者にも伝えました。ところが、本文の御言葉はエゼキエルに幻で示された神様の御心です。幻というものは、それを見た本人にはよくわかっても、その幻を記したものを他の人が読むと、何のことかよくわからないということがあります。そこで、私はエゼキエル書の全体を勉強するようになりましたが、聖霊の助けによってその中で多くのことを悟って恵みを受け、日本宣教のビジョンをもっとはっきりすることが出来ました。神様の導きに感謝します。
 この時間、皆さんとともに神様から与えられたビジョンを分かち合いたいと思います。何よりも本文の御言葉を通して神様が2007年になされる偉大なビジョンを発見し、大きな希望をつかむ事ができるように祈ります。

 エゼキエルはブジの子で、祭司でした(1:3)。本来、エルサレムにいれば祭司として主の御前に仕えるはずでした。しかし、彼は自分の国を失い、祭司職も失ってしまいました。今は他国に連れられてきています。これは本当に悲しいことです。特に神殿こそ神の臨在される所という意識を持っているユダヤ人にとっては本当につらくて絶望的なことでした。ところが、神様は神殿から遥か遠く離れたバビロンの地でも働いておられました。エゼキエルは幻によって神様のご臨在を体験 (1:4?28)預言者の使命を受けたのです。その後、彼は少なくとも22年間預言者活動をしました(29:17、BC593?571)。そして、彼に啓示された幻による預言が書き記されている書物がエゼキエル書です。
エゼキエル書の前半部を読んでみると、エゼキエルは悔い改めれば生きるというメッセージを伝えています。18章21節を見ると「しかし、悪者でも、自分の犯したすべての罪から立ち返り、わたしのすべてのおきてを守り、公義と正義を行なうなら、彼は必ず生きて、死ぬことはない。」とあります。これは、新約聖書で教えられていることと全く同じです。旧約聖書においても、新約聖書においても神様のみこころは、人が悔い改めて救われることにあります。18章23節を見ると「わたしは悪者の死を喜ぶだろうか。・・神である主の御告げ。・・彼がその態度を悔い改めて、生きることを喜ばないだろうか。」とあります。これが神様の深いみこころなのです。ですから、エゼキエルは繰り返してイスラエルの罪を指摘し、「悔い改め」のメッセージを伝えました。33章11節を見ても「彼らにこう言え。『わたしは誓って言う。・・神である主の御告げ。・・わたしは決して悪者の死を喜ばない。かえって、悪者がその態度を悔い改めて、生きることを喜ぶ。悔い改めよ。悪の道から立ち返れ。イスラエルの家よ。なぜ、あなたがたは死のうとするのか。』」とあります。しかし、イスラエルの民はなかなか悔い改めませんでした。先ほど言ったようにエゼキエルは22年間も預言者としてバビロンの宣教師として働きましたが、なかなか実を結ぶことができませんでした。むしろ、イスラエル人はバビロンの偶像崇拝に染まって行きました。不信に不信の罪を重ねていたのです。それゆえ、イスラエルは神様に見捨てられたという絶望の中にありました。
しかし、エゼキエルは絶望しませんでした。それは現実的な状況よりも神様を仰ぎ見ていたからです。特に、彼は自分に与えられた御言葉を通して神様の働きを考え、神様の救いを信じるようになりました。36章24節を見ると「わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く」とあります。神様がイスラエルを回復させてくださるという約束です。神様はイスラエルを救い、回復してくださいます。それはイスラエルの民がその行ないを悔い改めたからではありません。彼らの立派さのためでもありません。神様ご自身の聖なる名のためです(36:22)。実は神様がイスラエルを出エジプトさせる時もそうでした。20:44節を見ると「わたしがあなたがたの悪い行ないや、腐敗したわざによってでなく、ただわたしの名のために、あなたがたをあしらうとき、イスラエルの家よ、あなたがた、わたしが主であることを知ろう。」と告げられてあります。神様はご自分の聖なる名のためにイスラエルを救われるのです。
私たちが救われたのも、日本の救いのみわざも同じです。聖なる御名のために、神様がなさいます。神様は日本のキャンパスの若者たちを救われます。皆さん!信じますか。私は支部長修養会を通してこのことを確信するようになりました。去年東京UBFでも1:1のみわざが増えましたが、東海UBF は3三人の姉妹宣教師たちによって20チームの1:1が行われていました。平均的に7チームの1:1が日本でも行われているのです。東京UBFでは2年間50チームの1:1のために祈っていますが、今年はできるでしょう。神様の働きを信じましょう。そして、私たちはエゼキエルのように神様から与えられた御言葉を伝えましょう。人々が聞いても、聞かなくても、“神である主はこう仰せられる。”と伝えることが私たちに与えられた使命です(3:11)。しかし、私たちが神様から与えられた警告の御言葉を人々に与えないなら、彼らは自分の不義のために死にます。そして、神様は彼らの血の責任を私たちに問われます(3:18)。幸いに、私たちが伝えた御言葉を聞いて彼らが受け入れるようになれば、彼らは福音を受け入れたのであるから生きるようになります。私たちも自分のいのちを救うことになります(3:21)。ですから、私たちは時が良くても悪くても福音を伝えなければなりません。福音が伝えられる所にいのちのみわざが起こります。ではどのようにしてすべてのものが生きるようになるのでしょうか。ここで、いのちが生きるようになるでしょうか。ここで、私たちは大切なことを学ぶことができます。
一つ目は神殿から流れ出る水、すなわち、聖霊によってすべてのものが生きるようになるということです。
1?2節をご覧ください。御使いはエゼキエルを神殿の入口に連れ戻しました。エゼキエルが見ると、水が神殿の敷居の下から東のほうへと流れ出ていました。 ここで神殿はイエス様を指し、水は聖霊を指しています。ヨハネ2:21を見ると「しかし、イエスはご自分のからだの神殿のことを言われたのである。とあります。またヨハネ7:38を見ると「わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」とあります。「聖書が言っているとおりに」という時に聖書とはエゼキエル書47章です。エゼキエルはイエス様から流れ出るいのちの水がイエス様を信じる人々の心にはいることを見ました。そして、彼らの心の奥底から、生ける水が流れ出ることも見たのです。ではそのようなビジョンがどのようにして成し遂げられるようになりますか。
二番目は聖霊の働きは小さく始めても、ますます大きく、広くなるということです。
 3?5節を読んでみましょう。「その人は手に測りなわを持って東へ出て行き、一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。彼がさらに一千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水はひざに達した。彼がさらに一千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。彼がさらに一千キュビトを測ると、渡ることのできない川となった。水かさは増し、泳げるほどの水となり、渡ることのできない川となった。」
ここで、神殿から流れ出るその水がどのように広がって行くのかが分かります。その流れは、始めは少しで小さくとも、だんだんと大きくなっています。測りなわで測ってみると足首に達している水の流れは次に腰に達していました。やがてその流れは、泳げるほどの水となり、渡ることの出来ない川となりました。これが聖霊の働きの特徴です。始めは小さくとも、ますます祝福されるのが命の水の川なのです。小さな流れはだんだん広がって大河となります。ヨブ8:7節に「あなたの始めは小さくても、その終わりは、はなはだ大きくなる」とあるとおりです。
キリスト教の歴史を見ると、教会が処せられている現実はいつも絶望的な問題がありました。イエス様がお生まれになった時にも、イエス様はヘロデ王によって殺される危険がありました。人々の内側にも様々なことで悩まされる問題がありました。当時は国内的にサマリヤ人とユダヤ人の差別問題、収税人に対するいじめ問題、ローマ兵士と庶民との収入の格差問題もありました。今も世界中の教会に問題があります。私たちのUBFにも小なり大なり問題があるでしょう。しかし、そのような状況の中でもいのちの水の流れは止まりませんでした。どんどん大きくなって来ました。新しい命の水が流れると、様々な問題は沈んでいきました。そして、いのちの水の川に多くの魚が群がるように、新しいクリスチャンが群がって来ました。そのようにしてこのいのちのみわざはエルサレム、ユダ、サマリヤの全土、及び地の果てにまで広がって来たのです。これはUBFの歴史を見ても分かります。
 1962年、UBFが始まる時、いのちの水が韓国の光州から少し流れ出ました。しかし、それが韓国のソウルと各地方に流れ出て行きました。その流れは大河となり、ドイツ、アメリカ、ロシア、アフリカなどに流れて行きました。そうして今は世界97カ国に流れ出ています。その流れは日本にも広がり、日本からもPNG,アメリカに広がりました。地球上にどんなことがあってもこの流れを防ぐことはできません。神様がエゼキエルに見せてくださったビジョンのとおりにどんどん広がっていきます。神様から与えられた御言葉を伝える人々によって全世界に広がっていくのです。
 ところが、現在、私たちはそのビジョンを見ているでしょうか。あるいは弟子養成の難しさ、自分の生活の忙しさのために何のビジョンも見えない方はいないでしょうか。もし、ビジョンが見えなくなっていたなら、不信に不信を重ねてきた罪を悔い改めましょう。そして、エゼキエルのように神様のビジョンを見ることができるように祈ります。現実的な状況や方法論的なことよりも神様のビジョンをつかむことは非常に大切なことです。
私は支部長修養会の時、御言葉の黙想について学びながらますます確信したことがあります。それは方法的なことで議論することより御言葉の黙想によって神様の働きを悟り、信じると、信仰のとおりになるということです。神様は今も働いておられます。父なる神様が働いておられるからイエス様も働いておられます。その中で私たちも働いているのです。ですから、私たちは神様がどのように働いておられるか、神様が私に働いてほしいと願っておられることは何かを考える必要があるのです。
 私は本文の御言葉を黙想しながら私にどんなビジョンがあるのか、神様が私に見せておられるのは何かを考えました。そのうちに、私は宣教師として来た時のビジョンを失っていた不信仰を悔い改めることができました。私は日本に12人のフルタイム牧者を立て50人の牧者を養成するビジョンを持っていました。そのうちに、日本が製品を輸出する国々に福音を輸出して日本を福音大国にしようとする夢がありました。自分自身も次はモンゴルの宣教師として行きたいと思いました。ところが、いつの間にか、私は現在の生活に安住し、心が職場生活や子どもたちのことに縛られている時が多くなりました。神様はこんな私を哀れまれ、悔い改めさせてくださいました。それで、私は、再び自分のビジョンを新たにすることができました。さらに、新ししビジョンを求めている時、神様は私にインスピレーションというでしょうか、アイディアというでしょうか。そういうものが与えられた私の目はエゼキエル書47章の47という数字に留まりました。それからUBF教会に流れてきたいのちの水の川が日本の四十七の都道府県のキャンパスに流れていくビジョンを見ることができました。四十七の都道府県にUBF牧者たちが立てられるビジョンをはっきりと示されたのです。さらに、いのちの水の流れが日本UBFからアジア47カ国に流れ、全世界に流れ出るビジョンも与えられました。
どうか、私たちが今日の御言葉を通して神様から与えられるビジョンを堅くつかむことができるように祈ります。そのためには、まず私たち自身がイエス様から自分に流れて来るいのちの水を十分飲んで生きることが大切です。イエス様は恵み豊かな方です。ヨハネ1:16を見ると「私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。」とあります。使徒ヨハネはイエス様の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのであると告白しています。私たちもイエス様の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けることができます。そのために、私たちが御言葉を親しみ、御言葉に従う生活が必要です。私たちがますます御言葉の世界に入って行くなら、ますます深くて広い恵みの世界を体験することができます。日ごとの糧部から聖書通読表も用意しましたが、本当に毎日御言葉を黙想し、日ごとの糧を食べる生活に励むなら、豊かな恵みを受けます。私たちの霊性は成長し、私たちの品格も変わります。エゼキエルは御使いを通して示された御言葉に従って最初は浅い水の川を渡りましたがだんだん深くて広くなる川を渡って行きました。私も神様の御言葉に従って行くと泳げるほどに豊かな恵みと祝福を経験するのです。ではいのちの水が流れるところにどんな恵みと祝福があるでしょうか。
 三番目はいのちの水、聖霊による祝福がどういうものなのかを学ぶことができます。
6、7節をご覧ください。御使いはエゼキエルを川の岸に沿って連れ帰って川の両岸を見るようにしました。そこで、彼が帰って来て見ると、川の両岸に非常に多くの木がありました。
8、9節を読んでみましょう。「彼は私に言った。「この水は東の地域に流れ、アラバに下り、海にはいる。海に注ぎ込むとそこの水は良くなる。この川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水がはいると、そこの水が良くなるからである。この川がはいる所では、すべてのものが生きる。」ここで「アラバ」とは「死海」を指しています。「死海」は南北80km、水深が396mの大きな湖ですが、名前のとおりに死の海のような所です。塩分が地中海より5倍も高くて人が入っても沈まないそうです。泳げない私のような人でもそこでは泳げるそうですが、それほど塩分が高いから魚はいないそうです。また、湖の岸は強い塩気のために木もなく、草もないそうです。ところが、エゼキエルは神殿から流れ出る水が死海にはいるのを見ました。その水が海に注ぎ込むと、その水は良くなりました。水が良くなるとその川が流れて行く所はどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生きるようになりました。また、非常に多くの魚がいるようになりました。驚くべきいのちのみわざが起こりました。この川がはいる所では、すべてのものが生きるのです。死の海がいのちの海に変わりました。これが聖霊のみわざです。水が良くなると、魚が群がるようになります。魚は滅び行く人間を指しています。私たち一人ひとりでもあります。ルカの福音書5章を見るとイエス様はシモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われました。そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになりました。その後、イエス様はシモンに「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」と言われました。と言うのは、聖霊が注がれるときに多くの人間をとるようになるということです。つまり、聖霊の働きによってリバイバルが起こるのです。その時、私たちの東京UBFにも非常に多くの魚がいるようになります。日本全国のUBFに非常に多くの人々が集まって来るのです。その理由は「この水がはいると、そこの水が良くなるからである」とあります。「この水」と「そこの水」とは何を意味するでしょうか。「この水」とは聖霊様ご自身の神様の霊です。そして「そこの水」は私たち自身です。私たちは霊的な存在です。しかし、人間が生まれつき持ち合わせている霊だけでは、どんどん悪くなります。この世の様々な水が人を悪くします。水商売の水で汚れ、腐っていく人間も多くいます。「そこの水」というのはそんな水なのです。ところが、私たちは自然のままでは「そこの水」の中で生きています。その影響を受けざるを得ません。少しでもその影響を受けないためには霊的な闘争しなければなりません。特に、祈り、所感などを通して悔い改めてきよい生活をしなければなりません。聖霊はきよめられたところがお好きです。そして、この水、聖霊様が私たちのところに流れて来られると、すべてが良くなります。では良くなるということは何を意味するでしょうか。それは治療されるとか癒される、病気が治る、修理されるという意味があります。また、潤される、成長する、昇進する、成績が上がる、もっと健康になるというようなことも良くなることです。実際にキリスト教の歴史はそのように良くなって来ました。イエス・キリストによって、イエス様を信じる人々、教会によって世界は良くなって来たのです。今も本気でいのちの水、聖霊を信じて受け入れるとすべてが良くなります。そして、これからもいのちの水が流れる所どこででも良くなるみわざが起こります。ですから、先にいのちの水を飲んで人間をとる漁師になった人々はどうなりますか。
漁師たちは死の海からいのちの海に変わった川のほとりに住みつき、エン・ゲディからエン・エグライムまで網を引く場所となります。そこの魚は大海の魚のように種類も数も非常に多くなります。ユダヤ人だけではなく、いろいろな種類の民族が教会に集まって救われるようになるからです。しかし、いのちの水がはいって来ないところはどうなりますか。
11節をご覧ください。「しかし、その沢と沼とはその水が良くならないで、塩のままで残る。」とあります。「沢と沼」とは閉鎖された場所という意味です。閉鎖された場所があると水が入って来ないから水が良くならないでそのまま残るというのです。私たちも同じです。聖霊様に対して私たちが閉鎖的な態度を持っていると水が流れてきません。段々そこの水は悪くなってしまいます。ですから、私たちも聖霊様の働きをいつも歓迎していなかったら、段々とそこの水によって悪くなってしまいます。しかし、神殿から水が流れ出て良くなった川とその周辺にはどんな変化がありますか。

結論として12節をご一緒に読んでみましょう。「川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。」 いのちの水が流れて来ると川が良くなることだけではなく、川のほとりも良くなることが分かります。川のほとり、その両岸には、あらゆる果樹が生長します。長崎蜜柑の木も、昨日食べた美味しい静岡蜜柑の木もよく成長します。その葉も枯れず、実も絶えることがありません。毎月、新しい実をつけます。実際に、聖霊様が注がれるところでは兄弟姉妹たちが良く成長して、霊的な実を豊かな実を結ぶことができます。韓国は1970年代、80年代に聖霊の働きが強かったと言われていますが、私たちUBFでも毎月牧者が立てられるみわざがありました。私は1981年UBFに来たのですが、毎月小会があってほとんどの小会に牧者を立てるみわざがありました。そして、ただ、三ヶ月聖書勉強して牧者になっても羊を飼うことが出来ました。 結局、いのちの水が流れるところ、聖霊様を受けれいるところはあらゆる面で祝福されます。すべてが良くくなり、豊かな実を結ぶようになるのです。

2007年からは日本でも毎月、新しい実をつけるようないのちのみわざがありますように祈ります。私は日本で毎月、新しい実を受けるようになる日を夢見ながら毎月47kmを走る決断をしました。走ることは自分の健康管理のためですが、走りながら47都道府県のキャンパスにUBF牧者たちが立てられるビジョンを見ます。私たちが神様に大きな期待を持ちましょう。神様に対して聖なる期待を持つことは大切です。日本宣教のビジョンを新たにして御言葉信じ、聖霊の働きを確信しましょう。いつも御言葉を黙想し、神様がどうなさるかを考えましょう。聖霊の水が流れると、この日本も変わります。この水が流れると、日本もすべてが良くなります。私はこれから、日本に非常に多くの魚がいるようになることを信じています。ただ、私たちはエゼキエルのようにビジョンを持って主の御言葉に従い、人間をとる漁師の使命を忠実に担わなければなりません。私たちが平信徒として大きなことができなくても、御言葉を黙想し、謙遜に、忠実に主の御言葉に従うなら、聖霊によって日本四十七都道府県の開拓だけではなく、日本がアジアの47カ国に、全世界に宣教師を遣わす福音大国になります。