2007年テトスへの手紙第1講

信仰を健全なものとしなさい

御言葉:テトス1:1?16
要 節:テトス1:9「教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。それは健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを正したりすることができるためです。」

今日からテトスへの手紙を学ぶようにしてくださった神様に感謝します。なぜ、テトスへの手紙を学ぶのかと聞かれるかも知れませんが、この手紙の中にキリストの真理の中でも健全な教えがあるからです。短い手紙ですが、この手紙を通して健全な教えを学ぶことができます。
今年、私たちの教会は「すべてが生きる」「すべてが良くなる」というビジョンを持っています。そして、生かし合う聖書勉強、生かし合う交わりを望んでいます。それは単なる知識の伝達ではなく、健全な教えを持ってできることです。健全な教えを持って励ましたり、真理に反対する人たちを正したりすることによって私たちの教会は生かされます。霊性を培い、霊的な強さを身につけることができます。
テトスへの手紙は健全なクリスチャンの信仰と健全なクリスチャンの生活について教えてくれます。具体的に言うなら、パウロは聖徒たちに不品行をやめ、慎み深く、忠実であり、良いわざを続けるように励ましています。パウロはテトスへの手紙を通して私たちに敬虔な生活を求めているのです。
今日の御言葉はパウロのあいさつと指示や、教会のリーダーたちが人格と生活の面においてそろえるべき資質について教えてくれます。このようなことはリーダーだけではなく、すべてのクリスチャンが平素の生活の中で求めるべきことです。すべてのクリスチャンはノンクリスチャンを導くリーダーの役割を果たすべきであり、実際にリーダーも一般信徒の時にこの手紙に示されている神様のみこころによく従っている人から立てられるからです。どうか、御言葉を通して健全なクリスチャンとして私たちの人格、霊的な品格が成長するように祈ります。

?.パウロのあいさつ(1?4)
1、2節をご覧ください。ここで、パウロは自分を指して「神のしもべ、また、イエス・キリストの使徒」として紹介しています。「しもべ」とはに「奴隷」に訳すこともできることばです。主人の所有物として仕事だけが求められます。「神のしもべ」は神様の所有物として、神様に従って歩む人のことです。使徒」とは「遣わされる者」を意味しています。各国に遣わされた大使は自分の国を代表する者としての権威を持っています。このようにパウロはイエス・キリストを代表する者として、その権威が与えられているキリストの大使です。そして、彼が神のしもべ、キリストの使徒となった目的は神様に選ばれた人々の信仰と、敬虔にふさわしい真理の知識とのためです。「敬虔にふさわしい真理」とは「敬虔に一致している真理」「敬虔に導く真理」「敬虔な生活を示す真理」「敬虔を生み出す真理」と言えることです。「敬虔にふさわしい真理の知識」は「敬虔な生活に至らせる真理を知ること」なのです。 つまり、真理の御言葉を知っていても敬虔な生活に至らせることができないなら無意味になってしまうのです。私たちが持っている真理の知識は敬虔な生活を生み出さなければなりません。長い間の教会生活、牧者や宣教師生活を通して数多い真理を知っていてもクリスチャンとしての敬虔な生活ができないなら無意味なことになってしまうのです。敬虔な生活はパウロだけに求められるものではありません。初代教会の聖徒たちだけに求められたものでもありません。それは、偽ることのない神が、永遠の昔から約束してくださった永遠のいのちの望みに基づくことです。信仰と、敬虔にふさわしい知識とは神様が永遠の昔から約束してくださった永遠のいのちの望みに基づくことなのです。私たちの信仰は永遠の昔から約束されているのです。皆さんが聖書勉強を通して真理の知識を学び、敬虔に礼拝をささげていることも、実は神様が永遠の昔から約束してくださったことであって、永遠のいのちの望みに基づいているのです。ですから、神様に選ばれている私たちの信仰と敬虔な生活は永遠に続きます。皆さんは健全な生活、敬虔な生活を望んでいるでしょう。また、信仰によって生きることは望んでいるでしょう。その望みは神様が永遠の昔から約束された永遠のいのちの望みに基づいているのです。何と感激的なことでしょうか。私たちの救い、信仰と敬虔な生活は永遠の昔から約束されていたし、永遠に続くのです。私がこのように言ってもうそのように聞こえるかも知れません。恐らく、テトスが働いているクレテト島の人々は「それはうそだ」と思っていたかも知れません。彼らは昔からの嘘つきだと言われていたからです。嘘つきが多いところでは真実を言ってもよく理解してくれません。
そこで、パウロは偽りの神様を強調しています。神様は何でもおできになる方です。しかし、ひとつだけはできません。それは嘘を尽くことです。神様は真実しか語らないのです。ですから、私たちの信仰、真理の知識を土台にして敬虔に生きることは永遠の昔から、私たちに約束されているのです。ただ、それが神様の時に宣教によって明らかにされました。もともと、パウロは偽りのない神様が永遠の昔から自分の信仰を約束しておられたこと、永遠のいのちの望みに基づいていることを知りませんでした。しかし、宣教によって神様のみこころが自分にも明らかにされました。そして、彼は「この宣教を私たちの救い主なる神の命令によって、ゆだねられたのです。・・」と言っています。パウロは自分に宣教がゆだねられていると信じていました。つまり、神様の命令によって宣教師になっていると確信していたのです。そして、パウロはこのように、自分の信仰、自分の使命を言い表して同様の信仰と使命を持っているテトスを励まそうとしています。
 4節をご覧ください。同じ信仰による真実のわが子テトスへ。父なる神および私たちの救い主なるキリスト・イエスから、恵みと平安がありますように。」とあります。テトスはテモテと同じように、パウロと同じ信仰による真実の息子でした(?テモテ1:2)。そして、私たちも、永遠の昔からパウロ、テトスと同じ信仰による神様のしもべ、イエス・キリストの使徒として選ばれています。私たちも宣教によって救われています。私たちの救い主イエス・キリストを信じて救われたのは、多くの宣教師たちの宣教によるものなのです。そして私たちにはこの宣教の使命が私たちの救い主なる神様の命令によって、ゆだねられています。宣教師だけではなく、救われているすべての人々に宣教の使命が与えられています。

?.クリスチャンに求められること(5?16)
5節をご覧ください。「私があなたをクレテに残したのは、あなたが残っている仕事の整理をし、また、私が指図したように、町ごとに長老たちを任命するためでした。」とあります。パウロがテトスをクレテに残したことはクレテでテトスと一緒に活動していたことを示唆してくれます。クレテはギリシャの南端から96km離れている島です(PPT参照)。そこに、どのようにして教会が立てられたのかは知られていません。ただ、使徒の働きを見ると、五旬節の日に聖霊が臨まれました。その時、弟子たちが各国のことばで話すのを聞いている人々の中にクレテ人もいました(使徒2:11)。その時、救われた人たちがいたなら、彼らが地元に帰って教会を建てたと思われます。それから、パウロが囚人の身で船に乗り込ませられてローマに行く途中、風のために進むことができず、上陸したところがクレテでした。そこで、宣教活動をした記録はありませんが、パウロはしばらくクレテに留まることを願っていました(27:21)。恐らく、五旬節の日に、聖霊の働きを体験したクレテ人たちはパウロのところに来て話を聞こうとしたでしょう。しかし、その時にテトスと一緒に教会を開拓することはできなかったと思います。
ですから、パウロはローマの監獄から釈放された後に、テトスと一緒にクレテに来て神様の命令によって自分にゆだねられた宣教のために働いたと思われます(63年頃)。パウロがクレテから離れ行った理由は分かりませんが、パウロはクレテ教会に残っている仕事の整理をテトスに頼んでいます。「仕事の整理」というのは、事務的な仕事を意味するのではありません。教会の秩序の立て直しのことです。韓国語の聖書を見ると「足りなかったことを正しく立て直す」ことを意味しています。パウロは長期間滞在することができなかったので教会を開拓したものの組織的に秩序を立てることまではできなかったようです。つまり、牧者宣誓式を行なったり、フェローシップのリーダーを立てることができなかった時に、パウロはクレテから出て他のところに行ったのです。ですから、パウロが一緒にいる間にテトスと話し合っていたことはそのとおりに行なって整理することはテトスが第一に行なうべき仕事です。その次のこともパウロが指示しましたが、パウロが指示したように、町ごとに長老たちを任命することです。教会において長老の存在はとても重要なことです。模範的な長老の存在によって、教会の乱れが正されていきます。では長老に求められる条件は何ですか。6?8節には長老、監督に求められる条件について記されています。当時は長老と監督を区別しませんでした。彼らのお歳と威厳によって長老として呼ばれ、その職務によって監督と呼ばれていました。ですから、ここに記されている条件は教会のリーダー、リーダーになろうとする人たちに求められていることです。では、リーダーになるためにはどんな条件が必要ですか。
第一に、非難されるところがないことです(6a、7a)。これは全く罪がないということではありません。家庭において、教会において非難されることがないということです。ふたりの妻がいると非難されるでしょう。二人の妻と結婚しなかったとしても浮気をしている愛人がいても非難されるでしょう。だから、リーダーたる者はひとりの妻の夫でなければなりません。また、子どもが不品行で責められたり、反抗的であったりすると非難されます。私は自分の子どもたちがうちの教会に来てくれるからありがたく思っていますが、来なかったらどうなるでしょうか。自分の子どもを導くこともできないくせにと非難されるかも知れません。もちろん、子どもも自分の人格を持っているから親の指示に従わせることが難しいですが、子どものことで非難されないように教育していく責任があるのです。特に、子どもが信者であっても不品行で責められたり、反抗的であったりしないように教育しなければならないのです。
第二に、わがままでないことです(7b)。「わがまま」と言うのは辞書に「自分の思いどおりに振る舞うこと。また、そのさま。気まま。ほしいまま。自分勝手」と記しています。どの共同体でもリーダー、年取っている長老はいろいろな経験をしているから他人の意見は幼い子どものように思われる時があるでしょう。しかし、自分の経験が多いと思っていると、わがままになってしまいます。そのうち、高慢なリーダーとして良い影響を及ぼすことが出来なくなります。リーダー謙遜になってだれの話でもよく聞き入れることができなければなりません。ですから、リーダーにわがままでないことが求められるのです。
第三に、短気でないことです(7c)。短気とは「辛抱ができず、すぐ怒ったりいらいらしたりすること」です。「短気は未練の元」と言われていますが短気を起こすと後悔することが多く、未練が生じるようになるでしょう。もちろん、不正や不義に対しては怒るべきでしょう。しかし、自分の正しさを主張するためにすぐに怒ったりいらいらしたりしてはリーダーとして失格です。自分のために自分の感情を爆発するなら、それは短気です。人が何もしないなら言われることも少なくなりますが、教会で牧者として、先輩として、長老としていろいろ働き始めると言われることも多くなります。リーダー多くの人とかかわるようになるからその分言われることも多くなります。すると、怒りたくなるでしょう。しかし、自分のことなら辛抱してすぐ怒らないようにしなければなりません。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見出されませんでした。それでも人々からののしられたり、苦しめられたりしました。ついに十字架につけられました。しかし、キリストはののしられても、ののしり返さず、苦しめられてもおどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました(?ペテロ2:13)。
第四に、酒飲みでないことです(7d)。パウロはエペソ人への手紙では「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。」と言っています。この世の中ではストレスがたまるようなことがよく怒ります。それで、人々はお酒を飲んでストレスを解消し、嫌なことを忘れようとします。実際に飲み会で一杯、二杯飲んでいくと嫌な気持ちもなくなり、ストレスも解消されるそうです。だから、大体酒飲みは付き合いがいいですね。ところが、クリスチャンはお酒を飲まないから嫌なことを忘れることができないから付き合いが下手だと言われます。しかし、クリスチャンはお酒に酔ってではなく、聖霊に酔って生きるべきです。聖霊に満たされると、お酒に満たされること以上にてストレスを解消されるし、嫌なことを赦してどんな人でも仲良くすごすことができます。酒飲みで付き合いはできても良い影響を及ぼすことはできません。酒に酔っていて宣教することもできません。ですから、クリスチャンリーダーには酒飲みでないことが条件です。
第五に、けんか好きでないことです。たまに夫婦けんかをする家庭もあるでしょうが、リーダーがけんか好きになってはなりません。教会でも生まれたばかりの教会はまだ成熟した信仰を持っている人が少ないからけんかも起こり得ますが、リーダーが件好きになってはいけないのです。
第六に、「不正な利を求めない」ことです。霊的なリーダーは自己犠牲によって兄弟姉妹たちを助け、彼らを富ませる働きをする人です。イエス様は富んでおられたのに、私たちのために貧しくなられました。それは私たちが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。霊的なリーダーも、聖徒も富んでおられたのに私たちのために貧しくなられたイエス様にみならい、不正な利を求めないようにしなければならないのです。
以上の六つのことは消極的な面においてリーダーに求められる条件だとすれば、積極的な面においてもリーダーに求められる条件があります。
それは第一に旅人をよくもてなすことです。ヘブル13:2節を見ると「旅人をもてなすことを忘れてはいけません。こうして、ある人々は御使いたちを、それとは知らずにもてなしました。」とあります。アブラハムは御使いたちを、それとは知らずにもてなしましたが、それはいつものように人々をもてなしていたからでしょう。そのような生活を神様は喜ばれ、アブラハムをあらゆる面で祝福してくださいました。人を家に招いてもてなすことはやさしくありません。部屋の掃除から始めて準備が必要です。時間も、お金も必要です。子どもたちがいると、お客の邪魔にならないように指導することも必要です。ですから、旅人をもてなすと、自分にも喜びがあるし、アブラハムのようにあらゆる面で祝福してくださる神様を体験することもできます。何よりも旅人をもてなすことはイエス様をもてなすことになります。
第二に、善を愛することです。善いこと、正しいことを求めることです。人のために自分を犠牲にすることを喜ぶ人のことです。その人は慎み深く、正しく生きようとするでしょう。善を愛するから敬虔で自制心もあります。リーダーは善を愛してほんとうに慎み深く、正しく、敬虔に生きる人でなければならないのです。
 では、私たちはどのようにして以上の条件を満たすことができるでしょうか。パウロは以上の条件を9節でまとめています。
9節をご一緒に読んでみましょう。「教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守っていなければなりません。それは健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを正したりすることができるためです。」 リーダーは、しっかりと教えることができる人でなければいけません。教えるためには教えにかなった信頼すべき御言葉をしっかりと守っていなければなりません。いろいろ分けてこまかく言いましたが、毎週、与えられる御言葉、その日、その日に与えられた御言葉をしっかりと守っていることが大切です。ただ、覚えるのではなく、信頼すべき御言葉を守ることです。どれくらい守るべきでしょうか。それはイエス様のように守ることです。今はそれくらいできなくても、目指すべき目標はイエス様のようになることです。キリストの似姿にまで変えられることを目指して御言葉を守ることに励むのです。すると、そのうちに私たちは、長老として、監督としてふさわしいリーダーになって行きます。そして、イエス・キリストの香りを放つこともできるようになります。何よりも、御言葉によって示された健全な教えを持って人を励ましたり、反対する人たちを正したりすることができます。自分が御言葉を守っている分だけの権威を持って教えることができるでしょう。
それによって弟子養成もできます。弟子養成が難しいのは、単なる知識を伝えるのではなく、まず自分が日々御言葉を守りながら人が守るようにしなければならないからです。自分が御言葉をしっかりと守っていなければ異端の教えとか、この世の悪い習慣、風潮に勝つところか、影響されてしまいます。そこで、パウロは長老、監督、つまりリーダーを立てる時の条件が厳しくなければならない理由を説明します。
第一に、世の中には偽りの教えが多いからです。10?11節をご覧ください。「実は、反抗的な者、空論に走る者、人を惑わす者が多くいます。特に、割礼を受けた人々がそうです。彼らの口を封じなければいけません。彼らは、不正な利を得るために、教えてはいけないことを教え、家々を破壊しています。」とあります。これは当時、クレテにいる人々のことですが、真実に生きようとするクリスチャンを惑わす人たちが多くいました。しかし、過去のクレテだけのことではありません。聖書の権威に対して反対する者、実のない議論をふっかけてくる者、また人を惑わす者は、今でも多くいます。特に、先進国の中でもキリスト教の国ではない日本で非キリスト教的な教えに説得力があります。私は日本に来て伝道する時、聖書的な教えがなくても金持ちの国になり、治安もよく、平和な国ではないかと言われると、なかなか答えることが難しくなりました。イエス様を信じることは金持ちになるためではないのに、この世の価値観では通用しないからです。だから、しっかりと御言葉を守っていなければ惑わされやすいのです。
第二に、周りの人々が自分の欲望のために生きているからです。12?14節をご覧ください。「彼らと同国人であるひとりの預言者がこう言いました。「クレテ人は昔からのうそつき、悪いけだもの、なまけ者の食いしんぼう。」この証言はほんとうなのです。ですから、きびしく戒めて、人々の信仰を健全にし、ユダヤ人の空想話や、真理から離れた人々の戒めには心を寄せないようにさせなさい。」とあります。
クレテは今も自然の豊かなところだそうです。昔も野菜と果樹の栽培に気候が良くて、食べ物が豊かな島でした。ですから、人々は飯を食って食べることには困ることなく生活していました。そのような人々に福音を伝えることはなかなか難しいです。しっかりした健全な価値観がなければ、彼らに惑わされるのです。今日、日本も食べ物が豊かで、野菜も果物、魚もおいしいですが、このように環境に恵まれていると真理の知識には無関心な人が多くなります。私の場合はイエス様を信じてから健康も良くなり、勉強の良くできるようになったので、イエス様を信じれば祝福されると言うイメージがあります。ところが、日本はイエス様を信じなくても一般的には豊かになっているのです。ですから、パウロがテトスに指示したような高いレベルの人格、健全な価値観を持っていなければ宣教は難しくなるのです。
第三に、神を知っていると口では言いますが、行ないでは否定している人が多くいるからです。
15?16節を読んでみましょう。「きよい人々には、すべてのものがきよいのです。しかし、汚れた、不信仰な人々には、何一つきよいものはありません。それどころか、その知性と良心までも汚れています。彼らは、神を知っていると口では言いますが、行ないでは否定しています。実に忌まわしく、不従順で、どんな良いわざにも不適格です。」
これはとても重要な言葉だと思います。「神を知っていると口では言っているが、行ないでは否定している」ということです。日本でも多くの人々はキリスト教の真理を知っています。教会で結婚式を挙げることを憧れている人も多くいます。しかし、御言葉に従って生きている人はほんの少しです。教会に通っている私たちはどうでしょうか。神を知っていると口では言いますが、行ないでは否定している時はないでしょうか。パウロは良い行ないを強調しています。真理に反抗的な者たちは、口は達者だったけれども、この行ないはありません。これは「忌まわしく、不従順で、良いわざに不適格です。私たちが、信仰者として、良いわざを生み出していないことについて不適格だとパウロは言っています。

以上をまとめますと、パウロは私たちが信仰を健全にして生きることを勧めています。健全とは辞書を見ると「1 身心が正常に働き、健康であること。また、そのさま。」2 考え方や行動が偏らず調和がとれていること。また、そのさま。3 物事が正常に機能して、しっかりした状態にあること。また、そのさま。」」です。私たちは日々教えにかなった信頼すべきみことばを、しっかりと守ることによって健全な発達を遂げることができるように祈ります。自分が非難されることのない健全な信仰人に成長することだけではなく、健全な教えをもって励ましたり、反対する人たちを正したりすることができるようリーダーになるように祈ります。