2007年テトスへの手紙第2講

良いわざの模範となりなさい

御言葉:テトス2:1?15
要 節:テトス2:7,8a 「また、すべての点で自分自身が良いわざの模範となり、教えにおいては純正で、威厳を保ち、非難すべきところのない、健全なことばを用いなさい。」

先週、私は西洋のことわざに、「クリスチャンはノンクリスチャンの聖書である」という言葉があることを知り、なるほどと思いました。確かに、私たちクリスチャンには聖書があり、聖書を通して善悪を判断します。また、聖書を通して神様に対する信仰を深めて行くことができます。ところが、ノンクリスチャンは聖書の御言葉を信じません。だから、彼らはクリスチャンの行ないや生活を見て、聖書の神様を判断するでしょう。クリスチャンを見てクリスチャンが信じる聖書の教えに対する批判もするでしょう。ノンクリスチャンから神様の御言葉がそしられるのも、神様の教えが素晴らしく評価されるのも、私たちクリスチャンの行ないや生活によるのです。このことを思えば、私たちクリスチャンに与えられている責任はほんとうに重いです。
今日の御言葉はクリスチャンとして、霊的なリーダーとしてどのように行ない、どのような生活をするべきかを教えています。特にパウロはテトスに「良いわざの模範となりなさい。」と命じています。この時間、御言葉を通して救いの恵みを新たにし、救われた目的を知ることができるように祈ります。特に、御言葉を通して神様の恵みを覚えて心を新たにすることだけではなく、実際の生活の中で良いわざの模範となる生活ができるように祈ります。私たちの行ない、言葉、生活を通して自分の家族も、老人も、日本の若者たちもイエス様を信じて救われるほどに模範的なクリスチャンとして成長していくことができるように祈ります。

?.すべての点で自分自身が良いわざの模範となりなさい(1?10)
パウロは1章の終わりでテトスに偽りの教師に対する警告を与えました。1:16節を見ると「彼らは、神を知っていると口では言いますが、行ないでは否定しています。実に忌まわしく、不従順でどんな良いわざにも不適格です。」とあります。彼ら、ユダヤ人は神様を知っていると言っていますが、彼らの行ないでは否定していました。彼らは真理から離れた人々であり、その知性と良心までも汚れている人々です。彼らの行ないは彼らの告白と一致していませんでした。しかし、テトスはどうするべきですか。
1節をご覧ください。「しかし、あなたは健全な教えにふさわしいことを話しなさい。」とあります。パウロはテトスに「健全な教えにふさわしいことを話しなさい」と命じています。ここで、「話しなさい」と言うのは特別に式場で言う言葉ではなく、日ごろの生活の中で話している言葉を意味しています。つまり、平素に言っていることと一致した教えを話なさいと言うことです。教会では素晴らしい言葉で話しますが、職場や自分の家では知性と良心までも汚れているような話し方をしてはいけないということです。そして、「健全な教え」とは「聖書の御言葉と使徒たちの教え」を意味します。流行っている教えとか、自分のなりの考えを教えないで、使徒たちを通して教えられた聖書の御言葉、福音的な伝統にふさわしいことを教えなければなりません。特に、使徒たちは言葉だけで教えたのではなく、健全な教えにふさわしい生活をしながら教えていました。そのような使徒たちの話は健全な教えにふさわしいこととして人々の心に伝えられました。使徒たちの健全な教えから聖徒たちの健全な発達、健全な成長、健全な生活が生まれていたのです。そこで、パウロはテトスに健全な生活が生まれるような教えをするように勧めています。テトスはクレテ教会の人々に知識や教訓だけを教えるので教訓と生活が一致するように教え、助けなければならないのです。では、テトスはどのように助けなければなりませんか。
2-10節には老人たち、年をとった婦人たち、若い人たち、奴隷たちに教えるべき健全な教えが記されてあります。

?老人たちに関して(2-5)
2節をご覧ください。「老人たちには、自制し、謹厳で、慎み深くし、信仰と愛と忍耐とにおいて健全であるように。」とあります。この手紙が書かれたローマ時代には40歳を前後にして老人と若者を区別していたそうです。でも、老人と言うのはお年がいくつかと言うよりも、当時、家の教会の中でシニアグループを指していました。つまり、私たちの教会で言うなら、フェローシップのリーダーたちであり、各自の家ではお父さんたちに当たります。彼らに求められることは第一に自制(Self-control)です。謹厳と慎みは自制から生まれるものでしょう。ですから、家でも教会でもシニアに当たる人には第一に自制が要求されます。一番年上の人、先輩やリーダーの立場に立っている人たちを教える人はいないからです。彼らが自ら自制しなければ若い後輩たちに良くない影響を及ぼします。
私はうちの教会の中で李ヨシュア宣教師や金ヨハネ宣教師がシニアとして自制する生活の模範となってくださるから感謝しています。一番年上ですけれども教会堂のお掃除とか、机の片付けなどから始めていろいろ仕えてくださいます。ヨハネ宣教師は私の大学の先輩でもありますが、同じ部屋で共同生活をする時から私に過ち、無礼なことがあっても怒りません。散らかしていても怒らないで自制してくださったのです。一緒に日本に来て20年目になりましたが、いつも夜明けの祈りにおいて模範となってくださいました。私たちも自分の家族、フェローシップ、チームなどの共同体の中でシニアである場合があるでしょう。おのおのがよく自制して家族に、自分が属しているグループのメンバーに模範となる生活が出来るように祈ります。
3節をご覧ください。「同じように、年をとった婦人たちには、神に仕えている者らしく敬虔にふるまい、悪口を言わず、大酒のとりこにならず、良いことを教える者であるように。」とあります。年をとった婦人たちには、第一に神に仕えている者らしく敬虔にふるまい、悪口を言わないことです。女性は年をとれほど言葉の数も増えると言われます。私の母も言葉の数が多くて電話をすると長電話になります。母の隣で父が「国際電話だから早く切りなさい。」と言われるほどです。ところが、母は92歳のおばあさんの話が多くてそれに対応することが大変だと言われます。やはり女性は年を取れとるほど言葉の数も増えますね。言葉が多くなると、人の悪口も出やすいでしょう。ですから、年をとった婦人は多い言葉の中で人の悪口を言わないように気をつけなければなりません。人の悪口を言うことは人間関係をこわし、悪魔が働ける隙間を提供してしまいます。ですから、女性は年をとれば取るほど人の悪口、告げ口などを言わないようにしなければならないのです。第二に、大酒のとりこにならず、良いことを教える者になることです。女性は更年期を迎えると、虚無感と絶望感が襲ってくるそうです。若いときは元気良く活動し、子どもたちを育てることでも忙しかったのですが、子育ても終わり、気力も衰えてくるといろいろむなしくなるのです。それで、大酒のとりこになったり、テレビや映画の奴隷になったりするそうです。パウロはそういう生活に対して警告し、良いことを教える者であるように勧めています。事実、年をとった婦人たちが後輩たちに良いことを教える1:1のみわざに励むなら、家族と教会を支える歴史の主役として用いられます。
 4,5節をご覧ください。「そうすれば、彼女たちは、若い婦人たちに向かって、夫を愛し、子どもを愛し、慎み深く、貞潔で、家事に励み、優しく、自分の夫に従順であるようにと、さとすことができるのです。それは、神のことばがそしられるようなことのないためです。」とあります。年取った婦人たちが悪口を言わず、大酒のとりこにならず、良いことを教える時に、その教えには力があります。若い婦人たちに向かって、夫を愛し、子どもを愛し、慎み深く、貞潔で、家事に励み、優しく、自分の夫に従順であるようにと、さとすことができるのです。この教えから若い婦人たちに求められることも学ぶことができます。それは夫を愛し、子どもを愛し、慎み深く、貞潔で、家事に励み、優しく、自分の夫に従順であることです。若い婦人たちはこれらの徳目を心に刻み、実践するために励まなければなりません。クリスチャン女性が夫を愛し、子どもを愛することは当たり前でしょうが、それができないと神様の御言葉がそしられるようになります。慎み深く、貞潔で、家事に励むことは大切です。でもパウロの時代とは違って共働きをしている家庭では夫も家事のために一緒に協力しなければならないでしょう。ただ、女性として優しく自分の夫に従順であることは昔も今も変わらないでしょう。夫が自分より年下であっても妻が夫に従順であることは聖書の教えです。
 
?若い人々に関して(6?8)
6節をご覧ください。「同じように、若い人々には、思慮深くあるように勧めなさい。」とあります。若者の胸は熱く、その血は燃えていると言われます。その分、誘惑も多いでしょう。特に今の時代は性道徳の堕落、IT産業の発達によって誘惑されやすい環境になっています。時として、誘惑があまりにも強烈でとても耐え切れないと感じることがあるかも知れません。だから、思慮深くなければ誘惑されてしまいます。誘惑されなく、健全に生きるためにはいつも思慮深くあるべきです。あまり考えないで行動すると、堕落し、汚れている世の風潮に巻き込まれてしまうからです。だから、ダビデはこう祈っています。「つまらないものに目を向けることのないように私を守ってください(詩篇119:37a、TEV)。思慮深くなければつまらないものに目を向けてしまうでしょう。つまらないものに目を向けると、自分の人生を自分の意志で生きるのではなく、世の流れに流されてしまう人生になります。そういう面で考えると、青年の時から夜明けに神様に祈り、日ごとの糧の御言葉を通して深く考える時間を持つ習慣を身につけることがとても大切なことです。私は夜明けに御言葉を深く考える時間を持たないと、つまらないインターネットの記事を見ながら尊い時間を過ごしてしまい、後悔します。しかし、祈りと日ごとの糧を通して朝から思慮深くあるなら、つまらないものに目を向けることなく、忠実な一日を過ごすことが出来ます。それで、私は日ごとの糧を目で読むことだけではなく、毎日手で書いて食べるために励んでいます。
私はまだ、まだ足りませんが、宣教師として、メッセンジャーとして用いられていることを神様に感謝しています。そして、たまに思慮深いと言われるのは、若い大学生の時に毎朝、日ごとの糧を書いて発表する訓練を受けたことが役立っているということです。どうか、若い人々は若い時から思慮深くあるように、また、年をとった人は若い人々に思慮深くあるように勧めることに励むことが出来るように祈ります。
では若い人々には思慮深くあるように勧める人にはどのような生活が求められますか。パウロはテトスにすべての点で模範となる生活を勧めています。
7、8節をご一緒に読んでみましょう。「また、すべての点で自分自身が良いわざの模範となり、教えにおいては純正で、威厳を保ち、非難すべきところのない、健全なことばを用いなさい。そうすれば、敵対する者も、私たちについて、何も悪いことが言えなくなって、恥じ入ることになるでしょう。」パウロはテトスに人々をどのように教え、養育するべきかを説明するだけではなく、養育の方法としてすべての点で自分自身が良いわざの模範となるように勧めています。自分自身が模範となる時にその教えに力があります。昨日、ある方は先週学んだ御言葉を通して子どもが不品行で責められたり、反抗的であったりしない信者であるように教育したいと言いました。そこで、私は「子どもは親の背中を見て育つでしょう。」と言いました。子どもや兄弟姉妹たちに対する良い教育はすべての点で自分自身が良いわざの模範となることでしょう。―世界傑作ジョーク250―という本の19頁にこういうジョークがあります。
ある父親が息子に言いました。「息子よ。アブラハム・リンカーンは、もうお前の年には弁護士になるため、一生懸命に法律の本を読んでいたのだぞ。漫画ばかり読まないで、しっかり勉強しろ。」すると、息子が言いました。「お父さん。アブラハム・リンカーンは、お父さんの歳には大統領になってたよ。」模範とならなければ教えに力もないのです。ではどれほど模範となるべきでしょうか。非難されるところのないほどです。なかなか難しいレベルです。その高いレベル考えると、自分の人格や生活習慣才能などの欠落が気になります。しかし、それを気にする前に、神様に祈る姿勢を身に着けていくなら、私たちの人格も、生活態度も変えられて行くでしょう。そして、私たちが変えられると、すべての点で模範となる生活が堅苦しく、厳しい生活ではなく、喜びに満ちた幸せな生活です。いつも笑顔で幸せに生きているあの牧者のようになりたい、あるいは世の中で最も幸せな顔で最も意義あり働きのために働いているあの宣教師のようになりたいと思われる者になるのです。 ですから、今はすべての点で模範となることができていなくても、それを求めましょう。私たちに、本気で目指す心があれば良いと思います。すると、全能の神様がその心をご覧になり、祈りの中で願い求めていく私たちをキリストの御姿にまで変えていかれます。

?奴隷に関して(9?10)
9、10節にはどれに関することが記されてあります。奴隷には、すべての点で自分の主人に従って、満足を与え、口答えせず、盗みをせず、努めて真実を表わすように勧めることです。コロサイ3:22、23節を見ると「奴隷たちよ。すべてのことについて、地上の主人に従いなさい。人のごきげんとりのような、うわべだけの仕え方ではなく、主を恐れかしこみつつ、真心から従いなさい。何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしなさい。」とあります。
それは、彼らがあらゆることで、私たちの救い主である神の教えを飾るようになるためです。私たちクリスチャンは現在自分の地位が低くてもつぶやかないで忠実に働かなければなりません。創世記の最後の部分に記されているヨセフは何をするにも、人に対してではなく、主に対してするように、心からしました。奴隷の時も、総理大臣になった時にもその態度に変わりはありませんでした。私たちもヨセフのような美しい内面性を持って生きることができるように祈ります。

?.良いわざに熱心なご自分の民(11?15)
パウロは1?10節の御言葉を通してテトスが健全な教えにふさわしいことを話して聖徒たちが敬虔に生きるように助けました。特に家でも、あるグループでも、教会でもリーダーである者は、すべての点で人々の模範となるようにクリスチャンの実際的な生活を教えました。次はその生活の土台になる救いの恵み、つまりクリスチャンが敬虔に生きるべき神学的な土台を教えています。
11?13節を読んでみましょう。「というのは、すべての人を救う神の恵みが現われ、私たちに、不敬虔とこの世の欲とを捨て、この時代にあって、慎み深く、正しく、敬虔に生活し、祝福された望み、すなわち、大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望むようにと教えさとしたからです。」
ここで、パウロはすべての人を救う神の恵みが現われたことを強調しています。「現われ」というのは注解書によると「太陽が現われる」という時に使う言葉だそうです。つまり、太陽が昇ると暗やみが消え去り、美しい自然が見えてくるようなことが神様の恵みの現われによって起こったのです。神様の恵みが現われると暗やみの不敬虔とこの世の欲とは消え去り、神様のイメージを持っている人間の美しい性質が見えてくるみわざが起こるのです。実際に、イエス様は暗やみを退ける日の出としてお生まれになりました。このイエス・キリストによる神様の恵みを受ける人々は慎み深く、正しく、敬虔に生活するようになります。そして祝福された望みを持つようになります。祝福された望みとは大いなる神であり私たちの救い主であるキリスト・イエスの栄光ある現われを待ち望む望みです。これはとても重要なキリスト教の真理を教えてくれます。私たちが慎み深く、敬虔に生活することは、宗教的な戒律を守ることではありません。すべての点で模範となることも、他の宗教で教えているような厳しい修養生活によってできるのでもありません。クリスチャンの敬虔な生活は神様の大いなる恵みによってできるものです。神様の恵みが私たちに現われる、私たちはイエス・キリストの血潮によってすべての罪が赦され、救われることを悟るようになります。また、キリストの十字架と復活による罪の贖い、救いを信じて救われるようになります。その恵みを深く悟れば悟るほど、その恵みを知れば知るほど罪から離れ、この世の欲を捨てるようになります。そして、おのずから慎み深く、敬虔に生きようとする聖なる望みを持つようになります。何よりも再び来られるイエス様の再臨を待ち望むようになります。この生ける望みのゆえに、この世では聖なる国民としてきよく正しく生きようとするのです。私たちが時々つまらないものに目を向けてしまうのはイエス・キリストの再臨、神の国に対する生ける望みを失ってしまうからです。しかし、私たちは神の国の聖なる国民らしく、聖なる望み、生ける望みを堅くつかんでいるなら、きよい民として敬虔に生きることができます。神様の恵みとしてキリストが現われたのは私たちをきよめるためです。

結論として14、15節には神様が私たちを救われた目的が記されてあります。ご一緒に14節を読んでみましょう。「キリストが私たちのためにご自身をささげられたのは、私たちをすべての不法から贖い出し、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。」神様の恵みとして現われたイエス・キリストは私たちのために多くの苦しみを受けられました。ついに十字架にかかられて尊い御血を流し、死なれました。イエス様は十字架にかかって死なれる時は、大声で「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫ばれました。神様にまで捨てられたほどに苦しみを受けながらもご自分をささげられたのです。その目的は私たちをすべての不法から贖いだし、良いわざに熱心なご自分の民を、ご自分のためにきよめるためでした。
十字架の死によって私たちを救ってくださることだけではなく良いわざに熱心なご自分の民にしてくださった恵みを感謝します。この世の中では良くないわざに熱心な人々も多くいます。つまらないわざのために一生懸命に働いている人々もいます。彼らはむなしい人生を過ごしてしまいます。しかし、神様は私たちを救ってくださり良いわざに熱心な民にしてくださいました。私たちが熱心に伝道し、1:1のみわざに励もうとしているのは神様が良いわざに熱心な民にしてくださったからです。ですから、私たちは御言葉を十分な権威をもって話し、勧め、また、責めるべきです。だれにも軽んじられてはいけません。来月から2007学年度が始まりますが、私たちがますます良いわざに熱心な神の民として生きることができるように祈ります。