2007年 列王記第二第8講

あなただけが神である

御言葉:列王記第二18、19章
要 節:列王記第二19:19「私たちの神、主よ。どうか今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、主よ、あなただけが神であることを知りましょう。」

先週、私たちは北イスラエル王国が偶像崇拝、形式的な礼拝などに現われた不信仰と不従順によって滅亡するようになったことを学びました。しかし、南ユダはまだ滅亡していません。それは神様に信頼している人、神様に祈っている人たちがいたからです。私たちは今日の御言葉の主人公であるヒゼキヤを通してその事実を確認することができます。ヘブル語で「ヒゼキヤ(Hezekiah)」というのは「神様は私の力です(God is my strength)」という意味です。実に、神様は彼の力となってくださいました。 どうか、御言葉を通して主に信頼して生きる生き方を学び、私たちの神、主こそ真の神であることを深く悟って信じることができるように祈ります。さらに、生活の中でいつも主に信頼し、祈ることによって神様の救いと力、勝利を体験する信仰生活ができるように祈ります。

?.ヒゼキヤの宗教改革と悪魔の誘惑(18章)
1節をご覧ください。「イスラエルの王エラの子ホセアの第三年に、ユダの王アハズの子ヒゼキヤが王となった。」とあります。先週学んだように北イスラエルはホセア王の時に滅亡しました。そのホセアがまだ王であった時、南ユダではヒゼキヤが王となりました。ではヒゼキヤはどんな王でしたか。
3,4節をご一緒に読んでみましょう。「彼はすべて父祖ダビデが行なったとおりに、主の目にかなうことを行なった。彼は高き所を取り除き、石の柱を打ちこわし、アシェラ像を切り倒し、モーセの作った青銅の蛇を打ち砕いた。そのころまでイスラエル人は、これに香をたいていたからである。これはネフシュタンと呼ばれていた。」
ヒゼキヤはダビデが行なったとおりに、主の目にかなうことを行ないました。先週、学んだように北イスラエルの王たちは主の目の前に悪を行ないました(14:24、15:9、18、24、28)。しかし、ユダの王たちは比較的に主の目にかなうことを行ないました(14:3、15:3、34)。ただし、ユダの王たちも高き所は取り除きませんでした。彼らは誰もが認めるような悪を行ないませんでしたが、神様に対する絶対的な信仰はなかったのです。教会に通っていながらも、お正月とか、家族行事がある時とかにはお寺や神社に行って祈るようなこともしていました。アシェラ像とは今日ポルノの女神とも呼ばれますが、彼らはそれも捨てませんでした。モーセの作った青銅の蛇は神様が用いられた道具に過ぎませんが、それも拝むような生活をしていたのです。しかし、ヒゼキヤは歴代のユダの王たちとは違いました。彼は父アハズ王が導入させた異教の神々の像を打ち壊しました。それだけではありません。モーセが作った青銅の蛇も打ち砕きました。そのころまでイスラエル人は、これに香をたいていたからです。
結局、ヒゼキヤは偶像になれるものはすべてを徹底に取り除いたのです。それほど彼はイスラエルの神、主に信頼していました。彼のあとにも彼の先にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかったほどです。彼は主に堅くすがって離れることなく、主がモーセに命じられた命令を守りました。このようにヒゼキヤが自分の方から徹底的に偶像を取り除く宗教改革を行なった時、主は彼とともにおられました。すると、彼は力ある生活ができるようになりました。彼はどこへ出陣しても勝利を収めました。彼は当時超強大国であるアッシリヤの王に反逆し、彼に仕えないこともできるようになりました。アッシリヤの脅威がさらに大きくなっている時に、ヒゼキヤの父アハズは貢物を納めていましたが、ヒゼキヤはそのようなことをしなかったのです。それだけではありません。彼は国を守っただけでなく、ペリシテ人との戦いにおいて領土も広げて行ったのです。
ここで、私たちはとても大切なことを学ぶことができると思います。神様のご臨在、神様の御力を体験していくためにはヒゼキヤのように生きるということです。つまり、主なる神様に信頼して偶像を取り除き、どんなことがあっても主に堅くすがって離れないことです。その人は神様の力をいただいて勝利の人生を生きるようになるのです。ここで、大切なことは私自身から偶像を取り除くことです。しかも、私の方から偶像を取り除くことです。3?9節を見ると主語が「彼ら」ではなく「彼」です。ヒゼキヤは王ですから民たちに宗教改革を命令することもできたはずです。また、戦いにおける勝利のために対策を立てるために特別委員会を作り、会議を開くこともできたでしょう。しかし、彼は自分自身が高き所を取り除きました。自分の父でさえ主に信頼していませんでしたが、彼自身は主に信頼していました。
多くの人々は神様がともにいてくださること、神様の力、勝利を体験したいと思っています。ところが、自分なりに拝んでいる高き所を取り除くことはしません。神様よりお金や名誉、人間関係に頼ろうとします。また、自分が楽しんでいる情欲のアシェラ像を捨てません。ゲームや雑誌、淫乱サイト、お酒、パチンコなど取り除かないのです。はなはだしくは、自分の力でできるものではない、という謙遜な言い方をして自分の偶像崇拝、悪い習慣などを合理化する場合もあります。しかし、偶像崇拝ほどに神様に忌み嫌われることもないでしょう。もし、結婚している妻が、昔の恋人の写真を見たり、恋人からもらったプレゼントを楽しんだりしているなら、夫にとってそれほど嫌なこともないでしょう。妻にとっても夫がよその女の写真を見て楽しんだり、その人と付き合ったりするなら、それこそ忌み嫌うべきことでしょう。神様はご自分のいのちまでもお与えになったほどに、十字架の上で御血を流されたほどに愛して私たちを救われました。それなのに私たちの心が偶像に奪われているならどうなるでしょうか。忌み嫌われるべきことでしょう。神様の力と勝利を体験したいなら神様に忌み嫌われる偶像を取り除かなければなりません。祈りが聞かれる生活のためにも、偶像を取り除くべきです。一生懸命に主のみわざに仕え、絶えず祈る前に自分にある愚像を取り除く大胆な信仰こそが、神様に祝福され、勝利を収める近道です。
ただ、偶像を取り除いた時も、私たちの信仰が神様に試される場合があります。9?16節の御言葉はヒゼキヤの信仰が試されて試練の時を経験することが記されてあります。9?12節の御言葉は、先週学んだことと同じことが記されてありますが、イスラエル王国の滅亡に関したことです。滅亡の理由は12節にあります。それは、彼らが彼らの神、主の御声に聞き従わず、その契約を破り、主のしもべモーセが命じたすべてのことに聞き従わず、これを行なわなかったからです。
13?16節にはアッシリヤが北イスラエルに続いてユダを攻撃してきたことです。アッシリヤはユダのすべての城壁のある町々をことごとく倒しました。残るのはエルサレムだけとなりました。そうなると、ヒゼキヤも降伏したほうが良いと判断しました。そこで、彼はセナケリブが要求してきたとおりの金銀をアッシリヤの王に渡しました。ヒゼキヤは妥協してしまったのです。彼の弱さが見られます。その結果、ユダはさらに攻撃される口実を提供されるようになりました。
17?35節にはアッシリヤの王がラブ・シャケをヒゼキヤに遣わしたことが記されてあります。ラブ・シャケは傲慢なことばを尽くしてユダを脅かし、降伏を勧告しています。これは悪魔の誘惑と同じ手です。
第一に、非常に論理的で、説得力のある言葉を使っています。19-24節を見ると、ラブ・シャケは、自分たちの軍隊とユダの軍隊があまりにも差がありすぎるということで事前に戦意を失うように脅迫しています。
第二に、惑わしています。25?29節を見ると、ラブ・シャケは自分がこの所を滅ぼすために上って来たのは、神様が命じたからだと言っています。また、一般民衆の心がヒゼキヤから離れるように仕向けました。
第三に、不信仰と不従順にさせようとしています。30?32節を見ると、ラブ・シャケは、主に拠り頼むことと引き換えに、食べる物、飲む物に困らないようにさせてあげるぞ、と誘っています。このまま包囲が続けば、食物も、飲み物もなくなるから、主に拠り頼むのではなく、アッシリヤの言うとおりにすれば、大丈夫だ、と言っているわけです。そして、ラブ・シャケの最後の言葉をご覧ください。「神々はどこにいるのか。彼らはサマリヤを私の手から救い出したか。国々のすべての神々のうち、だれが自分たちの国を私の手から救い出しただろうか。主がエルサレムを私の手から救い出すとでもいうのか。」と言っています。彼は神様を偶像と同じく扱って主なる神様を侮っているのです。結局、ラブ・シャケはサタンと同じく、ユダの民を神様から引き離せようとすることが目的であったのです。では民の反応はどうでしたか。
36をご一緒に読んでみましょう。「民は黙っており、彼に一言も答えなかった。「彼に答えるな。」というのが、王の命令だったからである。」民は王の命令に従って一言も答えませんでした。これは賢い判断だと思います。サタンは悪賢いから私たちが議論して勝てる相手ではありません。どんなに甘いことばでも神様に信頼していることを惑わせることには対応しないことです。私たちはそもそもサタンに勝てないので、適当な知識では対応しないほうが巻き込まれないからです。

?.ヒゼキヤの祈りと神様の答え(19章)
18章で、ラブ・シャケがヒゼキヤを脅かし、誘惑していることが分かりました。ヒゼキヤにとって耐え難い試練です。彼は自分とユダが苦難と、懲らしめと、侮辱を受けていると告白しています。このようになると、自分にある力の限りを尽くして仕返ししたくなるものです。侮辱には侮辱で返したくなるのです。しかし、そのような時にヒゼキヤは何をしましたか。
1、2節をご覧ください。「ヒゼキヤ王は、これを聞いて、自分の衣を裂き、荒布を身にまとって、主の宮にはいった。彼は、宮内長官エルヤキム、書記シェブナ、年長の祭司たちに、荒布をまとわせて、アモツの子、預言者イザヤのところに遣わした。」とあります。ヒゼキヤは侮辱の言葉を聞いて侮辱で返さず、自分の衣を裂き、荒布を身にまとって、主の宮にはいりました。彼はまず自分を省みて主の御前に出て行ったのです。大体の人は自分に対する悪口を聞いただけでも仕返しを考えます。先週、私は同僚の先生から自分の妻に対する悪口を聞いて眠れない夜を過ごしたことを聞きました。身内のものに対する悪口、侮辱の言葉を聞くと、本当に腹立つことでしょう。ところが、そのような時、ヒゼキヤは主の御前に出て行ったのです。私たちも侮辱を受けた時は、侮辱で返さず、それを主の前に持って行きましょう。
3,4節をご覧ください。ヒゼキヤはイザヤに使いをやって「きょうは、苦難と、懲らしめと、侮辱の日です。子どもが生まれようとするのに、それを生み出す力がないのです」と言わせています。まさに、ユダの国は、この時、「苦難」と「懲らしめ」と「侮辱」の三重の苦しみの中にありました。でも、自分には力がありませんでした。子どもが生まれようとするのに、それを生み出す力がないのです。ヒゼキヤはこの悲しい有様をイザヤに知らせています。今日なら王さまが牧師先生に自分の恥ずかしい部分、悲しみを知らせているようなことです。ヒゼキヤはありのままの姿を主のしもべに知らせたのです。そして、「祈りをささげてください。」と祈りを要請しました。
ここで、私たちは賢い生き方を学ぶことができます。苦難と、懲らしめと、侮辱の日にはどうすれば良いでしょう。私たちの人生の中で耐えがたい苦しみと試練を経験する時があります。どうすれば良いのか全く分からないような時にどうすれば良いのでしょうか。それはまず第一にありのままの姿で神様の御前に出て行くことです。それから、霊的な指導者、信仰の同労者にありのままを知らせて祈ってもらうことです。これこそ、賢い生き方であり、勝利の方程式です。祈りを頼まれたイザヤはヒゼキヤに何を伝えましたか。
5?7節をご覧ください。「ヒゼキヤ王の家来たちがイザヤのもとに来たとき、イザヤは彼らに言った。「あなたがたの主君にこう言いなさい。主はこう仰せられる。『あなたが聞いたあのことば、アッシリヤの王の若い者たちがわたしを冒涜したあのことばを恐れるな。今、わたしは彼のうちに一つの霊を入れる。彼は、あるうわさを聞いて、自分の国に引き揚げる。わたしは、その国で彼を剣で倒す。』」とあります。イザヤは「恐れるな。」と言ってくれました。また、ラブ・シャケが自分に国に引き揚げることも教えてくれました。ヒゼキヤにとって大きな励ましになったことでしょう。ところで、サタンはしつこいものです。アッシリヤの王は再び使者たちをヒゼキヤに送りました。王は最後までヒゼキヤを脅かしているのです。サタンはこのようにあらゆる手段を使って、不信を植え付けます。何とかして私たちが神様に頼ることを止めさせようとするのです。では自分を脅かす手紙を受け取ったヒゼキヤはどうしましたか。
15?19節をご覧ください。今回もヒゼキヤはまず主の宮に上って行って、手紙を主の前に広げました。ありのままの姿を主に知らせたのです。そして彼は主の前で祈って言いました。「ケルビムの上に座しておられるイスラエルの神、主よ。ただ、あなただけが、地のすべての王国の神です。あなたが天と地を造られました主よ。御耳を傾けて聞いてください。主よ。御目を開いてご覧ください。生ける神をそしるために言ってよこしたセナケリブのことばを聞いてください。主よ。アッシリヤの王たちが、国々と、その国土とを廃墟としたのは事実です。彼らはその神々を火に投げ込みました。それらは神ではなく、人の手の細工、木や石にすぎなかったので、滅ぼすことができたのです。私たちの神、主よ。どうか今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、主よ、あなただけが神であることを知りましょう。」ヒゼキヤは地のすべての王国の神、天と地を造られた主なる神様に祈っています。特に、彼は主なる神様のみが本当の神であることが明らかにされることを願っています。彼は主なる神様の救いによって地のすべての王国に聖なる御名があがめられるように祈ったのです。彼は祈りのコツを知っていたことが分かります。私たちがヒゼキヤのように聖なる御名のために祈ることはとても大事なことです。聖なる御名のために祈る祈りは答えられます。私たちもどんなにひどい苦難にあっても、聖なる御名にかかわる事として祈ることさえできれば、神様がご自分の御名のために助けてくださいます。当面の苦しみ、悲しみ、試練がどんなに激しくとも、それが聖なる御名とかかわる事を信じて御名のために祈るなら、神様が答えてくださいます。ダビデは「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神はわれらの避け所である。(詩篇62:8)」と言っています。では神様はヒゼキヤの祈りにどのように答えられましたか。
20節をご覧ください。イザヤはヒゼキヤのところに人をやって神様が『あなたがアッシリヤの王セナケリブについて、わたしに祈ったことを、わたしは聞いた。』と仰せられたことを知らせました。では、ヒゼキヤの祈りを聞いて神様がアッシリヤの王について語られたことは何でしょうか。21?34節はアッシリヤの王について語られた主のことばです。
アッシリヤの王はイスラエルの民をそしり、ののしりました。神様が選ばれた国民に向かって声をあげ、高慢な目を上げました。また、彼は使者たちを使って、主をそしって言いました。『多くの戦車を率いて、私は山々の頂に、レバノンの奥深く上って行った。そのそびえる杉の木と美しいもみの木を切り倒し、私はその果ての宿り場、木の茂った園にまではいって行った。私は井戸を掘って、他国の水を飲み、足の裏でエジプトのすべての川を干上がらせた。』と。彼は「私は」「私は」と言いながら何でも自分の力でしたかのように言っています。しかし、彼がしたすべては神様が予定してなさせたことです。25節をご覧ください。「あなたは聞かなかったのか。昔から、それをわたしがなし、大昔から、それをわたしが計画し、今、それを果たしたことを。それであなたは城壁のある町々を荒らして廃墟の石くれの山としたのだ。」とあります。神様が罪ある国々を罰しようとして、アッシリヤを「神様の怒りの杖」として用いられたに過ぎないのです。ですから、アッシリヤの王セナケリブが誇れるものはありません。彼は神様の御前にへりくだっているべきでした。神様は彼がすわるのも、出て行くのも、はいるのも知っておられるからです。しかし、彼らは高ぶりました。その高ぶりが神様の御耳に届きました。そこで、神様は「あなたがわたしに向かっていきりたち、あなたの高ぶりが、わたしの耳に届いたので、あなたの鼻には鉤輪を、あなたの口にはくつわをはめ、あなたを、もと来た道に引き戻そう。」と言われました。神様はセナケリブを徹底に低くされるということです。でも、ヒゼキヤの当時、エルサレムはアッシリヤに包囲されたために作物を栽培することができなくなっています。ではエルサレムはどうやって食べ物の解決ができるでしょうか。29節をご覧ください。「あなたへのしるしは次のとおりである。ことしは、落ち穂から生えたものを食べ、二年目も、またそれから生えたものを食べ、三年目は、種を蒔いて刈り入れ、ぶどう畑を作ってその実を食べる。」とあります。神様はヒゼキヤに食べ物には困らない、という預言を与えられたことが分かります。一年目は落ち穂から生えたものが自然に出来ており、二年目は、その生えたものからさらに種が落ちて、自然に生えたものを食べるようになります。そして三年目は自分たちが種蒔いたものによって食べることができるのです。神様に信頼する者は敵の手から救い出されることだけではなく、食べ物も供給されることが分かります。実は勝利も、救いも、食べ物も、生活に必要なすべてのものも皆神様から与えられます。すべては神様から来るのです。そして、神様は私たちを救ってから放置してしまわるのではありません。私たちが、たましいに幸いを得ているようにすべての点でも幸いを得、また健康であるようにしてくださいます。救われた民が圧倒的な勝利者の人生を生きるようにしてくださるのです。
35?37節はヒゼキヤの祈りが答えられたことです。 35節をご一緒に読んでみましょう。「その夜、主の使いが出て行って、アッシリヤの陣営で、十八万五千人を打ち殺した。人々が翌朝早く起きて見ると、なんと、彼らはみな、死体となっていた。」驚くべきことが書かれています。ひとりの御使いが、今、18万5千人を一度に打ち殺しました。やはり神様は祈りに答えてくださいました。19節に「私たちの神、主よ。どうか今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、主よ、あなただけが神であることを知りましょう。」とありましたが、そのとおりになったのです。ユダは圧倒的な勝利を収めて大喜びに満たされたでしょう。信仰の祈りは働くと大きな力がありました。本当に謙遜に神様を信頼して祈ることこそが神様の御手を動かす勝利を得ます。しかし、神様の主権を無視し、高ぶっている者はどうなりますか。36,37節をご覧ください。アッシリヤの王セナケリブは立ち去り、ニネベに逃げました。そして、彼がその神を拝んでいる時にその子どもが剣で彼を打ち殺し、アララテの地へ逃れました。自分の子どもに殺される悲惨な最期になったのです。神様をあざけり、ユダの民を無視してヒゼキヤをからかっていた彼は神様の懲らしめを受けて悲惨な最期を迎えたのです。

以上の御言葉を通して私たちはヒゼキヤの信仰に励まされます。彼は決してスーパーマンではありませんでした。ある時には恐れ、ある時に不信仰になり、ある時にはためらいました。私たちのように平凡な人です。ただし、彼は最後に頼るべき方を知っていました。そして彼はただ神様に信頼して祈っていました。そのような者に大勝利を与えられるのです。ですから、私たちも、危機に直面した時、ヒゼキヤのように神様を信頼して祈りに向かいましょう。また、時にはヒゼキヤのように祈りの課題を知らせて祈りを頼みましょう。試練の時には自分だけに試練があるかのように思われます。しかし多くの人々もアッシリヤ軍に包囲されたヒゼキヤのような状況に処せられています。程度の差はあるでしょうが、人間関係、失職、自分の病や家族の病、進学の難しさ、仕事の苦しみ、結婚生活の危機などによって苦難と、懲らしめと、侮辱の日を過ごしているのです。ですから、自分のことを恥ずかしく思わないでへりくだって祈りの課題を分かち合い、祈り合いましょう。
今年、私たちは「すべてが良くなる、すべてが生きる」というビジョンを持って出発しましたが、だからといって何の問題も起こらないと言えないでしょう。今年私たちは、教会としても、個人としても、困難に直面しなければならないかもしれません。そのような時こそ、祈りによって、互いの祈りによって、その困難を乗り越えて行くことができるように祈ります。祈りによって本当にすべてが良くなる、すべてが癒される経験をして行くことができるように祈ります。そのために、困難が大きければ大きい分だけ、多く祈りましょう。主からの懲らしめを重く感じるなら、その分だけへりくだって祈りましょう。人の言葉に深く傷つけられたと思うなら、その分、もっと深く祈りましょう。すると、私たちは困難を乗り越えて勝利し、神様の祝福といやしを経験するようになります。それによってノンクリスチャンの人々は私たちの主だけが本当の神様であることを知るようになります。私たちを通してこの国の人々が聖書の神様こそ、ほんとうに唯一神様であることを知るようになるように祈ります。